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十三人目のさやか

    あらすじ


    妖怪が好きな高校生・海江田ゆうきは、赤い本をきっかけに妖怪の世界へ迷い込む。そこで出会った少女・牧村さやかと行動を共にするが、日本三大悪妖怪・玉藻前が仕掛けた「十三階段」の試練に巻き込まれる。

    さやかを人質に取られたゆうきは、十三階段で待ち受ける十二の徳の試練に、たった一人で挑むことになる。

    しかし、試練の果てでゆうきを待っていたのは、さやかに隠された秘密と、十二の徳だけではたどり着けない答えだった――。

    「強さ」とは何か。誰かを想うことに、どんな意味があるのか。
    利他心をテーマに、人と妖怪の絆を描くファンタジー。

    プロローグ


    妖怪たちは、祝宴の最中だった。
    舞台ステージの中央には、数々のご馳走とともに、ひときわ大きな皿が飾られていた。

    酒、笑い声、賑やかな調べ、踊り。

    ある者は酒瓶を抱えて大笑いし、またある者は小太鼓を叩きながら広間を駆ける。妖怪たちの手に持つ盃にせわしなく酒を注いで回る者もいる。
    法螺貝が鳴り、笛が奏でられる。踊る者の姿もあった。

    皿の中で、一人の少女が眠っていた。
    海江田ゆうき――それが、彼女の名前だった。

    「ゆうき、聞こえる?」

    誰かが呼んでいる。
    それは遠くで響く声だった。

    「わたしを信じて」

    「……ここは?」
    夢の中から引き戻されるようにゆうきは目を開く。
    皿のそばには、いつのまにか一人の少女が立っていた。

    「ゆうき、大丈夫? ここから逃げるわよ」
    その少女はゆうきの身体をゆっくり起こし、手を取った。

    「いい? あいつらが酔っている今しかないの。一気に駆け抜けるわよ」
    「どういうこと……ここはどこなの?」

    ゆうきの問いに答える間もなく、少女は短く言い切った。

    「今よ」

    次の瞬間、謎の少女に手を引かれ、ゆうきは皿の上から飛び降りた。
    宴の熱気はすでに消え、酒に溺れた妖怪たちは泥のように眠っていた。
    二人が駆け抜けても誰一人気づく者はいなかった。

    二人はそのまま宴会場の闇へと駆け出していった。

    第1章  信じたいもの


    「……ゆうき」

    誰かが、自分を呼んでいる。

    「……ゆうき」
    「……」
    「ゆうき!」

    その声は、まるで自分の意識の奥から響いてくるようだった。
    次の瞬間、視界が一瞬だけ揺らぐ。
    ゆうきは思わず席から立ち上がると、夢の中の少女へ向かって叫んでいた。

    「あなたは誰なのよ!」

    教室がざわめく。
    「ゆうき」とそこで国語教師の声が戻ってきた。
    「お前、授業中に何寝ぼけてんだ?」
    ゆうきは、「すみません」と慌てて頭を下げる。
    教師はため息をついた。

    「教科書、103ページ。そこを読め」
    「はい」

    ゆうきは立ったまま、教科書を開き、朗読を始めた。
    「春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明りて……」

    その言葉を口にしながらも、意識はどこか別の場所にあった。
    教師は満足げにうなずくと、ゆうきを座らせて授業を続けた。
    「みんなも一度は聞いたことはあるだろう。これは清少納言の『枕草子』で有名な一節だ」
    「だがな」と教師は前置きして声を少し落とした。
    「『枕草子』はそれだけじゃない。あまり知られていないが、面白い話もある」

    そう言うと、教科書には載っていない一節を読み上げた。
    それは、病人の家での祈祷の記録だった。
    そして続けた。
    「昔の人は、妖怪のしわざだと考えたんだろうな」

    その言葉に、再び教室がざわめく。
    「妖怪とかいるわけねーし」
    「本気で言ってんの?」
    その中で、ゆうきは小さく口を開いた。

    「……わたしは、いると思います」

    教室が一瞬、静まり返る。
    そしてすぐに笑い声に変わった。
    授業終了のチャイムが鳴ると、生徒たちは立ち上がり、教室が日常へ戻っていく。

    放課後、夕方の教室は静かだった。
    教室には、ゆうきがただひとり残っていた。
    その静けさの中で、笑い声だけが何度も頭の中で繰り返された。
    それでも信じたい。あの声は、まだ耳の奥に残ったままだった。ゆうきは胸を押さえると、やがてうつむいた。

    教室の隅の本棚から、一冊の赤い本が滑り落ちた。
    「……こんな本、あったっけ」
    ゆうきは拾い上げると、表紙にはこう書かれていた。

    「ようこそ、妖怪の世界へ」

    ゆうきは息をのむ。
    そして、そっと本を胸に抱いた。
    「妖怪って……強いのかな……」

    その瞬間、本が光った。

    「え……?」

    視界が白く塗りつぶされていく。
    ゆうきの意識は、静かに途切れた。

    第2章  はじめての味方


     気がつくと、ゆうきは冷たい地面に倒れていた。
    湿った土の匂い。視界の端には、同じ制服を着た少女がしゃがみ込み、こちらを見ている。

    「気がついた?」

    その声で、ゆうきはゆっくりと上半身を起こした。
    「ここは……?」
    言葉がうまく出ない。
    「あなたは?」
    ゆうきの問いかけにその少女は少しだけ間を置いてから答えた。

    「牧村さやか。さやかでいいよ」

    そして周囲を見回しながら続ける。
    「ここ、墓地みたいね」
    ゆうきも視線を上げた。
    取り囲む木々の隙間から、無数の墓石が顔を覗かせていた。
    記憶が曖昧だった。
    「わたし……教室にいて……本が光って……」

    さやかの表情がわずかに動く。

    「あなたも?」
    「え?」

    さやかは言葉を続ける。
    「わたしも赤い本を読んでたら、突然光って、気づいたらここにいたの」

    沈黙が落ちる。
    「そうなんだ……」
    ゆうきは頭を押さえた。鈍い痛みが残っている。
    さやかは少しだけ息を吐いた。
    「最初はわたしも、しばらくここに隠れてたの。いきなり墓地に放り出されるなんて怖いでしょ」

    ゆうきはゆっくりと立ち上がった。
    「……ここ、どこなんだろう」

    さやかがふと顔を近づける。
    「ねえ、あなたの名前は?」
    「……海江田ゆうき」

    「ゆうき」

    さやかはその名前を少し強めに繰り返した。

    「いい名前。強そう」

    ゆうきは一瞬だけ視線を落とした。

    「強くなんかない!」

    反射的に言い返してしまう。
    水を打ったような静寂の後に、生温い風が墓地を抜けていく。

    「こんな場所で怖がってばかりいても仕方ないか」
    沈黙を書き消すように、さやかは少し笑った。

    「ねえ、学校ではどんな子だったの?」

    ゆうきは少しだけ黙った。

    「……みんなを笑わせるのが好きでさ」
    そう言って笑ったものの、その笑顔はどこかぎこちなかった。
    「みんな、ゆうきがいると面白いって言ってて……」

    さやかは目を細める。

    「へえ。どんなふうに? なんか、話してよ」

    ゆうきは妖怪にまつわる即興の物語を、身振り手振りを交えながら語っていった。途中で自分でも何を話しているのかわからなくなり、それでも最後まで話し切る。

    気まずい沈黙が流れた。

    ふいに、さやかが吹き出した。

    「あはは、何それ!」

    ゆうきは恥ずかしそうに目を伏せた。

    「ごめん」

    ゆうきはいよいよ自信を無くしてしまった。
    さやかは言葉を続ける。

    「でもさ、ゆうきって、本当に面白いよね。そんなくだらない話を、本気で話せるんだもん」

    ゆうきは言葉に詰まる。

    「もっと、自信持ちなよ」
    「え?」
    「わたし、そういう話、嫌いじゃないよ」とさやかは肩をすくめるゆうきを慰めた。

    そのとき、空気がわずかに変わった。
    冷たい風が墓地を通り抜け、カラスの鳴き声が遠くで響く。
    さやかが腕時計を見る。
    「……まずい。来るかも」

    ゆうきは周囲を見回す。
    「誰が……?」
    「とにかく、隠れて」とさやかは短く答えた。
    ふたりは草むらに身を潜める。
    「わたし、帰らないと……」
    ゆうきが小さくつぶやく。

    さやかは指を口に当てる。
    「静かに」
    遠くから、何かが近づいてくる気配がした。
    墓地の空気が、ゆっくりと濃くなっていく。

    第3章  名前 


    草むらの先に、一人の妖艶な女が姿を現した。
    その後ろには、不思議な姿かたちをした三体の者たちが続く。
    怪しい光が、一行をぼんやりと照らし出す。

    「なんて心地の良い空気なのかしら。人間どもの墓場を眺めているだけで愉快だわ」

    女は言葉を続けた。

    「あぁ……人間を喰いたい。美しい人間の女を喰らいたい……」

    そう言うと、天へ向かって両手を広げてみせた。まるで世界そのものを支配しているかのようだった。


    草むらから見ていたゆうきは、精一杯押し殺した声で歓喜した。
    「あれって玉藻前(たまものまえ)よね」

    隣のさやかが小さく息をのむ。
    「……たまものまえ? それってそんなに有名なの」
    「さやかは聞いたことない? 九尾の狐が化けた絶世の美女。わたしが一番大好きな憧れの存在なの」

    ゆうきがあまりにも嬉しそうに語るものだから、さやかもつられて笑ってしまった。
    やがて、ゆうきは女の後ろに続く者たちの存在にも気づいた。
    「河童に天狗、それに鬼までいるわ。ねえ、さやか。すごいと思わない。日本の三大妖怪が勢ぞろいしてるのよ」
    ゆうきとは対照的に、さやかはいよいよ呆れてしまった。
    「ねえ、なんでそんなに妖怪に詳しいの?」

    その問いに、ゆうきは一瞬言葉を失う。
    あのときの授業の風景が頭をよぎる。
    馬鹿にされるのではないかという不安が先に立ち、小さくうつむいた。

    「……が、好きなの」とか細く答えるゆうき。
    「なに? 聞こえない」

    ゆうきは大きく息を吸って、羞恥心を書き消すように叫んだ。

    「わたしは、妖怪が好きなの!」

    その声の大きさに驚いたさやかは、馬鹿と声を切ってゆうきの口を塞いだ。

    女は目を細めた。
    「おや。何か匂うねえ」

    ただのネズミです、と口火を切ったのは河童のポン助だった。
    「なら丸焼きにしちまうか」と青鬼のイッカクは笑った。
    「我々の好物は人間でしょう」と天狗のキクマルが制した。

    二人はしばらくのあいだ息を押し殺した。
    やがてその者らの気がそれたことを知ると、さやかは再び口を開いた。

    「ちょっと気をつけてよ、ゆうき」
    「ごめん」
    「それにしても、なんで妖怪なんかが好きなわけ?」

    さやかの素朴な疑問にゆうきは静かに言った。
    「妖怪は、わたしにはない強さを持ってるから」
    「強くなりたいの?」
    ゆうきは少しだけ笑った。
    「……うん」

    うつむくゆうきをしばらく黙って見つめていたさやかは、少しだけ表情を和らげた。
    「ねえ、ゆうき。妖怪って、どうやって生まれるの?」
    我に返ったように、ゆうきは少しだけ姿勢を正した。
    「一説によるとね。動物や植物、それから道具に宿った怒りのエネルギーから生まれるらしいわ」

    「怒りのエネルギー……」
    さやかはその言葉を頭の中で反芻しながら、遠くを見つめた。
    ゆうきは続けた。
    「でもね、たぶんそれだけじゃないと思うの。悲しみとか、寂しさとか、そういうものも全部、混ざってる気がする」

    ゆうきのその言葉に、さやかの表情がわずかに変わる。
    さやかはゆっくりと口を開いた。

    「あのさ、ゆうき。臥竜鳳雛(がりょうほうすう)って知ってる?」
    「……がりょう、ほうすう?」
    「まだ世間に知られていない、すごい才能を持った人のこと」

    さやかは、少しだけ微笑む。
    「今のゆうきに、ぴったりだと思うよ」
    その言葉に、ゆうきは戸惑いながらさやかに視線を送る。
    「……さやか?」

    その瞬間、さやかは嬉しそうに笑った。

    「やっと名前、呼んでくれたね」

    ゆうきは初めて、自分がさやかの名前を一度も呼んでいなかったことに気づく。

    「ごめん」

    「そうやってすぐ謝るの、やめたほうがいいよ。本当に謝りたいときに言葉が届かなくなるから」
    さやかは優しく笑った。
    「大事な人のために、その言葉はとっておきなよ」
    ゆうきは少しだけ照れたようにうなずく。
    「……うん」
     

    第4章  憧れのその先


    ポン助がおずおずと手を挙げた。
    「ところで、玉藻前さま。本日はなぜ、全国各地から妖怪をお集めになられたのですか」
    おう、とイッカクも腕を組んでうなずいた。
    「突然の呼び出しで、俺んところのお頭もびっくりしてやすぜ」
    「わたくしの主も不可解のご様子です」
    イッカクに続き、天狗のキクマルも冷静な口調で同調してみせた。

