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漆黒の公爵シリーズ~断章集~   「エミール、遠くへゆく」|#BL要素あり

    【あらすじ】
    王宮の給仕、エミールを通して「漆黒の公爵」、ルシアン・ケイ・アスタリエル公爵を見る。
    エミールは、アスタリエル公爵に憧れるだけの日々を送っていた。ある夜、リネン室で不意に交わされた口づけをきっかけに、エミールの内面が静かに大きく揺れ動いていく。ほんの束の間の言葉と眼差し、名前を覚えていてくれた喜び、声を掛けてもらえずに忘れられているかもしれないという奈落、会えない日々の渇望、そしてその想いに名称がついた瞬間の涙。繰り返されるその感情の乱高下の中で、季節が巡るごとに深まるエミールの「想い」がどこへ向かうのか。宮廷ロマンス断章。




    「公爵閣っかっかっかっか!」

    エミールは脳内処理が追い付かず、リネン室のテーブルに手を付いた。

    どう口走ったのかも、わかっていなかった。

    アスタリエル公爵の口の端が、やや上がったように見えた。

    「なんだ、笑っているのか」

    低く天鵞絨ビロードのような声が斜め上から降りてきた。

    真面目に聞いているようにも揶揄からかっているようにも取れる。

    (な、なんで漆黒の公爵様がこんなところに……!)



    ヴァルシア王国の王宮である虹晶宮パレ・オパリーヌの地下一階、使用人のホームグランドである。

    この下、地下二階に宝物庫などがあるが、王族や上級貴族が通る動線は全く違う。

    普通こんなところに来る上級貴族、爵位貴族はいない。

    だが今、エミールの前に立っているのは紛れもなく王国の双璧の一人、漆黒の公爵と言われているアスタリエル公爵その人である。たしか今年34歳だと聞いた。

    エミールは成人すると王室付給仕という職を与えられた。まもなく丸二年になる。

    職に就いて夜会に携わるようになったある夜、アスタリエル公爵を近くで拝見した。

    公爵が持っていたグラスが空いていたので、飲み物を載せたトレイを持って彼の前にいくと、「有難う」と言って空のグラスを置き、新しいワインを取ったのだ。

    その自然で無駄のない所作、低く心地の良い声、そしてその時拝見した彼の闇色の瞳が忘れられなくて、エミールはそれ以来、「漆黒の公爵派」である。

    その後、公爵が「有難う」と言ったことはない、他の者からもそんな話を聞いたことはない。どうやらただの気まぐれの言葉だったようだ。

    同僚達の話に依ると、アスタリエル公爵はまるで大型猫科動物のように、ふらりとどこにでも現れるそうだ。

    地下の警備室に、厨房に、倉庫や兵舎など、どこに現れても不思議ではない人だと言っていた。

    エミールが夜会で、式典で公爵の近くを通る。そんな時に、自分の持っているトレイから公爵が飲み物を取る。

    その幽かな交錯が嬉しかった。

    言い換えれば、それで、それだけで良かったのだ……。



    エミールは、リネン室の入ったところで、洗濯の終わった卓上布を仕分けしていた。

    棚に納めていき、ふと見ると漆黒の公爵が立っていた。

    「公爵閣っかっかっかっか!」

    公爵はエミールの方に向き直った。

    「なんだ、笑っているのか」

    公爵の目が少し細くなり、口の端がやや上がったかに見えた。

    すると公爵はエミールの方へ歩き出した。

    (え……?)

    エミールは後ずさった。

    いきなりで、心臓がもたないのに、これ以上距離を詰められたら……。

    エミールはテーブルに沿って後ろに下がり、背中が棚に当たった。

    逃げ場が無くなったことを悟った。

    (ち、近い……)

