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『勿忘草の咲く屋上で ―この街の光を見つけるまで―』

    【あらすじ】
    サッカー部を休部し、無気力な日々を送る高校二年生・青葉隼は、ある夜、学校の屋上で“死”に惹かれる少女・浜本志桜里と出会う。
    母を亡くし、深い喪失感の中で生きる志桜里との交流を通して、隼は父から教わった「止まったままでは見えない景色がある」という言葉の意味を少しずつ知っていく。
    志桜里の苦しみに向き合う中で、隼自身もまた、投げ出しかけていた自分の人生と向き合い、再びサッカー部へ戻る決意をする。
    そのひたむきな姿に心を動かされた志桜里も、かつて諦めたバスケットボールへの情熱を取り戻していく。
    厳しい冬を越え、迎えた三年生の春。
    二人はそれぞれの競技を通して、「結果」ではなく“生きることの輝き”を見つけ出していく。
    満開の桜の下、志桜里はこの街で教師になる夢を語り、隼もまた、この街で誰かの「風」になりたいと願う。
    絶望の淵にいた二人が、日常の温もりと「出会い」の尊さに触れながら、光の差す方へ歩き出すまでを描いた、再生と青春の物語。

    第一章:静寂の食卓と朝の境界線

    早朝五時。
    鶏ガラと煮干しの香りが淡く漂う厨房で、父は作業の手を止めた。
    スープが煮込み始めの温度に達すると、火をごく弱く落とし、父は静かに調理場を後にする。
    以前は、あく抜きのために寸胴鍋の前から一歩も離れない人だった。
    しかし二年前、母が亡くなってから、父の朝のルーティンは変わった。
    毎朝、お寺の墓地に眠る母のもとへ手を合わせに行くようになったのだ。
    墓前に着くと、父はポリ袋から手慣れた様子で刷毛を取り出し、石の隙間に入り込んだ砂を丁寧に払う。
    そして、母が生前使っていた湯のみへ、自宅で淹れてきたばかりの熱い茶を静かに注ぐ。
    何も言わない。
    ただ、目を閉じ、短く息を吐く。
    湯のみを再び袋へ仕舞うと、父は何事もなかったかのように家へ戻り、再び厨房に立つ。
    そんな静謐な朝が、もう二年以上続いていた。
    父「おはよう」
    志桜里「……うん」
    起きてきた長女・志桜里の声は、どこか遠かった。
    母を亡くしてから、彼女の言葉数は目に見えて減った。
    志桜里は無言で飯台を拭き、三人分の茶碗と汁椀を並べる。
    父が居間へ運ぶ鍋の中には、母の味を真似たお吸い物が入っていた。
    豆腐と油揚げの中に、形を崩さないよう卵をひとつ落としたもの。
    それに、ボイルしたウィンナーと千切りキャベツ。
    父「起きたか、直輝」
    直輝「うん」
    小学六年生の弟・直輝もまた、この静かな朝に馴染んでしまっていた。
    母に勧められて始めたスイミングスクールにも、今も通い続けている。
    昨夜も遅くまで練習していたはずだが、疲れを口にすることはない。
    姉弟喧嘩ひとつしない穏やかな性格は、母の死を境に、さらに深い沈黙へ潜り込んでしまったようだった。
    直輝「行ってきます」
    志桜里は自分の食器を洗い終えると、鞄を肩にかけた。
    父の「気をつけてな」という声を背中で受け止めながら、静かに家を出る。
    登校の途中、志桜里もまた母の墓へ立ち寄る。
    石の前にしゃがみ、静かに手を合わせる。
    けれど、何も語りかけない。
    ただ、冷たい石の感触だけを確かめるように立ち上がり、彼女は「学校」という場所へ向かって歩き出した。

    第二章:屋上の冷たい風


    「あんた、誰?」|孤独が交差する場所

    三方向の路上から、色とりどりの感情を詰め込んだ制服たちが、吸い寄せられるように校門を目指していた。
    走る者。
    うつむく者。
    はしゃぐ者。
    その一歩一歩は、正門をくぐった瞬間、「生徒」というひとつの記号へ塗り替えられていく。
    学校という名の巨大な箱は、彼らの未熟な熱情も、底知れぬ無気力も、すべてを等しく飲み込み、何も語らない。
    門を抜ける瞬間、一瞬だけ長く伸びた影が、校舎の影へ静かに溶けていった。
    正門に立つ生徒指導の金森は、全身から「体育教師」という空気を滲ませている男だった。
    鮮やかな青のスポーツウェア。
    白いランニングシューズ。
    足首できっちり留められたジャージの裾。
    シューズに走る赤いラインが、彼のどこか独善的な潔癖さを象徴しているようにも見えた。
    金森「おい、シャツを出すな。ズボンに入れろ」
    金森「その唇、塗ってるんじゃないだろうな」
    生徒「……リップです」
    毎朝繰り返される、小さな検閲。
    その声を擦り抜けるようにして、志桜里は感情を消したまま校舎へ吸い込まれていった。
    悠太「隼」
    隼「あ……ういっす」
    廊下で声をかけてきたのは、親友の悠太だった。
    悠太「元気ねえな。朝からテンション爆下がりじゃん」
    隼「……まあな」
    悠太「相談乗るぜ?」
    悠太は、隼の表情に宿る“重さ”を敏感に察していた。
    けれど、それ以上は踏み込まない。
    悠太「あ、朝から部活の集まりあったんだ。行くわ、また後でな!」
    嵐のように去っていく背中を見送りながら、隼は胸ポケットの中にある封筒の感触を確かめた。
    ――今日、決着をつける。
    誰かの声ではなく、自分自身の内側から聞こえてきた言葉だった。
    昼休み。
    隼は意を決して職員室を訪れた。
    だが、目当ての顧問の姿はない。
    出直そうと踵を返しかけた時、背後から声がした。
    吉川「青葉、何してるんだ」
    サッカー部顧問の吉川先生だった。
    隼「あ、先生……少し、用がありまして」
    二人は体育館へ続く渡り廊下のベンチに腰を下ろした。
    吉川「ここ、日陰で風通しがいいだろ」
    校庭を眺めながら、吉川は穏やかに言った。
    吉川「誰もいないグラウンドを見てると、頭が空っぽになる。俺にとってのデトックスなんだ」
    少し間を置いてから、隼へ視線を向ける。
    吉川「……で、どうした?」
    隼は震える手で、退部届を差し出した。
    吉川はそれを一瞥し、静かに受け取る。
    吉川「昔、俺も同じように悩んだことがあってな……」
    眩しそうに目を細めながら、吉川は遠くの入道雲を見つめた。
    その視線は、目の前の生徒ではなく、遠い昔の自分自身へ向けられているようだった。
    吉川「退部届は預かる。だが……今は『休部』扱いにしておこう。それでいいか?」
    隼「……はい。すみません」
    吉川「謝ることじゃない。理由も聞かないよ。お前なりに、もう十分考えたんだろうからな」
    吉川は立ち上がり、去り際に隼の肩を軽く叩いた。
    吉川「昼、ちゃんと食べたか? 残してないだろうな」
    隼「……え?」
    吉川「お母さんが作ってくれる弁当を食べられるのなんて、今だけだぞ。大事にしろよ」
    吉川の微笑みが、隼の胸に小さく刺さった。
    渡り廊下を歩いていると、ふと視界の端に屋上のフェンスが映った。
    錆びた金網の向こうに、誰かが立っている気がした。
    長い髪だけが、風に揺れて見える。
    女子生徒だろうか。
    けれど隼は、すぐに目を逸らした。
    今は、他人へ興味を向ける余裕などなかった。
    放課後。
    隼はグラウンドから響く、聞き慣れた掛け声を背中に浴びながら校門を急いだ。
    視線を向ければ、きっと足が止まってしまう。
    川沿いの通学路では、紫陽花の青が褪せ始め、代わりに向日葵の黄色が刺すように濃くなっていた。
    誰もいない放課後の道。
    ひとりで帰る寂しさが、じわじわと罪悪感へ変わっていく。
    自分だけが勝手な行動をしている気がした。
    仲間に背を向けた自分を、この街そのものが責めているようだった。
    家の玄関を開けると、台所から聞き慣れた母の声が届く。
    母「お帰り。早いのね」
    その温かさに、胸の奥がチクリと痛んだ。
    退部届を出してきた罪悪感が、母の優しさに触れた瞬間、逆流しそうになる。
    隼「……うん」
    それだけ答えると、隼は逃げるように二階へ駆け上がった。
    カバンを机へ放り出し、制服のままベッドへ倒れ込む。
    天井の木目をぼんやり見つめていると、今日一日の出来事が、重たい泥のように心へ沈殿していった。
    大きく息を吐き、ようやく私服へ着替えて一階へ降りる。
    母「冷蔵庫にコーラあるわよ」
    隼「……うん」
    リビングのソファへ深く腰を沈め、冷たい炭酸を喉へ流し込む。
    母「今日も綺麗に食べてくれたのね」
    洗い物を終えた母が、弁当箱を手に微笑んだ。
    隼「美味しかったよ」
    母「良かった。ありがとう」
    その「ありがとう」が、今の隼には重すぎた。
    隼「母さん……俺、退部届出してきた」
    母の手が止まる。
    タオルで指先を拭きながら、ゆっくり振り返った。
    母「何かあったの?」
    隼「……いや。何もないよ」
    ただ、立ち止まりたかっただけなんだ。
    そう言いたかった。
    けれど、言葉にはならなかった。
    母は、疲れ切った隼の横顔を静かに見つめ、それ以上は踏み込まなかった。
    母「そう。……お父さんには、ちゃんと話してね」
    その夜、隼は夕食も摂らないまま眠りに落ちてしまった。
    窓の外が、薄い桃色から深い藍色へ滲んでいく――その景色を、うつろな目で眺めていた記憶だけが残っている。
    母「隼、お父さん帰ってきたわよ。夕飯にしましょ」
    母は二階へ上がり、ドアをノックしたが返事はない。
    そっと扉を開けると、隼は制服のまま、泥のように眠っていた。
    母「……今日は、疲れたのね」
    小さく独り言をこぼし、起こさないよう静かに階段を下りていく。
    隼が目を覚ましたのは、午後十時を過ぎた頃だった。
    隼「……ごめんなさい。寝てた」
    リビングへ降りると、母が一人で新聞を片付けていた。
    母「いいのよ。お父さん、もう寝ちゃったわ。明日、出張で朝早いからって」
    少し間を置いて、穏やかに続ける。
    母「お父さんとの話は、土曜日にでもゆっくりしたら?」
    隼「……うん。わかった」
    母「夕飯、食べるでしょ?」
    隼「あんまり食欲なくて……お茶漬けでもいいかな」
    母「いいわよ。梅干しか昆布の佃煮、それとも――」
    隼「……何もいらない。この漬物だけでいい」
    母の視線から逃げるように、隼はお茶漬けをかき込んだ。
    ズズッ――という音だけが、静まり返ったリビングに虚しく響く。
    母にはその音が、隼が胸の中の不安を、無理やり飲み込もうとしている音のように聞こえていた。
    翌日。
    学校へ来ても、隼の心は晴れなかった。
    数学の授業中、うつむいたままの隼のそばへ、担任の松尾先生が歩み寄る。
    松尾「青葉、大丈夫か。具合でも悪いのか?」
    隼は無言で首を振った。
    自分でも、どこが悪いのか説明できなかった。
    昼休み。
    喧騒を避けるように、隼は弁当を持って屋上へ向かった。
    フェンス際の日陰へ腰を下ろし、弁当箱の蓋を開ける。
    隼「あ……」
    うずらの卵が三つ、可愛らしく串に刺さっている。
    タコさんウィンナー。
    輪切りのとうもろこし。
    それは、母からの無言の応援歌だった。
    ふと、小学校の遠足を思い出す。
    友達の輪へ入れず、芝生の上で母と二人、弁当を食べていたあの日。
    楽しそうにはしゃぐ同級生たちを、遠くから眺めることしかできなかった。
    『隼、遊んできたらどう?』
    あの時も、自分は下を向いたまま弁当を食べ続けていた。
    そんな隼を見かねて、担任の先生が声をかけてくれたのだ。
    『隼君、遊ぼうか? ……悠太君、隼君も仲間に入れてあげて』
    それが、親友・悠太との出会いだった。
    母の「行ってらっしゃい」という微笑みに背中を押され、おずおずと手を伸ばしたあの日。
    記憶を噛みしめるように、隼は静かに弁当を食べ終えた。
    立ち上がり、防御フェンスへ近づいた、その時だった。
    志桜里「……あんた、誰?」
    冷たい声が背中へ突き刺さる。
    振り返ると、一人の女子生徒がこちらを鋭く見つめていた。
    長い髪が、風に揺れている。
    隼「あ……二年の青葉。君は?」
    志桜里「名前なんか、どうでもいい。ここに来ないで」
    その声には、露骨な拒絶が滲んでいた。
    隼「どうして? 屋上って来ちゃダメなのか?」
    志桜里「ここは、私が唯一“一人”になれる場所だから」
    隼「……それは、俺も同じだけど」
    志桜里「あんた、昼休みに屋上来るの初めてでしょ?」
    鋭い視線のまま、志桜里は続ける。
    志桜里「何しに来たの。だいたい、屋上で飲食しちゃダメだって知らないの?」
    隼「……ダメなのか」
    志桜里「学校に、自分の好き勝手に使っていい場所なんてないの。うっとうしいから、昼休みは来ないで」
    隼「……いい加減にしろよ」
    隼の声にも、苛立ちが混じった。
    ようやく見つけた静かな場所を、突然否定された気がした。
    隼「お前、何様だよ」
    志桜里「『お前』って呼ばれる筋合いないから」
    隼「じゃあ、何て呼べばいいんだよ」
    志桜里「教える筋合いもない」
    隼「筋合い筋合いって……ほんと気分悪いな。もう下行くよ」
    不機嫌さを隠さないまま、隼は重い扉へ手をかけた。
    その背中へ、消え入りそうな声が届く。
    志桜里「……浜本志桜里」
    隼「……え?」
    振り返ると、彼女はもうこちらを見ていなかった。
    フェンスの向こうの空を、ぼんやり見つめている。
    志桜里「もういいでしょ。さっさと出てって」
    隼「……わかったよ」
    教室へ戻り、午後の授業が始まる。
    すると、不思議なことが起きた。
    あれほど重かった頭が、今は妙に冴えていた。
    浜本志桜里との衝突が、胸の奥に溜まっていた淀みを、無理やり掻き回して流してしまったようだった。