    すると玉藻前は、いつもの調子で高らかに笑うのだった。
    「あんたたちも察しが悪いわね。ここに集まってもらった理由は他でもない」

    集結した妖怪らは固唾を吞む。
    「日本で最強の妖怪を決める大会を開催するの」
    玉藻前の宣言に、妖怪らは湧き上がった。

    決闘だ、とイッカクが興奮した。
    「この際、誰が一番強いのか、はっきりさせようぜ」

    「あら、乱暴は駄目よ」
    玉藻前は人差し指を立てながら、妖しく笑ってみせた。

    イッカクは首をかしげる。キクマルも眉をひそめた。喧嘩は嫌だと言わんばかりに、ポン助は今にも泣きそうな顔をしている。

    困惑する妖怪一同を見回しながら、玉藻前はゆっくりと言葉を続けた。
    「強さとは、力比べだけではないわ。知性も大切なのよ、お分かりかしら」

    イッカクは頭を抱え、キクマルは不気味な笑みを浮かべる。そして両者をおろおろとただ見つめるしかないポン助。

    玉藻前は続けた。
    「勝負は議論よ。参加者は、自分たちがいかに強いのか、その根拠を示して、相手を納得させること。論破された時点で決着とする」

    イッカクはいよいよ天を仰いだ。
    「肉体的な力には自信があるが、頭を使うのは慣れてねえなあ」
    「あなたは脳みそまで筋肉でできていますからね」とキクマルが語尾を強めた。
    「この勝負、目に見えています。エリート集団である我々天狗族の圧勝ですよ」

    そのとき、再び手を挙げる者がいた。ポン助だ。
    「一番を決めるということは、当然、玉藻前さまも参加されるんですよね」

    妖怪らの視線が玉藻前を刺した。玉藻前はその視線を退けるように、顔を背けてみせた。

    「わらわはだめよ」

    えっ、と妖怪たちが顔を見合わせる。
    しかし玉藻前はまるで意に介さない。
    「この大会はあくまで日本で最強の妖怪を決める戦い。わらわは中国生まれだもの」

    いよいよ会場はしらけた空気に支配された。
    それでも玉藻前は再び人差し指を立てると、うわずった声で話を続けた。
    「か弱い乙女に、争いごとなんて似合わないでしょう」
    「ケッ」とイッカクが小さく吐き捨てる。
    「か弱いなんて、よく言うぜ」

    玉藻前の笑顔がぴたりと止まる。
    キッと鋭い視線がイッカクを射抜いた瞬間、轟音とともに稲妻が落ちた。
    イッカクはたちまち丸焦げになった。
    ずしんと音を立て、大の字のまま気絶する。

    「イッカクさんが、真っ黒になっちゃった!」とポン助が青ざめる。
    さっきまで妖艶な微笑みを浮かべていた玉藻前は、もうそこにはいなかった。夜叉のような恐ろしい形相が浮かんでいる。

    「わらわは暇なの」
    一同はびくりと震える。
    「わらわを楽しませなさい」

    草むらの陰で様子を見守っていた二人の少女は、思わず顔を見合わせた。

    「なんか、面白いことやってるわね」

    だが隣にいるゆうきは、なぜかうつむいていた。
    「……わたしのイメージしていた妖怪と全然違うわ」
    「がっかりしてるの?」
    さやかが心配そうに尋ねる。

    しかし次の瞬間だった。
    「ふふふ」と不気味な声が漏れ聞こえてきた。ゆうきが肩を震わせている。
    「ちょっと、なに」

    さやかが思わず一歩引いてみせると、ゆうきは勢いよく顔を上げた。その瞳は、誰が見ても分かるほど輝いていた。
    「がっかりなんて、するものですか」
    押さえきれない感情があふれ出した。
    「すごいわ。本に書かれている妖怪のイメージとは、まるで違う世界なんですもの」
    ゆうきの視線は、妖怪たちから離れない。
    「妖怪って、やっぱり奥が深いわ。ますます好きになってしまったわ」

    そう、とさやかは優しく微笑んだ。
    「ゆうき、良かったじゃん」
    さやかは、ゆうきの様子を見て少し安心したようでいて、どこか寂しげでもあった。
    ゆうきはそんなことにも気づかず、小さくつぶやく。
    「いよいよ、始まるみたい」

    第5章  最強の鬼


    日本一強い妖怪を決める大会。
    その舞台に最初に躍り出たのは、青鬼のイッカクだった。

    彼は大きく息を吸い胸を張ってみせると、両腕を高々と広げた。
    「日本の妖怪といえば、鬼にちがいない。皆のもの、ひれ伏すがいい」

    その声とともに、一体の巨大な者が姿を現した。
    その片手には一升瓶が持たれている。
    「このお方こそ、我らが鬼の頭領にして、日本三大悪妖怪の一人と謳われる酒呑童子(しゅてんどうじ)様なるぞ」
    イッカクが誇らしげに紹介する。

    すると玉藻前が、旧知の仲に話しかけるような調子で声をかけた。
    「あら、童子ちゃん。おひさしぶり」
    鬼たちの頭領として恐れられる酒呑童子の顔が、たちまちに赤くなった。
    「お頭は玉藻前さまと何かあったんですか」とイッカクが信じられないものを見るような目を向ける。
    「何もない」と酒呑童子は顔を真っ赤にして断じた。

    玉藻前は意味深に笑うと、詮索するイッカクを制した。
    「それよりも、童子ちゃんがどれほど強いのか、子分のあなたから説明してあげなさい」

    すると、イッカクは得意げに胸を叩いた。
    酒呑童子は腕を組み、堂々と仁王立ちしている。その姿には、自分の強さを疑う者など存在しないという絶対の自信があった。


    すごいわ、とゆうきは興奮を隠しきれない。
    「今度は何がすごいの」
    さやかは、ゆうきの調子にすっかり慣れてしまった。

    「あれは酒呑童子。日本三大悪妖怪の一人で、日本最強の鬼よ。まさか、この目で見ることができるだなんて」

    へえ、とさやかは感心したように再び頬杖をついた。
    「でも」とゆうきは少し考え込む。
    「でも、本当に最強かと言われると微妙なの」
    「どうして?」

    すると、パン、と手を叩く音が響いた。
    どうやらイッカクの説明が終わったらしい。
    二人の少女は再び玉藻前へ視線を向けた。

     
     「――というわけみたい。さあ、反論があるものは前へ出ていらっしゃい」

    そこへ天狗のキクマルが、自信に満ちた笑みを浮かべながら前へ躍り出た。酒呑童子はキクマルを露骨に睨みつけて牽制する。
    「キクマルよ、何がおかしい」
    イッカクが噛みつくように叫ぶが、キクマルは動じない。

    「確かに酒呑童子殿は日本三大悪妖怪のお一人です」
    ですが、と一度そこで言葉を切った。
    「鬼なんて、年がら年中、人間に討伐されているではありませんか」
    ざわつく会場のなか、イッカクの額にくっきりと青筋が浮かぶ。
    だがキクマルは構わず続けた。

    「酒呑童子殿、お気をつけなされ」
    酒呑童子の眉がぴくりと動いた。
    「風の噂によれば、最近、人間どもがあなたを討伐しようと動いているそうです」
    「馬鹿を言うな」とイッカクが怒鳴った。
    「酒呑童子様が人間ごときに負けるわけがない」
    酒呑童子も腕を組んだまま、力強くうなずく。

    キクマルは呆れた様子で言葉を締めた。
    「だと、いいですね」
    ふんっ、と酒呑童子は鼻を鳴らす。
    「人間なぞ、返り討ちにして喰ってやるだけのこと」
    その言葉には揺るぎない絶対的な自信が満ちていた。

    ゆうきは酒呑童子を見つめた。
    「本によると、酒呑童子はその後、源頼光と頼光四天王に討伐されたとされているわ」
    さやかが目を丸くする。
    「しかも、正面から勝負して負けたわけじゃないの」
    「えっ?」
    「罠とも知らずに酒を飲まされて、酔ったところを不意打ちで首をはねられたらしいわ」

    さやかは頬杖をついたまま、遠巻きに酒呑童子を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
    「単純で、お馬鹿さんね」
    ゆうきは思わず吹き出した。

    第6章  討伐されなかった唯一の存在


    「キクマルよ、そう言うお前はどうなんだ」
    小馬鹿にされたイッカクが、天狗のキクマルに容赦なく噛みつく。

    しかしキクマルは相手にせず、来るべき主を迎えるように静かにひざまずいた。
    「こちらでございます」
    キクマルがそう言うと、辺り一面がみやびな空気に包まれた。
    やがて、神々しくも不気味な気配をまとったひとりの男が、優雅な足取りで姿を現す。

    その姿には、イッカクや酒呑童子とも異なる威厳があった。男はゆっくりと扇子を広げた。
    「このお方こそ、我ら天狗族の長にして、日本三大悪妖怪の一人として名高い、崇徳院でござりまする」

    会場にどよめきが広がった。
    すると玉藻前が、またしても親しげに声をかけるのであった。

    「あら、崇徳ちゃん。おひさしぶり」
    「……」

    だが、崇徳上皇は答えない。ただ静かに扇を閉じた。

    「昔から愛想がないんだから」
    玉藻前は肩をすくめた。

    「さあ、崇徳ちゃんがどれほど強いのか、臣下のあなたから説明してあげなさい」
    キクマルはうやうやしく頭を下げた。

    ゆうきの瞳が大きく見開かれた。ついに、と興奮で声が震えている。
    「日本三大悪妖怪、最後のひとり。あの崇徳上皇よ」
    幸せ、と小さく呟いた。
    さやかはそんな友人を見つめ、ふふふ、と笑った。何も聞かなくても、ゆうきの解説は止まらなかった。

    「崇徳上皇は、歴史上に実在した天皇なの。皇位をめぐる争いに敗れて流罪になり、そのまま無念のうちに亡くなったと言われているわ」
    「それが妖怪になるの?」
    「うん。その後、不吉な出来事が次々に起こるようになって、人々はそれを崇徳上皇の祟りだと恐れるようになったの」

    さやかはいよいよ感心を通り越して呆れた顔になる。
    「あんた、なんでそんなこと知ってるの」
    ゆうきは我に返ったように照れくさそうにしてみせた。
    「大好きな妖怪が絡む話になると、つい夢中になっちゃって」

    さやかは目を細めてゆうきを見つめると、ふっと笑い、これまでの話を整理した。
    「つまり、日本三大妖怪と日本三大悪妖怪は別物ってことね」

    ゆうきは満面の笑みで親指を立てた。
    「一回整理しないと、ゆうきの話についていけないわ」
    さやかは小さくため息をつく。

    だが、ゆうきの解説はまだ終わらない。
    「それでね――」

    再び真剣な顔になる。
    「実は崇徳上皇って、日本三大悪妖怪の中で唯一、人間に討伐されていない存在なの」
    さやかが首をかしげる。
    「酒呑童子は源頼光たちに討伐されるし、玉藻前も最終的には人間に退治される伝承が残っているわ。でも崇徳上皇だけは違うの」

    「でも、保元の乱で負けた話があるじゃない」とさやかが間髪入れずに指摘した。
    「あれは人間だった頃の話」とゆうきは強調する。
    「怨霊になった後は、その祟りを恐れられたあまり、人々は退治するどころか神様として祀ったの」

    さやかは複雑そうな顔をした。
    「強すぎて、倒すんじゃなくて拝まれたってこと?」
    ゆうきは頷いた。
    「だから妖怪としての崇徳上皇は、本当に特別な存在なのよ」

    「なんか一番関わりたくないタイプね」
    さやかは深いため息を一つついた。
     

    第7章  友だち


    「鬼こそ最強だ!」
    「いえ、天狗こそ頂点です!」

    イッカクとキクマルの論争は、互いに一歩も譲らない。
    やがてその怒りの矛先は河童のポン助へ向かった。
    「おい、ポン助!」
    「あなたはどうなんです?」

    二人に詰め寄られたポン助は、びくりと肩を動かした。そして、申し訳なさそうに口を開いた。
    「鬼と天狗、それから河童のぼくら三人は、日本三大妖怪って呼ばれてるけど……」と言いながら少しうつむく。
    「河童のぼくには、日本三大悪妖怪みたいな有名な親分はいないんです」
    イッカクとキクマルは黙って聞いていた。

    「でも」

    ポン助は慌てて顔を上げる。
    「そんなぼくにも、友だちならいます」

    玉藻前が楽しそうに目を細めた。
    「面白いじゃない。呼んでごらんなさい」
    ポン助は深くうなずいた。

    「ひょうすべ君」

    その妖怪は姿かたちだけでなく、持ち物まで奇妙だった。
    目を凝らしてみると、それは大きな茄子のように見えた。
    しかも、なぜか踊り続けている。
    左右に揺れ、くるくる回り、終始にこにこしている。
    どう見ても強そうには見えない。

    「こちらが、ぼくの大切な友だちのひょうすべ君です」
    ポン助はどこか誇らしげだった。

    玉藻前は思わぬ再会を喜んだ。
    「あら、ひょうすべちゃんじゃない。元気にしてたかしら」

    イッカクが腹を抱えて笑った。
    「ひょうすべ? そんな名前の妖怪は聞いたことねえぞ!」
    ふっと、キクマルも鼻で笑う。
    「下級妖怪もいいところですね」

