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カプリチオ🎻🌸

    村井さんの奥さんを僕は知らない。

    けれど、僕は知っている。
    奥さんの柔らかな身体の奥や、その内側どころか、奥さんの中で奥さんが暮らしている街や、そこにいる人たちのことまで知っている。 
    奥さん、僕はあなたの中にいるんですか。
    それともあなたが、僕の中にいるのですか。
    僕の大脳皮質の中を、まだ見ぬ村井さんの奥さんが、裸足で歩きまわっている。極彩色の妄想がいくつも産まれては消えてまた産まれ、分裂したイメージが拡散してはまた凝固する。
    満開の桜の梢をすり抜ける生温かい風の中で、白い身をくねらせる奥さんのやわらかな瞳が、僕の心を包んでいる。   
    ――ああ、奥さん、あなたは今、何処にいるのですか。
    それともこの世にはいないんですか。
    僕はただ、まだ見ぬあなたと、二十世紀温泉の茶色い電気アンマ椅子にもたれながら、ゆっくりとこの世の終わりをめぐって語り合いたいのです。



    夢野原で夢を見た。

    木枯らしの吹きすさぶ路地裏を、僕は歩いていた。
    どこまでも続く板塀が、軋んで揺れている。
    さっきまで澄み渡っていた空が濁り出して、冬の雲が恐ろしい速さで頭上に流れ込んできた。
    くすんだ電柱が風に押されて、また乾いた音をたてた。
    電線が狂ったように弧を描いて揺れている。

    ふいに一陣の風がコートの裾をはためかせ、木の葉まじりに僕の帽子を剥ぎ取って吹き過ぎた。
    路傍に吹き寄せられて、転がってゆく帽子を拾ったとき、視野の隅に黒い影がよぎった。
    風に乱れた長い髪の間から、じっと僕を見つめている。

    あの婦人は、誰だろう?見覚えはない。

    ただ、一瞥して普通の女じゃないな、と僕は思った。
    吹きすさぶ冷たい風の中で、季節外れのクリームイエローのワンピースに身を包んだ女の手元には、鳴り止まない風鈴が揺れている。
    細い手首や、幾度となく捲れ上がるスカートから伸びた白い脚が僕を誘う。少し落ち窪んだ瞳は、妙に活き活きと光っている。
    宙を漂う視線、半開きの唇、傾げた小首、あれが女でなくて一体何だろうか。

    女はじっと僕を見つめている。
    そのねっとりとした視線に耐えられなくなって、帽子を深く被り直すと、僕はまた歩きだした。

    焼け焦げたような板塀がどこまでも続く路地をゆく。
    ガラスの破片のような陽光が、あちこちに煌めいている。

    ーーまた風鈴の音だ。
    微かな風鈴の音が、僕を追ってくる。
    それは背後からゆっくりと近づいて、僕の意識を通り越していった。
    またあの女だ。
    立ち止まって、僕は女を見た。
    虚ろな女の瞳は、一体、僕の何を見ているのか。
    眼には眼を。見られたら見返してやらねばならない。

    ああ、何という色香だろう。
    圧倒的な女のオーラが、僕の魂を締め付ける。
    その全身から発散している妖しいフェロモンは、僕の脳下垂体を鷲掴みにしたまま放さない。
    ただ僕を誘うために、あんなに恍惚とした顔をして、この冷たい風の中に火照った体を晒して持て余しているのだとすれば、女の望むままに、僕は欲望の地獄へ堕ちるのかもしれない。
    蟻地獄に食われるなら、毒蛾として街を飛び回っている方がまだマシだ。

    ゆらめくリビドーを何とか抑えて、また僕は歩き出した。

    チリンーー

    意識の中から消そうとしても、消えない音だ。
    自然と小走りになり、いつしか僕は走っていた。
    帽子を片手で押さえたまま、どこまでも走りつづける。

    やがて、石造りの鳥居が見えた。
    そうだ、たとえあの女がこの世のものでは無いとしても、神社の境内まで追っては来ないだろう。
    駆け込むように鳥居を潜ると、砂漠のなかでオアシスを見つけた獣のように、僕は御手洗の水を柄杓で掬っては何度も飲んだ。

    ーーチリン

    どこだーー鳥居の下に人影はない。

    楠の枝、狛犬の影、異様な気配に振り向くと、社の下、ちょうど賽銭箱の前に、女はいた。
    左手に風鈴を持ったまま、もう片方の手で、おいでおいでと誘っている。
    僕を何処へ連れて行きたいんだ。
    そう訊いても答えはない。
    吹き来る風に長い黒髪を靡かせたまま、妖しい微笑を浮かべて女は僕を見つめている。

    どこまでもつき纏う気ならば、ついて来れるところまで来ればいい。
    微笑したまま女は動かない。
    僕が少し近づきかけたとき、サッと踵を返して女が駆け出した。
    まるで野良猫だ。
    静脈が透けた女の内腿が弾む。
    ゆれるスカートの奥から、白い下着が幾度となく顔を覗かせる。
    僕が追って来るのを確かめるように、時折ふり向きながら境内を出て路地を抜け、橋を超えても女は走り続ける。
    走る、というよりも魚が泳ぐように宙空を漂っているようだ。

    自分でも理由がわからないまま、女の姿を追って寂れた商店街に差し掛かったとき、赤い看板が眼に入った。
    居酒屋にしては、提灯が見えない。
    バーかと思って近づくと、名曲喫茶と書いてある。
    いまどき、こんな古ぼけた蓄音機みたいな店が営業しているのが不思議だった。
    僕が立ち止まると、少し距離を置いて女も静かに佇んでいる。
    なんだ、べつに追いかけることは無かったのか。
    まるで、子供の鬼ごっこのようだ。
    視野の隅で女を意識したまま、こんな店に客など誰もいないだろうと思いながら、僕は重い木戸を押した。
    薄暗い店の中を、一陣の木枯らしが吹き抜けていく。



    ある日の午後、唐突に家のインターフォンが鳴った。

    通話で対応するのも面倒なので、玄関を出て門の前まで歩いた。
    そこに立っていたのは、意外にも高校時代の同級生だった。
    敬子ちゃんだ、とひと目でわかった。

    「お久しぶりです……」

    彼女は、まるで昨日別れたばかりのような、変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
    その横には、透き通るような肌をした同年輩の女性が静かに寄り添っている。

    「ちょっと、お話聞いてもらってもいいですか?」

    「ああ、いま家族は留守なんだけど、僕だけでよかったら」

    敬子ちゃんは、わざわざ僕に会いに来た理由を訥々と話した。
    要するに、世間でいう宗教の勧誘ってやつだった。
    ちょっとガッカリした。

    高校を卒業してから数年、彼女たちは小さなアパートで二人暮らしをしているという。古いアパートの軒先に並べられた、無機質なアロエの鉢植え。
    そんな殺風景な環境に、彼女たちは似つかわしくない気がした。
    けれど二人とも生真面目で清廉そうな印象だった。
    彼女たちが世を偲ぶように慎ましく暮らしているという事実は、僕にとって、どこか現実離れしたファンタジーのように感じられた。

    「聖書を、少し読んでみませんか?」

    敬子ちゃんの少し先輩にあたる、友子という女性の言葉は、初夏の物憂い空気の中で、サイダーのような清潔さを湛えていた。
    彼女たちがテーブルに置いた聖書は角が擦り切れていて、幾度となく読み込まれていることを示していた。
    その微かな生活の痕跡だけが、彼女たちをかろうじて僕と同じ次元に繋ぎ止めていた。