    第三章:勿忘草(わすれなぐさ)の記憶

    母の死と、消えない心の棘(とげ)

    学校が終わり、家路につく隼の足取りは、いつになく重かった。
    隼「……お父さんに、言わなきゃ」
    その一言を頭に浮かべた瞬間、胃の奥がキュッと縮み、視界がわずかに歪んだ。
    小学三年生。父に手を引かれて入団したサッカークラブ。
    土日の試合には、どれだけ忙しくても父が来ていた。
    泥だらけで走る自分を、ずっと見守ってくれていた。それを裏切るという実感が、帰宅を急ぐ歩幅を狭めていく。
    アブラゼミの濁った鳴き声が、アスファルトから立ち上る熱気と混ざり合い、逃げ場のない蒸し暑さとなって隼を包み込む。蝉たちの声が、まるで「逃げるな、早くしろ」と自分を責め立てているように聞こえた。
    玄関の扉を開けると、いつもの母の優しい声が迎えてくれる。
    母「お帰り。暑かったでしょ」
    (やめてくれ……優しい言葉は、今は聞きたくないんだ)
    心の中で毒づきながら、隼はキッチンで夕飯の支度をする母の背中に向けて、消え入りそうな声で言った。
    隼「ここに、置いておくよ」
    テーブルに弁当箱を置くと、二階の自室へ逃げ込んだ。「何か飲む?」という母の声が背後で小さく弾けたが、聞こえないふりをしてドアを閉めた。
    ベッドに倒れ込む。
    「これで、いいんだ」 呟いた言葉が、がらんとした胸の中で虚しく反響した。 群れを離れ、一人で歩き出そうとする自分を、誰も見送ってくれない。当然のことなのに、その孤独が、猛烈な寂しさとなって隼を襲った。
    隼「父さん……」
    枕に顔を埋め、隼はあふれそうになる感情を必死に押し殺した。
    その苦しさから逃げるように、一階のリビングへ降りる。ソファーに座って父の帰りを待つが、じっとしていられない。
    隼「母さん、ちょっと外を歩いてくる」
    母「いいけど……夕方と言ってもまだ暑いわよ」
    隼「うん、わかった。タオル持っていくから」
    家を出て、堤防へと続く坂を登る。 土手に上がると、川面(かわも)を撫でてきた風が、隼の火照った頬を優しく撫でた。 対岸に目をやると、小さな子犬を連れて散歩する人の姿が見える。一歩一歩、短い足で地面を踏み締める子犬の歩幅を、隼はぼんやりと眺めていた。
    父「隼!」
    下から自分を呼ぶ声に振り返ると、仕事帰りの父が車を止めて窓から顔を出していた。
    父「散歩か?」
    隼「うん」
    父「まだここに居るのか?」
    隼「いや……帰るよ」
    父「乗るか?」
    隼「近いから、歩いていく」
    父「そうか。じゃあ、先に行くぞ」
    父は、いつものように短く笑って手を振り、車を走らせた。
    (父さん……そんな顔で見ないでくれよ) 父の無邪気な笑顔が、隼の胸を締め付ける。泣き出しそうな衝動を堪え、隼は家に向かった。
    母「お帰り。お父さんと会ったんですってね。隼に会ったって、嬉しそうに言ってたわよ」
    リビングに戻ると、母がそう言って隼を見た。
    隼「うん……」
    母「今、お父さんはシャワーを浴びてるわ。隼、そんなに暗い顔しないで。自分の思いをしっかり伝えれば、きっと分かってくれるから」
    母の言葉に支えられ、隼は呼吸を整えた。
    シャワーを浴び、リビングに入ってきた父に向き合う。
    隼「父さん、話があるんだけど」
    父「うん、どうした」
    父は、穏やかな顔で隼の隣に腰掛けた。
    隼「あの……サッカー部に、退部届を出してきた」
    その瞬間、父の表情から笑みが消え、空気が張り詰めた。 長い沈黙。エアコンの駆動音だけが、不気味なほど大きく響く。 やがて、父は静かに口を開いた。
    父「サッカーを始めて、何年になるかな」
    隼「……七年です」
    父「そうか、七年か。……それで、高二の今、退部を決めた理由は何だ」
    隼「自由な時間が、欲しいと思って」
    父「自由な時間?」
    隼「学校と部活だけの毎日で……将来のことを考える余裕もないし、そんな生活が、嫌になったんだ」
    父は腕を組み、視線を落とした。
    父「隼の人生だ。父さんがこうしなさいと言うつもりはない。ただ……後悔だけはするな。それともう一つ」
    父は隼の目を、真っ直ぐに見つめた。
    父「やめた後の隼の生活を見ている人は、たくさんいるぞ。部活の仲間、先生、クラスの友達、そして母さんの実家のおじいちゃんやおばあちゃん。……みんな、隼を応援してくれてきた人たちだ。自分が想っている以上に、人は、お前のことを気にかけてくれている。そのことが分かっているのなら、父さんからは、もう何も言うことはない」
    隼「はい……」
    隼の視界が、急激に滲んだ。 自分が勝手に孤立していると思っていた。けれど、父が挙げた人々の顔が次々と脳裏に浮かび、その一人ひとりが、自分の背中を温かく支えてくれていたことに、今更ながら気づいたのだ。 膝の上に落ちる涙。止めることができなかった。
    父「母さん、夕飯にしようか」
    父の声が、いつも通りのトーンに戻った。 隼はソファーに座ったまま、顔を上げられずにいた。
    父「隼。……もういいから、顔を上げろ」
    父の言葉に、恐る恐る顔を上げる。
    父「顔を洗ってこい。飯にしよう」
    食卓には、湯気の立つ生姜焼きが並んでいた。 父と目が合わせられず、黙々と箸を動かす隼に、父がおもむろに皿を差し出した。
    父「隼。この肉、もう少し食べてくれるか?」
    隼「え……あ、はい」
    隼が差し出した皿に、父が自分の皿から肉を移す。
    隼「ありがとう」
    父「母さんには悪いけどさ。今日、昼に肉を食い過ぎちまって。これ以上食うと、腹が出る一方だからな」
    父はお道化(おどけ)て自分の腹をさすった。
    母「そうですか。そろそろ中年の食事制限、始めたらどうですか」
    父「いや、今日から始めなくてもいいだろ」
    母「お父さん、耳が痛いかしら?」
    母がくすくすと笑い、食卓の空気がようやく解けていった。
    入浴を済ませ、自室に戻った隼は、窓の外の夜空を眺めていた。
    厳しく叱り、最後までやり遂げろと強制することもできたはずの父。
    けれど父は、隼が「独りではないこと」を教え、その後の責任を隼自身に託した。
    隼「父さん……」
    その器の大きさに圧倒されながら、隼は心の中で何度も感謝した。
    ベッドに潜り込む。
    ふと、幼い頃の記憶がよみがえった。
    初めてサッカーを始めたころ。
    トラップに失敗したボールを追いかけ、夢中で土手を駆け下りた隼に、父が笑いながら言った。
    「おい、勿忘草を踏むなよ」
    足元には、青紫の小さな花が風に揺れていた。
    応援してくれる人たちの存在も、あの花に少し似ているのかもしれない。
    気づかない場所で、ずっと静かに咲いている。
    そんなことを思いながら、隼はゆっくりと目を閉じた。