    その言葉を合図に酒呑童子も、崇徳上皇も笑い始めた。
    その空気は次からつぎへ広がり、ついには妖怪一同を包んだ。

    しかし玉藻前とポン助だけは笑わなかった。

    「ひょうすべちゃん、あなたの強さをここにいる馬鹿たちに教えてさしあげたらどうかしら」

    ひょうすべは相変わらず踊りながらケラケラと笑っていた。それに釣られて、妖怪らの笑い声は一層大きくなった。

    「あっしの笑いにつられて笑ったものは、死んでしまいやす」

    会場が静まり返った。

    「鬼より鬼だぜ」とイッカクが息を吞んだ。
    「危うく命を落とすところでしたね……」
    キクマルも顔を引きつらせた。

    ポン助は、誇らしげだった。
    「ひょうすべ君には、まだ秘密があるんだよ。茄子が大好物で、人間の畑でしょっちゅう食べてるんだけどね」

    ポン助は少し声を潜めた。
    「その現場を見ちゃった人は、全身が紫色になる病気になって死んじゃうんだ」

    「怖ぇ!」とイッカクは恐れおののき、「笑えませんね」とキクマルは凍り付く。

    するとそこへ待ちくたびれたように別の者の声があった。
    「ワシらのことも忘れてもらっては困りますなぁ」
    声を辿ると、そこには年老いた老人のような姿の妖怪があった。

    「ぬらりひょんだ」とポン助が嬉しそうに指を差す。

    すると今度は、巨大な影がのっそりと現れた。
    「オレ……ツヨイ……ジシン……アル……」
    「ダイダラボッチ」とポン助は名前を呼んだ。

    さらに燃え盛る車輪が転がってくる。
    「ワイも負けんぞい」
    「輪入道だ」とポン助は言う。

    そして最後に、青白い影がふわりと浮かび上がった。
    「……うらめしや」

    ポン助は反射的に指を差しかけたが、途中で動きを止める。

    「えっと、どちらの妖怪さまでしたっけ」

    幽霊はしくしくと泣いた。
    「名前を覚えてもらってないなんて、うらめしい……」
    あちらこちらで我こそが最強の妖怪だと主張を始めた。


    妖怪たちの騒ぎを眺めながら、ゆうきは呆然としている。

    「すごいことになってる」
    「あれは唯我独尊(ゆいがどくそん)の典型ね」
    さやかが肩をすくめる。

    「ゆい……が……どくそん……?」
    「自分が一番だって思い込んでる人のことよ」
    「さやかって、けっこう難しい言葉に詳しいね」
    「あんたの妖怪知識には敵わないわよ……」

    さやかは妖怪たちを見ながら続けた。
    「それよりも、ゆうき。あんたもああならないように気をつけなさいよ」

    ゆうきはきょとんとした顔で首を傾げる。
    視線から逃れるように、さやかは話題を変えた。

    「ところで、幽霊も妖怪なの?」
    「いい質問ね」とゆうきの目がたちまちに輝く。

    「妖怪の本で読んだんだけど、幽霊は妖怪の下位概念なんだって」

    さやかは真顔になる。
    「お願い。小学生でも分かるように説明して」

    ゆうきは慌てて言い直した。
    「例えば、人間って大きなくくりでは動物でしょ?」
    「うん」
    「人間が動物の一種であるように、幽霊は妖怪の一種ってこと」

    さやかはようやく納得したあとで、感心したように息をつく。
    「ゆうきって、本当に好きなのね」
    ゆうきは照れくさそうに笑った。

    その笑顔は、妖怪たちの騒ぎよりもずっと楽しそうだった。

    第8章  百鬼夜行


     会場は、なおも大混乱だった。

    「だから鬼こそ最強だと言っているだろう!」
    「いえ、天狗こそが頂点です!」
    「ワシの方が格上じゃ!」
    「オレ……ツヨイ……」

    妖怪たちは好き勝手に騒ぎ立て、自分こそが一番だと主張している。
    もはや議論というより大乱闘寸前だった。
    そんな様子を眺めながら、玉藻前は頬杖をつく。

    「さて、どうしたものかしらねえ」

    退屈そうに呟いた次の瞬間だった。ふと何かを思いついたらしい。
    妖しい笑みが浮かぶ。

    「このままじゃ、いつまでたっても決着がつかないわね」

    一呼吸置いて宣言した。その瞳が妖しく光る。
    「こんなにたくさんの妖怪が集まるのも珍しい。せっかくだから、人間の街を練り歩きましょう。人間どもに、わらわたちの恐ろしさを思い出させてあげるの」

    ポン助の目が輝いた。
    「それ、面白そうですね」

    キクマルも顎に手を当ててうなずく。
    「悪くありませんね」

    イッカクも唸る。
    「最近の人間どもは妖怪をすっかり舐めてるからなあ」

    賛成だ、と妖怪たちから追従する歓声が上がる。
    その様子を見て、玉藻前は実に満足そうだった。

    「これって……まさか……」
    「どうしたの?」と隣のさやかが首をかしげる。

    ゆうきは興奮で頬を赤くしていた。
    「あの百鬼夜行の始まりじゃないかしら!」

    「百鬼夜行?」
    「あとで説明するわ! まさか、百鬼夜行の始まりがこんな理由だったなんて!」
    ゆうきは感動のあまり、胸の前で手を組んだ。
    さやかは思わず吹き出した。
    「伝承って、意外と適当なのね」
    「歴史的大発見なのよ」
    「はいはい」とさやかは肩をすくめた。

    ゆうきは勢いよく立ち上がった。
    「さやか、追いかけるわよ」
    「えっ、ちょっと――」
    ゆうきがさやかの手を引いて走り出す。
    二人は妖怪たちの向かった方向へ駆け出した。

    名だたる妖怪たちが列をなし、町中を練り歩いていく。
    その光景を少し離れた場所から見つめる二人の少女。
    ゆうきは、目の前の景色に魅了されていた。
    太鼓の音。揺れる提灯の灯。闇の中を進む無数の妖怪たち。

    ゆうきはこのとき、まだ気づいていなかった。
    その行列の先に、自分たちの運命が待っていることを。

    第9章  妖怪は人を喰らう


    「さてと。猿芝居もこの辺にしておこうかしら」

    ゆうきとさやかは、玉藻前の言葉の意味を理解できないでいた。

    「腹も減ったことだし。そろそろ、そこにいる小娘どもを喰らいましょう」

    最初から気づかれていた。

    自分たちの置かれている状況を察した瞬間、さやかの背筋は凍った。
    そこから先の記憶は途切れ途切れだった。
    我に返ると、ゆうきの手を引いて無我夢中で駆けだしていた。

    今どこを走っているのかもわからない。
    それでも彼奴等から少しでも遠くへ逃げようと必死だった。
    しかし、人間が妖怪から逃げ切れるはずもなかった。
    二人はあっけなく捕らえられてしまった。

    玉藻前は目を細めて言った。
    「本城でじっくりと料理するとしましょう」

    イッカクとキクマルが一歩前へ出る。
    二人はイッカクとキクマルにいとも簡単に担がれてしまった。
    「離しなさい!」
    さやかは暴れるように手足を振り回した。
    隣に視線を送ると、ゆうきは既に気を失っているようだった。

    「威勢の良いお嬢さんだこった。喰ったら、さぞ美味いにちがいない」
    とイッカク。
    「無駄口はその辺にして、さっさと運びますよ」
    とキクマル。

    ポン助はその様子をただじっと見守っていた。

    二人の少女の悲鳴は、やがて夜の町へ溶けるように消えていった。
    あとには、何事もなかったかのような静寂だけが残された。

    第10章 始まり


    自分の名を呼ぶさやかの声が、暗闇の中で響く。

    「……ゆうき」
    「ゆうき、大丈夫?」

    ゆうきはゆっくりと目を開けた。
    冷たい石壁。鉄格子。そして湿った空気。

    「ここは……」

    「妖怪たちの本城みたい。どうやら牢屋に閉じ込められたみたいね」とさやかは静かに答えた。

    ゆうきは辺りを見回し、不安そうに肩をすくめる。
    「……わたしたち、このまま食べられちゃうのかな」

    「相手が妖怪だからね」とさやかも珍しく弱気な表情を浮かべた。

    二人は肩を寄せ合いながら、その場に座り込む。
    しばらく静かな時間が流れた。
    先に口を開いたのは、さやかだった。

    「ねえ、ゆうき」
    「うん」
    「なんで強くなりたいの?」

    妖怪を好きなのは強いからだと言ったゆうきの真意を、さやかは知りたかった。
    ゆうきは答えに詰まる。

    「強さって、なんだと思う?」とさやかは問い直した。

    ゆうきはようやく口を開いた。

    「本当は、わたしもよくわかってないの」
    ゆうきはそう言って苦笑しながら、言葉を続けた。

    「妖怪のことを調べれば調べるほど、自分が何も知らないって思い知らされるの。知識が増えるより、知らない世界が広がる方がずっと速いんだもの」

    さやかはゆうきをしばらく見つめていた。
    やがて、静かに口を開く。

    「それって悪いことかな?」
    「えっ?」
    「知らないことに気づける人の方が、知ったふりしてる人よりずっと素敵だとわたしは思うな」

    ゆうきは黙って聞いていた。
    それにさ、とさやかは言葉を続ける。

    「本に載ってない妖怪がいたら、それって発見じゃない。本に書いてないから存在しないなんて、つまらないよ。ゆうきは、自分の見たものを自分の言葉で語ればいい」

    ゆうきはさやかをじっと見つめていた。

    自分の言葉で。
    さやかのその言葉をゆうきは噛みしめた。

    「うん。だから胸を張りなよ。わたしは妖怪が好きですって」

    ゆうきはさやかをじっと見つめていた。

    「ゆうきなら大丈夫。きっと、うまくいくよ」
    その言葉に、ゆうきは小さくうなずいた。

    すると、牢獄の外から聞き慣れた声が響く。

    「今から喰われるってのに、元気なことだな」

    イッカクだった。その隣にはキクマル。そしてポン助の姿もあった。

    「やっぱり、逃がしてあげない?」とポン助が小さな声で言う。
    「このアホ助が」とイッカクは怒鳴った。
    「そんなことしたら今度は俺たちが玉藻前さまに喰われちまうだろうが!」

    ポン助は黙り込む。
    「ほら、行くぞ」とイッカクは先に歩きだした。

    イッカクは鉄格子を開くと、ゆうきとさやかを強引に連れ出す。
    二人の悲鳴が地下牢に響く。

    二人を担いだイッカクは、暗がりの階段を三度登ったあとで、奥へと進んでいく。右へ一度曲がった先の大きな扉を開けた先には広間が広がっていた。

    その場の床にふたりは乱暴に放り出された。
    同時に聞き覚えのある女の笑い声が奥の方から聞こえてきた。

    「お目覚めかしら」

    二人は沈黙を守る。

    「安心しなさい。すぐに永遠の眠りにつけるから」

    その意味することを二人には理解できた。
    ところが、玉藻前は顎に指を当てると何やら不可解なことを言い出した。

    「でも、このまま喰ってしまうのも退屈ね。せっかくだから、ゲームをしましょう」

    ゆうきとさやかは、顔を見合わせる。

    玉藻前はふたりの様子を愉快に眺めながら言葉を続けた。

    「この城は、もともと陰陽師の館だったの」

    陰陽師。
    ゆうきはその名に反応する。

    「その陰陽師が今どこにいるのかは、ご想像にお任せするわ」

    取り巻きの妖怪たちが不気味に笑い出した。

    「でもね、その陰陽師が残したものの中に、わらわたちにとって都合の悪いものがあるの。それは城の奥に祀られている一枚のお札よ」

    お札……ゆうきは玉藻前の真意をまだつかめない。

    「そのお札は十三階段の先にある」

    「十三階段……」

    「あの陰陽師は十三階段全体に徳の結界を施したの。わらわたち妖怪は一段たりとも踏めない」

    ゆうきは息を呑んだ。

    「そこで、あなたたちの出番よ」と玉藻前は意地悪そうに微笑む。

    「どちらか一人が階段を登って、お札を取ってくる。残りの一人は人質になってもらうわ。そうでもしないと、あなたたち人間はすぐに逃げてしまうもの。お札を持ち帰れたなら、その時は二人とも解放してあげる。さあ、どうする? このゲームに乗る? それともこのまま大人しく料理される?」

    ゆうきとさやかの二人にしばしの沈黙が落ちる。

    「わたしが残る」

    さやかが口火を切った。

    「さやか!」

    さやかは内容を悟られないようにゆうきの耳元で囁いた。

    「ゆうきは十三階段へ向かうふりをして、そのまま逃げるの」
    「そんなことできない」とゆうき。
    「お願い」とさやかは微笑んだ。

    「ゆうきと一緒にいられて楽しかった」

    「だから――」

    「いや」とゆうきはかぶりを振った。

    すると、玉藻前はいよいよ苛立ち扇子を叩いた。

    「ごちゃごちゃとうるさいわね。どっちが行くの。わらわは腹が減ってイライラしてるの」

    ゆうきは拳を握り締めると、覚悟を決めた。

    「……わたしが行きます」

    それでいい、とさやかはうなずいた。

    でも、と言ったあとで、さやかに聞かせるように大きな声で言った。
    「逃げたりしない。絶対にお札を持ち帰る。絶対に、さやかを助ける」

    ゆうきのその言葉にさやかは戸惑いを見せる。
    一方で、玉藻前は満足そうに笑った。

    「いい目をしているわね」

    ゆうきは、まっすぐ玉藻前を見た。
    「約束だからね、お札を持ってきたら、さやかを解放して」
    「それは、ちゃんとお札を持ってこられたらの話」と玉藻前は扇子で口元を隠した。
    それから、「せいぜい頑張ることね」と他人事のような言葉を吐き捨てたあとで、ポン助に彼女を十三階段の場所まで案内するように指示した。