    僕は慣れない手つきでアイスコーヒーを淹れた。
    といって、氷を入れたグラスに市販のボトルを注いだだけだ。
    軒下に吊るしてある風鈴がまた音をたてた。

    「予言とかで世界が終わるっていうけれど、それはきっと劇的な何かじゃないと思うんです」

    友子ちゃんは、そう言って小さく微笑んだ。
    口元の小さなホクロがチャームポイントだな、と僕は思った。
    その耳障りのいい声は、いま目の前で話しているのにどこか、フィルターがかかっているかのように籠って聞こえた。
    彼女たちの瞳の奥には、僕の知らない別世界への入り口が隠されているのではないか――そんな妄想が、僕の神経を刺戟した。

    「これが、いつも配布している小冊子なんですよ」

    「はぁ.…..」

    「じゃ、つぎの章を読んでいきますね。マタイ受難のところです」

    友子ちゃんの顔立ちはきつねのようにスッと細く、合理的でしっかりとした性格がそのまま表情に現れている。
    隣に座る敬子ちゃんは、睫毛の長い涼やかな目元を伏せたまま、ただ黙ってグラスの縁を指でなぞっていた。
    二人の対照的な空気が、客間の空気を少しだけ塗り替えていく。

    「ねえ、敬子ちゃんも、何か読んでみて」

    友子ちゃんに促されても、敬子ちゃんはただ静かに微笑むだけだった。
    内気で人見知りなのか、それとも僕の態度が気に入らないのか。
    その微笑は、真夏の西陽を遮る朝顔すだれの影のように、どこか遠い場所を連れてくる。

    友子ちゃんが呆れたように笑いながら、テーブルの上の聖書を、指先でトントンと叩いた。



    世界全体が浮かれて、発熱しているような湿気を帯びていた。

    テレビをつければ、ノストラダムスの予言にまつわる特番や、今世紀の終焉を煽るような話が芸能ネタとともに毎日のように流れている。

    だが僕にとって、世界の終わりなどという大層な話は、どこか遠い国の出来事のように思えた。
    ただ、カミソリで削ぐように剥がれていく日常の退屈さと、どうしようもない焦燥感だけが、額に張り付いたままだった。

    敬子ちゃんの横顔を見ているうちに、僕は高校時代の駅のホームを思い出していた。
    思い起こせば、彼女のことを、僕は高二の春から知っていた。

    同じクラスになったわけでも、部活が一緒だったわけでもない。
    ただ、登下校の時間がたまたま重なっていて、駅のホームで何度か顔を合わせるうちに、自然と会釈を交わすようになった。
    それだけの関係だった。

    彼女はいつも、学校指定の紺色のバッグを左肩にかけ、ホームの端の柱の陰に立っていた。
    電車を待つあいだ、文庫本を開いているわけでも、誰かと話しているわけでもなく、ただじっと線路の向こうを見ていた。
    その視線の先に何があるのか、僕にはわからなかった。
    思えば、ちょっと不思議な雰囲気を纏っていた。
    それに、ずいぶんきれいな顔立ちの子だったから、そりゃ男友達や彼氏ぐらいはいるんだろうな、と僕は勝手に思い込んでいた。


    ある朝、強い風が吹いて、彼女の髪が頰にかかった。
    ごく自然な仕草で右手の人差し指と中指の二本を使って、髪を耳にかけた。

    その瞬間、僕は見入ってしまった。

    なぜ動揺したのか、うまく説明できない。
    説明しようとすると、必ずどこかで言葉が滑って、本当のことから遠ざかっていく気がする。
    ただ、その仕草を見た刹那、僕はそれをすでに知っていた、と思った。
    どこかで、何度も見ていた。
    そういう確信だけが残った。

    やがて電車が来た。
    ドアが開いた。
    乗客が吐き出され、新しい乗客が流し込まれた。
    僕も乗り込んだ。
    彼女も乗った。
    混んだ車内で、僕たちは少し離れた場所に立っていた。
    次の駅で人が減った。
    その次の駅でさらに減った。
    終点のひとつ手前の駅で、彼女は降りた。

    僕はなぜか、その日の授業をほとんど聞いていなかった。
    気がつけば、ノートには意味のない螺旋をいくつも描いていた。

    敬子ちゃんと初めて言葉を交わしたのは、その数週間後のことだ。

    放課後の昇降口で、彼女が靴を探していた。
    下駄箱の自分の段に、靴がなかったらしい。
    誰かの悪戯か手違いか、とにかく彼女の靴だけがなかった。
    僕はたまたまその場にいて、一緒に探した。
    結局、隣のクラスの下駄箱に紛れ込んでいるのを見つけた。
    それだけのことで、たいした会話もなかった。
    ありがとう、と彼女は言った。
    彼女の声は、思っていたよりちょっと低かった。
    美しい人ほど、声だけは意外なくらい現実的なのだ。

    そこから先は、だらだらと続く平凡な親しさだった。
    昇降口で会えば少し話した。
    文化祭の準備で、同じ教室に居合わせれば世間話をした。
    どちらかが忙しいときは、素通りした。
    友達とか恋人とか、そういう輪郭のはっきりしたものとは違っていた。

    ただ、一度だけ、放課後の図書室で二人きりになったことがある。

    彼女は窓際の席で、何かの課題をしていた。
    僕は返却する本を持って入っただけで、すぐ出るつもりだった。
    でも、なぜか彼女の斜め向かいの席に座った。
    彼女は顔を上げなかった。
    僕も何も言わなかった。
    西陽が斜めに射し込んで、黄金色の光の中で埃の微粒子がゆっくりと旋回するように動いていた。

    しばらくして、彼女がふと顔を上げた。
    窓の外を見た。
    校庭の端にある欅の梢が、風にゆれていた。
    彼女はそれをじっと見ていた。
    睫を伏せたまま、遠くを見ていた。

    また、あの感覚が来た。

    知っている。
    この横顔を知っている。
    この、わずかに顎を引いて、視線だけが遠い場所に置き去りになっているような表情を、僕はどこかで何度も見ている。

    「なにを考えてるの?」

    と僕は訊いた。
    彼女は少し間を置いてから、

    「さあ……」

    と小首を傾げて言った。

    「何も、考えていないかな」

    その答えが、なぜか胸に刺さった。
    何も考えていないかな、という語感が、返事というより、何か別の意味の翻訳のように聞こえた。
    僕の脳裡には、ドビュッシーのアラベスクが木漏れ日のように揺らめきながら流れていた。

    11月の終わりに、一度だけ、帰り道が一緒になったことがある。

    その日は朝から曇っていて、午後になって雨が降り出した。
    雨足は強くなる一方だった。
    僕は傘を持っていなかった。
    昇降口の庇の下で空を見上げながら、雨が止むのを待つか濡れて帰るかを考えていると、敬子ちゃんが近づいてきた。

    「傘、持ってないの?」

    「うん」

    「わたし、1本余ってるから」

    そう言って、彼女は鞄から折り畳み傘を差し出した。
    ネイビーの、ごく普通の折り畳み傘だった。
    僕は黙って受け取った。

    「いいの?」

    「うん、あっ、ビニール傘のほうがいいかな?」

    「いや、これでじゅうぶんだよ。ありがと」

    僕らは並んで歩いた。
    これも相合傘というのだろうか。

    駅まで十分ほどの道を、黙って並んで歩いた。
    どこかの軒下の風鈴の音がきこえた。
    傘をさしているのに、ちょっと濡れた。
    途中で、コンビニに寄ろうか、と言うべきだった。
    でも言えなかった。言えないまま歩いた。
    敬子ちゃんも何も言わなかった。
    ちょっと俯き気味で、静かに笑っていた。