    第四章:再始動の鼓動

    ――体育館に響く、もう一つのシュート

    父との重苦しい会話を交わした翌日は、夏休み前、最後の登校日だった。
    漣「隼」
    振り向くと、部活のキャプテンになった漣(れん)が立っていた。
    漣とは小学三年生の時にサッカー少年団で出会って以来、中学、高校と八年間を共にしてきた。
    漣「隼、吉川先生から聞いたよ。正直、信じられなかった。退部届って聞いて、“えっ”としか言えなかった。
    明日から夏休みになるけど、もう一度考えてみてくれないか。九月には全国大会の県予選が始まる。隼がいないと、試合には勝てないんだ。
    俺は、お前の退部を許すつもりはない。……俺は高校でサッカーを終わりにする。だから、最後まで一緒にやりたい。頼む、もう一回考えてくれ」
    漣は一気にそう言うと、逃げるように校舎の中へ消えていった。
    隼は、その背中を見送りながら声にならない言葉を飲み込む。
    (俺だって、分からないんだ。
    漣と同じで、俺も高校でサッカーを終わりにするつもりだった。だけど――その先に、何を目標にして、何の夢を描いて生きていけばいいのかが分からないんだ)
    教室のドアを開けた瞬間、騒がしい笑い声がまとわりついてきた。
    やけに大きく響くその声が、今の隼には耳の奥でざらついて仕方がない。
    隼「……なんで、みんなそんな顔していられるんだ」
    視線を逸らすように窓の外を見る。
    校庭は白く乾いた光に包まれていた。
    風が運んでくる土の匂い。
    夏がもう始まっているのに、自分だけが透明な檻の中に閉じ込められ、取り残されているみたいだった。
    やがて担任の松尾が教室へ入ってきた。
    松尾「明日から夏休みに入る。各教科担任から課題が出されていると思うが、休み明けには課題テスト、模擬テストも予定されている。
    二年生とはいえ、一年後には進学か就職か、自分の将来を決めなければならない。
    分かっていると思うので、これ以上は言わない。この夏休みを有意義に過ごしてほしい。
    今日は三限まで授業、四限は大掃除で終了だ。以上」
    将来。進路。有意義。
    松尾の言葉はどれも、隼にとっては出口のない迷路の地図を渡されているようで、ただ重たかった。
    一限、二限と授業は進む。
    目は教科書の文字を追っていても、頭には何も入ってこない。ページをめくる指先さえ、自分のものではないようだった。
    三限目。英語の八木先生が教室に入ってきた。
    女子たちの弾むような声が微かに聞こえる。
    だが隼は顔を上げず、窓の外へ視線を向けたままだった。
    黒板を叩くチョークの乾いた音が、規則正しく教室に響く。
    隼は機械的にノートへ文字を書き写しながら、どこまでも広がる空をぼんやり見つめていた。
    その時だった。
    窓から流れ込む熱い土の匂いに混じって、ふと違う香りがした。
    微かで、けれど澄んだ香り。
    振り向くと、八木先生が静かに机の横を通り過ぎていくところだった。
    その一瞬だけ、耳の奥でざらついていた焦燥感が、少しほどけた気がした。
    授業が終わり、埃っぽい放課後のチャイムが鳴り響く。
    悠太「隼!」
    教室の入り口で、悠太が大きく手を振っていた。
    悠太「今日の昼、ラーメン行かないか?」
    隼「悠太、部活は?」
    悠太「明日から合宿。今日は準備だけで休みなんだよ!」
    そう笑う悠太の明るさが、今の隼には眩しすぎた。
    けれど、その眩しさに救われてもいた。
    校舎を一歩出ると、熱を帯びた風が容赦なく吹きつけ、首筋に汗が滲む。
    見上げれば、吸い込まれそうなほど高い、勿忘草(わすれなぐさ)色の空。
    隼「……眩しすぎるんだよ」
    誰に言うでもなく呟き、隼は歩き出した。
    みんなにとっては待望の「夏休み」。
    けれど、部活を離れた自分にとっては、自分がどこで何を信じて立てばいいのかを探し続ける、孤独な季節の始まりだった。
    悠太「ここだよ。“成華楼”っていうんだ」
    商店街のアーケードの片隅。
    悠太に連れられて暖簾をくぐると、そこには意外な顔があった。
    志桜里「……ご注文は」
    注文を取りに来たのは、屋上で出会ったあの女子生徒――志桜里だった。
    隼が思わず「あっ」と声を漏らしても、彼女は一瞥もくれず、無表情のまま伝票にペンを走らせる。
    悠太「醤油二つ」
    志桜里は短く頷き、厨房へ戻っていった。
    その素っ気ない態度に、隼は小さく息を吐く。
    悠太「……隼、あの子知ってるのか?」
    悠太が声を潜めて聞いてきた。
    志桜里とは中学が同じだったらしい。
    悠太「お母さんが亡くなってから、しばらく学校休んでたんだ。
    店が再開してからは、土日はずっと手伝ってるみたいだけど……」
    運ばれてきたラーメンをすすりながら、隼は厨房で忙しく動く店主と、黙々と丼を片付ける志桜里の姿を目で追った。
    父「志桜里、お昼どうする?」
    志桜里「食べたくない」
    父「最近、食欲ないみたいだけど、大丈夫か?」
    志桜里「……大丈夫」
    拒絶するようなその声に、隼の胸の奥がざわつく。
    ただ黙って、スープを飲み干した。
    店を出ると、悠太が振り返った。
    悠太「隼、これからどうする?」
    隼「母さんの実家の店に寄ってから帰る」
    悠太「実家って、何か商売してるの?」
    隼「和菓子屋。“三津屋”っていう店」
    悠太「知ってる! グリーンソフト売ってるとこだろ?」
    隼「知ってるんだ。今、祖父さんが腰痛めてるから、母さんが手伝いに行ってるんだ」
    悠太「そっか」
    しばらく二人は、左右の商店街を眺めながら歩いた。
    悠太「また食べに行こうな。じゃあな!」
    そう言って悠太は自転車にまたがり、前を向いたまま手を振って走り去っていった。
    隼も小さく手を振り返す。
    隼は、自転車を引きながら、志桜里のことを考えていた。
    店の前に着くと、ガラス戸越しに客と話す母の姿が見えた。
    自転車を止め、店内へ入る。
    母「えっ、どうしたの?」
    隼「何もないよ。ラーメン食べてきた」
    奥から叔母がグリーンソフトを籠に入れて現れた。
    叔母「隼ちゃん、久しぶりね」
    隼「はい」
    叔母はにこにこしながら冷凍庫へ商品を入れる。
    叔母「お母さんに用事?」
    隼「いや、そこのラーメン屋に友達と行ってたから」
    叔母「成華楼さん?」
    隼「そう」
    叔母「美味しいよね。何食べたの?」
    隼「ラーメン」
    叔母「餃子は?」
    隼「メニューになかったと思うけど」
    叔母「そうなんだ。成華楼の餃子、美味しいのにね」
    その時、母の「ありがとうございました」という声が聞こえ、客が店を出ていった。
    叔母も頭を下げる。
    叔母「ありがとうございました」
    母「誰と行ってきたの?」
    隼「悠太」
    母「そう。悠太君と二人で行ってきたのね。お母さんも久しぶりに食べたいな」
    叔母「でも、もう餃子はないみたいね」
    母「えっ、どうして?」
    叔母「奥さんが亡くなったからじゃない?」
    母「そうなのかな。ご主人、“妻の手作り餃子です”って笑って出してたものね。
    奥さんが亡くなった今、メニューから外したのかもしれないわね」
    叔母「お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと四人で食べに行ってた頃が懐かしいね」
    母「うん……」
    二人は少し寂しそうに目を伏せた。
    隼「母さん、帰る。洗濯物、取り込んでおくから」
    母「ありがとう。六時には帰れると思うから」
    母が帰宅した頃、隼は洗濯物を畳んでいた。
    母「隼、後でお母さんやるから、そのままでいいのよ」
    隼「畳んでしまうよ。……母さん、志桜里のお母さんって、どうして亡くなったの」
    母「……調理場で倒れたの」
    母はそこで一度、言葉を切った。
    母「志桜里さん、最初は気づかなかったみたいで……」
    隼は黙って耳を傾ける。
    母「私はご主人から直接聞いたわけじゃないけど、お祖父ちゃんが話してくれたの。
    今から三年前の夏。志桜里さんが中学三年生の頃だったみたい」
    母は畳んでいたタオルを静かに置き、少し遠くを見るような目をした。
    母「その日、ご主人は仕入れに出ていて、弟の直輝君もサッカーの練習で家にいなかった。
    家には、お母さんと志桜里さんの二人だけだったの」
    「志桜里さんは二階で受験勉強をしていたんだって。
    その時、一階から“ドスン”って音がしたらしいの。でも、お母さんが調理場で仕事をしてる音だと思ったみたいで……」
    隼は何も言わず、母の声だけを聞いていた。
    母「でも、胸騒ぎがして下へ降りたら、お母さんが倒れていて……」
    母の声がわずかに掠れる。
    母「“お母さん、お母さん”って呼んでも返事がなくて。すぐに救急車を呼んだみたい。でも……病院へ運ばれても、意識は戻らなかったって」
    リビングに沈黙が落ちた。
    母「お祖父ちゃん、ご主人に“あんたが悪いんじゃない”って何度も言ったみたい。
    “奥さんも、子どもたちを残していくなんて本当は悔しかったと思う。だから、自分を責めるな”って……」
    母は静かに視線を落とした。
    母「“何かあったら、同じ商店街の人間として力になるから”とも伝えたって言ってたわ」
    母から聞いた志桜里の過去は、隼の想像をはるかに超えていた。
    屋上で出会った時の、あの刺すような目を思い出す。
    苛立った言葉も、冷たい態度も、今は悲しみに耐え続けている姿にしか見えなかった。
    (あの時の、“ドスン”って音が……)
    志桜里が抱えているのは、単なる悲しみではない。
    ――なぜ、あの時すぐに下へ降りなかったのか。
    その答えのない自責の念が、今も彼女を暗闇の中へ閉じ込め続けているのかもしれなかった。
    誰に言うでもなく呟き、隼は歩き出した。みんなにとっては待望の「夏休み」だが、部活を捨てた自分にとっては、自分がどこで何を信じて立てばいいのかを探し続ける、孤独な季節の始まりだった。
    悠太「ここだよ。成華楼っていうんだ」
    商店街のアーケードの片隅。悠太に連れられて暖簾をくぐると、そこには意外な顔があった。
    志桜里「……何にします」
    注文を取りに来たのは、屋上で出会ったあの女子生徒、志桜里だった。
    隼が思わず「あっ」と声を漏らしても、彼女は一瞥(いちべつ)もくれず、無表情に伝票へペンを走らせる。
    「醤油二つ」 悠太が注文すると、志桜里は厨房へ背を向けた。
    その不愛想な態度に、隼は思わず溜息を吐く。
    悠太「……隼、あの子知ってるのか?」
    悠太が声を潜めて聞いてきた。志桜里とは中学が同じだったという。
    悠太「彼女、お母さんが亡くなってからしばらく学校を休んでたんだ。店が再開してからは、土日はずっと手伝ってるみたいだけど……」
    運ばれてきたラーメンをすすりながら、隼は厨房で忙しく動く店主と、黙々と丼を片付ける志桜里の姿を追った。
    父「志桜里、お昼どうする?」
    志桜里「食べたくない」と短く答える。
    父「最近、食欲ないみたいだけど大丈夫か?」
    「……大丈夫」 その拒絶するような声に、隼は胸の奥がざわつくのを感じ、ただ黙ってスープを飲み干した。
    店を出ると悠太が
    悠太「隼、これからどうする」
    隼「母さんの実家の店に寄ってから帰るよ」
    悠太「実家って何か商売してるの」
    隼「和菓子屋」
    悠太「この商店街にあるの」
    隼「三津屋(みつや)という店」
    悠太「知ってる、グリーンソフトの店だろ」
    隼「知ってるんだ、今、祖父さんが腰を痛めているから母さんが手伝いに行っているんだ」
    悠太「そうか」
    しばらく二人は左右の商店街をみて歩いていた。
    悠太「また食べに行こうな、またな」
    そう言って悠太は自転車にまたがると前を向いたまま手を振って走って行った。
    隼も手を振り返した。
    隼は、ゆっくりと自転車を引きながら志桜里のことを考えていた。
    店の前に着くとガラス戸越しにお客さんと話している母親の姿が見えた。
    自転車を店の前に置いて店内に入っていった。
    母親は隼を見て驚いた顔をして
    母「えっ、何かあったの」 
    隼「何もないよ、ラーメン食べてきた」
    奥から叔母さんがグリーンソフトをかごに入れて出てきた。
    叔母「隼ちゃん、久しぶりね」
    隼「はい」

    叔母さんはニコニコしなが冷凍庫にグリーンソフトを入れながら 
    叔母「お母さんに用事があったの」
    隼「いや、そこのラーメン屋に友達と来たから」
    叔母「成華楼さん」
    隼「そう」
    叔母「美味しいよね、何食べたの」
    隼「ラーメンだけど」
    叔母「餃子は」 
    隼「メニューに無かったと思うけど」
    叔母「そうなんだ、成華楼の餃子は美味しいのにね」

    母「ありがとうございました」
    お母さんの声が聞こえ、お客さんが店を出ていった。
    叔母さんも
    「ありがとうございました」と頭を下げた。
    母「誰と行ってきたの」 
    隼「悠太」 
    母「そう悠太君と二人で行ってきたの、お母さんも行きたいな」
    叔母さんは
    「もう餃子はないみたいね」 
    母「えっ、どうして」
    叔母「奥さんが亡くなったからじゃないの」
    母「そうなのかな、ご主人は妻の手作り餃子と言って笑ってお客さんに出していたから、奥さんが亡くなった今、メニューから外されたのかもね」
    叔母「お父さんとお母さんとお姉ちゃんと四人で食べに行っていた頃が懐かしいね」
    母「うん」
    二人は寂しそうに下を向いた。
    隼「母さん帰る、洗濯物を取り込んでおくから」
    母「ありがとう。六時には帰れると思うから」

    母親が帰宅すると隼は、洗濯物を畳んでいた。
    母「隼、後からお母さんやるから、そのままにしておいていいわよ」
    隼「畳んでしまうよ、お母さん、志桜里のお母さんどうして亡くなったの」
    母「……調理場で倒れたの」
    母はそこで一度、言葉を切った。
    「志桜里さん、最初は気づかなかったみたいで……」
    母「うん・・・私はご主人から直接聞いていないけど、お祖父さんが話してくれたの」

    母は畳んでいたタオルを静かに置き、少し遠くを見るような目をした。

    「今から三年前の夏。ちょうど志桜里さんが中学三年生の頃だったみたい。ご主人は仕入れに出ていて、弟の直輝君もサッカーの練習で家にいなかったの」

    「その日、家にはお母さんと志桜里さんの二人だけで……志桜里さんは二階で受験勉強をしていたんだって」

    母はそこで小さく息をついた。

    「その時、一階から“ドスン”って音がしたらしいの。でも、お母さんが調理場で仕事をしてる時の音だと思ったみたいで……」

    隼は黙ったまま、母の声に耳を傾けていた。

    「だけど、胸騒ぎがして下に降りたら、お母さんが倒れていて……」

    母の声が少し掠れた。

    「“お母さん、お母さん”って呼んでも、返事がなくて。すぐに救急車を呼んだみたい。でも……病院に運ばれても、意識は戻らなかったって」

    リビングに沈黙が落ちた。

    母「お祖父ちゃん、ご主人に“あんたが悪いんじゃない”って何度も言ったみたい。“奥さんも、子どもたちを残していくなんて本当は悔しかったと思う。だから、自分を責めるな”って……」

    母は静かに視線を落とした。

    「“何かあったら、同じ商店街の人間として力になるから”とも伝えたって言ってたわ」

    母から聞いた志桜里の過去は、隼の想像を絶するものだった。
    隼は、屋上で出会った志桜里の顔を思い出した。
    苛立った言葉とさげすむ様な目つきが、今は志桜里の悲しみに耐えている姿と様に思えた。
    (あの時の、あの音が……) 志桜里が抱えているのは、単なる悲しみではない。「なぜあの時すぐに降りていかなかったのか」という、出口のない自責の念なのかもしれない。
     