    ゆうきがポン助に連れられてその場をあとにしようとする。
    そのとき、さやかが叫んだ。

    「ゆうき! 十三階段だよ!」

    さやかの言葉の意味はわからなかった。
    それでも、ゆうきは小さくうなずくと扉の向こうへ消えた。


    暗がりの城内をポン助は手元に提灯をもって、先頭を歩く。城の奥へ続く長い石造りの廊下。ポン助の背中を見ながら、ゆうきは進んでいた。
    しばらくすると、ポン助は立ち止まった。

    「ねえ、本当に行くの?」

    ポン助の言葉にゆうきは首をかしげた。
    ポン助は視線を落とす。
    「このまま逃げてもいいんだよ」

    ゆうきは即座に大きくかぶりを振った。
    「さやかを置いて逃げるなんてできない」

    ポン助はなぜか残念そうな顔をする。

    しばらく歩くと、ゆうきとポン助は巨大な扉の前へたどり着いた。
    扉には無数の札と呪文が刻まれている。

    「ここだよ」とポン助は静かに言った。
    「昔、一人の陰陽師が残した試練なんだって」

    その迫力にゆうきの息が止まる。

    「この扉の先に十三階段がある。ぼくの案内はここまでだよ。今まで挑戦した人間もいたけど、誰一人、最後まで登れなかった。なかには途中で逃げ出した者もいた」とポン助は真剣な顔で言った。

    「今まで挑戦した人なんて知らない。わたしは、わたしだもの」とゆうきは扉を見つめながら言った。

    ポン助は目を丸くした。

    「さやかは、わたしにとって初めての親友なの。だから絶対に逃げない」

    しばらく沈黙が流れる。

    やがてポン助は、自らの首に掛けていた小さな首飾りをそっと外した。

    「これ、お守り。ぼくが持ってても意味ないから」

    ゆうきは戸惑いながらも両手でそれを受け取った。
    首飾りは十三角形の形をしていた。

    「ありがとう」

    ゆうきの言葉にポン助は照れくさそうにした。

    「がんばって」
    「うん」

    ゆうきは首飾りを早速身に着けると、巨大な扉を力いっぱい押した。
    扉がゆっくりと開かれる。

    「待ってて、さやか。必ず戻るから」

    その先には、闇の中へと続く十三階段が待ち受けていた――。

    第11章 十三階段(前編)


    十三階段を守る巨大な扉が開かれ、その先へ進もうとしたゆうきの前に、さらにもう一つ、小さな扉が現れた。
    ゆうきはその扉に勢いよく手をかけた。
    だが、なぜか開かない。押しても引いても駄目だった。

    「うそ」

    焦りが胸をよぎる。
    さやかが待っているのに、こんなところで時間を使う暇はない。
    そのときだった。

    ――焦ってはいけません。落ち着いて考えるのです。

    不意に、聞き覚えのない不思議な声が耳元で響いた気がした。
    ゆうきは顔を上げるが、辺りには誰もいない。
    気を取り直したゆうきは、一度深呼吸をした。

    そして、一つの可能性に思い当たった。

    「もしかして」

    ゆうきが扉を横へ滑らせると、それはガラガラ、と音を立てて開いた。

    「やっぱり、襖だったんだ……」

    開かれた襖の先は真っ暗だった。
    怖い。
    道が見えない。
    否、この先に道があるのかもわからない。

    ゆうきは、さやかの顔を思い出す。
    前に進むしかない。
    祈るような思いで一歩踏み込んだ。

    その瞬間に不気味な笑い声が響いた。

    「ひゃっひゃっひゃっひゃ」

    ゆうきは身構える。
    暗闇から浮かび上がるように、小柄な老婆が姿を現した。

    「よくぞ、前へ進んだ」
    「あなたは?」
    「十二天将の一人。大陰(たいいん)じゃ」

    「十二天将……」

    何かの本で見たことがあるその名に、ゆうきは息を呑んだ。

    「わしは第一の徳を司る者。その徳は『智恵』じゃ」
    そう言って、大陰は細い目を細めた。

    ゆうきは思わず後方の扉を振り返った。

    「さっきの……」
    「そうじゃ」と大陰は頷いた。

    「人は困難にぶつかると立ち止まる。確かな道が見えねば、一歩を踏み出せん。じゃが、そんな道は誰にも分からんのじゃ」

    老婆は、にやりと笑う。

    「じゃが、お前は考え続けた」
    「……」
    「答えを探しながら、それでも一歩を踏み出した」

    ゆうきは黙って大陰を見つめていた。

    「智恵とは、知識の量ではない。考え続けながら前に進む力のことじゃ」と大陰は言った。

    そして、満足そうに頷いた。

    「合格じゃ」
    「えっ?」

    「今のお前さんにふさわしい。第一の徳、『智恵』を授けよう」

    ゆうきは安堵でその場に膝から崩れ落ちた。
    すると世界が光に包まれる。
    次の瞬間、ゆうきは十三階段の元の一段目に立っていた。

    首飾りにはいつのまにか宝石がはめ込まれていた。
    そこには――智恵、と刻まれている。

    よし、とゆうきは自分を奮い立たせて再び立ち上がった。
    立ち止まっている暇はない。さやかが待っている。

    ゆうきは二段目へ足を踏み出した。


    その頃、玉藻前は水晶越しにゆうきの様子を眺めていた。

    「どうやら最初の試練は越えたようね」

    そう言うと、玉藻前は扇子で口元を隠した。
    目だけが愉快そうに細められた。

    縄で両手を縛られたさやかは、何も答えなかった。
    玉藻前を睨み返すこともせず、ただ静かに目を閉じていた。
    まるで、ゆうきの帰りを信じているかのように。

    「さて、どこまで頑張れるのかしら」

    玉藻前は再び水晶をのぞきこんだ。

    二段目に足を踏み入れた瞬間、景色が変わった。

    そこへゆうきの背丈を優に超える巨大な白虎が現れた。

    「我は十二天将の白虎(びゃっこ)」
    地を震わせるような低い声だった。

    「第二の徳を司る者」
    「第二の徳……」

    そう言えば、先ほどは第一の徳と言っていたことをゆうきは思い出した。
    白虎は言葉を続ける。

    「それは兄弟愛」

    兄弟愛...…ゆうきはつぶやく。
    すると突然視界が揺らぎ、再び景色が変わった。
    気づけば、目の前に懐かしい景色が広がっていた。
    そこは幼少期によく遊んでいた近所の公園だった。

    「ここ……」

    そして、ベンチの近くにいる少年を見つける。

    健一。

    それは、ゆうきの弟だった。
    だが、違和感にすぐに気づいた。
    目の前にいる健一は5、6歳の頃だろうか。
    そんなわけがない。
    健一はいま、中学生だからだ。

    健一がこちらに向かって嬉しそうに駆け寄ってきた。

    「お姉ちゃん。はい」

    差し出されたのはチョコレートだった。

    「ママがお姉ちゃんと半分こしなさいって」

    ゆうきは状況の整理もつかないまま、思わずそれを受け取った。
    そして気づいたときには、無意識に弟に語りかけていた。

    「あんたの分は?」
    「もう食べちゃった」

    健一の視線はチョコレートに釘付けだった。
    この光景には覚えがあった。
    そして、あの頃の思い出を再現するように、自然と次の言葉が出た。

    「だめ」

    健一の顔が曇る。

    「これはわたしの分でしょ」

    健一は今にも泣きそうだった。
    すると、どこからか声が聞こえる。

    ――お姉ちゃんなんだから譲りなさい。

    母の声だった。

    ――お前はお姉ちゃんだろ。

    これは父の声。

    その言葉が胸の奥で何度も反響する。
    ゆうきは唇を噛んだ。
    「なんで……」と小さく呟く。

    「なんでいつもわたしばかり我慢しなきゃいけないの……」

    わたしだって甘えたい。
    自分だって子どもだった。
    そんな気持ちが、ずっと胸の奥にあった。
    しばらく俯いていたゆうきは、やがて小さく息を吐く。
    そして健一に視線を戻した。

    健一は泣きそうな顔でこちらを見ている。
    あのときのわたしは、結局チョコレートを渡さなかった。

    でも今なら――。

    「ほんとに、あんたは」

    ゆうきは笑った。

    「今回だけだからね」

    チョコレートを半分に割る。

    「半分こ」

    健一の顔がぱっと明るくなった。

    「お姉ちゃん、ありがとう!」

    その瞬間、世界が光に包まれた。

    再び白虎が現れる。

    「あのときのお前は間違っておらぬ。子どもだったお前にも、譲れぬ思いがあった。それでも今のお前は、誰かの幸せを願って自ら分け与える道を選んだ。それもまた兄弟愛のひとつ」

    そう言うと、大きな体を丸めた白虎はゆうきの視線に合わせるように膝をついた。

    「汝に第二の徳を授けよう」

    ゆうきの視界にまばゆい光が差し込む。

    気づけば、ゆうきは再び二段目に立っていた。
    どうやら試練を終えると、元いた階段へ戻されるらしい。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――兄弟愛、と刻まれている。

    ゆうきは拳を握った。

    「待ってて、さやか」

    そして迷わず三段目へ足を踏み出した。


    十三階段の三段目へ足を踏み入れた瞬間、ゆうきの前に石碑が現れた。

    そこには、こう刻まれていた。

    「我は十二天将の天空。三番目の徳を司る者。その徳は友情」

    ゆうきは読み進める。

    「友情。それは友を信じる心」

    友情――。
    その文字を見た瞬間、ゆうきの脳裏にさやかの笑顔が浮かんだ。
    出会ったのは、つい昨日。
    それでも今、自分は命を懸けてでも助けたいと思っている。

    よく見ると、石碑にはさらに文字が続いていた。

    「汝に問う。いま汝が救おうとする者は本当に友達なのか。昨日出会っただけではないのか。利用されているだけではないのか」

    石碑の問いかけにゆうきは一瞬戸惑う。それでも目を閉じると、一緒に笑い、一緒に歩き、百鬼夜行を眺めたさやかとの時間が胸によみがえった。

    そして――

    「さやかはわたしの大切な友だちです」とゆうきは言い切った。

    石碑に新たな文字が浮かび上がる。

    「友情とは、試練の先にあるものではない。誰かを友と信じた、その瞬間に生まれるものだ」

    そして石碑の文字はそこで終わっていた。
    その言葉にゆうきは思わず息を呑んだ。

    「さやか……」

    次の瞬間、辺りが光に包まれる。

    気づけば、ゆうきは再び三段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――友情、と刻まれている。

    「さやか、待ってて」

    ゆうきは迷うことなく四段目へ足を踏み出した。


    一方その頃。

    玉藻前は水晶をのぞき込みながら愉快そうに笑った。

    「あらあら。案外やるじゃない」

    さやかは黙ったままだ。

    「せいぜい、わらわを楽しませてちょうだい」

    玉藻前の高笑いだけが城内に響いた。


    四段目へ踏み出した瞬間、ゆうきの前に得体の知れない一つの影が現れた。影からは鋭い眼光に威圧感のある笑みが浮かんでみえた。

    「あなたは誰?」
    と、ゆうきは思わず尋ねる。

    「まずは自分から名乗るのが礼儀じゃねえのか?」

    ゆうきの問いにその影はすごむ。

    「……海江田ゆうきよ」
    「はははっ! 人間の小娘か!」

    じきに影は男の姿へと変貌すると、豪快に笑った。

    「オレ様は十二天将の騰蛇(とうだ)。四番目の徳を司る者。その徳は謙虚だ」

    「あなたが謙虚を司っているの?」とゆうきは訝しげに言った。

    騰蛇は腹を抱えて笑った。

    「その言葉、あとで自分に返ってくるぜ」

    騰蛇のその言葉とともに場は光に包まれ景色が変わった。
    そこは教室だった。

    数学の授業中の風景。
    教師に指名される自分がいる。ゆうきは、遠巻きにその様子を眺めていた。その光景に映るわたしは問題を難なく解き、生徒たちから感嘆の声が上がる。

    その瞬間、頭の奥から声が響いた。

    ――みんなバカばかり。

    ゆうきは、自分自身の声にはっとする。

    ――教師も、生徒も。
    ――誰も疑問を持たない。
    ――誰も声を上げない。

    それは他の誰でもない、普段学校に通う自分の内心だった。

    学校への違和感。周囲への苛立ち。そして、自分だけは分かっているという思い。

    「やめて……」

    ゆうきは耳を塞ぐ。
    だが声は止まらない。

    ――自分は正しい。
    ――周りは間違っている。

    自分の言葉に胸が痛む。

    「違う……」

    ゆうきは小さく首を振る。
    この世界へ来てから知った。
    自分の知らないことが、どれほど多いのか。

    さやかと出会ってわかった。
    好きなものを語る楽しさを。
    知らない世界へ踏み出す喜びを。
    わたしは何も分かってなどいなかった。

    気づけば涙がこぼれていた。
    それでも……今は先へ進みたい。
    さやかを助けたい。

    その瞬間、世界が再び光に包まれた。

    そこには、騰蛇が満足そうに腕を組んでいた。

    「今ここでお前に改めて問おう。最初に玉藻前を見てどう思った?」
    「憧れた……」
    「それだけか?」
    「……」
    「強いから好きだったんだろ?」
    「……」
    「それって自分が強くなりたいだけじゃねぇか」