    あっという間に公爵はエミールの目の前に立ち、腰に手を回した。

    エミールは泣きそうになった。

    憧れの公爵がいきなり目の前に現れ、なにがどうなっているのか思考が追いつかない。

    そんなエミールの気持を知ってか知らずか、公爵はエミールの顎を持ち上げ瞳を覗くと、その形の良い薄い唇を重ねてきた……。

    エミールはその場に固まった。

    抗うことなど、できなかった。

    やがて、その口づけに、応えた……。

    だが公爵は、心ここにあらずのエミールをそのままに、何事もなかったようにサラッと立ち去った。

    それは雪解けの季節、融月(三月)の半ば、二つの月が新月を迎える「双闇そうあんの夜」のことであった。



    「エミール、この前からちょっとおかしいぞ」

    普段からエミールを気にかけているアルノが酒庫に入り、声をかけてきた。

    アルノはエミールの上位職にあたるブテイエ(酒庫、飲料管理の責任者)である。

    先輩と言うよりは上司であるが、アルノがブテイエに昇格する前から仲が良かったためか、二人の感覚は「先輩後輩」であった。

    飲み物の在庫確認をしているエミールは、用紙を力なく落とし、アルノを見ずに答えた。

    「そう、かなあ……?」

    独り言のような呟きだった。

    あの〈事故〉から二週間。

    エミールの頭の中は「漆黒の公爵」で埋め尽くされていた。
    埋め尽くされていることに、ほんの少し慣れてはきた。ように考えていた。

    「お前さ、なんか悩んでんなら、話くらい聞くぞ。……言いたくないなら、無理にとは言わないけどな……」

    アルノの言葉は嬉しかった。でも。

    (……言えない……言えないよぉ……)

    同僚は多いし、仲良くしてくれる人も多いが、友人、と呼べる人は……いない。

    比較的いろいろ話せるのはアルノくらいだった。

    実の兄二人より、「兄さん」だった。

    「……べつに……、話すようなこと、ないよ」

    「……わかった……。あ、ところで、この三月末にヴェルナ祭があるだろ? 教会で。ああもう今週末か。その夜に王宮で『女神ヴェルナを讃える夜会』をするそうだ。名目なんてなんでもいいんだろうな」

    アルノが笑った。

    エミールもつられて笑った。

    「それで、その日の準備を頼みたい。人数は多くならないだろう。時間も二時間くらいだそうだ。詳しく決まったらまた改めて連絡する」

    「わかりました」

    アルノが出て行き、エミールはそのまま立っていた。

    (公爵閣下は参加されるんだろうか……)



    ヴァルシア王国の国教は「十二神教」。名前の通り多神教である。
    十二ヶ月の其々の神、その十二柱を崇めている。

    三月は女神ヴェルナである。

    末日に、教会、十二聖院で感謝と祈りを捧げ、その夜に王宮で夜会が開かれた。

    人数は百人に満たない。王宮の小広間での開催であった。

    国王陛下、王妃陛下、そして一段下に十二神教の聖環長カシアヌスが座り、王室近衛騎士団員が二人立っている。

    招待客のほとんどは教会関係者だ。

    その中でアスタリエル公爵は目立っていた。壁際に引いているが、目立つ。

    なにをしているわけでもない。まるでこの場の重しのように立っていた。

    エミールは忙しく働いていたが、アスタリエル公爵が気になって、目で追い、心臓に多大な負荷がかかっていた。

    (お声を掛けられたらどうしよう)
    (まさか、そんなこと……)
    (僕を覚えてくださっている……なんて、ありえないよな)
    (でも、でも、でも……)

    国王と王妃は玉座に座っていたが、王国の主要な高位貴族はアスタリエル公爵だけであった。

    白銀の公爵、ジュリアン・レイ・シルヴァフォルト公爵も宰相のアルベルト・マティアス・レオグランツ公爵も不在。

    どこかしら不機嫌そうなアスタリエル公爵を国王がお呼びなった。

    なにかお話になったあと、国王陛下は面白そうに笑い、アスタリエル公爵は一段と不機嫌そうになった。

    (なんのお話だろうか……)

    エミールはトレイに飲み物を載せ、広間をゆっくりと歩いていた。

    今回の夜会は教会行事に近いから、普段よりは静かな雰囲気だった。

    音楽は基本的に鑑賞曲で、歓談が主。

    ご婦人方も公爵を気にしてはいるが、近づく人はほぼいない。

    教会関係者の男性が数人、代わる代わる公爵と話していた。

    エミールが飲み物を持ち、会場を最初に回った時は、公爵は声を掛けなかった。

    (でも、次は? ……いや、だから僕のことなんて……でも……)

    そう思いながら三回、会場を回っても、公爵はエミールに気づいた様子はなかった。

    エミールは暗い穴にコロコロと落ちていくように思った。

    (……だよな……わかってたよ……)

    四回目、公爵の前を通ると公爵が飲み物を取った。それだけだった。

    公爵から三歩歩き、立ち止まった。

    (………)