    翌日、早朝に起きた隼は「お母さん、散歩に行ってくる」
    母「暑くて寝れなかったの?」
    隼「うん、まぁ・・・」
    母「お母さん、実家の手伝いに行くから家の鍵持って出かけてくれる」
    隼「うん、お父さんは」
    母「もう出かけたわよ、夏は1時間くらい早く始めて、1時間早く終わるようにしたと言ってたわ」
    隼「夏時間だね」 
    母「そうね」
    隼「じゃぁ、行ってきます」
    母「気を付けてね」

    時計を見ると午前7時、自転車に乗って出かけた。
    今は、漕ぐことで頭の中を真っ白にしたいと思った。洗い流してくれる。
    自分の将来、退部で部員に与えてしまったもの、いろいろな複雑なものを、スピードと風によって背後へ置き去りにしたかった。
    湿気が光を反射し、木々の緑や信号機の赤が、いつもより彩度高く鮮やかに見えた。
    前方に、女性の後ろ姿が見えた。その女性は道の右側のお寺に入っていった。
    隼「あっ、あの横顔は・・・志桜里さん」
    隼は自転車を止めてお寺の門の前に立ち一瞬入ろうとしたが、すぐに心の声がした。
    「お前が入っていって、志桜里にどう話しかけるんだ」

    心の声に足止めされ、隼は逃げるようにペダルを漕いだ。 彼女の聖域(母との場所)を盗み見てしまったような罪悪感。そして、何より怖かったのは、あの中に入っていけば、彼女の「底知れない孤独」に自分まで飲み込まれてしまうのではないかという恐怖だった。
    ハッと思った瞬間、自転車のペダルを思いっきり踏みこんで、その場を早く立ち去ろうとした。
    心臓の鼓動が激しく音を立てる、志桜里の顔が浮かんでくる、
    隼は、その場を早く去ろうと自転車をこぎながら、心の中の雄叫びを聞いていた。
    家に着くと直ぐに浴室に向かいシャワーで頭から水を流した。
    流し終えるとリビングのダイニングテーブルに座り、濡れた髪の毛をタオルで拭いた。
    冷蔵庫を開け母親が用意してくれた野菜サラダを取り出した。
    トマトの赤、コーンの黄色、そしてキュウリの緑を涼しく感じながら、トースターに食パンを入れると、インスタントのコンソメスープをつくった。
    むしゃぶりつくたびに、噛みしめる音がやけに大きく響いた。飲み込むたび、何かを押し流しているようだった。食事を終えると、食器を洗い2階の自分の部屋に行った。
    ベットに寝ころんでも、母から聞いた志桜里の母親の死と、お寺の門をくぐる姿が重なり、胸が苦しくなった。
    寝返りを繰り返しても、浮かんでくるのは志桜里の悲しむ顔。
    隼は気疲れもあったのか、そのまま眠っていった。

    翌週の月曜日。
    隼は、志桜里の父に呼び出され、駅前の喫茶店にいた。運ばれてきたソーダ水の泡が弾けるのを、二人は無言で見つめていた。
    志桜里の父「隼君、悪いね……急に」 父の声は、掠れていた。

    志桜里の父「志桜里のアルバムが……ゴミ袋に入っていたんだ」

    その言葉に、隼は息を呑んだ。

    志桜里の父「私や弟の写真を剥がした跡があって、志桜里が一人で写っているものと、母親と映っているものだけが捨てられていた。まるで……自分の形跡を、この世から消そうとしているみたいで」

    お父さんは震える手でアイスコーヒーのグラスを握りしめ、涙を浮かべた。
    志桜里の父「弟の話では、志桜里、自分を傷つけるようなこともあったらしい。私は……店を閉めて、家族団欒の時間を作ればいいと思っていた。でも、形ばかりの『団欒』にこだわって、あの子の心の叫びを見落としていたのかもしれない」

    父親の言葉が、隼の胸に突き刺さる。

    志桜里の父「母親には……私にはなれない。隼君、助けてくれないか。あの子を、死なせたくないんだ」

    目の前で崩れ落ちそうな大人を前に、隼は言葉を失った。 自分だって、自分のことで精一杯だ。部活をやめ、将来の道も見えず、ただ立ち止まっているだけの未熟な高校生に、何ができるというのか。 けれど、あのお寺の門をくぐっていく志桜里の孤独な後ろ姿が、頭から離れない。

    隼「……少し、考えさせてください。悠太とも相談してみます」
    そう答えるのが精一杯だった。

    喫茶店を出ると、外はまたあの「勿忘草の空」が広がっていた。 冷たく、どこまでも透き通った青。 その下で、一人の少女が自分自身の命を削り取ろうとしている。 隼は自転車のハンドルを強く握りしめ、熱を帯びた風の中へと漕ぎ出した。
    お父さんからの重すぎる頼みを受け、隼はすぐさま悠太に電話をかけた。だが、親友は合宿と遠征の真っ只中。再会できるのは八月の後半になるという。
    隼は焦っていた。志桜里との出会いは最悪だったし、正直に言えば今でも関わりたくない。けれど、あのアルバムの話を聞いてしまった以上、見て見ぬふりはできなかった。もう一度かけた電話で、隼は藁をも掴む思いで尋ねた。
    隼「……なぁ、志桜里の友達、誰か知らないか?」
    悠太「友達か……。あの拒絶っぷりじゃ同じ高校にはいないけど、中学時代の親友なら知ってるよ。早川夏帆(はやかわなつほ)って子だ」

    翌日の午後。悠太から聞いた情報を頼りに、隼は屋外テラスで早川夏帆と待ち合わせた。
    夏帆「隼さんの試合、応援席から見ていました」
    夏帆の弟がサッカー部の後輩だった縁もあり、初対面の緊張は少しだけ和らいだ。しかし、志桜里の話になると、夏帆の表情は一転して曇った。

    夏帆「志桜里ちゃんとは、本当になんでも話せる親友だったんです。でも、お母様が亡くなってからは……。一人にして、というオーラが凄くて、私、踏み込めなかった。そのまま別の高校に進んで、もう二年も会っていません」
    夏帆の言葉に、隼は唇を噛んだ。親友ですら入れなかった彼女の孤独。それを、赤の他人である自分がどうにかできるのだろうか。

    隼「ごめん。やっぱり、直接聞いてみるよ」

    都合の良いきっかけを誰かに作ってもらうのは、逃げだ。 お父さんの、あの震える声に応えるには、自分が傷つく覚悟で正面からぶつかるしかない。隼はそう自分に言い聞かせた。

    翌朝、外は冷たい雨だった。
    「不吉だな……」 本で読んだフレーズが頭をよぎる。
    どんよりした気分で一階へ降りると、早出を控えた父がいた。

    隼「雨かよ、テンション下がるな」

    父「なんだ隼、そんな顔するな。雨は竜神様に守られて幸運の一日になるんだぞ」 父の意外なほど明るい言葉に、隼は小さく吹き出した。

    隼「……なら、いいんだけど」

    六時半。隼はネイビーの傘を差し、寺町へと向かった。
    志桜里が来るのを、物陰に隠れて待つ。
    心臓の鼓動が、雨音よりも大きく耳に響く。 数分後、彼女がやってきた。母の墓に向かって頭を下げる後ろ姿。 (今じゃない。お参りの邪魔はしたくない)
    待っている間に、嘘のように雨が上がった。
    雲の隙間から、鮮やかな青空が顔を出す。けれど隼は、開いたままの傘を閉じることさえ忘れて立ち尽くしていた。
    お寺から出てきた志桜里が、真っ直ぐに歩き出す。隼は慌てて追いかけた。

    隼「おはよう」 声が震えた。
    隼「偶然だね、こんなところで会うなんて」

    志桜里が足を止め、不機嫌そうに振り返った。あの日、屋上で見せたあの「拒絶」の目。 ……けれど、彼女の口から出たのは予想外の言葉だった。

    志桜里「青葉君、だっけ。……もう、雨降ってないけど」

    隼「えっ?」

    見上げれば、雲ひとつない夏空。
    隼「本当だ。……夏の雨は、すぐ止むんだな」

    マ抜けな返事をして傘を閉じる隼に、志桜里は冷ややかに問いかけた。
    志桜里「何か用?」

    隼「……話が、あるんだ。お父さんから、聞かれたことがあって」

    志桜里の眉がぴくりと動いた。
    志桜里「お父さんが? 接点のない青葉君に、何を?」

    隼「俺、同じ商店街にある三津屋の孫なんだ、だから同じ高校に通う生徒は俺か悠太しか知らなかったんじゃないかな、それより、聞かれたのはアルバムのことだよ。……ゴミ袋に捨ててあったアルバムを見つけて、お父さん、理由を直接聞けないからって、俺のところに来たんだ。必死だったんだよ」

    立ち話で済ませられる内容ではない。志桜里は一瞬、苦しげに視線を泳がせたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
    志桜里「……今は店の手伝いがあるから。手短に話せないなら、別の日にして」
    隼「いいよ。来週の月曜日、店が休みの日に会えないか?」

    志桜里「わかった。……いいけど」

    隼が立ち去ろうとしたとき、志桜里が「ちょっと」と呼び止めた。
    志桜里「場所も時間も決まってないじゃない」

    隼「あ、……そうか。携帯の番号、教えるよ」
    初めて交換した連絡先。 液晶の中に並んだ彼女の番号を見つめながら、隼は不思議な充足感を感じていた。「お父さんの気持ちを思うなら、逃げちゃいけない」 そう確信した隼の背中を、雨上がりの光が強く照らしていた。

    隼「父さんの言う通りになった、竜神様のおかげだ」

    翌週の月曜日。
    隼は父の言葉を胸に、待ち合わせ場所の公園へ向かった。 人影のまばらな昼下がり。志桜里は、子供の頃によく来たというブランコに座り、小さく膝を曲げて、振り子のように揺れていた。

    隼「……忙しいと思うから、用件を早く済ませるわ」

    隼の姿を認めても、志桜里は立ち上がろうとしなかった。視線を地面に落としたまま、その声にはあの時と同じトゲがある。

    志桜里「忙しくないけど、聞くわ」

    隼は意を決して、切り出した。
    隼「お父さんが、ゴミ袋に捨てられたアルバムを見つけたんだ。……理由を聞きたいけど、怖くて直接は聞けないって、頼まれた」

    志桜里の身体が、一瞬だけ硬直した。
    志桜里「どうして……直接聞かないのかな」

    隼「聞けるような雰囲気じゃなかったんだろ。志桜里さんが自分を傷つけていたことも……お父さんは知ってるんだ」

    志桜里の表情が強張った。
    志桜里「直輝のやつ……」

    隼「直輝君もお父さんも、怖かったんだよ。アルバムを捨てたのは、あんたが……その、最悪のことを考えてるからじゃないかって。自分を消そうとしてるんじゃないかって」

    志桜里「……何よ、それ」
    志桜里は吐き捨てるように言った。
    志桜里「どう思われようと、理由を言うつもりはないわ」

    二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。隼は、彼女の頑なな態度に苛立ちが募った。
    隼「いいか! 大切な思い出を捨てるなんて、死ぬ準備をしてると思われても仕方ないだろ。はっきりしろよ、あんた、何を考えてるんだ!」
    隼の叫びに、志桜里はゆっくりと顔を上げた。
    その瞳に、初めて微かな震えが宿る。
    志桜里「……青葉君。アイデンティティって、わかる?」
    唐突な問いに、隼は戸惑った。
    隼「よくわからない。……俺は、自分のことさえ考えられなくなって、部活をやめたような人間だからな」

    志桜里「部活、やめたの?」

    隼「休部扱いにされたけど……そんなの今はどうでもいい。理由を聞かせてくれよ」
    志桜里は、止まったブランコの鎖をぎゅっと握りしめた。
    志桜里「……身辺整理に見えたのかもしれないね。でも、あれは自己処罰だったの」
    隼「自己処罰?」
    志桜里「母がいなくなった世界で、自分だけが生きていていいはずがないって思った。あの時、すぐに下に降りていれば……って。だから、心の痛みを肉体に置き換えて、許してもらおうとした。……でも、もうやらない。あの時の手の震えは、まだ覚えてるから。もう、できないよ」

    彼女の告白に、隼は言葉を失った。痛々しいほどの自責の念。

    志桜里「アルバムを捨てたのはね、母との写真を見ていると、いつまでも過去に縛られてしまうから。写真に頼らない人生を歩もうと思ったの。お母さんを悲しませないために、前を向くために……もう見ないでおこうって、捨てたの」
    隼「……でも、捨てなくてもいいんじゃないか」
    隼の声は、いつの間にか穏やかになっていた。

    志桜里「確かにね。……お父さんに言って、返してもらうわ。いつか、笑って開ける時が来るまで、しまっておくことにする」
    隼「それがいいと思う」

    二人の間に流れる風が、少しだけ涼しく感じられた。

    志桜里「ありがとう、青葉君」
    志桜里が、初めて掠れた声で礼を言った。
    隼「……そういえば、早川夏帆さんが心配してたぞ」
    志桜里「えっ、夏帆のこと知ってるの?」
    隼「君に会うために、俺が探し出したんだ。あの子も、ずっとあんたを気に掛けてた」
    志桜里の瞳に、温かな光が灯る。
    志桜里「……そうだったの。連絡、取ってみるわ」
    立ち上がった志桜里は、最後にもう一度隼を見た。