    ゆうきは言葉を返せなかった。

    「やっと分かったみたいだな」と騰蛇はニヤリと笑った。

    その言葉にゆうきは顔を上げた。

    「謙虚とは、自分を過信しない心のことだ。自分を小さく見ることでも、自分を卑下することでもねぇ。自分を正しく知ることだ」

    騰蛇は続ける。

    「嬢ちゃんは、今まさに自分の器を知り、それを受け止めようとしている。忘れるなよ、その気持ち」

    騰蛇の声が遠ざかった、次の瞬間、辺りが光に包まれる。

    気づけば、ゆうきは再び四段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――謙虚、と刻まれている。

    「ありがとう……騰蛇」

    そして迷うことなく、五段目へ足を踏み出した。


     五段目へ足を踏み入れた瞬間、柔らかな赤い光が辺りを包んだ。

    その中心に立っていたのは、美しい女性だった。

    「わたしは十二天将の朱雀(すざく)」

    優しい声だった。

    「五番目の徳、それは希望。未来を信じる心です」

    ゆうきは息を整える。
    朱雀は微笑んだ。

    「親友を助けるために、ここまで歩んできたあなたの姿。そのものが希望なのです。人間の娘よ。ここで、少し休んでいきなさい。あなたの傷を癒してあげましょう」

    ゆうきは思わず首を振る。

    「休んでいる暇なんてない。さやかが待ってる!」

    そう言うと、ゆうきは朱雀の横を素通りして先を急いだ。
    そのまま五段目を駆け抜けた――はずだった。

    だが、気づけば四段目に立っていた。
    そんなはずはない。
    自分はあのとき、確かに五段目へ足を踏み入れたはずだ。
    ゆうきはもう一度五段目を踏んだ。

    先ほどと同じ光景で、目の前には再び朱雀が立っていた。
    先を急がなければならないのに、進めない。
    ゆうきは焦りを一層募らせる。

    「朱雀、お願い! わたしは先を急いでいるの。次へ行かせて!」

    ゆうきはそう言うと、先ほどと同じように朱雀を横目に駆け抜けた。
    まただ。
    気づけば、また四段目へ戻されていた。
    ゆうきは力強く五段目を踏みなおす。

    朱雀はずっと同じ場所にいる。

    「どうしてわかってくれないの? わたしは休んでる暇はないの!」

    すると、朱雀は穏やかに言った。

    「だからこそ、休むのですよ」

    ゆうきの言葉を受け止めるように、朱雀は優しく語りかけた。

    「人は焦ると道を逸れます。正しい判断もできなくなる。その先に希望はありません」

    朱雀は続ける。

    「前へ進むことだけが強さではありません。休むこともまた力になります。あなたがここで力尽きれば、あなたを待つ人の希望は途絶えるでしょう」

    そして、次の言葉で締めた。

    「休むことを恐れる者は、希望を急ぎすぎる」

    ゆうきの張り詰めていた気持ちが解けると、いよいよ膝から崩れ落ちた。
    朱雀が両手でそっと支える。その温もりはまるで長い旅の途中で見つけた灯火のようだった。

    「あなたを待つ人にとって、あなたは希望なのです。どうか、そのことを忘れないで」

    気づけば、ゆうきはようやく五段目に立っていた。
    なぜだか、胸の焦りが少しだけ消えていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――希望、と刻まれている。

    ゆうきは首飾りを強く握りしめる。

    「待ってて、さやか」

    そして六段目へ足を踏み出した。


    景色が変わる。
    見慣れた自宅の居間が目の前に広がっていた。
    そこでは、ゆうきが両親と言い争っていた。

    「良い大学へ行って、良い会社へ就職して――」

    母の声がする。

    「それがあなたの幸せよ」

    父も続く。

    だが昔のゆうきは反発していた。

    「わたしの幸せは、わたしが決める!」

    その光景を見つめながら、今のゆうきは胸を押さえた。
    ずっと苦しかった。
    両親に決められる人生が。
    期待される人生が。
    まるで決められたレールの上を歩かされることが。

    だけど――

    本当に憎かったわけじゃない。
    両親が自分の幸せを願っていたことも知っていた。
    ただ、その幸せの形が違っただけだ。

    「お父さん、お母さん……」

    ゆうきは小さく呟く。

    「わたし、自分の道を歩きたい。失敗するかもしれない。迷惑もかけるかもしれない。それでも、自分で選びたいの」

    その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少し軽くなるのを覚えた。
    目の前には、幼い少年が立っていた。
    あはは、とその少年は無邪気に笑った。

    「ぼくは、十二天将・太常(たいじょう)だよ。六番目の徳を司る者。その徳は孝心(こうしん)。孝心とは、親を大切にする心のことだよ」

    太常は言葉を続ける。

    「親を大切に思う心、それは必ずしも親の言う通りに生きるというわけじゃない」

    その言葉にゆうきは顔を上げた。

    太常は続けた。

    「だから安心して。その想いを忘れなければいい」

    ゆうきの目に涙が浮かぶ。
    太常はにっこり笑う。
    その時だった。

    突然、光が差し込んだ。

    気づけば、ゆうきは再び六段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――孝心、と刻まれている。

    ゆうきはそのまま七段目へ足を踏み出した。
     

    玉藻前は水晶に映るゆうきを見つめながら妖しく笑った。

    「あの小娘ったら、なにも知らずに徳を積んでいるなんて。せいぜい励むがよい。その先に何が待っているとも知らずにね」

    さやかは、黙ってその様子を見つめていた。


    ゆうきが七段目へ足を踏み入れた瞬間、視線の先にひとりの老人が現れた。

    「わたしは海江田ゆうきです。あなたは?」

    「ワシは十二天将、玄武(げんぶ)じゃ。七番目の徳を司る者。その徳は親切じゃ。親切とは、困っている者に手を差し伸べる心」

    玄武が杖を鳴らすと、景色がたちまちに変わった。

    ゆうきの目の前には、二つの橋があった。

    再び玄武が姿を現すと、こう告げた。
    「この橋は、どちらか一方にしか渡れぬ」

    左の橋の向こう岸にはさやかの姿が見えた。
    右の橋には迷子で泣いている子どもの姿があった。

    「橋は一度渡ると崩れる」と玄武は続けた。

    「わたしはどうすればいいの……」
    「どちらに手を差し伸べるのか、よく考えて橋を渡りなさい」
    「そんな……」

    左ではさやかが必死に「ゆうき!」と叫んでいる。
    右では迷子が「お母さん……」と泣いている。
    その小さな泣き声が、ゆうきの胸を締めつけた。

    ゆうきはたじろぐ。

    「さやかを助けたい……。だからといって、あの子を見捨てることなんてできないよ!」

    玄武は黙ったままだ。

    「こんなの……こんなの……わたし一人で、すべてを解決できるわけないじゃない! これのどこが親切なのよ!」

    ゆうきはありったけの声で叫んだあと、その場に膝から崩れ落ちた。

    玄武がようやく口を開く。

    「その通りじゃ」

    その言葉にゆうきは戸惑う。

    「悲しいことに、すべての人を救うことなどできはしない」

    玄武は言葉を続ける。

    「じゃが、お主は一人の友を救うためにここまで来たのだろう。すべてを救えなくてもいい。手の届く誰かでいい。徳とは、完璧な者に与えられるものではない。歩み始めた者に宿るものじゃよ」

    玄武がゆっくりと手を挙げる。
    次の瞬間、二つの橋は跡形もなく消えていた。

    「お主の前にいつか再び選択が訪れるかもしれん。そのときは、お主の目の前にいる者へ手を差し伸べてやってほしい。ワシは、お主のその心を信じておる」

    その瞬間、光に包まれた。

    気づけば、ゆうきは再び七段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――親切、と刻まれている。

    ゆうきは頬を伝った涙を手で拭いながら、八段目へ足を踏み出した。

    第12章 十三階段(後編)


    八段目を踏み出した。

    ――何も起こらない。
    ゆうきは思わず立ち止まった。
    今までなら、階段を踏むたびに景色が変わり、試練を与える者が現れた。しかし今回は違う。

    ゆうきは首をかしげ、もう一度八段目を踏んだ。
    やはり反応がない。
    八段目には試練がないのだろうか。

    試しにゆうきは次の九段目へ足を踏み込んだ。
    だが、そこにも試練は現れなかった。
    不思議に思ったゆうきは、そのまま勢いで階段を次からつぎへ登ってみせた。
    進める。
    このままなら、お札のある十三段目まで、あっという間に辿り着ける。
    今までの試練は何だったのだろう。

    ゆうきの足取りは軽くなり、階段を駆け上がる。
    ところが、いくら登っても階段は延々と続いていた。
    とっくに十三段目に辿り着いているはずなのに。
    振り返って、いま自分がいる段数を一から数え直してみた。

    一
    二
    三
    ポ
    ポ
    ポ
    八段目だった。
    あれだけ登ったはずなのに前に進んでいない。

    「一体どうなってるの……」

    ゆうきは立ち尽くした。
    そのとき、どこからか二人の若い男と女の声が聞こえてきた。

    男は言った。
    「俺は八番目の徳を司る十二天将の勾陣(こうじん)。その徳は勤勉」

    次に女が話した。
    「私は九番目の徳を司る十二天将の天后(てんこう)。その徳は意志」

    そして二人は告げる。

    「勤勉とは、終わりが見えなくとも歩みを止めぬことだ」
    「そして、その歩みを選び続ける心を意志という」

    終わりがない――その言葉は、どこまでも続く階段そのものだった。
    けれど、諦めなかった。

    たとえ終わりが見えなくても、歩くしかない。
    ゆうきは決意を固めた。

    その様子をしばらく見守っていた勾陣が口を開いた。
    「終わりが見えぬ道を歩く。それだけのことだ」

    天后が続ける。
    「それでも歩み続けると決めること。それが意志です」

    ゆうきは胸の首飾りを握りしめた。

    智恵、兄弟愛、友情、謙虚、希望、孝心、親切――。

    そこにはこれまで集めてきた徳の宝石が輝いていた。

    本当は怖い。
    それでもさやかが待っている。
    ゆうきは自分に言い聞かせるように力強く言葉を放った。

    「わたしは進む。さやかを助けるために。そして、最後まで歩き続けるために」

    勾陣と天后の声が重なった。

    「それで十分だ」

    その瞬間、光に包まれた。

    気づけば、ゆうきは九段目に立っていた。
    首飾りには、新たな宝石が二つ輝いていた。
    そこには――勤勉と意志、と刻まれていた。

    十三階段まで、もう少し。
    ゆうきは気持ちを新たにして、十段目へと足を踏み出す。


    十段目を踏み出すと、そこには誰の姿もなかった。
    だが、どこからともなく若い女と思われる声が響いた。

    「私は、十二天将のひとり六合(りくごう)。十番目の徳を司る者。その徳は遵法(じゅんぽう)。遵法とは、共に生きるために約束を守る心」

    すると今度は、聞き覚えのある声がした。
    自分の声だ。

    ――法律や規則なんて、結局は人を縛るための道具。学校も会社も人を管理したいだけ。わたしは自由になりたい。誰にも決められたくない。

    ゆうきは自分の声に答える。  

    「そう。わたしは、ずっとそう思ってた」

    すると、次に六合の声がした。

    「それが汝の答えか」

    ゆうきは何も答えられない。

    六合は続ける。

    「では問おう。汝は法律や規則がなくとも、人は本当に自由を分かち合えると思うか」

    ゆうきはしばらくのあいだ考え込んだ。 
    そして、重い口を開いた。

    「ルールがあるから、みんな安心して同じ場所で生きられるんだよね……」

    ゆうきは自問自答するように言葉を続ける。

    「それって、自由を奪われていたんじゃなくて、守られていたってこと?」

    しかし、六合は答えない。
    ゆうきは続ける。

    「わたしは自由ばかり求めてた。でも、自由を守るためのルールもあるんだよね」

    ようやく六合の声がした。

    「人間の娘よ。この世に絶対の答えなどない。だが一つだけ言えることはある。汝が自由に考え、自由に生きようとすることもまた、約束によって守られているということ」

    ゆうきはうまく答えられない。

    六合は言う。

    「そうだ。悩め、考えろ。そして生きろ。その歩みそのものが尊い。我は思う。汝に遵法の徳を託す価値があると」

    その瞬間、光に包まれた。

    気づけば、ゆうきは再び十段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――遵法、と刻まれている。

    「このまま立ち止まるわけにはいかない。さやかを助けるんだから」

    ゆうきは十一段目へ足を踏み出した。 


    十一段目に踏み出すと、目の前にはひとりの壮年の男が立っていた。
    その男はゆうきが尋ねるまでもなく、自ら静かに語り始めた。
     
    「我は、十二天将の青龍(せいりゅう)。十一番目の徳を司る者。その徳は正義」

    正義――。
    ゆうきは、その言葉を胸の中で静かに繰り返した。

    青龍は言葉を続ける。     

    「正義とは、自分が正しいと信じる道を貫こうとする心。だが、これだけは覚えておけ。正義の形は一つではない」

    ゆうきは息を吞む。

    「人は皆、それぞれの正義を抱いて生きている。だからこそ、物事を簡単に善悪だけで切り分けるな。それを肝に銘じて、先へ進め」

    最後に青龍はゆうきに言った。

    「君は何かを信じて、ここまで来たんだろう。その信じる心を忘れるなよ」

    ゆうきはうなずく。

    その瞬間、光に包まれた。

    気づけば、ゆうきは再び十一段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――正義、と刻まれている。

    「さやかが待ってる。前に……前に進まなきゃ」

    ゆうきは十二段目へ足を踏み出した。


    十二段目に踏み出すと、そこには人の姿とは言い難い何者が立っていた。
    その者は言う。

    我は十二天将の長の天一神(てんいちじん)。十二番目の徳を司る者。その徳は勇気」

    勇気、という言葉を聞いた瞬間、昔のある場面が蘇った。
    それは、ゆうきが両親に自分の名前の由来を聞いた時の記憶だった。

    ――ねえねえ、お父さん、お母さん。わたしの名前はどうしてゆうきって言うの?