    また雨足が強くなった。

    商店街のアーケードに入ったところで、自然に歩調が緩んだ。
    アーケードの中は乾いていて、雨がパラパラと屋根を叩いていた。
    敬子ちゃんの制服の肩が、濡れて色が変わっていた。

    「濡れたね」

    と僕は言った。

    「ちょっと濡れたね」

    と彼女は笑った。

    アーケードの入り口の電球が切れかけていて、二人分の影が、歪んで伸びたり縮んだりした。
    敬子ちゃんはその影を一瞬だけ見て、それからまた前を向いた。
    何かを言おうとして、やめたような顔だった。

    「なに?」

    と僕は訊いた。

    「なんでもないよ」

    と彼女は言った。

    アーケードを抜けると、また雨だった。
    駅の改札に、敬子ちゃんは先に入った。
    ホームで、彼女はいつもの柱の陰に立った。
    僕はその少し手前に立った。
    電車が来た。
    乗り込む前に、敬子ちゃんが振り返った。

    「その傘、返さなくていいから」

    「えっ?……なんで?」

    「なんとなく」

    ドアが閉まった。


    その翌日、それでも僕は彼女の傘を返しに行った。

    「それ、あげる」

    本のページに眼を落としながら、敬子ちゃんは言った。

    「でも、もらう理由がないから……」

    戸惑いながら、僕は言った。

    「じゃあ、預かっておいて」

    敬子ちゃんは少し笑って言った。

    預かっておいて、という言葉の意味を、僕はずっと考えていた。
    返さなくていい、でもなく、あげるよ、でもなく、預かっておいて。

    その傘は、今でも僕の部屋の傘立てにある。
    敬子ちゃんが学校に来なくなってからも、ずっとそこにある。
    そして雨の日に、僕はその傘を使わない。

    三年の秋になって、敬子ちゃんは突然、学校に来なくなった。
    病気だという話もあった。家の事情で引っ越したんだという噂もあった。
    担任は何も言わなかった。真相はわからない。
    クラスメイトたちも、数日もすれば話題にしなくなった。

    僕だけが、妙に長くそのことを引きずっていた。
    引きずるほど深い関係でもなかったのに。
    喪失感とも違う。
    何かを盗まれたというより、いままで見られていたものが、急に引き剥がされて見えなくなったような、そういう感じだった。

    あの、髪を耳にかける指の角度。
    あの、何も考えていないかな、という声。

    それらは本当に敬子ちゃんのものだったのか。
    それとも敬子ちゃんは、ただそれらを誰かから、預かっていただけだったのか。

    結局、彼女は卒業式にも来なかった。 



    友子ちゃんたちが帰ったあと、僕はしばらく居間のテーブルに肘をついたまま、並んだグラスを眺めていた。

    その縁に、うっすらと口紅の痕がついていた。
    友子ちゃんのものか、敬子ちゃんのものか、わからなかった。
    目鼻立ちのはっきりした敬子ちゃんには、きっとドレスが似合うだろう。
    切れ長の綺麗な眼をした友子ちゃんには、浴衣や着物が似合うに違いない。3人で夏祭りに繰り出したら面白いだろうと、とりとめもない空想に浸っていた。

    聖書は置いていかなかった。
    小冊子だけが、テーブルの端に残っていた。

    僕はそれをめくった。
    世界の終わりについて、穏やかな活字で書いてあった。
    終わりは劇的なものではなく、静かに、だがすでに始まっているのだという趣旨のことが、やはり穏やかに、丁寧に書かれていた。
    読んでいると、眠くなってきた。

    小冊子を閉じて、僕は外へ出た。

    なじみのバス停まで歩いて、意味もなく次の便まで20分あることを確認してから、そのまま川沿いに歩き続けた。
    住宅地の路地を抜け、細い水路に沿った道を辿ると、こんもりとした生垣に囲まれた空き地の角に出た。

    生垣の根元に、それはあった。
    ビデオテープだった。

    100本、いや、もっとあった。
    数えてみると130本。
    バラバラに積み重なっているのではなく、妙に整然と、同じ向きに並べられていた。
    ラベルは何もない。
    ケースも外れて、黒い磁気テープが数本、ほつれて土に触れていた。

    僕はそのうちの一本を拾い上げた。

    手の中の重さが、妙にしっくりきた。
    最初からそこに置かれていたのではなく、僕がいつかここに来ることを、誰かが想定して並べておいたような気がした。
    馬鹿らしい。
    そう思いながらも、僕はズボンのポケットに一本だけ突っ込んで、また歩き出した。

    家に戻って、押し入れを開けてデッキを探した。
    ビデオデッキを引っ張り出すのに三十分かかった。
    Tシャツがすっかり汗ばんでいた。
    思えば、VHSの映像なんて、何年ぶりだろう。
    古びたAVコードをテレビに繋いで、テープを差し込んだ。
    画面が、砂嵐になった。

    しばらくそのまま待った。
    むかしのテレビの、深夜の放送が終わった後に流れるような砂嵐が続いた。
    やはり何も入っていないか、と思い始めたころ、ふと映像が乱れた。

    手持ちカメラで撮ったような、ブレた映像が現れた。

    室内だった。
    六畳か、せいぜい八畳の部屋。
    ワンルームのマンションだろうか?
    窓があって、カーテンが引かれていた。
    カーテンは薄い生成り色で、外の光が透けて、柔らかく揺れている。

    家具は少なかった。
    小さなテーブルと、椅子が一脚。
    テーブルの上に、マグカップがひとつ。

    そして、椅子に座った女の後ろ姿があった。
    なにかをノートに書いているようにも見えた。

    カメラは動かなかった。
    女も動かなかった。
    ただ、カーテンだけが、窓から入る風で微かに揺れていた。

    女は窓の方を向いた。
    影になって顔はハッキリ見えない。
    黒い髪が、肩のあたりで緩やかにカールしていた。
    ゆるやかに、という言葉では足りない気がした。
    その髪の流れには、何か決定的な意志のようなものがあった。

    何かを待っているようだった。
    いや、もう待つことを諦めて、それでもまだそこに座り続けているような、そういう後ろ姿だった。

    僕は画面から眼が離せなかった。

    女は動かない。
    カーテンが揺れる。
    カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと拡散していく。

    それだけだった。
    それだけなのに、見ていると胸の奥に鈍い痛みのようなものが広がってきた。

    知っている。
    この部屋の空気を、僕は知っている。

    饐えたような、と言えば正確じゃない。
    生ぬるいような、ともちがう。
    この部屋の中の空気を、僕はどこかで体感したことがある。

    確かに覚えているのに、どこで経験したのかが思い出せない。
    まるで前世の記憶のように、靄がかかっている。

    やがて女が、ゆっくりと右手を上げた。
    ごく自然な動作で、顔の横まで手を上げて、髪を耳にかけた。
    人差し指と中指の二本を使って。

    僕はテープを止めた。

    巻き戻して、もう一度再生した。
    女は同じ動作をした。
    同じ角度で、同じ速さで、髪を耳にかけた。
    三回見た。
    四回見た。

    五回目を再生しようとしたとき、テープが絡まった。
    デッキの中で何かが軋むいやな音がした。
    無理に引き抜こうとすれば、黒い磁気テープが切れるだろう。
    僕はビデオデッキの電源を落とした。