    志桜里「青葉君、退部届……どうするの?」
    隼「……まだ、わからない」
    志桜里「私も、これからどうしたいのか、まだわからない。……でも、今日は少しだけ、呼吸が楽になった気がする」

    隼は、去りゆく志桜里の背中を見送った。
    勿忘草の空の下、彼女の止まっていた時間は、今、ゆっくりと動き出したのかもしれない。

    数日後、隼の携帯が震えた。志桜里の父親からだった。
    志桜里の父「隼君、……志桜里が、入院したんだ」
    その震える声を聞いた瞬間、隼の心は激しくざわめいた。
    理由を尋ねる間も惜しみ、病院へ自転車を走らせる。受付で部屋番号を聞くと、エレベーターを待つ時間さえもどかしく、階段を三階まで駆け上がった。
    病室のドアにある『浜本志桜里』のネームプレートを確認し、息を整えてノックする。
    中から出てきた父親の顔は、数日で何年も老け込んだように見えた。
    志桜里の父「心配かけて、ごめんよ」
    隼「志桜里さんは……」
    志桜里の父「今は寝ている。……少し、いいかな」

    廊下の隅で、志桜里の父は震える手の中のものを隼に見せた。
    銀色の包装だけが、無残に折れ曲がっていた。

    隼「これ……何ですか?」

    志桜里の父「直輝が、志桜里の部屋でこれを見つけて……すぐに私を呼んだんだ。幸い、発見が早かったことで、大事には至らなかった」
    父親の表情が、苦痛に歪む。

    志桜里の父「あと一歩、遅かったら……そう思うと、足が震えて……」
    隼はその場に崩れ落ち、背中を丸めて膝に額を押し当てた。
    銀色のシートの、鋭い角が目に焼き付いて離れない。
    あの中に並んでいた白い粒が、志桜里の命を奪おうとした。その事実が、冷たい刃のように隼の心を引き裂いた。
    父親の言葉が途切れる。
    隼はその場に崩れ落ち、膝に額を押し当てた。

    志桜里の父「隼君、ごめんな。私が直接、娘と向き合えばよかったんだ。父親として、逃げてしまった」
    隼「わかりません……。俺が余計なことを言ったからかもしれない。俺、何もわかってなかった……」

    そこへ看護師が様子を見に現れ、父親と共に病室へ入っていった。
    (俺にできることなんて、何もない……) 立ち去ろうとした隼の背中に、父親の声が届いた。
    志桜里の父「隼君。……志桜里が、話をしたいって。会ってやってくれないか」
    案内された病室で、志桜里は蒼白な顔で横たわっていた。隼の姿を見ると、その大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
    志桜里「ごめん、青葉君。……ごめん」
    隼「いいから、もう。謝らなくていいから」
    志桜里は肩を震わせ、声を絞り出した。
    志桜里「……やり直そうとしたの。でも、一人になると、底のない闇の中に引きずり込まれてしまうの。そうすると、心も体もふっと軽くなって……私、光の中にいるより、暗い方が……楽なの」

    隼は彼女の手を握りしめたい衝動を堪え、真っ直ぐに志桜里を見つめた。
    隼「暗闇は優しいかもしれない。誰にも見られないし、傷つかなくて済むから。……でも、それじゃ、お母さんが志桜里さんを産んで、大切に育ててくれた時間まで、全部消してしまうことになるよ。志桜里さんのお母さんは、きっと“生きてほしい”って思ってたんじゃないかな」

    隼は一度言葉を切り、自分に言い聞かせるように続けた。

    隼「俺も、まだ何も分かってない。でも……一人で暗い方ばかり見てると、本当にそこしか見えなくなる気がするんだ。もしよかったらさ。これから先、少しずつでもいいから、一緒に前を向いてみないか」
    志桜里は、溢れる涙を拭おうともせず、ベッドの上で小さく、けれど確かに頷いた。
    カーテンの隙間から差し込む夏の光が、白いシーツの上に静かに揺れていた。
     
    八月。
    街は盆供養の花火大会に包まれた。
    隼の家の近くの堤防には、いつの間にか巨大な観客席のような人混みが出来上がっていた。
    「あそこ、空いてるわよ」 母の案内で、隼、父、母の三人は堤防の傾斜に腰を下ろした。
    午後七時半。号砲が夜空を震わせ、最初の一発が闇を切り裂いた。
    父「始まるな」
    父が嬉しそうに夜空を仰ぐ。大輪の花が咲き、一瞬の静寂の後に重低音が腹に響く。 花火が消えるたびに訪れる、一瞬の闇。隼はその闇の中で、花火ではなく、光に照らし出される人々の顔を見ていた。
    「あ……」 まばゆい閃光が夜空を埋め尽くした瞬間、少し離れた場所に、志桜里の横顔を見つけた。
    再び闇が戻り、次の光が弾ける。

    隼「やっぱり、志桜里さんだ」

    彼女は両手を胸の前で合わせ、祈るように空を見上げていた。 光が弾けるたびに、彼女の瞳がキラリと輝く。それは夜空の光を反射しているのか、それとも、頬を伝う涙が光っているのか。

    「……きれいだ」 思わず呟いた言葉は、花火の轟音にかき消された。
    ドン、と響く音は、まるで悲しみを鎮める鐘の音のようにも聞こえる。華やかな光景の裏側で、隼の心には静かな、けれど温かい喪失感が広がっていた。
    隼「母さん、……混む前に、帰ろうか」
    父「そうね。冷たいビールが待ってるしな」
    父も立ち上がり、三人は並んで堤防を降りた。 背後ではまだ花火の音が続いていたが、空には白く濁った煙が、勿忘草色の夜風に流されていた。

    自室に戻り、ベッドに倒れ込んだ隼のまぶたの裏には、あの光に照らされた志桜里の横顔が焼き付いていた。 胸の奥がじんと熱くなる。
    隼「……なんで、こんな気持ちになるんだ」
    誰にも届かない声で呟き、隼は深い眠りに落ちた。 窓の外では、最後の花火の残り香が、まだ静かに漂っていた。
    隼は、あの傷は、きっと消えない。それでも志桜里は、さっき確かに花火を見上げていた。隼はその横顔を、何度も思い返していた。
    「悲しいままでいい、無理に笑わなくてもいい」
    そんな沈黙の肯定が、いつか彼女の重荷を数ミリでも浮かせることができればと、隼は願っていた。
     
    翌日、隼が職員室の前に居た。
    英語の八木先生が通りかかる。
    八木「あら、青葉君。おはよう。……どうしたの、職員室の入り口で固まって」
    隼「あ、八木先生。おはようございます。……吉川先生、いらっしゃいますか?」
    八木「(ニヤリとして)吉川先生? ええ、奥の席にいるわよ。……もしかして、いい報告?」
    隼「……まあ、はい。自分なりに、決めたので」
    八木「そう。よし、入っちゃいなさい!」
    八木先生に背中を押されるように、隼は職員室へ足を踏み入れる。

    吉川「(書類から目を上げず)……朝から熱心だな。誰だ?」
    隼「吉川先生。……おはようございます」
    吉川「(顔を上げ、メガネをずらす)青葉か。どうした、その顔。何か吹っ切れたようなツラして」
    隼「……すみませんでした」
    吉川「何がだ」
    隼「休部なんて、中途半端なことして。……先生、今日から部に戻ってもいいですか」
    吉川「(鼻で笑い)戻る? 何を言ってる。お前は一度も辞めてないだろ」
    隼「えっ」
    吉川「休部届は俺の引き出しの奥で眠ってる。今日から練習を再開します、でいいんだよ。……それとも、選手権予選までベンチで腐ってるつもりか?」
    隼「……いいえ! すぐにコンディション戻します!」
    吉川「よし。行け。漣が校庭で待ってるぞ」

    隼は漣のクラスへ向かう。入り口で漣を呼び出す。
    漣「隼! お前……その顔、マジか?」
    隼「今日から戻るよ。……迷惑かけた」
    漣「バカ言うな! むしろ遅えよ。お前がいない間、あの中島がどんだけお前の悪口言ってたか知ってるか?」
    隼「(苦笑)中島なら言いそうだな。『青葉先輩、逃げたんですか』とか何とか」
    漣「正解。あいつ、寂しかったんだよ。……で、昼休みどうする? いきなり走るか?」
    隼「ボール、借りたいんだ。足首の感覚を取り戻したい」
    漣「(部室の鍵を投げ渡す)了解。鍵、開けといてやるから勝手に使えよ」
    隼が一人、リフティングをしている。何度もボールを落とし、ため息をつく。
    隼「くそっ……足首、固すぎだろ。……集中しろ、集中……」

    そこへ、渡り廊下から降りてきた中島陽翔が声をかける。
    陽翔「……あーあ。下手くそになってますね、青葉先輩」
    隼「(ボールを拾い上げ)……中島か。見てたのかよ」
    陽翔「見てましたよ。地面とリフティングしてるのかと思いました」
    隼「言うようになったな。……悪かったよ、黙って休んで」
    陽翔「謝るなら、選手権でパス一本ください。それだけで許してあげますから」
    隼「……一本じゃ足りないだろ」
    陽翔「ええ。十本はお願いします。……おかえりなさい、先輩」

    志桜里が一人、隼の様子をじっと見つめている。
    悠太「志桜里、何見て笑ってるんだ」
    志桜里「(慌てて顔を伏せる)笑ってないわよ。……ただ、少しだけ、眩しいなと思っただけ」
    悠太「眩しいね。……おまえも、あっち側に行けよ」
    志桜里「(隼の姿を追いながら)……私には、まだ無理。でも……」
    悠太「でも?」
    志桜里「……あのボールの音を聞いてると、少しだけ、胸がうるさくなる」
    志桜里の小さな独り言は、秋を待つ風に溶けていった。

     翌朝、まだ薄暗いキッチンに、スポーツバッグを抱えた隼が降りてくる。
    母「……隼? 早いじゃない。……えっ、制服は?」
    隼「(バッグを肩にかけ直し)学校で着替えるよ」
    母「どうして? 今日はテストじゃないでしょ」
    隼「……サッカー部、戻ったんだ」
    母「(動きを止める)えっ? ……聞いてないわよ、そんな話」
    隼「……昨日、決めたから」
    母「もう、水臭いんだから。昨日のうちに言ってくれれば、おにぎりくらい作っておいたのに。今、パン焼こうと思ってたのよ」
    隼「いいよ、購買で買うから。……明日からは、朝ごはんにおにぎりお願いしていい? 練習してから授業に出るから」
    母「(慌てて炊飯器を開ける)ダメよ、購買なんて! 今すぐ握るから待ってなさい。夏は傷みやすいから、お昼までもたないわよ。今、ここで食べちゃいなさい」
    母が熱いご飯を手で転がしながら、塩を振る。湯気が台所に広がる。
    母「……お父さんには、言ったの?」
    隼「……後でいいよ。顔合わせると、また何か言われそうだし」
    母「ふふ、お父さん、きっと喜ぶわよ。はい、出来た。熱いから気をつけて」
    登校した隼は、左手におにぎりを持ち、器用にリフティングをしながら校庭へ向かう。
    「先輩! 青葉先輩!」
    背後からの大きな声に、隼はリフティングを続けながら、くるりと後ろを向く。
    陽翔「……器用っすね。おにぎり食べながらリフティングなんて、サーカスっすか?」
    隼「(おにぎりを口に放り込み)……陽翔か。早いな、お前も」
    陽翔「当たり前ですよ。先輩がサボってる間、僕は毎日ここに来てましたからね」
    隼「サボってたわけじゃないよ。……まあ、ブランクは認めるけど。動ける体に戻すまで、時間はかかりそうだ」
    陽翔「(隼の足元をジッと見て)……一週間っすね。一週間で戻さなきゃ、レギュラー奪いますよ。僕、本気っすから」
    隼「(不敵に笑い)……いいぜ。奪えるもんなら、やってみろ」
    隼が校庭の真ん中へ出ると、すでに練習着に着替えた漣が待っていた。
    漣「遅いぞ、隼! おにぎり食ってる暇があったら一歩でも走れ」
    隼「……おにぎりはエネルギーだろ。今、陽翔にレギュラー奪うって宣言されたところだよ」
    漣「あはは! 中島のやつ、生意気だな。……おい、隼。ドリブルで校庭の端まで競争だ。負けた方は部室の掃除、一週間な」
    隼「望むところだ。……ハンデはいらないぞ」 漣「言うねえ。……いいか、よーい、スタート!」
    二人の蹴るボールの音が、静かな朝の校庭に「ドン、ドン」と小気味よく響き渡る。
    登校してきた志桜里は、昇降口へ向かう足を止め、フェンス越しに二人を見つめていた。
    志桜里「(独り言のように)ほんと、よくあんなに走れるよね」
    彼女の瞳には、飛び散る汗と、朝日を浴びて輝く芝生の緑が映っている。
    志桜里「……でも」
    二人がボールを追って全力で走る姿に、志桜里の指先がかすかに動く。まるで、自分の手の中にある「何か」を確かめるように。 胸の奥が、トクン、と熱くなる。 それは、長い間忘れていた「衝動」だった。