    エミールは、何かに内臓を締め上げられているように感じた。

    アルノが少し離れたところから、

    「エミール、料理、交換してくれ」

    と言った。

    後ろで公爵が動く気配があった。

    エミールは我に返ると、振り切るように足早に準備室に向かった。



    四月末、「春の園遊会」が王宮主催で行われた。

    気候が良く、毎年王宮の大庭園で午後に開催される。

    王家専用の四阿あずまやに両陛下が着席され、招待客は宰相の指示で挨拶に伺う。

    その後は「フラワーセレモニー」がある。

    四阿あずまやの横に作られた大きな台座の上に、様々な花草木が飾られるセレモニーである。

    後半には国王、王妃ともに散策し、歓談される。

    エミールは横目でフラワーセレモニーを見ながら黙々と職務をこなしていた。

    華やかなフラワーセレモニーと、昼間の明るさに、救われる思いがしていた。

    夜会など夜の行事はどうしても気持ちが沈んでしまう。

    (……あれは、何か夢を……、そう夢を見ただけだったんだ)

    今日、改めて陽の下で見るアスタリエル公爵に、エミールはまた違う魅力を感じていた。

    三大公爵家の一角、王国の双璧の一翼、その圧倒的な存在感の、いうなれば「表の顔」だと思った。

    夜に見る公爵は、その存在感に妖しい雰囲気が揺らめきたつようにエミールは感じていた。

    今日は三公爵が揃っている。宰相・レオグランツ公爵も白銀の公爵・シルヴァフォルト公爵も時折副官から報告を受けたり、ひっきりなしに挨拶に来る招待客を捌いたりしていた。

    だがアスタリエル公爵の周りには、副官が時折来るくらいだった。

    アスタリエル公爵を遠目に眺めているご婦人方は多いが、気後れしているようにも思う。

    (そうだ……、あんなご婦人方が気後れするような方なんだ。僕なんか目に入るわけないよ)

    一度、アスタリエル公爵はエミールの持っているトレイからワインを取った。

    その時、エミールは、ただの「給仕」だった。

    いや、そもそもアスタリエル公爵に、「給仕という人間」は見えていないのかもしれない。

    (そう、見えていないんだ。そんなもんだ……)

    国王陛下と王妃陛下が揃って四阿あずまやを出られ、散策しながら招待客と歓談され出した。

    エミールが新しい料理をテーブルに置くと、背後に誰かが近づいてきた気配を感じた。

    場所を空けようとした時だった。

    「エミール」

    後ろから届いた、深く静かな声。

    エミールの心臓が跳ねあがった。

    あの時、「笑っているのか」と言ったのと同じ声。

    振り向くとそこにはアスタリエル公爵が立っていた。

    エミールを見て、あの時と同じように目を少し細めているように見えた。

    「……公爵閣下……」

    「琥珀酒はあるか?」

    この園遊会の会場に、琥珀酒は出していない。だが……。

    「お持ち、いたします」

    「うむ。ああ、このワインを飲み干すまでに、持ってきてくれ」

    「承知いたしました」

    エミールは、今までの沈んだ気持ちが一気に舞い上がるのを自覚した。

    (名前を、僕の名前を知ってくださっていた!)

    この動悸と共に、心臓がぽろっと口から出るんじゃないか、と馬鹿な想像に笑いそうになった。

    エミールはアスタリエル公爵に秘密の任務を託されたように思って、少年のようにワクワクした。

    (公爵閣下はワインをゆっくり飲まれる方ではない。急がないと)

    顔がニヤけてくるのを必死で抑えた。

    どこに何があるのかは把握している。

    グラスに琥珀酒を注いでトレイに載せ、足早に公爵のところへ持って行った。

    すると公爵は、空になったワイングラスをエミールに向けて黙って掲げた。

    エミールはその公爵の動作を、

    〈ワインを飲み干すまでに、と言ったはずだが? 遅い〉

    と、読み取った。

    「申し訳ありません……」

    エミールは深く頭を下げた。

    「罰として」

    アスタリエル公爵の声が頭の上から降ってきた。

    「仕事が終わったら、私の執務室に来るように」

    アスタリエル公爵はエミールの返事を聞かず、琥珀酒を持ってその場を立ち去った。

    (……叱責……?)


    アスタリエル公爵の執務室は、小さな邸だとエミールは思ったのだった。

    前室があり、執務室があり、公爵の私的な部屋があり、寝室と専用の浴室まであった。

    前室でありながら、静謐な重みを湛え、主の格を否応なく悟らせる設えだった。

    時折、ふわりと香りがした。

    それはアスタリエル公爵領に咲くという夜薔薇アスタリエル・ローずと思われる香と、高級煙草の燻されたような香りが相まって、エミールの鼻腔には「公爵の香り」となって届いた。