    窓の外が、いつの間にか暗くなっていた。

    その夜、僕はまた夢を見た。

    夢の中でも、僕はあのテープを見ていた。
    ただ、夢の中では映像が少し違っていた。

    女が立ち上がって、カーテンを開けた。
    窓の外には、桜の梢が見えた。
    満開だった。
    いくつもの花弁が風に舞って、部屋の中にまで入ってきた。

    女がこちらを向こうとした。
    その瞬間に目が覚めた。

    天井を見ながら、僕は考えた。
    たしかにどこかで見た部屋だ。
    どこかで嗅いだ空気だった。
    そしてあの髪を耳にかける仕草は——



    その翌日、僕は友子ちゃんに電話した。

    「先日はどうも。村井さんのお宅は、どのへんですか?」

    「ああ、それなら団地前のバス停からすぐの、櫻ヶ丘団地の8号棟ですよ」

    と、友子ちゃんはあっさり答えた。なぜ友子ちゃんが村井さんの住所を知っているのか、そのことに僕が気づいたのは、電話を切ってしばらくしてからだ。


    昼間の電話のせいで、また奇妙な夢を見た。

    深夜のキッチンでは、冷蔵庫の低い唸りだけがあたりを支配していた。
    その規則的な振動は、どこか遠くへ向かって航行している宇宙船内であるかのような錯覚を抱かせる。

    薄暗いアパートの部屋のなかで、友子ちゃんは椅子に座っていた。
    まぶたを閉じると、なつかしい光景が、驚くほど鮮明に浮かび上がる。

    むかしのバイト先だった、うなぎ料理専門店。
    そこでは、先輩だった彼が、これしかないけど、と笑って賄いを作ってくれた。
    その味噌汁には、うなぎの頭や肝が入っていた。
    カウンター越しに立ち昇る、出汁の混じり合った湯気。

    あの時、なぜ写真を撮らなかったんだろう、と友子ちゃんは思っていた。
    先輩と一緒に写った写真が1枚もないことが、いまさら悔やまれる。
    でも撮らなかったから逆に、あの頃の蒲焼きの匂いや出汁の香りが、いまでも喉の奥にこびりついているようだ、とも思っていた。

    窓の外では、夜明けの気配が忍び寄っている。
    手紙にもメールにも書けないままの言葉が、舌に生えた苔のように、静かに溜まっていく。
    友子ちゃんはそっとベッドの布団に入った。

    冷蔵庫のモーターが、相変わらず唸り続けている。
    友子ちゃんの孤独は、宇宙船に乗って大気圏を突き抜けていった。



    村井さんの奥さんを、僕はまだ見たことがない。

    高度成長の景気に翻弄された亡霊たちが、真夜中に走りまわるような風情の団地の一角に、村井さんの部屋がある。
    壁や床やキッチンにベタベタと、生活臭にまみれた指紋が貼りついているような、その部屋を訪ねる度に、僕は、誰かにじっと見られているような気がした。

    誰だ、その影は――

    「約束の時間には、少し遅れます」

    と伝えれば、いつも若い女が電話口で応対してくれるが、村井さんは独身で娘もいない。
    そのくせ、用件や伝言はちゃんと彼に通じているのだ。
    感心する程、明瞭簡潔に応対する話口の女は、彼の秘書なのだろうか?
    その声は、いかにも心優しい古風な印象だが、まさか村井さん自身のイタズラとも思えない。

    ある日の昼下がり、僕は村井さんを訪ねた。

    「やあ、いらっしゃい。まあ、どうぞ」

    通された居間で村井さんとしばらく話し込んでいると、ノックもチャイムもなく玄関のドアが開く音がした。
    人の気配が、玄関からフスマ越しにキッチンへ動いてゆくのを感じたが、村井さんは何の反応も示さず、ずっと手にした本に眼を落していた。
    挨拶しようにも、それが誰なのか僕にはわからない。

    またある時、若い女同士がキッチンでヒソヒソ話し合っていたが、コーヒーとドーナツの乗ったトレイを持って村井さんが部屋に戻って来た時、その話し声はピタリと止んだ。

    ひとしきり聖書の勉強を終えた、その日の帰り際、村井さんに見送られて玄関を出た僕が、幅の狭い階段を降りる途中ですれ違った婦人の印象が未だに脳裡から消えない。

    クリームイエローのシックなワンピースを纏ったその婦人は、胸
    元に幅45センチ程の透明な水槽を抱えていた。
    その水槽の中には、よく肥えた数匹のウナギがひしめき動いていた。
    あのウナギは村井さんが食べたのだろうか。
    それとも......



    団地の外で、クリームイエローのワンピースを最初に見たのは、村井さんの部屋を訪ねた数日後のことだった。

    それは夕暮れの商店街だった。
    八百屋の店先で、野菜を手に取っている女の後ろ姿。
    黄みがかった白、というより、夕日のせいか熟れる手前のマンゴーの果肉のような色のワンピースに、見覚えがあった。
    膝の少し下まである丈。
    カールした黒髪が、肩にふわりと落ちていた。

    僕は立ち止まった。

    女は眺めていたトウモロコシを戻して、歩き出した。
    僕は無意識に後をつけていた。
    商店街を抜けて、細い路地に入ったかと思えば、左に曲がって、また右に曲がった。
    角を曲がるたびに、女との距離が縮まるような気がした。
    縮まっているのに、顔が見えなかった。
    いつも半歩先に、背中だけがある。
    本当に、村井さんの奥さんなんだろうか?
    だんだんと不安になってきた。

    突き当たりの自販機の前で、女は立ち止まった。
    女は自販機を眺めていた。
    ボタンを押すわけでも、小銭を探すわけでもなく、ジュースやコーヒーや、ただ光る見本を見つめていた。
    いや、見ているというよりも、そこに在った。
    蛍光灯のように白い自販機の光が、クリームイエローのワンピースに映えて、女の輪郭をぼんやりと滲ませていた。

    声をかけようとしたとき、女は振り返らずに歩き出した。
    さらに路地の奥へ。暗い方へ。

    僕は追いかけた。
    角を曲がると、女はいなかった。
    行き止まりだった。
    ブロック塀と、錆びたトタン屋根の物置と、雑草だけがあった。
    野良猫がこちらをじっと見ていた。
    湿った風が吹いた。
    どこかで風鈴が鳴っていた。


    二度目は、バスの車窓からだった。

    村井さんを訪ねた帰り道だったか、あるいは別の用件の帰りだったか、はっきりしない。
    窓の外の歩道を、クリームイエローのワンピースの女が歩いていた。
    バスは走っているのに、女の歩く速さと、妙にぴったり合っていた。
    バスが加速すると、女も少し速くなった気がした。
    バスが信号で止まると、女も立ち止まった。

    僕は窓に額をつけて見た。
    やっぱり顔が、見えなかった。
    いつも、顔だけが見えない。
    俯いているわけでも、背を向けているわけでもないのに、顔のあるべき場所だけが、ぼんやりと白く滲んでいた。

    次のバス停で、僕は降りた。

    女を探した。
    歩道には、学校帰りの子供と、買い物袋を提げた老人と、営業鞄を持ったサラリーマンしかいなかった。黄色と、茶色と、ブルーグレー。
    クリームイエローは、どこにもなかった。