    志桜里「……私、……何をやってるんだろう」

    周囲の生徒たちが校舎へ吸い込まれていく中、彼女だけがしばらく、その熱量から目を離すことができなかった。

    【月曜日・2年A組の教室】
    休み時間。男子たちが新聞の切り抜きを囲んで騒いでいる。志桜里は自分の席で教科書を広げているが、耳は自然と彼らの声に向けられていた。
    男子A「見ろよこれ! 隼のシュート、写真載ってるぞ!」
    男子B「ベスト16の壁、あっさり突破かよ。やっぱあいつが戻ると空気変わるな」
    男子C「漣が言ってたぜ。隼が戻った日の練習、あいつ一人で居残りして足の皮むけるまで走り込んでたって。執念だよな」
    男子A「土日の予選、俺は全部行くわ。あいつらと同じ小学校から数えて何試合見てきたか。最後くらい、全国行くの見届けたいしな」
    志桜里(……最後) 小さく呟く。教科書の文字が霞む。
    志桜里(……私も、見たい)
    心の中で芽生えた小さな願いが、胸の奥で静かに輪郭を持ち始めていた。

    【成華楼・厨房】
    夕食時。店を切り盛りする父の背中に、志桜里がおずおずと声をかける。
    志桜里「お父さん。……ちょっと、相談があるんだけど」
    父「ん? なんだ、志桜里。餃子ならもう売り切れだぞ」
    志桜里「違うわよ。……今度の土曜と日曜、店の手伝い、休ませてほしいの」
    父「(手を止める)……休み? どこか行くのか。友達と約束か?」
    志桜里「……友達じゃないけど。行かなきゃいけない場所があって」
    直輝「(横から顔を出して)お父さん! お姉ちゃんの代わりに僕が手伝うよ!」
    志桜里「直輝、あんた受験生でしょ」
    直輝「いいんだよ。お姉ちゃん、最近ずっと暗い顔してたし。……行ってきなよ。隼さんの試合でしょ?」
    志桜里「(顔を赤くして)……なんで、わかるのよ」
    父「(笑いながら)直輝、お前は余計なことを言うな。……志桜里、いいぞ。店の方は気にせず行ってこい。俺とお前、二人で店を回してた時より、直輝がいる今の方が心強いかもしれないしな」
    直輝「うん」
    志桜里「……ありがとう。直輝も、お父さんも」
    【球戯場・スタンド入口】
    土曜日。通路に響く「ゴー、ゴー、青葉!」のコール。志桜里は深くキャップを被り、人の波に逆らうように歩く。
    夏帆「……志桜里? 志桜里ちゃんでしょ!」
    志桜里「(ビクッとして振り返る)……夏帆」
    夏帆「やっぱり! 隼君の応援? 凄いよね、今ベスト16が決まる大事な場面なんだって」
    志桜里「……まあ、ちょっと見に来ただけ。……すぐ帰るから」
    夏帆「えー、もったいない。私、ルール全然わかんないけど、弟が『隼さんの最後を見なきゃ後悔する』って聞かなくて。……志桜里、一緒にスタンドで……」
    志桜里「……ごめん。私、あっちの端の方でいいから。……またね」
    逃げるように離れた志桜里は、奥まった席に腰を下ろす。周囲は相手校の黄色いメガホンに囲まれている。アウェーの緊張感。 ホイッスルが鳴り、試合が始まる。
    志桜里(走ってる……) ピッチを駆ける隼の姿は、遠目にも躍動していた。
    志桜里(あの日、屋上で死にそうな顔をしてた人と、同じ人とは思えない。……なんで、あんなに一生懸命になれるの)
    後半戦。痛恨の失点。 猛攻も虚しく、タイムアップの笛が響き渡る。
    志桜里「……あ」
    ベンチへ戻る隼。泥だらけのユニフォーム。汗と涙が混じったような顔で、彼は深く頭を下げていた。 その「敗者の背中」を見た瞬間、志桜里の視界が歪んだ。
    止めようとしても、温かいものが次から次へと溢れ出す。
    志桜里(……悔しい。なんで私がこんなに、悔しいの)
    お母さんを亡くして以来、空っぽだったはずの心に、激しい感情が逆流してくる。 誰かに気づかれる前に、彼女は慌ててスタンドを駆け降りた。

    【ロッカールーム】
    静まり返る部屋。吉川先生の落ち着いた声だけが響く。
    吉川「……下を向くな。敗者には何かが足りなかった。それは事実だ。だが、その“何が足りなかったか”という問いを一生抱えて生きろ。それが、お前たちのこれからの武器になる」
    漣「……先生。ありがとうございました」
    隼「……力及ばず、すみませんでした」
    吉川「(隼の肩を叩く)謝るな。お前が戻ってこなければ、俺たちはこの景色を見ることもできなかった。……胸を張れ。お前はこの夏、確かに生きていた」
    隼は震える拳を握りしめ、自分を温かく迎えてくれたこのチームの「熱」を、一生忘れないと誓った。
    【隼の家・リビング】
    玄関のドアを開けると、微かに湿った夜の匂いがした。リビングの明かりの下、母が一人で洗濯物を畳んでいた。
    母「……おかえり、隼。お疲れさま」
    隼「(バッグを床に置き)……ただいま」
    母「予選の一回戦からね、実はお父さんとずっと応援に行ってたのよ。……本当に、感動したわ」
    隼「(驚いて顔を上げる)……え? 父さんも?」
    母「そう。お父さんったら、スタンドの隅っこで拳をぎゅっと握りしめてね。決勝戦には届かなかったけど……試合終了の笛が鳴ったとき、誰よりも先に立ち上がって拍手してたの。隼がピッチを出ていく姿を見て、あの人、泣いてたわ。お母さんも……それ見てたら、つられちゃって」
    隼は立ったまま、言葉を失って母を見つめていた。
    隼「……父さんは? 」
    母「もう自分の部屋に戻ったわ。帰ってきてすぐシャワーを浴びて、冷蔵庫から缶ビールを出して……一気に飲んでた。隼、覚えてる? あなたが三歳のとき、お父さんが初めてサッカーボールを買ってきた日のこと」
    隼「(小さく頷く)……なんとなく、公園の緑を覚えてる」
    母「あの頃は土日になるたび、二人で泥だらけになってボールを蹴ってたわね。それからクラブチーム、中学、高校……。お父さん、仕事が忙しくて試合にはなかなか行けなかったけれど、心の中ではずっとあなたと一緒に走っていたのよ。……きっと今日の笛で、お父さんの中の『応援』も一区切りついたんだと思うわ。隼と一緒に、タイムアップを感じたんじゃないかしら」
    隼は何も言わず、ただ一度だけ深く頷くと、逃げるように浴室へ向かった。
    【浴室・独り】
    頭からシャワーを浴びる。熱い湯が、試合でこびりついた芝生と泥を流していく。 湯船に身体を沈めた瞬間、張り詰めていた糸が音を立てて切れた。
    隼「……っ」
    声が漏れないよう、タオルで口を強く押さえる。 終わった。あんなに苦しくて、あんなに熱かった夏が、本当に終わった。 暗い水面を見つめながら、隼は子供のように泣き続けた。
    【翌朝・登校路】
    夏の終わりを感じさせる、少しだけ乾いた風が吹いている。通学路の曲がり角で、悠太が壁に背を預けて待っていた。
    悠太「よお、おはよう」
    隼「……おはよう」
    悠太「聞いたぜ。ベスト4、大健闘じゃん。学校中その話でもちきりだぞ」
    隼「(少し照れくさそうに)……おう。サンキュ」
    二人は並んで歩き出す。しばらくの沈黙の後、悠太が声を落として切り出した。
    悠太「……あ、そうそう。浜本志桜里のこと、聞いたか?」
    隼「(足を止めずに)……何かあったのか?」
    悠太「あいつ、バスケ部に入るらしいぞ。昨日、自分で入部届出したんだってさ」
    隼「……そうか」
    悠太「中学の時は県でも有名なキャプテンだったんだろ? 今の女子キャプテンの本田がさ、志桜里が辞めた理由を知ってたから、今まで無理に誘えなかったらしいんだ。だから昨日、志桜里が『入部させてほしい』って言いに来た時、本田、泣きそうになりながら歓迎したってさ。一柳も谷口も一緒になって『お帰り!』って大騒ぎだったらしいぞ」
    隼は歩みを止め、空を見上げた。 そこには、あの屋上で見た悲しい色ではない、澄み渡った青が広がっている。
    隼「……よかった。本当に」
    悠太「ああ。あいつのあんなに明るい顔、久しぶりに見た気がするよ」
    隼は表情には出さなかったが、胸の奥で、何かが静かに解けていくのを感じていた。 自分の足掻いた夏が、誰かの止まっていた時間を動かした。
    志桜里が、彼女自身の「光」を取り戻せるなら。 あの「銀色のシート」の夜も、敗戦の悔しさも、すべてに意味があったのだと確信できた。
    志桜里と本田(バスケ部主将)の再会
    放課後の体育館の扉。
    志桜里「……今日は暑くて、屋上には行けないな」
    そうつぶやいて、志桜里は校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の影に腰を下ろした。
    風が通り抜け、少しだけ心地よい。
    ペットボトルの水を口に含みながら、ぼんやりとグラウンドの方を見た。
    「……あの人」
    志桜里は思わず立ち上がった。
    太陽の光の中で汗をにじませながら、何度も何度も同じ動きを繰り返す。
    誰もいない昼休みの校庭に、
    ボールを受け止める乾いた音と、靴底の砂を蹴る音が響く。
    「青葉君、あんなに泣いてたのに……」
    志桜里の胸の奥がざわつく。
    手に持ったペットボトルの冷たさが急に遠く感じた。
    ボールが宙を舞い、トラップ、ターン、シュート。
    どれも丁寧で、より高いレベルへの挑戦のように見えた。
    志桜里は渡り廊下の柱の陰に身を寄せ、その姿から目を離せなくなっていた。
    志桜里は、ふと視線を横に向けた。
    体育館の扉が少しだけ開いていて、その隙間から中の薄暗い床が見えた。
    目を凝らすと、バスケットボールが一つ、ぽつんと転がっていた。
    ――誰もいない。
    気づけば、志桜里は立ち上がっていた。
    扉を開いて中に入ると、ひんやりとした空気が頬をなでた。
    夏の日差しとは対照的なその静けさが、どこか懐かしく感じた。
    床の上のボールを手に取る。
    指先に伝わる感触に、胸の奥がかすかに震えた。
    何度も握ってきた感触――何度も夢を見た、あの感触だった。
    志桜里は、無意識にゴールを見上げた。
    そして気づいたときには、体が動いていた。
    ステップを踏み、ボールを放つ。放物線を描いたボールは、リングに触れることなく、静かにネットを揺らした。
    「……まだ、入るんだ」
    思わず小さく笑みがこぼれた。
    その瞬間、はっとして我に返ると、志桜里はボールを床に落とした。
    軽い音が体育館の中に響く。
    「……いけない」
    志桜里は体育館を駆け出した。
    渡り廊下に出ると、強い日差しが再び彼女を包んだ。
    けれどその胸の奥では、
    たった今放ったシュートの感触が、まだ消えずに残っていた。
    数日後、
    下校の時刻。隼が下駄箱でスニーカーを手にしたとき、掲示板の横で志桜里がバスケ部の本田に頭を下げている姿が目に入った。
    本田は志桜里を抱え込むように抱きしめた。
    隼は本田先輩の目に光るものを見た。
    すると、一柳や谷口が現れ、四人は固く肩を組み、弾けるような笑顔で宙に舞った。
    その瞬間、手にしていたスニーカーを靴箱に戻し、上履きに履き替えた。
    気づけば、体育館へと足が向かっていた。
    近づくにつれて、ボールが床をたたく乾いた音、シューズが滑る音、部員たちの掛け声が混じり合って聞こえてくる。
    そのリズムが、かつて自分の中にあった鼓動を呼び覚ますようだった。
    体育館の前で一度立ち止まり、迷いながら振り返ろうとしたそのとき――
    「隼、隼じゃないか!」
    背後から声がした。悠太だった。
    「隼、俺に用があるのか?」
    「いや、別に」
    悠太は隼の視線の先に志桜里を見つけ、すぐに察したように笑った。
    「いいから見てけよ、俺のナイスプレーまだ見たことないだろ?」
    「でも、練習中だから邪魔になるだろ?」
    「大丈夫。誰かに聞かれたら、“俺に用があった”って言えばいい」
    そう言って悠太は隼を体育館の中へと連れていった。
    「遅れてすまん、ちょっと隼と話をしていてさ」
    男子部員たちはちらりと隼を見て、再び練習を再開した。
    ふと視線を奥にやると、女子チームが半面で練習していた。
    隼はすぐに目をそらし、男子の練習に目をやった。
    悠太が言う。
    「十二月にはウィンターカップの県予選がある。どうしても三年生を全国に行かせたい。そのためには、俺たち二年が壁にならなきゃならない。
    志桜里もそれを分かって入部した。
    三年には、志桜里の母さんの葬儀にも来てくれた本田先輩がいるんだ。
    その恩返しもあって、今の志桜里は必死なんだよ」
    志桜里の再始動
    隼は悠太の話を聞きながら、コートを走る志桜里を見ていた。
    声を出し、ボールを追う姿。
    その真剣な表情が、以前の無表情な彼女とはまるで別人のように映った。
    ホイッスルが鳴る。
    「はい、五分休憩!」
    コーチの声が響き、女子部員たちは水筒を手に取った。
    志桜里も汗を拭きながら一口飲み、ふと入り口に立つ隼の姿に気づいた。
    二人の視線がぶつかる。
    その瞬間、体育館の喧騒がふっと遠のいた。
    時間が止まったように、互いの存在だけが浮かび上がる。
    「はい、後半いくぞ! 試合形式でディフェンスから!」
    コーチの声が響き、志桜里はすぐに水筒を床に置き、コートへと走り出した。
    「悠太、俺、帰るわ」
    「おう、またな」
    体育館を出た隼は、深く息を吐いた。
    靴を履き替え、校門へと歩きながらも、志桜里の声と姿が頭から離れなかった。
    十二月に入った。
    「もうすぐ冬休み。今年も終わりか」
    急に屋上へ行きたくなった。
    寒さに躊躇しながらも、風の中を歩いた。
    白い息が空へ溶けていく。
    隼は空を仰いだ。
    志桜里と出会った日のことが蘇る。
    「もう、あの日の志桜里はいないんだ」
    そう呟き、隼は小さく笑って屋上を後にした。