    ゆうきの問いに父と母は眩しそうに目を細めると、先に父が語りだした。

    ――それはね、パパとママがゆうきに、何があっても自分の人生を信じて生きてほしいと願って名付けたんだよ。本当は、漢字で勇気にしようか悩んだけど、最後はママと相談して、ゆうきに決めたんだ。

    ――あなた、ゆうきはまだ7歳よ。そんな難しいこと言われてもわかんないよね。ゆうきは自分のこと好き?

    ――うん、好きだよ。毎日、楽しいもん。

    ――ママはそれだけで嬉しいわ。これからも、ゆうきには自分のことを好きでいてほしい。

    それは、すっかり忘れていた光景だった。
    再び天一神が口を開く。

    「ゆうき。今のあなたはその名にふさわしい。我から、この最後の徳を授けよう。そして、その先へ進むがよい」

    その瞬間、ゆうきは光に包まれた。

    気づけば、ゆうきは再び十二段目に立っていた。
    首飾りには新たな宝石がはめ込まれていた。
    そこには――勇気、と刻まれている。

    やっとここまで来た。
    あと一段。
    残すは最後の十三段目。この先にお札がある。

    第13章 裏切り


    ゆうきの息は荒く、足は震えていた。
    それでもここまで来た。

    智恵、兄弟愛、友情、謙虚、希望、孝心、親切、勤勉、意志、遵法、正義、勇気。

    数々の試練を乗り越え、ようやく辿り着いた十三段目。
    この先に、さやかを救うお札がある。

    その瞬間、またあの男の声が聞こえてきた。

    ――最後の徳は二人でなければたどり着けません。

    ゆうきは辺りを見渡すが、やはり誰もいない。
    気のせいなのだろうか。
    ゆうきはかぶりを振って、自分自身に言い聞かせるように言った。

    「ここで立ち止まってるわけにはいかない、さやかが待ってる!」

    そう言って首飾りを握りしめると、ゆうきは最後の十三段目を踏み出した。

    その瞬間、辺りが闇に包まれた。

    光が消える。
    音も消える。
    何も見えない。
    何も聞こえない。

    自分が立っているのかさえわからない。

    「……何?」

    声を出しても返事はない。

    恐怖だけが胸の奥からじわじわと広がっていく。
    怖い。
    逃げたい。
    今すぐここから逃げ出したい。

    そのとき、一つの考えが頭をよぎった。

    そうだ。
    もともと階段は十二段しかなかったにちがいない。
    きっと、わたしはお札に気づかずに通り過ぎてしまった。
    そうに決まっている。
    急いで取りに戻らなければ。
    そうしよう。

    ゆうきがきびすを返す、そのときだった。

    「ゆうき! 十三階段だよ!」

    突如として、あのときのさやかの声が思い起こされた。

    ゆうきは顔を上げた。

    「さやか!」

    ここまで歩いてきた道を、間違えるはずがない。
    私はずっと前を見て進んできたんだ。
    間違ってなんかいない。
    さやかを助ける。
    そのためにここまで来たんだ。

    さやかのあの声に冷静さを取り戻したゆうきは、拳を強く握った。
    「この先に道はある」

    暗闇の中、一歩また一歩と踏み出す。

    「さやかを信じる」
    「……」
    「……」
    「……」

    どれほど歩いたのかわからない。
    不安が消えたわけじゃない。
    今にでも引き返したくなる。
    それでも、ゆうきは前へ進み続けた。

    やがて、遠くの方で一筋の光が見えた。
    気づいたときには、その光に向かってゆうきは無我夢中に走り出していた。
    あの先にお札がある。
    そう信じて。

    光がいよいよ大きくなると、ゆうきはその眩しさに思わず目をふさいだ。
    ようやく光に慣れたころ、ゆうきは再びゆっくりと目を開けた。

    そこはどこかで見覚えのある景色だった。
    派手に装飾された玉座まで長く続く赤い絨毯。
    壁際を走るように並べられた灯篭に灯された妖しく揺れる炎。

    そして――

    玉座に座る少女を見て、ゆうきは息を呑んだ。
    その少女は頬杖をついたまま足を組み、こちらに視線をずっと送っていた。

    「……さやか?」

    高らかな笑い声が響いた。
    その声の主は、玉座のすぐ横に控えるように立つ玉藻前だった。

    「見上げたものだわ。まさか本当に十三階段を登り切るなんてね。さぞかし美味いにちがいない」と玉藻前は愉快そうに扇子を広げた。
    だが、その笑顔に温度はなかった。

    「……どういうこと?」
    ゆうきの背筋が凍る。

    目の前に広がる光景に、ゆうきは震える声で問いかけた。

    「お札は? なぜ、さやかが玉座に座っているの?」

    玉藻前はいよいよ腹を抱えて笑った。

    「まだ分からないの? お馬鹿さんにも程があるわね。そろそろ玉藻前さまから説明して差し上げたら?」とほんの少し棘のある言い回しをした。

    ゆうきの視線は再び玉座の少女に戻る。

    「……玉藻前?」

    その少女は静かに目を閉じると、小さく息を吐いた。

    「……あんた、本当に馬鹿ね」

    それは、ゆうきの知らない冷たい声だった。

    「玉藻前はわたしよ」

    時間が止まった気がした。
    理解できない。否、理解したくない。

    「さやかが……玉藻前?」

    ただ、体だけがかたかたと震えていた。
    さやかは横に立つ女に視線を向けると、淡々と話した。

    「彼女は夜叉之遊女(やしゃのあそびめ)。わたしのただの家来」
    その言葉に夜叉之遊女は、一瞬だけ嫉妬している表情を見せた。

    さやかは続ける。

    「お札なんて存在しない。あんたはあの階段で徳を積んでいただけ」

    なぜだと思う?と、さやかは微笑む。

    「妖怪にとって、徳を積んだ人間は最高のご馳走なの」

    それは今まで見せていた笑顔とは違った。
    一つひとつの言葉がゆうきの胸を刺していく。

    「全部、わたしが仕組んだ罠よ」

    ゆうきは言葉を失った。
    それでも精一杯の気力を振り絞って問いかけた。

    「……どこから?」

    さやかは無表情で答える。

    「最初から全部」

    首飾りの宝石が急に重く感じた。
    ここまで信じてきたもの、積み上げてきたもの、そのすべてが崩れていくようだった。

    「あんたは、自分で自分を美味しく料理していただけよ」

    沈黙が落ちる。

    やがて、さやかは小さく肩をすくめた。
    「でも、十二の徳を本当に積んだことだけは認めてあげる」

    そして問いかける。

    「どう? わたしのこと、怖くなった?」

    ゆうきはうつむいた。
    長い沈黙が続いた後で、ゆうきは静かに語りだした。

    「確かに本に出てくる玉藻前は、畏れるほどとても強い存在だわ」

    さやかは黙って聞いている。

    「でも」

    ゆうきは首を振った。

    「でも、さやかは違うよね?」

    じきにゆうきの瞳から一粒の涙がこぼれた。

    「さやかは悪者なんかじゃない。だって、さやかはわたしの大切な親友だもの」

    それでも、さやかは黙って聞いている。
    そのとき、夜叉之遊女が笑い声をあげながら割って入った。

    「まだ夢から覚めないみたいね。それとも、目を覚ましたくないだけかしら。どっちでもいいわ」

    くすくすと笑っているかと思うと、不意にゆうきへ鋭い眼差しを向けた。

    「観念して、喰われるがいい」

    ゆうきはさやかを見つめる。

    「……さやか」

    声が震える。

    「嘘だよね」

    返事はない。

    「そんなの……嘘だよね?」

    沈黙は続く。

    そして。

    「うるさいわね」とさやかは吐き捨てるように言った。

    「イッカク、キクマル、ポン助」

    さやかの低い声が広間に響く。

    「宴の準備よ」

    ゆうきの身体が強張る。

    さやかは言葉を止めない。

    「もう用済みよ。その娘を縛り上げて、皿にでも放り込んでなさい」

    「へいへい」とイッカクが肩を鳴らす。
    「御意」とキクマルが頭を下げる。

    最後に呼ばれたポン助だけは、沈黙を守っていた。
     

    第14章 真実


    妖怪たちは、祝宴の最中だった。
    舞台ステージの中央には、数々のご馳走とともに、ひときわ大きな皿が飾られていた。

    酒、笑い声、賑やかな調べ、踊り。

    イッカクは酒瓶を抱えて大笑いし、キクマルは小太鼓を叩きながら広間を駆ける。ポン助は妖怪たちの盃にせわしなく酒を注いで回る。
    酒呑童子が法螺貝を吹き鳴らし、崇徳上皇が笛を奏でる。ひょうすべは愉快に踊ってみせる。

    皿の中で、一人の少女が眠っていた。
    ゆうきだった。

    「ゆうき、聞こえる?」

    誰かが呼んでいる。
    ゆうきのよく知っている声が、遠くで響いていた。

    「わたしを信じて」

    「……さやか?」

    夢の中から引き戻されるようにゆうきは目を開く。
    皿のそばには、いつのまにかさやかが立っていた。

    「ゆうき、大丈夫? ここから逃げるわよ」

    さやかはゆうきの身体をゆっくり起こすと、そのまま手を取った。

    「いい? あいつらが酔っている今しかないの。一気に抜けるわよ」

    「さやか! 一体どういうことなの! 説明してよ」

    ゆうきの問いに答える間もなく、さやかは短く言い切った。

    「今よ」

    次の瞬間、さやかはゆうきの手を引き、皿から飛び降りた。
    宴の熱気はすでに消え、酒に溺れた妖怪たちは泥のように眠っていた。
    二人が駆け抜けても誰一人気づく者はいなかった。
    二人はそのまま宴会場の闇へと駆け出していった。