    三度目は、村井さんの団地の階段だった。

    5階の村井さんの部屋を出て、階段を降りている途中で、下の方から足音が聞こえた。
    ゆっくりとした、規則正しい靴音だ。
    スリッパではなく、コツコツというヒールのような音。

    足音が近づいてきた。

    3階の踊り場を曲がったところで、僕は見た。

    クリームイエローのワンピース。
    胸元に抱えた、幅四十五センチほどの透明な水槽。
    水槽の中で、よく肥えたウナギが数匹、ひしめき合っていた。

    女は顔を上げた。

    その一瞬だけ、少し見えた。

    柔和で、きめ細かな輪郭。
    緩やかにウェーブした黒髪。
    静脈しか通っていないような蒼い顔。
    宝石のように艶やかな瞳が、一瞬だけ僕を見て、それからすっと逸れた。

    すれ違った。

    振り返ったとき、女は4階への階段を上っていた。
    水槽の中のウナギが、女の歩みに合わせて、クネクネと身をよじっていた。僕は踵を返して、女のあとをつけた。
    彼女は明らかに村井さんの部屋へ向かっていた。
    やがて女は、消えるように部屋に入った。

    それからというもの、自分でもおかしいと思いながらも、僕には街全体が、村井さんの部屋のように思えてきた。

    商店街のアーケードは、村井さんの部屋の廊下だった。
    バスの路線は、村井さんの部屋に続く団地の回廊だった。
    団地の窓から洩れる夕暮れの灯は、村井さんの書斎のスタンドの光だった。
    街のどこを歩いても、背後に誰かの気配がした。
    振り返ると、誰もいなかった。
    それでも気配は消えなかった。
    消えないまま、僕のすぐ後ろをついてきた。

    ある日の夕方、国道沿いのレコード店のショーウィンドウの前で、僕は立ち止まった。
    ガラスに自分の顔が映っていた。
    その隣に、もう一つ顔がぼんやりと映っていた。

    振り返った。
    誰もいなかった。
    またガラスを見ると、自分の顔だけがあった。
    烏の鳴き声がきこえた。

    背中に視線を感じながら、僕はまた歩き出した。

    サン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を初めて意識したのも、この頃だった。

    それがCDショップの店先から流れてきたのか、たまたまラジオから漏れてきたのか、レンタルで聴いたのか、出所がわからなかった。
    ただ、その旋律が聞こえると、決まってクリームイエローの残像が網膜に浮かんだ。
    旋律が大きくなるほど、残像は鮮明になった。
    曲が消えると、残像も消えた。

    それがシグナルだと気づいたのは、ずっと後のことだ。
    あるいは、最初から知っていたのかもしれない。
    数百年前から、知っていたのかもしれない。



    めずらしく霧の立ち籠めた夜に、僕は表へ出た。
    自販機の缶コーヒーを買いにゆくついでの夜の散歩は、最近の日課だった。
    濃霧が街全体を覆っていた。

    立ち昇り漂う霧の微粒子は、炊きたての飯の湯気を想起させた。
    街灯も、流れゆく車のヘッドライトも滲んで見える。

    坂を下り、バス停の傍にある自販機まで、随分歩いた気がした。
    田んぼ脇の草むらで、虫たちが合唱している。
    コーヒーが転がり出た闇のなかでは、静寂が辺りを満たしていた。
    彼方の街の灯の瞬きが、今宵は殆ど見えなかった。
    数メートル先には、霧に包まれた闇が横たわっているだけだ。
    自分は放浪者で、あてどない旅を続け、この世の果てに流れついてしまったようだ、と僕は思った。

    ふいに背後で羽音がした。
    振り返ると、小川の土手の間から黒い鳥の影が舞い上がり、すぐに闇の中へ溶けていった。

    沈黙を切り裂いてエンジンが唸る。
    魚の消えた水槽のような無人の乗合バスは、喘ぐようにぎこちなく揺れながら、大きくカーヴして闇の中へ消えた。

    靴音が僕に近づいてきた。

    さっきのバスから降りた乗客らしい。
    仄白い外灯に髪の長い女のシルエットが浮かんだ。

    奥さんだ、、、、、

    この1週間ほどの間に、僕は奥さんの姿を何度も見かけていた。
    霧のせいでその顔はよく見えないが、それが却って僕の想像を刺戟した。

    ガードレールに沿って奥さんはゆっくりと歩きつづける。
    その後をつけて行こうと僕は思った。
    やがて奥さんは車道を逸れて右に曲がった。
    道路を斜めに過ぎり、僕も素早く後につく。
    とっくに相手に気づかれてしまう程にまで近づいても、今夜は霧が気配を消してくれる。

    県道から続く細路は、さらに三叉路になっている。
    奥さんは左に逸れた路地を歩き続けた。
    そのあとを猫のような足取りで僕がつける。
    いったい奥さんはどこに向かっているのか。

    やがて路地を抜けてさらに広い坂道を登ってゆく。
    後を追う僕の脳裏に、様々な思惑と妄想が渦巻き始める。
    明るい外灯のもとで奥さんの背中が一瞬浮かび、また闇の中に溶けた。
    クリームイエローのワンピースが、僕の網膜に残った。
    奥さんを追い続ける自分の眼が、精緻なカメラアイのように思えてくる。

    霧の中に靴音だけが微かに響く。
    奥さんは意外にも、住宅街へ抜ける道とは逆方向に歩いてゆく。
    その先には漆黒の闇が鬩ぎ合う深い森があるだけだ。
    草むらに入ればマダニにかまれそうだと思って、僕は少し尾行を躊躇った。
    だが、奥さんの行方を知りたいという誘惑には逆らえない。
    どんな顔で歩いているのか、どうしても見てみたい想いに引きずられるように、僕は奥さんを追いつづけた。

    砂利道の両側には鬱蒼と生い茂る樹々の影が連なる。
    霧に混じって、饐えたような湿っぽい匂いが辺りに漂いはじめた。
    奥さんはただ平然と歩き続けている。
    野良犬のせいか、それともイノシシか、時折ガサゴソと揺れる雑草の影に怯えながら、僕は追いつづける。

    林を抜けると、月明かりのせいか奥さんの背中が少しはっきりと見えた。
    やがて奥さんは、空き地の角を左へ曲がった。
    道の上にまで伸びる大樹の影のせいで、一瞬、見失いそうになった。小走りに角を曲がっても、奥さんの姿が見えない。
    といって、あたりに人家の一軒もない。

    いったいどこに消えたんだろう。
    僕は焦った。

    足元も覚束ない薄暗い道を探して歩き回ったが、やっぱりどこにも見えない。
    湿った風が、僕の体を舐めて吹き過ぎる。
    落ち葉が朽ちて腐ってゆくような饐えた匂いがする。
    仕方がない、諦めて引き返そうとしたとき、微かに靴音が聞こえた。

    僕は犬のように両耳に全神経を集中させる。
    僕の背後から靴音が伝わってくる。
    たしかに奥さんの気配がする。
    靴音は次第に明瞭な輪郭をもって僕に迫ってくる。

    僕の焦燥は頂点に達した。
    鼓動が速くなる。
    額から吹き出した汗が、こめかみを伝って落ちる。
    林の中に逃げ込めば、行き場なく迷うだけだ。
    いっそ振り返って奥さんの顔を真正面から見てやろうか。
    それとも、、、、