    第五章:冬の陽だまり、父の宿題

    おせち料理が教えてくれた「時を待つ」こと

    窓際の障子越しに、淡い陽の光が差し込んでいた。
    その光は、父の肩をやわらかく包み、白い湯気のように漂う。
    隼は湯のみを手に取りながら、ふと口を開いた。
    隼「父さん……“時を待つ”ってどういう意味」
    父は新聞をたたみ、少し考えるように目を細めた。
    父「うん……待つってのは、ただじっとしてることじゃないんだ、動けない時間を心で整えることだよ」
    隼は黙ってうなずいた。
    その言葉が、冬の陽だまりのように胸の奥へ染みこんでいく。
    「隼、お前がサッカーをやめたいって言ったとき、父さんは“止まること”も一つの勇気だと思った、でもな――止まったままでは、見えない景色もある」
    「……見えない景色?」
    「そう、風が吹くと、止まっていた雪が光るだろう?人も同じだよ、誰かの言葉や出会いが風になって動き出すきっかけになる、父さんはそう思ってる」
    隼は、その言葉の“風”を、静かに胸で受け止めた。
    心の奥で、何かがかすかに揺れた。
    (誰かの言葉や出会いが――風になる)
    その瞬間、あの屋上で出会った志桜里の声がよみがえった。
    無表情の奥に、なぜか惹かれるものがあった。
    彼女の声は、当時の自分には冷たく聞こえたが、今思えば――あれは孤独の中で、“自分を守るための静けさ”だったのかもしれない。
    新しい年の始まり
    家族三人で氏神様へ初詣に行ったあと、お母さんの実家「三津屋」へ新年の挨拶に行くのが恒例だった。母は実家で来客の接待のため残り、隼とお父さんは帰宅した。
    午後三時過ぎお父さんは重箱の蓋を開けた。
    父「隼、食べないか、お母さんが用意してくれたおせち料理はうまいんだ」
    おせち料理を食べるとき、父はいつものビールを熱燗に替える。

    父「隼、おせち料理の語源ってわかるか」
    隼「えっ……祝いの料理、かな」
    父「少し合ってるけど、少し違うな。『お節』の“お”は『御(お)』っていう接頭語で、“節”は季節の節目のことらしい。もともとは神様へのお供え物だったそうだ」
    父は熱燗を一口含み、続ける。
    父「昔は季節の変わり目ごとに食べられていてな。縁起を担いだ料理が多くて、それを重箱に詰めていた。正月の重箱は特に見た目もきれいで、食卓を華やかにする意味もあったらしい」
    隼「お父さん、詳しいね」
    父「いや、受け売りだ。間違ってるかもしれないぞ」
    隼「間違ってるの?」
    すると父はニカッと歯を見せて笑い、僕を煙に巻くように言った。
    父「さあて、どうかな。自分で調べたほうがいい」
    隼「えっ、どういうこと」
    父「聞き流しって聞いたことあるだろ。自分で調べたことのほうが、記憶に残るからさ」
    隼「……はい」
    父「ついでに、料理一つ一つのいわれも調べて、明日の朝、お父さんに教えてくれ」
    隼「えっ、宿題なの」
    父「そうだ。答えはお父さんが持ってる。あ、レポート用紙はいらないぞ。口頭でいい」
    隼「なんか、学校みたいだ」
    父「そう、家庭学習」
    隼「家庭学習って、そういう意味?」
    父「まぁいい。ほら、お節食べよう」
    隼「うん。お父さん、お餅いくつ入れる?」
    父「三つ」
    隼「じゃあ、八つにしよ」
    父「隼、五つは少なすぎるだろ」
    隼「八は縁起のいい数字だから」
    隼は母が用意してくれていたお雑煮の汁を温め、そこに餅を八つ、静かに入れた。
    新年の柔らかな陽光が、カーテンの隙間から食卓に細長い影を落としている。
    湯気を立てるお雑煮の椀を挟み、父と向かい合う元旦の朝。
    静かな沈黙の中に、二人の笑顔が溶け込んでいた。
    やがて箸を置くと、父は大きく息を吐き、
    「ふぅ……食った食った」と満足そうにつぶやいた。
    そのまま立ち上がり、居間のソファーに腰を下ろしたかと思うと、
    テレビのリモコンを握ったまま、ほどなく規則的な寝息を立て始める。
    ――早いな。
    隼は小さく笑い、父の方へ視線を向けた。
    無防備に眠る横顔は、いつもより少し穏やかに見える。
    隼は音を立てないように立ち上がり、押し入れから毛布を一枚取り出した。
    そっと近づき、父の肩から足元まで静かに掛ける。
    起こさないよう、呼吸の間を計りながら。
    毛布を整え終えると、父の寝息が一瞬だけ乱れ、それでもすぐに、また穏やかなリズムに戻った。
    ――今年も、始まったんだな。
    隼はそう思いながら、朝の光に満ちた部屋を、しばらく黙って見渡していた。
    隼「父さん、玄関の鍵を閉めて二階に行くから」小声でそう言って、母にメールを送った。
    『お父さん、リビングで寝たから玄関の鍵をかけて二階に行くね』
    夕方、母が帰ってきた。
    母「お父さん、まだ寝てるわね。お父さんが一年で一番心も体も休めるのは新年だけね、ゆっくり休ませてあげようね」
    丸まって眠る父の姿を見ながら、隼は微笑んだ。
    まるで幼い子供のように寝ているその姿は、新年だけに見られる光景だった。
    母が小さな菓子箱を持ってきた。「お祖父さんが、隼に食べさせてくれって」
    白い皿に紅梅の形の和菓子がのる。
    隼「お母さん、この梅きれいだね、お祖父ちゃんらしい」
    母「新春に一番早く咲く花よ」
    湯気の立つお茶とともに、穏やかな時間が流れた。

    父と二人の朝 正月二日。

    「散歩に行ってくる」そう言って出かける父を見送り、母は実家の手伝いに出かけた。
    家には隼ひとり。静かな午前。
    リビングの掃除をしていると、玄関が開く音がした。
    父「隼、掃除か?」
    隼「うん、ちょっとね」
    父「お母さん、年末から忙しいからな」
    父は床の拭き掃除を始めた。
    隼「父さん、僕がやるからいいよ」
    父「父さんもやりたいんだよ」
    二人は黙って掃除を続けた。時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
    隼は父の息づかいを聞きながら、ふと思う。
    ――父さんと二人っきりの時間、こんなにゆっくりしたのはいつ以来だろう。
    掃除が終わると父は笑って冷蔵庫を開けた。
    父「疲れたなぁ、疲れた後の一杯」
    缶ビールを開けてごくりと飲む。
    父「うまい、隼も飲まないか」
    隼「未成年だよ」
    父「そうだった、忘れてた」
    父がまた笑った。その笑顔は、冬の光に溶けていった。
    風のない冬の夜、隼は窓を少しだけ開けた。
    父と交わした言葉が、胸の奥でまだあたたかい。
    もうすぐ、春が来る。
    けれど、その前に――
    伝えられなかった想いと、果たせなかった約束がある。
    そんな気持ちのまま、隼は深く息を吸い込んだ。
    凍るような空気の中に、かすかに光の匂いが混じっていた。
    新学期、戸惑いながら
    新学期の朝は、いつも少しだけ嘘をついている。
    希望に満ちているようで、実際には不安や戸惑いを薄く塗り隠した空気が、校舎の廊下に漂っていた。
    隼は下駄箱で靴を履き替えながら、そんなことを考えていた。
    二年生の終わりから三年生の始まりへ――その境目に立つ自分が、どこへ向かおうとしているのか、まだはっきりとは分からない。
    教室に入ると、見慣れた顔と、どこかよそよそしい空気が混ざり合っていた。
    クラス替えはなかったはずなのに、全員が少しずつ変わっている気がする。

    第六章:三か月の約束

    涙の教室と、八木先生の「風」

    冬の朝、校庭の隅に残る霜が白く光っていた。
    二年生も、残り三か月。
    空気は冷たく澄んでいて、息をするたびに胸の奥まで透きとおっていくようだった。
    そんな静けさの中に、どこか言葉にできない焦りが混じっている。
    時間はゆっくり進んでいるはずなのに、心だけが少しずつ先へ走っていく――。
    隼は、白い息を吐きながら思った。

    「この冬を越えたら、何かが変わる気がする」

    その「何か」はまだ輪郭も見えない。
    けれど確かに、季節の光の中で、彼の心はまた動き出そうとしていた。

    涙と誤解の教室


    冬の朝、校庭の隅に残る霜が白く光っていた。
    「隼」
    振り返ると、息を白くしながら悠太が走ってきた。
    隼「おはよう」
    悠太「隼、正月はどうだった?」
    隼「毎年同じだよ。悠太は?」
    悠太「お年玉、数えてた」
    隼「えっ、数えたんだ?」
    悠太「うん、五秒で終わった」
    隼「なんだ、それ」
    二人は笑いながら肩を並べ、学校の門をくぐった。
    いつもと同じ朝――けれど校舎の空気には、どこか“終わり”を予感させる静けさがあった。
    ホームルームが始まると、松尾先生が黒板の前に立った。
    「今日から二年生最後の授業が始まる。四月からは三年生。このクラスも残り三か月だ。四月からは進路希望に合わせてクラスが変わる。
    君たちの夢を応援するためのクラス分けになるから、高校生活の最後の一年を大切に過ごしてほしい」
    先生はそれだけ言うと、静かに教室を出ていった。
    そのあと、教室の隅でひとりの女子――杏奈が涙を流していた。
    近くの女子が声をかける。
    女子A「大丈夫?」
    男子A「泣くのはちょっと早いんじゃない?」
    茶化すように言った男子に、すぐ別の声が返る。
    女子B「泣いて何が悪いの。杏奈は感受性が豊かなの。あんたと違うの」
    クラスの空気が少し張りつめた。
    男子B「先生、言ってたろ? クラスの仲間を大事にしろって。お前、聞いてなかったのか」
    茶化した男子は黙り、杏奈の前に歩み寄った。
    男子A「ごめん……俺も、このクラスが好きだ」
    杏奈は涙を拭き、かすかに笑った。
    「私、泣き虫だから。三か月後に離れると思うと、悲しくて」
    その言葉に、教室全体が少しだけ静まった。