    その様子をポン助は物陰から静かに見守っていた。


    ゆうきの理解が追いつかない。
    頭の中では、ここまでの出来事が次々と思い返されていた。

    さっきまで、親友だと思っていた人が玉藻前なのだと正体を明かし、その彼女が今自分の手を引いて前を走っている。

    自分を騙していたのではなかったのか。なぜ助けるのか。聞きたいことが山ほどあった。

    ゆうきはさやかの手を勢いよく振り払うと、ようやく足を止めた。

    「どういうことなの。ちゃんと説明して」

    さやかはしばらく考え込んでから、ようやく口を開いた。

    「そうね……あんたになら、もう全部話せる……」

    そのとき、聞き覚えのある甲高い笑い声が響いた。

    夜叉之遊女だった。

    その落ち着き払った様子は、まるで最初から二人を待っていたかのように思えた。

    さやかの表情が険しくなる。

    「そこをどきなさい。これは命令よ」

    だが夜叉之遊女は笑う。

    「嫌よ」
    「なんですって?」
    「人間を助けるだなんて滑稽ね」

    夜叉之遊女の口から愚弄する言葉が吐かれた瞬間、さやかは右手を天へ掲げた。

    雷が轟く。

    そのはずだった。

    だが、何も起きない。
    もう一度試す。
    やはり何も起きない。
    さやかの顔色が変わった。

    「妖力が……出ない」

    夜叉之遊女はいよいよ愉快に笑った。

    「猿芝居であなたを縛ったあの縄にあらかじめ細工をしておいたの。陰陽師の髪を使ってね」

    それに――と言葉を続けた。

    「十二の徳を積んだ人間を喰えば、その力はわらわのもの。玉藻前など、もはや敵ではない」

    さやかは目を見開いた。

    次の瞬間。

    夜叉之遊女の腕が天を指した。

    雷が轟く。
    轟音と同時に青白い閃光が二人の少女をかすめた。
    ゆうきとさやかはいとも簡単に吹き飛ばされた。

    全身が焼けるように痛い。

    それでも、さやかは必死に顔を上げると、そこには二つの影があった。

    一つは、イッカク。否、違う。
    イッカクは青い。その鬼の体は血のように赤かった。

    そしてもう一つの影の正体。
    それは強大で、圧倒的な威圧感。赤鬼の全身からは、他の妖怪とは比べものにならない妖気が立ちのぼっていた。

    「……大嶽丸(おおたけまる)」とさやかが低く呟く。

    さやかに寄り添うゆうきは息を呑んだ。

    「大嶽丸?」
    「日本三大悪妖怪の一人よ」
    「えっ」とゆうきは言葉を漏らした。
    「酒呑童子じゃないの?」

    さやかは呆れて言う。

    「伝承なんて一つじゃないわ」

    夜叉之遊女が満足そうに笑う。

    「後は任せたわ。好きにしてちょうだい。でも、殺してはだめよ。あとで生きたまま喰らうんだから」

    赤鬼が舌なめずりをした。

    「手加減できる自信がないな。玉藻前とやりあえるなんて最高だぜ」

    さやかの顔が曇る。

    「あんたたちも、わたしを裏切る気?」

    すると、大嶽丸が「簡単な話だ」と鼻で笑った。

    「俺たちは前々から、あんたのやり方が気に入らなかった」

    さやかは沈黙する。

    夜叉之遊女がこの世を支配するって? 面白ぇじゃねえか。だから乗った」

    その場を後にしようとする夜叉之遊女の背中に向かって、さやかは言葉を投げた。

    「……一体いつから?」

    夜叉之遊女は、卑しい笑みを浮かべ、あのときのさやかの言葉をなぞるように囁いた。

    「最初から全部」

    夜叉之遊女の長年押し殺してきた感情が滲み出る。

    「気に入らなかったのよ」

    それはとても低い声だった。
    「ずっとね」
    あの日から、ずっと、ずっと。

    あれは、二代目の玉藻前が三代目を決めた日。

    「どうして、わらわではないのですか?」

    夜叉之遊女の目には、嫉妬の色が濃く浮かんでいた。

    「どうして、わらわではいけないのですか?」

    その問いに答えた二代目の言葉は今でも忘れられない。

    「さやかには、我々にはない何かがある。妖怪たちの未来を、あの子に賭けたい。もしかすると、我々もまだ知らない十三番目の……」


    夜叉之遊女は唇を噛む。

    「納得できるわけないでしょう」
    声が震えていた。
    怒りで。
    悔しさで。
    嫉妬で。

    「どれだけ待ったと思ってるの。どれだけ耐えたと思ってるの」

    やがて、夜叉之遊女は再び笑った。
    だが、その笑顔は歪んでいた。

    「長かったわ」

    静かに呟く。
    「本当に長かった」

    最後にその言葉を残すと、夜叉之遊女の姿は闇に溶けて消えた。

    さやかは唇を強く噛みしめた。

    「観念するんだな」

    赤鬼と大嶽丸がさやかとゆうきの前に立ちふさがる。
    妖力はない。逃げ場もない。

    だがそのとき、ゆうきはずっとさやかを見つめていた。

    ほんの少し前まで。

    騙されたと思っていた。

    裏切られたと思っていた。

    でも今は違う。

    目の前にいるのは、自分を助けようとしているさやかだった。

    第15章 鬼対鬼


    赤鬼が棍棒を振り上げ、大嶽丸が日本刀を抜くと、空気が裂けるような殺気が走った。

    そのとき、聞き覚えのある重く低い声がした。

    「待ちな」

    それは、次第に軽い笑い声となって近づいてくる。

    「誰だ」と赤鬼も大嶽丸も武器を振りかざしたまま視線だけを動かす。

    「てめえの相手は、オレだ」

    イッカクだった。

    「生きてたか、兄弟」と赤鬼が歯を見せて笑う。

    イッカクの背後から、もうひとつの影が現れる。
    酒呑童子だ。
    重い気配をまとったまま、静かに歩み出る。

    「久しいな」と大嶽丸が目を細めた。
    「大嶽丸、この場で決着をつけるじゃないか」と酒呑童子は短く笑う。
    「面白い。三大と呼ばれた鬼同士、どちらが本物なのかここで証明してやろう」と大嶽丸も刀を握り直す。

    鬼たちが激しくぶつかり合う。その衝撃で場の空気が震える。

    イッカクはちらりとさやかを見た。

    「玉藻前さま……遅くなってすいやせん。ちょいと飲みすぎちまいまして。ここは任せて、先へ行ってくだせえ」
    酒呑童子も「また会おうぞ」と背中越しに言う。

    さやかは小さく頷く。

    「イッカク、童子、ありがとう」

    さやかはそう言うと、ゆうきの手を引いて駆け出す。
    背後で、棍棒のぶつかり合う鈍い音と、刀が激しく打ち合わされる金属音が鳴り響く。

    イッカクと赤鬼が激突する。
    棍棒がぶつかり合うたび、床が軋んだ。

    「どうだ、俺様の成長した力にちょっとはびびったか?」とイッカクが挑発する。
    「調子に乗るなよ」と、赤鬼が応戦する。

    一方。
    酒呑童子と大嶽丸も刀と刀で火花を散らす。

    「その刀は安綱か」と大嶽丸の持つ刀を見て酒呑童子が警戒する。
    「知らん。人間どもから奪ったものだ」と大嶽丸はまるで興味無さそうだった。
    「そうか、ならばその刀、いただいておこう」
    酒呑童子がそういうと、刀を大きく振りかぶった。

    場面は、再びイッカクと赤鬼に戻る。

    「すっかり丸くなったな、イッカク。昔は泣きながら逃げていたくせに」
    赤鬼が意地悪く言う。
    「昔話はよせ。今は違ぇんだよ!」とイッカクは歯を食いしばる。

    「オレにはな……」

    一瞬、間が空く。

    「仲間がいるんだよ!」

    赤鬼は一瞬だけ黙るが、すぐに笑い飛ばす。

    「友情ごっこか。泣かせる」
    「ごっこじゃねぇよ。毎日、腹の底から笑ってられるんだ。それだけで十分だろ」とイッカクは笑う。
    「くだらない」と赤鬼は鼻を鳴らす。

    イッカクは続ける。

    「笑ってる奴の方が、最後は強ぇんだよ」

    赤鬼が棍棒を振りかざす。

    「ほざけ!」

    止まぬ衝撃音。
    二つの鬼の戦いはいつまでも続く。

    第16章 因縁


    ゆうきはさやかに手を引かれ、地下の通路を駆け抜けていた。
    息は乱れ、足音が響く。
    後方では、鬼同士がなお激しく戦っている気配だけが伝わってくる。

    ゆうきの首飾りが、微かに光を放つ。

    「光ってる」

    だが、さやかは走りながら振り返らない。

    「今は前だけを見て」

    ゆうきの手を引く力が一段と強まる。


    次の瞬間、目の前に二つの影が降り立った。

    「おやおや、お二人さん、どちらへ?」

    一瞬、キクマルかと思った。だが違う。
    姿かたちは同じだが、キクマルの羽は緑と黄色だ。この者の全身は漆黒に染まっていた。
    そして、キクマルらしき者の隣には、薙刀を持つもう一人の男の姿があった。

    さやかは思わず息を呑む。

    「黒天狗と後白河天皇(ごしらかわてんのう)……。天狗族の暗殺一派がなぜここに……」

    ゆうきは思わず叫んだ。

    「後白河天皇って……あの?」

    「覚悟を決めてもらいましょう」と黒天狗は言った。

    その瞬間――。

    「お待ちなさい」

    するどい声が上空から割り込む。

    キクマルだった。

    「キクマル!」とさやかは名を叫ぶ。
    「遅くなりました。少々、飲みすぎましてね」とキクマルは軽く頭を下げる。
    「あらあら……落ちこぼれが来たのね」と裏天狗が目を細める。

    その直後、扇子で顔を隠す崇徳上皇が、不気味な沈黙を守ったまま姿を現した。

    「まだ生きていたか」と崇徳上皇を見て、後白河は笑う。
    「あなたたちの相手は、我々です」と言って、キクマルはさやかたちに目で合図を送る。

    さやかは頷くと、「ゆうき、行くよ」と声をかけ、再び手を取って駆け出す。


    「滑稽ね。元々は我々と同じエリートだったお前が、こんなところで低級妖怪らとお遊びしていただなんて」
    そう言うと、裏天狗は薙刀を構える。

    キクマルは静かに言う。
    「あなたの言っていることは正しいと思います。この世界は勝ち負けで決まる」
    「ならば」と裏天狗の口元が歪む。

    「でもですね」とキクマルが続ける。
    「勝ち負けだけでは説明できないものを、私は知ってしまったんです」
    「それはなんだ」と裏天狗はすかさず問いただす。

    「友情です」

    キクマルの言葉に裏天狗が笑う。
    「感傷的だね。それは知性の敗北よ」

    キクマルは首を振る。
    「いいえ。発見です」

    言葉が終わるや否や、キクマルと裏天狗の薙刀が交錯した。


    一方、キクマルたちのすぐそばでは、崇徳上皇と後白河天皇の因縁の戦いの火ぶたが切って落とされた。

    「崇徳上皇よ。かつて敗れたというのに、まだ懲りぬのか。今度は、島流しの刑では済まぬぞ」と後白河天皇が挑発してみせた。

    すると、顔を隠していた崇徳上皇の扇子が閉じられた。
    空気が変わった。

    「負けたのではない。まだ終わっていないだけよ」
    「歴史は繰り返す。今回も敗れるのは、お前だ」と後白河天皇は返した。

    両者の戦いは、さらに激しさを増していく。

    第17章 信頼


    ゆうきは、荒い息を吐きながら走っていた。
    首飾りが、また微かに光る。

    「……また光ってる」

    ゆうきが呟いた瞬間、通路の先に一つの影が立った。

    「そこまでだよ」

    どこか湿った声だった。
    見た目はポン助によく似ている。だが、その体は漆黒だった。
    やはり姿かたちは同じだが、ポン助の体は澄んだエメラルド色。
    この者はすべてが漆黒に染まっている。
    歪んだ黒い水のような気配が、ゆっくりと二人に迫る。

    そこへ、「待って!」と慣れ親しんだ声が割り込む。
    その声の主は、息を切らしながら駆け付けてきた。

    ポン助だ。

    さやかが目を見開く。

    「ポン助!」

    ポン助は二人の前に飛び出す。

    「こっち!」

    そう言って、ポン助はゆうきとさやかを壁際に誘導したあと、松葉箒を地面へ突き立てた。

    ゴゴゴ……。

    城中に水音が響く。
    地下水路の水門が開き、激流が通路を横切るように走り、闇河童へ襲いかかった。
    ポン助は軽やかに水へ飛び込み、そのまま闇河童へ向かった。

    ポン助は器用に泳ぎながら、ゆうきとさやかに目で合図を送った。

    「信じて!」

    さやかは小さく頷いた。

    「ゆうき、行くよ」
    力強くそう言って、さやかはゆうきの手を引いた。
    ゆうきは一瞬だけ振り返った。

    ポン助が、闇河童と水中でもみ合っていた。
    「でも……」とゆうき。
    それでも、さやかは手を強く引いた。

    「わたしたちも信じるの」

    さやかのその言葉に、ゆうきも走り出した。


    激流をものともせず、二匹の河童は水中を自在に泳ぎながら向かい合っていた。

    「相変わらずだね、ポン助。人間と仲良くなれるなんて、まだ信じてるのかい?」と闇河童が笑う。

    「信じてるよ」
    一切の迷いはなかった。

    闇河童の笑いが止まる。

    「だって、信じることをやめたら、何も始まらないから」

    闇河童が笑った。
    「人間と妖怪。裏切りと奪い合いがすべてのこの世界で、まだそんな夢を見てるのかい」

    ポン助は息を吐く。
    「ぼくだって、昔は君と同じだった」

    でもね、とポン助は言葉を続ける。

    「一人の人間が、ぼくに首飾りをくれたんだ」
    ポン助は胸元を押さえた。

    「そして、こう言ってくれた。『いつか夢は叶う』って」
    「だったら、その大事な首飾りはどこへいったんだい?」と闇河童が鼻で笑う。

    「人間に託したんだ」とポン助は静かに言った。

    闇河童がいよいよ苛立ちを見せる。
    「そういうところが嫌いなんだよ。人間に託しただって? そんなもの、失ったのと同じさ」

    ポン助は一瞬目を伏せる。そして顔を上げる。

    「たとえ戻ってこなくても、それでいい。信じた時間は消えないから」
    「お人好しもここまでくると滑稽だね」

    二匹の河童の戦いは終わる気配を見せない。

    第18章 道を開く者


    さやかとゆうきは、走り続けていた。

    首飾りが、より一層強く光り出す。

    「……光が強くなってる」

    その瞬間だった。
    前方に、無数の妖怪たちが押し寄せてきた。追手が、ついにさやかとゆうきを取り囲む。その数はあまりにも多く、逃げ場がない。

    ゆうきは怯む。
    「くそっ」とさやかは唇を噛む。

    すると、場違いな笑い声が聞こえてきた。
    どこからともなく、一匹の妖怪が姿を現した。

    ひょうすべだった。

    「ここはオイラに任せな」
    「……ひょうすべ」とさやかが驚く。

    追手の一人が鼻で笑う。

    「何だこのふざけた妖怪は」

    ひょうすべはただ笑い続ける。

    次の瞬間、空気が一変した。追手の妖怪たちの笑いが、一瞬で消えた。
    見る見るうちに、追手の体が一体、そしてまた一体と崩れ落ちていく。

    残った別の追手が後ずさると、ひょうすべは手に持っていた茄子をかじり出した。追手たちの足元がたちまち紫色に染まっていくと、じきに息絶えた。

    気づけば、その場に残っていたのは、茄子を喰いながら楽しそうに笑っているひょうすべだけだった。

    「ケラケラケラ」

    「触れちゃだめよ」とさやかが低く言う。
    ゆうきは言葉を失った。
    「行くよ」と言って、さやかはゆうきの手を取る。
    ゆうきは小さく頷く。

    後方では、ひょうすべの笑い声だけが響いていた。

    第19章 利他心


    ゆうきの首飾りがいよいよ激しく光り出す。

    「首飾りの光が、さっきからどんどん強くなってる」

    次の瞬間、空間を切り裂くようにして夜叉之遊女が二人の前に姿を現した。

    「困った子たちだねぇ……本当に……手のかかる生意気な小娘たち」

    夜叉之遊女がゆうきたちへ迫ろうとしたそのとき、背後から幾多の足音がした。
    「へへへ……お待たせしましたぜ」と赤鬼が棍棒を肩に担ぎながら言った。「少々、手こずりましたが」と黒天狗。
    そこには不気味に笑う闇河童の姿も。
    後から遅れて、大嶽丸と後白河天皇もやってきた。