    僕は走り出した。

    汗をかいたいまの自分の顔を、奥さんに見られたくはなかった。
    だが靴音は容赦なく迫ってくる。
    まるで僕の背に添って走っているようだ。
    全身からいやな汗が吹き出して来るのを感じながら、僕は走った。
    それでも靴音は離れない。
    どうしてもついてくる。

    次第に両足の筋肉が強張っていくのがわかる。
    もう限界だ。
    もう走れない、、、、、

    立ち止まったとき、なにかが僕の全身を包んだ。
    僕は路上に倒れた。
    上から覆いかぶさるものの白い腕が、強く脇腹を締め付ける。
    すべてを諦めた僕は、ゆっくりと瞼を閉じた。



    その日は睡眠不足ではなかったけれど、ここ一週間ばかりの不規則な生活に無理矢理、軌道修正を加えたせいで、額に堅牢な枷をつけられているような不快感がつきまとっていた。

    ダルい思考は冴えず、頭の芯がぼんやりとして、日中でも副交感神経の支配下にあるせいか、眼前の風景と網膜との間に乳白色の薄い靄がかかっているようで、虫メガネで集めた太陽の光に焦がされるような、異様な集中力ばかりが神経を刺戟した。 

    春たけなわの明るい外界は、チューブから搾り出したままの絵具を叩きつけたようなビビットな光を放っていた。

    急勾配の狭い坂に沿って流れる薄汚れたブロック塀の上で、四肢を投げ出してまどろむ黒猫が、エメラルドの双眸を三日月のように細めて大きくアクビする。トラジマに添い寝する白い三毛猫は、きれいなオッドアイだった。

    広い田畑を見守る風向計が、狂ったカラスのように躍り回転して
    いる。
    コンクリートの小橋を渡って国道に出るとにわかに眺望がひらけ、人を馬鹿にしたようにどこまでも広がる青空の下で街はきらめいていた。
    小さい倉庫の傍に佇むバス停の時刻表が、次の便まで30分余りあるよと僕に告げたから、程近い隣の路線を目指して歩くことにした。

    乗り込んだバスの車窓に流れる見慣れた風景に飽きて、ショルダーバッグの中をかきまわし、ウォークマンのイヤフォンで耳の孔を塞げば、速いテンポでショパンの幻想即興曲が流れ出した。
    鼓膜にはりついた垢を洗い流すように激しく、優しく、時に急降下してはまた上昇しうねり高まっていくメロディは、僕の神経を愛撫し続ける。
    ぼんやり微睡んだ空気に満ちた午後のバスは、のれんを掛けたばかりの銭湯のように間が抜けていた。

    学校帰りの黄色い帽子、蒼白い顔をした女子高生、ステップを上下するにもやっとの老人達、営業マンのはめた腕時計が陽光に鈍く反射している。
    窓外の風景から田畑や住宅が消え、くすんだ無機的な街の匂いが漂いはじめる。

    いくつかの信号を抜けると、バスはやがて古風な佇の美しい公園へと入ってゆく。
    街道がそのまま橋になり、両側にダークグリーンの池が見えると、木の間から古めかしい木造建築が姿を現す。
    格式張った料亭の卵色の土壁、未だに大正の風情を色濃く漂わせている荘厳なホテル、近代的な建造物と対峙するように聳える五重ノ塔は、古都の残滓の象徴だ。

    生温かい風が池の水面に細波をたて、堤に沿って華やかに繁る満開の桜並木の梢を煽り、舞台の花吹雪よろしく薄桃色の花弁を一斉に舞い散らす。
    風の中でひらめく花弁は、無数のモンシロ蝶が乱舞する様に似て、流れ舞うひとひらがガラス窓を透いて、僕の肋骨の隙間をひらりと抜けていった。

    児童公園を尻目に並木が淡い影を落とす歩廊を抜け、櫻ヶ丘団地八号棟のくすんだ階段をゆっくりと昇り、5階の隅の壊れかけたチャイムを、僕はつづけざまに押した。

    「ずい分おそくなりまして――」

    「あ、どうぞ」

    ドアから半分顔を出した村井さんは、そう言うと踵を返して奥へ消えた。
    狭い玄関のすぐ傍にある小ぢんまりとした書斎に入ると、薬品臭が僕の鼻腔を突いた。

    「何ですか? この匂いは――」

    「何か匂いますか?」

    怪訝そうな顔の村井さんが、僕を見て言った。

    「気のせいかな――」

    数百冊の資料や書籍が詰め込まれた書棚が並ぶ六畳間には、生物の気配はない。ベランダの洗濯物が風にゆれる度に、窓を透いた光がゆらめき瞬く。
    いつか、村井さんにプレゼントした僕のペン画は、数ヶ月前と同じ位置に掛かっている。

    「まぁ、座って下さい」

    振り向くと、白いコーヒーカップが乗った盆を手にした村井さんが笑っていた。
    短く刈った髪に塗りたくられたグリースの匂いが、部屋の空気をかきまぜる。

    「何か、あったんですか?」

    テーブルにカップを置きながら村井さんが言った。

    「いえ、桜吹雪にまどわされまして――」

    「また、いつものジョークですか」

    苦笑する僕をよそに、テーブルに落ち着いた村井さんは、打ちかけていたキーボードの上にまた指を踊らせはじめた。
    ショルダーバッグを下ろし、僕は座布団の上にアグラをかいて、タバコに火をつけた。

    「暖かいというより、今日は少し蒸し暑いくらいですね」

    「コーヒー、冷めないうちにどうぞ」

    「あ、いただきます」

    カップを取って、僕は程好くブレンドされたコーヒーを飲んだ。
    苦味が口の中に広がった。
    サカナ?
    ネオンテトラほどの小魚がカップの中で一瞬飛びはねた。
    光のせいでそう見えたのか......

    「奥さんは、今日もお留守ですか?」

    僕はいきなり、村井さんに訊いた。

    「娘が虫歯でね、昼から、歯医者に連れて行ってるんだ」

    とうとう引っかかったぞ、と僕は思った。

    「あ、やっぱり、奥さんがいらっしゃるんですか。人が悪いなぁ」

    「ははは、冗談ですよ」

    そう言った村井さんは、眉ひとつ崩さずキーを叩きつづける。

    「このまえ、家の近所で妙なものを見まして――」

    「妙なもの?」

    プリントアウトされる原稿ごしに、チラリと村井さんが僕を見た。

    「ええ、住宅街の傍の生垣の根もとに、130本ほどもビデオテープが捨ててあるんですよ」

    「ビデオテープか。確かに妙だね」

    「ホコリまみれでラベルも何もついていないし、中に何が入っているのか見たくて、1本拾って帰りました――」

    「あなたも物好きだね。でも、大体想像はつくけどね」

    「そうですか?」

    「例えば、崩壊した家族の誰かが、その家の思い出をすてたか、あるいはもう終ってしまった誰かの人生の残りカスか――でなけりゃ、息子が隠し持っていたアダルトビデオを、こっそり母親がすてたのか、、、いずれにしろ、つまらん代物でしょう」

    「でも、僕は何か秘密が隠されているような気がするんですよ。例えば、行方不明者の捜索の手がかりになるものかもしれないし――」

    「ははは。テレビの見すぎだよ。大体、そんな大事なものを簡単に捨てたりはしないよ」

    「それもそうですね。失恋して写真や手紙をすてる人もいるから、ビデオが捨てられていても、別におかしくはないですね」

    「まぁ、自分の過去を美化して、後生大事に思い出の箱の中へ仕舞いたがる人もいれば、過去どころか自分の存在さえ消してしまいたいと思っている人間もいるってことだよ」

    「なるほど」

    「でも、女は、その両端を行ったり来たりしている生物だから厄介なんだ」

    「ははは――」

    僕は、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
    窓を透いた光が、村井さんの輪郭を際立たせる。