    八木先生の言葉

    そこへ英語の八木先生が教室に入ってきた。
    柔らかな声とともに、重たかった空気がふっと軽くなる。
    隼は心の中で思った。
     
    「先生の姿を見るだけで、みんなの心が穏やかになる」
     
    八木「どうしたの? なんだか静かね」
     
    八木先生は一人ひとりの顔を見回した。
     
    八木「生きていれば、いろいろあるわよね」
     
    杏奈が立ち上がり「先生、私が空気を悪くしたんです」
     
    男子A「違います、俺が余計なことを言ったから」
     
    八木先生はうなずき、ゆっくり言葉を続けた。
     
    「そう。お互いにちゃんと向き合えたのね。それが何より大切なのよ。
    人はね、本音で話せる仲間がいるだけで心強いの。考え方は人それぞれ違っていいの。大事なのは、批判ではなく尊重――
    ”そういう考え方もあるんだな”って受け止めてあげることよ」
     
    教室に静かな空気が流れる。下を向いていた生徒たちも顔を上げ、先生の目を見つめていた。
    八木先生は柔らかく微笑んだ。
     
    八木「杏奈さん、もう泣かないでよ」
     
    その一言に教室が笑いに包まれた。
    穏やかな笑い声が、冬の光に溶けていく。
     
    八木「出会いを忘れないでね」
     
    八木先生の言葉が、静かに教室に残った。
    三月下旬、桜の花が咲き始めた。隼は久しぶりに屋上に上がった。
    深呼吸するように両手を開きながらフェンスに近づいていくとピンクに色づきかけた桜の木が見えてきた。
     
    隼「やっぱ、桜は上から見ても下から見ても奇麗だ」
     すると後ろから
    志桜里「やっぱり青葉君、いた」
     隼「あっ志桜里さん」
     志桜里「何見てるの」
     隼「うん、桜」
     志桜里「ソメイヨシノでしょ。冬の暗いイメージからいっぺんに明るくしてくれるから、桜の花は素敵よね」
     隼「志桜里さん、もう大丈夫なのか」
     志桜里「前を向いていないと、恐いの」
     隼「えっ」

     志桜里「二年間の暗闇の中で思ったことは、亡くなった母の苦しみや痛みを私自身も同じように感じて生きていくことだと思っていた、最後は死のうと思ってした行動でお父さんにも弟にも悲しい思いをさせてしまって・・・青葉君が入院先に来てくれた時、約束を破ってしまって後悔したの」
     
    隼「俺は、言葉だけで終わらせようとした自分を責めた、暗闇の中で彷徨う志桜里さんの手を握って外に出そうと思った。でも、力ずくで解決させようとしても無理なことを知った」
     
    志桜里「分かってた、私、青葉君の手を握り返さず、また暗闇の中に自分を追い込んでしまった」
     
    隼「俺はその後、自分はどうなんだ自分は前を向いて歩いているのかと自分の心に聞いたんだ、返ってきたのは『行動しかないんじゃないか』と聞こえてきたんだ。そうだ中途半端な行動で『退部届』を出して、投げやりな過ごし方をしている俺自身が前を向かなきゃと思ったとき、もう一度サッカー部に入り、最後の最後までやり通す決心をしたんだ」
     
    志桜里「私、青葉君の姿をいつも目で追っていた。あの決勝戦で負けた試合の青葉君の姿輝いていた。負けたのに輝いていた。そして、私も輝きたいと、バスケ部に入部したの、二年生の終わりの入部でも、試合に出させてもらえた時、試合前に体育館の天井を見て、『お母さん見ててね』と言ったの。試合が終わって体育館を出たとき、空が輝くのを見たの、(あぁ、暗闇から抜け出せた)と感じたとき、涙が出ちゃって、あの涙の温かさは忘れていない」
     
    午後の授業が始まる予鈴が鳴った。
     隼「あっ、始まるね。先行くわ」
     志桜里「えっ、一緒でもいいよ」
     隼は顔を赤くして「先行くから」
    志桜里はまだ話したらないまま屋上を後にした。

    最終章:十字路で交わる想い

    輝く背中、ありがとうを伝えたくて

    街を包む風の色が、冬の白から春の光へと変わろうとしていた。
    昼休み、志桜里は教室の窓から校庭を見つめていた。
    冬の陽射しが桜の枝の先を照らし、まだ蕾の固い枝がかすかに光っている。
    その下に、ひとりの男子生徒が立っていた。青葉隼だった。

    志桜里「何をしてるんだろう……」
    胸の奥にぽつんと灯がともる。
    今すぐ駆け寄りたかった。でも、校庭には生徒の姿がちらほらとあり、彼の傍に行く勇気が出なかった。

    ――見ているのは、私だけじゃない。
    志桜里は目を伏せ、そっと息をついた。
    (今日は部活もない。学校の帰りに……帰り道で会えたら、話せるかもしれない)
    放課後のチャイムが鳴ると、志桜里は誰よりも早く教室を出た。
    廊下を抜け、校門を出ると夕陽が差し込んだ。

    「確か青葉君はこの道を通るはず……でも、下校してくる他の生徒には会いたくないな」
    速足で歩きながら、彼を待つ場所を探す。
    ふと立ち止まったのは、学校近くの十字路だった。

    「この十字路なら、どの道に行くか分かるし……人通りも少ない。ここで待っていよう」
    手袋の中で指をぎゅっと握りしめる。
    やがて、遠くに見覚えのあるシルエットが見えた。
    「……青葉君?」
    近づくにつれ、確信に変わる。だが、その後ろには数人の生徒が歩いてくる。
    (どうしよう……今はまだ声をかけられない)
    息をのんで見守っていると、隼が十字路を右に曲がった。
    その瞬間、誰も彼のあとを追わなかった。

    「今だ!」

    志桜里はスクールバッグを揺らしながら走り出した。
    十字路を曲がると、夕陽に照らされた隼の背中が見えた。

    「青葉君!」
    振り返った隼は一瞬、誰かわからず立ち止まった。

    「あれは……志桜里さん」
    志桜里は息を切らしながら、ようやく彼の前に立った。

    志桜里「呼・び・止・め・て・ごめん……」

    隼「どうしたの?」

    志桜里「ちょっと……待って……」

    両手を膝につきながら息を整え、ようやく顔を上げる。
    「この間の昼休み屋上で言えなかったことがあるの」

    隼「えっ……?」
    志桜里「青葉君がいたから、私、変われたの。屋上で初めて会ったときの、あの自分に戻りたくなかった」
    隼は戸惑いながらも、彼女の真剣な目を見つめた。

    「でも、志桜里さんを変えたって言われても、正直、思い当たらないよ」

    志桜里「いいの、私がそう思っていただけだから、サッカー部に戻った青葉君も、県予選で戦っていた青葉君も、全部見てきた。屋上で偶然出会った、あの時から、青葉君のことが気になってた。どうしてそんなに頑張ってるのかって……ずっと不思議で」

    隼は少し視線を落とした。
    「それは……漣が“高校でサッカーを終える”って言った時、俺は何も考えずに辞めようとしてた自分に気づいたんだ。始めは、ちゃんとケジメをつけようと思って、県予選の試合に出て・・・結果はベスト4止まりだったけど、出てよかったと思ってる」

    志桜里「……私、その試合、観てたの。ベスト8から全部。最後の試合のホイッスルが鳴った時、青葉君の姿がすごく輝いて見えたの。胸が熱くなって、感動して、いいなぁって思った、その時、私の心が不思議とスッキリしてたの」
    志桜里がそう言って笑うと、隼も小さく頷いた。

    隼「実は、俺も志桜里さんがバスケ部に入ってから、試合にも見に行ってたんだ」
    志桜里「えっ!」

    夕陽の光が十字路を包み、並んだ二人の影を長く伸ばしていた。 志桜里は隼の横顔を盗み見るようにして、ふと足を止めた。

    志桜里「……ねえ、青葉君。さっきの、私の試合を見てたって話。本当?」
    隼「(少し照れくさそうに視線を泳がせ)本当だよ。誰にも見つからないように、体育館の二階の隅っこで見てたんだ」
    志桜里「気づかなかった……。じゃあ、私がフリースローを外したのも見てたんだ」

    隼「あ、あはは。まあ、一回くらいはね。でも、そのあとのリバウンド、凄かったじゃないか。誰よりも高く跳んでさ。あの時の志桜里さん、屋上で初めて会った時の、今にも消えそうな顔とは全然違ってた」

    隼の言葉に、志桜里は胸の奥が熱くなるのを感じた。

    志桜里「私ね、青葉君がピッチを走る姿を見て、心に小さな火が灯った気がしたの。暗闇から抜け出せたのは、その火を消したくないって、初めて自分の意志で思えたから。……私を見つけてくれて、ありがとう」

    隼「……お礼を言うのは俺の方だよ。志桜里さんが屋上で俺を追い出そうとしたあの時の強さを思い出して、『あいつに負けてられない』って思ったんだ。おかげで、俺の止まっていた時間が動き出したんだから」

    二人の間に流れる沈黙は、もう重たいものではなかった。春の風が、冬の名残をそっと連れ去っていく。

    隼「……送るよ。家まで。直輝君、お腹空かせて待ってるだろ?」

    志桜里「(少し驚いて、それから嬉しそうに微笑み)うん」
    隼「……でも、志桜里さんお店を手伝わなきゃいけないんじゃない?」
    志桜里「今日はいいんだ。お父さんには『寄り道して帰る』ってメールしてあるから」
    二人は何も話さず肩を並べながら歩いた。
    遠ざかる街の灯りが、少しずつ滲んでいく。
    それは、かつて見上げた絶望の暗闇ではなく、未来へと続く優しい光の瞬きに見えた。
    春を待つ桜の枝が、夕風の中で小さく揺れていた。

    エピローグ:緑の匂いに包まれて

    この街で、共に生きていく

    新しい担任が背を向け、黒板に迷いのない筆致で名前を書き始めた。
    「戸崎雄弘です。担当教科は化学。よろしく」
    オリエンテーションが始まり、教室が受験モードのざわめきに包まれる中、隼は窓の外を見つめていた。 県内の高校に移った松尾先生。そして、海を渡り、英語をさらに学ぶために休職して旅立った八木先生。 誰もが、自分の足で「次」の一歩を踏み出している。
    隼は、進路希望調査書の白紙の欄を指でなぞった。
    (この街で育ち、この街で知り合った人たちのために、俺にできることは何だろう)
    八木先生の「出会いを忘れないでね」という言葉が、風の中でふとよみがえる。
    その日の学校帰り、志桜里が弾むような足取りで駆け寄ってきた。
    志桜里「青葉君、進路調査書出した?」
    隼「まだ、考え中。志桜里さんは?」
    志桜里「教師に決めた。この街の教師になりたいの。私を救ってくれたこの街が、大好きなの」
    隼「志桜里さんが教壇に立つ姿……なんだか、目に浮かぶよ」
    志桜里「おかしい?」
    隼「いいや。……すごく、似合ってる」
    志桜里は一瞬、眩しそうに目を細めたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
    志桜里「……ありがとう。青葉君にそう言ってもらえると、本当に、なれる気がする。私、あの日、屋上で『あんた、誰?』って聞いた自分に、いつか教えてあげたいな。その人は、あなたの暗闇に風を連れてきてくれる人だよって」
    隼は耳たぶを赤くしながら、視線を泳がせた。
    隼「……俺の方こそだよ。志桜里さんが屋上で俺を追い出そうとした時の、あの強さを思い出して、『あいつに負けてられない』って思ったから戻れたんだ。あの日、志桜里さんの目に僕が映った。それだけで、俺の止まっていた時間が動き出したんだから」
    二人の間に流れる空気は、もう重たいものではなかった。 隼は、進路調査票の白紙の欄に、おぼろげながら見えてきた自分の役割を心の中でなぞってみた。
    (この街で、誰かのために生きていくこと)
    それは、父が自分に教えてくれた「待つことの優しさ」や、八木先生が残した「出会いを忘れない」という種を、この街で大切に育てていくことなのかもしれない。
    志桜里「行こう。……直輝がお腹を空かせて待ってる。今日は、お母さんの味を思い出しながら、私がお吸い物を作るんだ」
    隼「いいな。……俺も、今日は父さんが夕飯を作ると言ってたから手伝うよ。おせちの宿題の続きも、まだ聞いてないしな」
    二人は顔を見合わせ、どちらからともなく歩き出した。
    頭上の並木道、欅(けやき)の葉が風に揺れ、濃くなり始めた緑の匂いが二人を包んでいた。
    本格的な夏が来る前の、少しだけ不安で、けれど圧倒的に自由な「溜め」の時間が二人の可能性を確かなものにしていくのだろう。
    並んで歩く二人の影は、伸びやかな未来を描くように、どこまでも長く、光の差す方へと続いていた。
    (完)


     


     
     

    mitsu

     
     
    人生の最終章を過ごしています。 一つ一つの出来事が浮かんできます。noteでお返しの言葉が綴れればと思っています。

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