    「イッカクたちは……」とさやかは聞くが、返事はなかった。

    あの笑い声も。
    あの軽口も。
    もう、聞こえなかった。

    「みんな……」とゆうきは両手で口を塞いだ。

    夜叉之遊女は赤鬼たちの姿を認めると、ゆっくりと頷いた。
    そして、ゆうきとさやかを睨みつける。

    「人間が憎い。許さない。わらわは、人間を決して許さぬ」

    さやかは黙ったままだ。

    「わらわは、吉原で遊女だった。愛されることだけが、わらわの存在理由だった。だが病に倒れた途端、人間は手のひらを返した。愛を囁いた男も消え、役目を失えば捨てられた。わらわの結末を知っているか。最後は投げ込み寺へ捨てられた」

    ゆうきは言葉を失う。

    「わらわはただ、愛されたかっただけだ。ただそれだけだった。だが、人間はそれを奪った。許さぬ。決して。玉藻前よ。お前も人間を憎み、その怨みを力としてきたはず。ならば、なぜその娘を守る?」

    さやかは静かに目を閉じた。
    夜叉之遊女の言葉を、一つひとつ胸の奥で受け止めるように。
    さやかは何も語らない。

    「人間は許す価値などない。壊すべき存在だ。愛さぬ存在などいらぬ。その娘を殺せ、玉藻前、お前の手で殺すのだ。それが本来のお前の姿のはず」

    「……さやか?」

    さやかは沈黙を守ったままだ。     

    ゆうきは静かにつぶやく。

    「妖怪って……何なんだろう。気味の悪い存在が妖怪だというのなら……人を傷つける心そのものが、妖怪なんじゃないの?」

    「黙れ」と夜叉之遊女がゆうきの言葉を制する。  

    すると、さやかがようやく重い口を開いた。 

    「ゆうき。わたしはね、昔は人間が嫌いだった。でも、今は違う。とはいっても、別に好きになったわけじゃないよ。ただ……守りたいって思うものが一つだけできた」

    「それが何だと言うのだ!」と夜叉之遊女は憤怒する。     

    そのときだった。

    ゆうきの首飾りが宙に浮いた。

    どこからともなく、不思議な声が響いた。
    それは、ゆうきが十三階段で聞いたときと同じものだった。

    「十三番目の徳……」

    その声は静かに続いた。

    「十三番目の徳、それは利他心(りたしん)。己を顧みず、他者を守ろうとする心。それは守りたい者がいて初めて芽生え、想いは受け継がれてゆく」

    「十三番目……それが……」とさやかは息を呑む。

    「十三番目だと!? 馬鹿な、そんなものは存在しない。徳の数は十二までのはず」と夜叉之遊女。 

    不思議な声は続く。

    「十二の徳を集めし者、海江田ゆうき。そして十三番目の徳を司る者、牧村さやか。二人が手を取り合うとき、道は開かれる」

    すると、さやかは言った。

    「ゆうき、もう一度わたしのことを信じてくれる?」

    ゆうきは迷うことなく、深く頷いた。

    「わたしの言葉に続いて」

    さやかはそう言うと、ゆうきの両手を取り、二人は向かい合った。

    「まさか、それは! やめろ!」と夜叉之遊女は二人を引き剝がそうと駆け寄ったが、何かの力ではじかれた。  
         

    さやか「智恵」
    ゆうき「智恵」

    さやか「兄弟愛」
    ゆうき「兄弟愛」

    さやか「友情」
    ゆうき「友情」

    さやか「謙虚」
    ゆうき「謙虚」

    さやか「希望」
    ゆうき「希望」

    さやか「孝心」
    ゆうき「孝心」

    さやか「親切」
    ゆうき「親切」

    さやか「勤勉」
    ゆうき「勤勉」

    さやか「意志」
    ゆうき「意志」

    さやか「遵法」
    ゆうき「遵法」

    さやか「正義」
    ゆうき「正義」

    さやか「勇気」
    ゆうき「勇気」

    そして――

    さやか「利他心」
    ゆうき「利他心」

    ふたりが詠唱を終えた瞬間、十三角の巨大な魔法陣が展開される。

    「やめろおおおおお」

    夜叉之遊女は悲鳴を上げる。

    魔法陣の中心から、一本の剣が現れる。

    「これは! 本で見たことがある!」とゆうきは目を見開いた。

    さやかは叫ぶ。     

    「ゆうき、その剣を抜いて! 天にかざすの!」

    ゆうきは魔法陣の中に静かに足を踏み入れると、剣の前に立つ。
    そして、胸の前で両手を組み祈った。

    「お願い……力を貸して!」

    ゆうきは精一杯の力で剣を引き抜くと、それを天に高くかざした。         

    遠くから、夜叉之遊女の悲鳴が聞こえてくる。

    だが、その叫び声はやがて止んだ。

    夜叉之遊女は、泣いていた。
    その涙は、長年胸に抱えてきた憎しみが、静かにほどけていくようだった。

    ゆうきの天にかかげた剣が灰になった瞬間、夜叉之遊女の身体は光の粒となってほどけ、一輪の花だけが静かにその場へ残った。
    その花は、まるで誰かに愛されることを待ち望んでいたかのように、美しく咲いていた。

    二人はしばらく、その花を見つめていた。

    「終わった……の?」
    ゆうきはつぶやいた。

    「うん」
    さやかは静かに頷いた。

    「帰ったらさ」

    「うん?」

    静寂を打ち破るように、城全体が大きく揺れた。

    第20章 別れ


    轟音が城内に響き渡る。
    天井から細かな石片がぱらぱらと降り注ぎ、床には亀裂が走った。

    さやかは、その場に膝をついた。
    苦しそうに、小さく息を吐く。
    ゆうきは慌てふためいた。

    「このままだと、お城が崩れちゃう! さやか、早く逃げよう!」

    さやかは、ゆっくりと顔を上げた。
    そして、やさしく微笑んだ。

    「わたしは、ここまでだよ」

    「なに言ってるの?」

    ゆうきは、さやかの言葉の意味がわからない。
    さやかは続ける。

    「あの剣はね、妖怪を封印する剣なの。わたしも……もう時間はない」

    ゆうきは思わず叫ぶ。

    「そんな……そんなはずない! わたしが読んだ話と違う!」

    「ふふっ……馬鹿。どんな本を読んだのよ」

    さやかは呆れながら笑った。

    崩壊の揺れの中で、さやかは一度だけ目を伏せる。
    次に目を大きく見開くと、わざと明るい声で続けた。

    「ねえ、ゆうき。わたしのこと、ちゃんと覚えててよ」

    さやかの表情が、少しだけ崩れた気がする。

    「わたしね、これでも結構すごい妖怪だったんだから」
    「そんなこと……!」とゆうきは訴える。      

    崩れる音の中で、さやかはゆっくり立ち上がる。
    そして、ゆうきに背を向けた。

    「じゃあね、ゆうき」

    さやかの姿が、次第に薄れていく。

    「さやか……!」

    最後に一度だけ、さやかは振り返る。
    何かを言いかけて、止めた。
    ただ小さく首を横に振った。言葉はない。

    ゆうきは、崩れそうな床の上で膝をつく。

    「ごめん……ごめんね、さやか……」

    「……ちゃんと、とっておけたね」

    「ねぇ、ゆうき。最後のお願い」

    ゆうきは顔を上げる。

    「最後はさ、ごめんねじゃなくて、ありがとうでさよならしよ」

    ゆうきは大きくかぶりを振る。

    「いやだよ……さよならなんて、いやだよ……」

    「ゆうき、お願い」

    いよいよ、さやかの身体が白い光に包まれていく。
    崩壊の中心で、さやかの輪郭が溶けていく。

    「さよなら、ゆうき。ありがとう、ゆうき」

    「……ありがとう、さやか!」

    一瞬、さやかは言葉に詰まる。

    「わたしのこと、忘れたら……祟るわよ!」

    その言葉を最後に、一人の少女の姿は白い光の中へ消えた。


    放課後の教室。

    本棚の前で、ゆうきは倒れていた。

    窓からの風が、ゆうきの手元に落ちている赤い本のページをぱらぱらと音を立ててめくっていく。

    頬をなぞる風に、ゆうきは意識を取り戻してゆっくりと目を開ける。

    「夢……だったの?」

    ゆうきは本を手に取る。

    『妖怪の世界へようこそ』

    エピローグ


    ゆうきは、赤い本を胸に街の中を歩いていた。

    行き交う人々の声は、どこか遠い。
    クラスメイトの視線も、もう以前ほどは刺さらない。
    それでも世界は、何も変わっていない。

    ただ一つだけ、違うことがある。

    ——わたしをとりまく現実は、何も変わっていない。わたしは、相変わらず浮いている。

    ——でも、前ほど苦しくはない。理由は、うまく言葉にできない。

    ゆうきは、本を胸に抱きしめる。

    目を閉じると、あの声がよみがえる。

    「ゆうきなら大丈夫。きっと、うまくいくよ」

    そのとき、街のどこかで誰かの声がした。

    「妖怪の着ぐるみショーやってるらしいよ」

    「なにそれ、見に行こう」

    ゆうきは小さく笑う。

    「……妖怪の着ぐるみショー、か」

    その背後を、何かが駆け抜ける。

    「ぼ、ぼくは着ぐるみじゃないよお!」
    「キャー! 可愛い!」
    「本を取りに来ただけだよお!」

    しかしゆうきは振り返らない。
    気づかないまま、歩き続ける。

    ——あれから、わたしの中には、さやかがいる。そして、あの日授かった、たくさんの想いも。だから、もう大丈夫。怖くても、前へ進んでいける。

    ゆうきは歩みを止める。
    そして再び本を胸に強く抱いてから、ゆっくりと息を吸った。

    「……ありがとう、さやか。わたしは元気だよ」

    その瞬間。

    風が吹き、本のページが、独りでにめくられていく。
    やがて、玉藻前の解説のところで風は止んだ。

    そしてどこにもなかったはずの一文が、そこに浮かび上がる。

    「玉藻前には、かつて一人の人間の親友がいたという説もある」と。

     END


    本作は日本各地に伝わる妖怪伝承・歴史・民話を参考に創作したフィクションです。妖怪や人物の設定は、物語に合わせて独自の解釈・再構成を行っています。

    参考文献


    ・石田穣二訳注『新版 枕草子 上巻』角川学芸出版、2007年。
    ・石田穣二訳注『新版 枕草子 下巻』角川学芸出版、2005年。
    ・鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』角川書店、2011年。
    ・健部伸明と怪兵隊『幻想世界の住人たち』新紀元社、1988年。
    ・健部伸明と怪兵隊『幻想世界の住人たちⅡ』新紀元社、1993年。
    ・小松和彦『日本妖怪異聞録』小学館、1994年。
    ・小松和彦『妖怪学の基礎知識』角川学芸出版、2011年。
    ・篠田耕一『幻想世界の住人たちⅢ〈中国編〉』新紀元社、1989年。
    ・人文社編『日本の謎と不思議大全 東日本編』人文社、2006年。
    ・人文社編『日本の謎と不思議大全 西日本編』人文社、2006年。
    ・清川妙・おのでらえいこ絵『うつくしきもの枕草子』小学館、2004年。
    ・清少納言著・新里明央他編『まんがで読破 枕草子』イースト・プレス、2011年。
    ・清少納言著・田中重太郎編『枕草子〈伝烏丸光広筆 三巻本〉』古典文庫、1986年。
    ・竹田恒泰『怨霊になった天皇』小学館、2009年。
    ・多田克己『幻想世界の住人たちⅣ〈日本編〉』新紀元社、2001年。
    ・日本博識研究所編『よくわかる「日本の妖怪一〇〇」』リイド社、2008年。
    ・松尾聰・永井和子『新編日本古典文学全集十八 枕草子』小学館、1997年。
    ・水木しげる『図説 日本妖怪大全』講談社、2007年。
    ・宮本幸枝・熊谷あづさ他『ヴィジュアル版謎シリーズ 日本の妖怪の謎と
    不思議』学習研究社、2007年。
    ・村山修一『日本陰陽道史総説』塙書房、1981年。
     ・山田雄司『崇徳院怨霊の研究』思文閣出版、2001年。


    ・インターネットサイト『四字熟語データバンク』 
    http://www.sanabo.com/words/archives/2003/10/post_1127.html
    アクセス:2011年5月11日。

    ・インターネットサイト『はてなキーワード』
    http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%A3%B2%E6%C6%C8%C2%BA
    アクセス:2011年6月12日。
      
    ・インターネットサイト『国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース
    (小松和彦監修)http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB2/index.html
    アクセス:2026年7月5日。

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #少女漫画

     
     
     
    40代、独身。 新聞社で働いていました。 物語を書いたり、自分の人生を書いたり。 小説・エッセイ・創作のことなど。 主にnoteで活動しています。

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