    怯えながら前室で取次をしてもらったのが、遠い過去のように思える。

    それほど、世界のあり様ようが変わってしまった……。

    エミールは今、寝室の天蓋付きの寝台の上にいる。

    アスタリエル公爵の腕枕で彼の胸の中に抱えられていた。

    公爵は腕枕をしている手で、エミールのブロンドに見える明るい栗色の髪を触っていた。

    その仕草が、エミールに言いようのないくすぐったい多幸感を与えている。

    エミールは身じろぎ、
    「……もう、戻らないと……」
    と、公爵の胸の中でそう呟いた。

    「そうか」

    公爵はそう言っただけだった。

    (もう少し、もう少しだけここにいたい……)

    エミールは、公爵の腕に頭を載せて、「漆黒の公爵」を見つめ続けた。



    盛夏の七月の夜会は、軽やかな華やかさがある。

    ご婦人方のドレスがレース仕立てになるからだろう。見た目が涼やかだ。

    中広間と中庭庭園を開放する夜会である。

    エミールは外と内を共に行き来する。

    「おい、エミール」

    アルノが横に来て声を掛けた。

    「今、ケーキの皿を出してどうすんだ」

    エミールは、自分の持っている皿を見た。

    「あ……。戻してきます」

    「ああ……、お前、最近“うっかり”が増えたんじゃないか?」

    「……すみません」

    「うん……」

    アルノはそれ以上何も言わずに、持ち場に戻って行った。

    エミールはまた、アスタリエル公爵を探していた。

    アスタリエル公爵は出席されていたが、エミールは近くに行く機会がなかった。

    今夜の公爵の夜会服は、軽い生地の仕立てになっていた。やはり黒に鈍色の刺繍が施されている。

    (公爵様は宮廷服より、断然夜会服の方が似合う。軍礼服もいいけど、やっぱり「漆黒の公爵」様は夜会服が一番お似合いになる……)

    笑いさざめき、舞踊曲が流れ、幾人もの男女が踊る。

    中庭では篝火かがりびが揺れる。

    庭の灯りの届かない長庭座ながていざで愛を語り合う姿もよく見かける。

    エミールはそんな光景を目の端に捕らえると、近づかないように気を配り、そしてそれから少し、胸の奥がチリリとするのだった。

    エミールは、(あの春の園遊会の夜……、あれは確かにあったことだ)と、そう何度も胸の内で繰り返した。

    だがあれ以来アスタリエル公爵と二人になるどころか、声をかけてもらえることもなかった。

    忘れられたのか……。それとも、覚えてもらってさえいなかったのかもしれない……。

    多くのうちの一人……。

    (……それでもいい……。でもあの時、名前を呼んでくださった……)

    思いを馳せながらトレイで飲み物を運ぶ。空いたグラスを貰う。

    色とりどりの料理を前にしても、香ばしい匂いや、甘い匂いが鼻腔をくすぐっても、なにも感じなかった。

    ここしばらく、食事も喉を通らなかった……。

    飲み物を載せたトレイには、空になったグラスが多くなった。

    一度、準備室へ行こうとした時、胸を締め付ける香りが微かに風に運ばれてきた。

    振り返ると、アスタリエル公爵が「ん」と言って動きを止めた。

    エミールが勢いよく振り返ったせいのようだった。

    「も、申し訳ありません……」

    (公爵様だ!……公爵様だ!公爵様だ……)

    「いや」

    そう言ってアスタリエル公爵はエミールの持っているトレイからワインを一つ取った。

    「エミール、もらうよ」

    「はい……」

    公爵は、ワインをその場で一口飲むと、そのまま立ち去った。

    誘いはなかった。だが。

    (名前はちゃんと覚えていてくださった!)

    覚えてもらっている、そのことがハッキリした……。

    (僕を僕として見てくれているのが嬉しい……)