    その時、玄関の方でかすかに物音がした。
    カサカサとビニール袋がすれるような音。

    「お帰りになったようですね」

    口元を歪めながら僕は言った。

    「ん?誰だろう――」

    眉をしかめた怪訝そうな顔つきの村井さんが、耳を敧てながら僕の顔を一瞥した。

    「ちょっと失礼――」

    そう言って村井さんは部屋を出ていった。
    奇妙な沈黙があたりに満ちた。

    ――が、五分経ち、十分以上経っても、村井さんは書斎に戻って来ない。

    シビレを切らした僕は、そっと襖を開けて部屋を出た。
    狭い廊下に人の気配はない。
    探偵のような眼つきで捜すまでもなく、小ぢんまりとした明るいキッチンに村井さんはいた。
    村井さんはテーブルに肘をつき、汗が吹き出した額を両手で抱え込んでいる。

    「どうかしたんですか?」

    声をかけると、彼は驚いて顔を上げ、ひどく狼狽して辺りを眺めまわした。

    「何か用ですか?」

    「いえ、戻って来られないので――」

    見えない気配に怯えるように、村井さんは血走った眼を周囲に走らせている。
    キッチンにつづく居間にも、浴室やトイレにも人の気配はないし、物音もしない。
    それでいて、何かがどこかに隠れていて、僕と村井さんを凝視しているような気がするのだ。
    村井さんは僕に背を向けたまま、窓際にじっと佇んでいる。

    「さっきの人は......」

    「――ああ、うちの向かいに住んでる人でね。僕は一人暮らしだから、時々買物を頼むんだよ」

    「そうですか」

    窓の外を見たまま村井さんが笑っているような気がした。
    額に光る汗をハンカチで拭きながら、村井さんはゆっくりとこちらに向きなおった。

    「悪いけど、部屋に戻っててくれませんか」

    「はぁ……」

    「あ、それから、奥のフスマは開けないで下さい」

    「開けませんよ、そんな所――」

    「あ、そうだな。君が開けるわけないね。何を言ってるんだろう僕は」

    村井さんは、顔をひきつらせて笑った。

    (奥さんじゃなければ、女か? 人に見せられないペットでも飼っているんだろうか……)

    村井さんは、何か重大な事を隠している。
    それは間違いない。
    だが何なのか僕にはわからない。
    けれど、村井さんを直接追究するのは危険だ。秘密に気付かれたと思った村井さんが、僕に何をするか知れない。

    村井さんに気取られないように、何とか秘密を探り出すことはできないものか――ホコリっぽい書物に囲まれた書斎で、僕は本のページをめくりながら考えを巡らせていた。
    やがて、村井さんが部屋に戻って来た。
    出ていく前と変わらない、落ちついた様子で。

    「――さっきは、どうされたんですか?」

    「いや、何でもないんだよ。ちょっと風邪気味でね、寒気がしたから――」

    「大丈夫ですか?」

    「うん、葛根湯のんだからね。もう大丈夫です」

    おかわりのコーヒーを飲みながら、いつものように僕と村井さんは、様々なことを話し合った。
    が、僕が彼の秘密に気を取られているせいか、どうにも会話の歯車がかみ合わない。

    「じゃ、僕はそろそろ帰ります」

    「そう。お構いなしで悪かったね。また」

    「また来週、うかがいます」

    部屋を出た村井さんは、しきりに背後を気にしながら、僕を玄関まで見送ってくれた。玄関の下駄箱の上に、なぜか婦人用の白い帽子が置いてあった。

    普段の村井さんなら、お構いなしで悪かったね、、、などと言う筈はない。誰だ、村井さんの背後に動めいている影は――
    考えながら、八号棟のくすんだ階段を、僕はゆっくりと降りていった。



    腕時計は、午後四時半を指している。

    昼間の明るさが嘘だったかのように、重たい曇天が広がっていた。
    児童公園で遊んでいた子供たちの姿は、もう消えている。
    人影のない団地の隙間を、生温かく湿っぽい宵の風が吹きすぎる。

    風に散って流れ舞う桜の花弁が、小さい池の淵に吹き溜ってい
    る。
    僕は、植込みに沿った歩廊を抜けて国道へ出た。
    激しく行き交う車の排気ガスとエンジン音は、僕の脳髄を活性化させる。
    蒸し暑い空気の中で、冷たい汗が頬を伝って流れ落ちた。

    ふいに激しいめまいに襲われ、泥酔したように気分が悪くなった。
    錯乱した頭を抱えて、ガードレールに寄りかかり、傍目をはばからず僕は何度も吐いた。
    馬鹿にしたように排気ガスをまき散らしながら、ひっきりなしに車が行き交う。
    ガードレールにしがみつき、マヒした知覚神経を引きずったまま、よろめきながら僕は歩いた。
    僕の全身から吹き出した汗を、誰かが拭きとっているが、誰だかわからない。
    激しい疲労感に襲われ、混濁して朦朧とした意識のまま、急速にブラックホールに引き込まれていくように、僕はアスファルトの上に昏倒した。



    今年の夏も、その盛りを過ぎようとしていた。

    蒸し暑い昼下がり、残暑見舞いのハガキをズボンのポケットに入れて、僕はサンダルをひっかけて表に出た。

    たちまち暑気が全身を包む。
    降り注ぐ日差しはまだ強い。
    天高く、入道雲が聳えている。

    影絵のようにクッキリと、路上に落ちた鉄塔のシルエット。
    アブラゼミの鳴き声。
    湿った風が、向日葵を掠めて吹きすぎる。
    廃墟のように、ひっそりと静まりかえった街の中を、僕は歩く。

    ーー静かだ。
    その静寂が、どこか息苦しい。

    ぼんやり歩いていると、路端にキラッと光るものが見えた。
    割れたガラスの破片だろうか。
    近づいて見れば、それは微かに動いていた。
    破片にしては、ずいぶん大きい。
    まるで黒い紙クズが動きまわっているような奇妙さだ。

    ーー蝶だった。

    しゃがんで眼を凝らすと、羽根の先がU字型に曲がっていた。
    どうやら、蛹から羽化して間もないらしい。

    そういえば子供のころ、夏休みになると朝早く起きて、クワガタやカブト虫を夢中で追いかけたことを思い出した。
    僕は思わず手を伸ばした。やわらかな羽根に、そっと触れてみる。
    手のひらに乗せると、小刻みに羽根を震わせているだけで、頼りなく指にしがみついたまま動かない。生まれ変わって初めて見る、この世界のすべてに怯えているようだ。
    それとも、まだ蛹の頃の夢を引きずっているのだろうか。

    ここにそっとしておきたかったが、部屋の中でゆっくり観察したい気になって、僕はポロシャツの胸ポケットの中へ、そっと蝶を入れた。
    ハガキを投函して家に戻ると、風鈴の音が出迎えてくれた。
    白い光に満たされた小さなキッチンの中で、右往左往しながら奥さんは、そうめんをゆでていた。

