
桐島律の発見(14)
第14話「前夜」
査読の前日、律は大学の研究室にいた。
夜の九時になっていた。
机の上に資料が三列に並んでいる。批判への回答をまとめたファイル。図像資料の一覧。参照文献のリスト。カッセル教授から送られてきた査読経験者へのアドバイスのメール。律はそれらを順番に確認しながら、回答の想定問答を手書きでまとめていた。
どんな批判が来るか、だいたい分かる。
把持の概念が恣意的だという批判。伝播を否定しながら示唆しているという批判。反証可能性がないという批判。宗教図像と近代シンボルを同列に扱うことへの批判。
律はそれぞれの回答を確認した。答えはある。全部ある。証拠鎖は一本も切れていない。第13話で通しで確認した。穴はない。
それでも手が止まらなかった。
止まったら負けな気がした。
スマートフォンに着信があった。零からだった。
律は画面を見た。一秒考えて、出た。
「先生、今どこですか。」
「荻窪。」
律はため息をついた。「査読、明日ですよ。」
「うん。」
「準備してますか。」
「うん。」
「何を。」
少し間があった。「古本屋。」
「それは準備じゃないです。」律はペンを置いた。「先生、何時に来られますか。明日。」
「朝。」
「何時の朝ですか。」
「分からない。」
「——先生。」律は声のトーンを少し下げた。「批判、十五項目来ます。全部答えられますか。」
「うん。」
「本当に。」
「うん。」
律はしばらく黙った。資料の列を見た。夜の九時まで準備してきた回答の束を見た。
「……先生は、怖くないんですか。」
今度は少し長い間があった。
「怖い、というのは。」
「査読です。大学側が内部査読にかけると言っています。エリートの教授たちが並ぶかもしれない。批判が来る。それでも——」
「証拠鎖があります。」零は言った。「怖いのは証拠鎖がないときです。」
律は何も言えなかった。
「律さんが全部通した。穴はない。」
「……はい。」
「だから大丈夫。」
律はペンを手に取った。また置いた。「先生、古本屋で何か見つかりましたか。」
「うん。」
「何を。」
「ルター聖書の複製。安かった。」
律は少し笑った。笑ってしまった。「……それ、もう論文に入ってますよ。」
「手元に置きたかった。」
「明日持ってきますか。」
「うん。」
「査読に古本を持ち込む准教授、たぶん先生だけです。」
「そうかもしれない。」
少しだけ沈黙があった。律は資料の列を見た。夜の研究室は静かだった。
「——先生、明日は九時に来てください。」
「うん。」
「約束ですよ。」
「うん。」
「ルター聖書、持ってきてもいいです。」
「うん。」
律は電話を切った。
しばらくそのまま机に向かっていた。
怖いのは証拠鎖がないときです。
零の声が、静かに頭の中に残った。
律はペンを取って、想定問答の続きを書き始めた。
* * *
同じ頃、零は荻窪の古本屋を出た。
紙袋を提げている。ルター聖書の複製が一冊。それから、もう一冊。
もう一冊は、偶然見つけた。棚の端に差し込まれていた薄い本で、背表紙は色が褪せていた。抜き出して開いたら、十七世紀のフランドルの版画集の図録だった。
その中に、一枚あった。
円環の外側に翼を広げた人物が立っている版画だ。翼が円環を両側から包むように広がっていた。把持ではない。でも——包んでいる。境界が、翼になっている。
零はそれを見て、少しだけ考えた。
文法の変形だ、と思った。把持が翼になった。抱えることが、包むことになった。でも関係配置は同じだ。外側の何かが、内側を覆っている。
これは論文には入らない。今回の証拠鎖には直接関係しない。でも——
次がある、と思った。
零は図録を買った。紙袋に入れた。
夜の荻窪の商店街を歩いた。人はまばらだった。シャッターが降りている店が多い。
スマートフォンが鳴った。画面を見た。律からの着信だった。
零は画面を見て、少し考えた。
出なかった。
歩き続けた。商店街を抜けて、少し細い道に入った。住宅が続く。どこかの家の窓に明かりがついていた。
査読のことを考えた。
批判は来る。答えられる。律が全部通した。証拠鎖は揺るがない。
ただ——批判者たちに届くかどうかは分からない。
零はそれをよく知っていた。答えが正しくても、届かないことがある。届かないのは答えの問題ではない。受け取る側の問題だ。旧い型に充満したコンテクストが、新しいものを自動的に旧いものとして読んでしまう。それは構造的なことで、誰のせいでもない。
だから査読は、答えることが目的ではない。
証拠鎖を、そこに置くことが目的だ。
たとえ今日届かなくても、いつか誰かが読む。その人に届けばいい。
スマートフォンがまた鳴った。律だった。
今度は出た。
「先生、今どこですか。」
「荻窪。」
「着信、気づきませんでしたか。」
「気づいてた。」
律は少し間を置いた。「……考えてたんですか。」
「うん。」
「何を。」
「査読のことを。」零は言った。「届かなくてもいい、と思っていた。」
「届かなくていいんですか。」律の声が少し上がった。
「証拠鎖を置けばいい。いつか届く。」
律はしばらく黙った。「……それは先生の話ですか。それとも一般論ですか。」
「どちらでもある。」
「——先生。明日、ちゃんと答えてください。届かなくていい、は明日が終わってから言ってください。」
「うん。」
「約束ですよ。」
「うん。」
「古本屋で何か見つかりましたか。」
「うん。ルター聖書と、もう一冊。」
「もう一冊は何ですか。」
「翼が把持になってる版画集。」
律は少し沈黙した。「……それ、明日持ってきますか。」
「うん。」
「査読が終わってから見せてください。」
「うん。」
電話が切れた。
零は歩き続けた。
夜の荻窪は静かだった。どこかで電車が通る音がした。
紙袋の中に、二冊の本がある。ルター聖書と、翼の版画集。
明日、査読が終わる。
それから次が始まる。
(第14話 了)
第13話「律の整理」
第15話(最終話)「査読」