    それなのに、こんなに嬉しいのに……、もっと……と思ってしまう……。

    エミールは、準備室に行く前に、もう一度「漆黒の公爵」の後ろ姿を目で追った。

    言葉にならない感情が渦を巻いていた。



    エミールは、食器を磨き、片づけ、季節に合うものに入れ替えていた。

    食器の重さは感じなかった。

    七月の夏の夜会から十月五日の今日までのアスタリエル公爵とのことを、ふわふわと思っていた。

    最近は、公爵の事を考えない日はない。考えない時間もない。

    最後に執務室に呼ばれたのは、八月の上旬だった。

    あの時……、とエミールは思い出す。

    公爵の腕の中で、急に得も言われぬ不安に押しつぶされそうになったのだった。

    彼の胸の中にいながら、朝陽と共にこの光景が消え失せ、夢だったと、幻だったと、心が砕け散ってしまうのじゃないかと、そんな考えが頭を擡もたげたのだった。

    エミールは、公爵の胸にしがみついて、その不安と必死で戦ったのだ。

    その時、彼は「どうした?」と聞いてくれた。

    エミールには答えられなかった。

    「……ううん、なんでもない……」

    そう言った。

    すると、彼は両腕にエミールをふわりと抱きしめ、頭を撫でた。

    エミールは嗚咽を止められなかった……。

    この後しばらく会えなくても生きて行けるようにと、より強く公爵に抱きついた。

    あれから二か月ほど……。

    晩餐会や式典で会うことはあった。

    公爵が、エミールを名前で呼ぶこともあったが、声すらかけないことも多かった。

    ずっと、そんなことの繰り返しだった。

    気持ちの乱高下の中にいる。

    仕事をしていても、自分が作業している感覚が薄かった。

    誰かがやっていることを「自分」は見ている、そんな感じだった。

    以前は、どう、だったのだろうか……。

    一ケ月前の建国祭では見掛けはしたが、近くに行くことはなかった。

    公爵はエミールに気がついていたのかどうか……。

    それ以降は、見かけることもなかった。

    九月の建国祭以降も、夜会や宮廷行事はあった。

    だが、エミールが違う行事に駆り出されていたり、アスタリエル公爵が出席されていなかったりと続いたのだ。

    以前は一ケ月見かけないなどザラだった。

    でもいまはもう、圧倒的に公爵が足りていない。

    「渇望」と言う言葉が、エミールの頭のなかを漂っていた。

    (……へんなの……)
    エミールは食器を片付けながら笑えてきた。

    体の中に、なにか古布でも詰め込まれているように感じていた。

    これは「僕」じゃない……。

    「エミール、昼、食べに行くぞ」

    アルノが声を掛けてきた。

    「あ、僕、後で行きます。これ片づけてから……」

    「いいから来い」

    珍しくアルノは強引にエミールを昼食に誘った。

    食堂の片隅で、アルノと向かい合った。

    アルノの前には食事がトレイに乗っているが、エミールは紅茶だけだった。

    「お前、最近ほとんど食えてないんじゃないか?」

    「あ……さっき、お菓子貰って食べたから……」

    食堂はざわめいていたが、二人の周りだけ人がいなくて妙に静かだった。

    「……俺は婉曲な話し方ができんからな、単刀直入にいうが……」

    (このごろミスが多い、とかかな? そうだよね。たしかに……)

    エミールはどこか他人事のようにアルノの言葉を聞いていた。

    「おまえ……、恋、なのか?」

    エミールの目が見開かれた。

    (恋? 僕が? 恋? ……公爵様に……?)

    エミールは、今年に入ってからの、揺さぶられる感情に名前が付いたことで、なにか安堵のような感情がスルリと入ってきた。

    (そうか……。恋、なんだ、これ……)

    「エミール……。おまえ、そんな顔をして……」

    アルノは何故か苦しそうな表情をしている。

    「どうしたの? アルノ? 僕、恋、してたんだね」

    エミールは笑ったが、ポタリと雫が落ち、それが自分の目から出たものだと知るのに、僅かに時間を要した。

    「あ……れ……?」

    「……エミール……、……やめとけ……相手が、悪すぎる……」

    アルノが絞り出すように言った。

    (バレてるんだ……)

    「……わかってるよ、そんなこと……」

    エミールは、笑ってみせた。



    十月十日の今夜は、王妃陛下の誕生祭の夜会である。

    三公爵は出席している。

    招待客は女性が多く華やかだった。

    白銀の公爵様も、いつも通り「美」の顕現だった。
    多くの女性に取り囲まれている。

    漆黒の公爵様は、王妃様と何か話していらした。

    公爵様……。

    (……僕の……)

    (でも、もう……前のようにまた……)

    「以前」はどうしていたのだろうと、エミールは思った。

    どんな風に暮らし、どんな風に公爵を見ていたんだろう……。

    あの双闇そうあんの夜以前は……。

    戻る、と言う意味が、エミールにはもうわからなかった。

    気づくと、アスタリエル公爵は窓際に立っていた。

    今夜の月は、大きい月の蒼月セレインが細月(新月前)、小さい月の橙月ルティナが満月だから月明りはやや藤色になる。

    その藤色を背景に立つ公爵に見惚れていると、公爵がエミールに目配せをした。

    エミールは真っ直ぐに、公爵の許へ伺った。

    公爵以外は全て、絵画のようだった。

    エミールの持っているトレイからワインを取ると、公爵はエミールの耳元で囁いた。

    「終わったら、執務室へ来い」




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