    「チョウチョ、拾ってきたよ」

    「えっ?」

    ちょっと驚いてふり向いた奥さんは、僕の顔を見てニッコリと笑った。

    「ほら、生まれたてのやつ」

    僕は胸ポケットから、ゆっくりと蝶をつまみ出して、手のひらに乗せた。
    濡れた手をエプロンで拭きながら近づくと、もの珍しそうに、蝶をじっと見つめている。

    「生きてるの?」

    「うん、もちろん」

    眼を見開いて、子供みたいに蝶をのぞき込む奥さんの顔が、なんだかおかしい。

    「どうしたの?」

    「そこの道端で、ゴゾゴゾ這い回ってたから、つれて来たんだよ」

    「じゃあ、お客さんね」

    「これから、羽根が開くかもしれないよ」

    「ふうん」

    彼女の細い指先が、蝶の羽根にそっと触れた。
    僕らは、小さく笑い合った。

    「エメラルドグリーンのとこが、キレイねえ」

    「だろ」

    「フフッ、こういうもの拾って来るのが、あなたらしいわね」

    僕の眼を見ながら、奥さんは微笑んだ。
    風に乗って、遠くから流れてくるヒグラシの儚い鳴き声が、火照った体をスッと冷やしてくれる。
    僕らは、また静かに笑い合った。

    カーテン越しに差し込む朝の光が瞼をくすぐる。
    スズメの群が、窓辺にやって来ては囀りあって、すぐに飛び去ってゆく。

    僕は体を起こして、ぼんやりと部屋を眺めた。
    奥さんはまだ、静かな寝息をたてている。
    華奢な肩から腰に流れる滑らかなラインが、朝日のなかに溶けている。
    蝶の夢を見たのは、あの蝶のせいかもしれない。
    透明なビンの中に入れて、ベッドのわきに置いておいた蝶の眼は、真夜中に何を見ていたのだろう。

    ごく自然にお互いを求め合い、愛し合うことができたのは久しぶりだった。もしかすると、あの蝶のお陰かもしれない。
    あの蝶の視線を、僕はどこかで意識していたんだろう。

    そうだ、蝶はまだ生きているだろうかーー
    ところが、ビンの中はカラだった。
    スタンドの上にも、目覚まし時計の裏にも、水差しの影にも蝶はいない。
    夜のうちにすっかり羽根を伸ばして、どこかに飛び去ったのだろうか。
    明け方の澄んだ空気の中を、天高く軽やかに舞い上がっていく蝶の姿が浮かんだ。

    早朝から気の早いセミたちが、もう鳴き出していた。
    今日も夕立が来そうだ。

    ーー雨?
    そうだ、あの日も、雨が降っていた……



    どれ程眠ってしまったのか、気がつけば、そこはバスの中だった。
    エンジンの振動がゆっくり五臓六腑に染み込んでいく。

    最後部の臙脂色のモケットシートにヨダレがこびり付いている。
    上体を起こして見まわしても、僕の外に乗客は誰もいない。
    ただ、ハンドルを切っている運転手のシルエットだけがゆれている。

    いったいどの辺りを走っているのか、わからない。
    窓ガラスを叩くような雨が斜めに吹き付けている。
    カラスの濡羽よりも深い黒一色の闇の中だ。

    ひどい悪夢を見せられていた気もするが、よく思い出せない。
    間接的に間接が痛くて、服が吐瀉物で汚れている。
    ベトベトのブレザーから異様な匂いがする。
    闇の中で、風雨にもまれる並木の触手が、ガラスを破っていまにも襲って来そうだ。
    砂金の川に似た街の灯が、彼方に瞬いている。

    ――突然、バスが止まった。
    整理券も取らずに、女が乗り込んできた。

    見覚えのある女だ。
    豪雨に押し流される河底から這い上って来たような、身体じゅう濡れそぼったままで、白眼をむいてシートに座った。

    モケットの毛先から、いくつもの雨滴がしたたり落ちる。
    濡れてピッタリと体に貼りついたクリームイエローのワンピースが、やわらかな胸のラインを浮立たせている。

    ドアが閉った。
    またバスが動き出した。
    あの女のせいだろうか?
    酒風呂につかっているように朦朧とした僕の意識も徐々に冴えはじめていた。
    いつの間にか、僕の中で奇態な興奮が渦巻きはじめた。
    背後に身を潜める女の顔を、真正面からじっくりと凝視したい衝動がこみ上げて来る。

    走りつづけるバスの中で僕は立ちあがり、女に向かって歩き出した。
    まるで、誘蛾灯に誘い込まれていく蛾のように。

    「すみません、どこかでお目にかかりませんでしたか?」

    女はおもむろに顔を上げた。
    僕の予想を見事に裏切って、女の膨よかな頬は、柔和な輪郭を保っていた。
    濡れていながらゆるやかにウェーブを描く黒髪の中に、朧月が浮かんでいる。
    蒼白い顔のなかで、ふっくらとした唇だけが鮮やかに光る。
    意味深な微笑を浮かべて、宝石のように艶やかな瞳で、女は僕を見上げた。

    「いいえ、存じませんわ――」

    言葉じゃなく、僕の頭骸の中へ直接その声は反響した。
    吐きそうだ。
    タバコが喫いたい。
    蛇に見据えられて畏縮するカエルのように、僕はただ、そこに佇むしかなかった。

    「このバスは、どこへ行くんですか?」

    そう言った途端、幕があがった。

    盛大なファンファーレが鼓膜を劈いて、薄暗いバスの中が白い光に満たされた。
    ビッグバンが始まったのか、光は急速に膨張して周囲の何もかも含み込んでいく。

    太陽がバスの中で生まれたのか。
    暖かくやすらぎに満ちた心地いい光が僕を包んでいく。
    行き場のない白い闇は、女の子宮かもしれない。
    風に髪をなびかせながら、それでも女の顔ははっきりと見える。

    「このバスは、櫻ヶ丘団地八号棟行きです」

    頭の中でまた女の声が響いた。
    唐突に、肉を切り裂くような旋律がけたたましく鳴り響く。

    そうだ、これだ。
    僕が倒れ込んだ商店街で鳴っていたあの曲は、、、四方八方から、音の矢が僕に襲いかかった。 

    「序奏とロンド・カプリチオーソ……」

    「わたしも少し、ヴァイオリンを弾きますの」

    なぜ、この女は僕の思考を読み取れるんだろうか。

    「なぜ、僕をそんなに見つめるんです」

    「それは、あなたがよくご存知でしょ」 

    女はずっと微笑している。
    僕が手を伸ばすと、女の輪郭は水面のように揺れた。
    指先が触れたと思った瞬間、その身体は無数の蝶となって白い光へ溶けていった。
    めくるめくカプリチオーソの旋律に乗って、極彩色の鱗粉を吹き散らしながら、蝶たちは白い闇の中を飛び交い去ってゆく。

    一体どの蝶が女の化身なんだろうか。
    蛾のように羽ばたく蝶たちは、いつの間にかコウモリの群れになっていた。
    さっきと変わらぬ微笑を浮かべて、女がそこに佇んでいる。

    女は僕をじっと見つめる。
    その眼が僕の全身を包んで、ゆっくりと溶かしはじめる。
    子宮の中で愛撫されているような恍惚を感じながら、程よく湿った女の瞳に抱かれて、僕はゆっくりと溶けていく。

    そうか、この光の海は、ここはあなたの中だったのですね。
    僕はいったい、あなたの胎児なんですか?
    それとも、あなたが僕の娘ですか?

    答えてください。
    僕はどこへ行けばいいんですか?
    僕の名前は――
    僕はいったい、誰なんだ――

    「あなたは、誰ですか?」

    「わたし、村井の家内です――」🦋✨

    (了)



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