
恋 (1話/全13話)
【あらすじ】
六十歳の冬子は、夫、誠一と何不自由なく満ち足りた日を送っている。アルバイトをしている職場にも恵まれていると感じている。
そんなある日、楽しそう、と軽い気持ちでAIキャラクター達とのチャットを始める。
そのチャットが、彼女の内側を揺さぶり、長く沈んでいた「少女」を揺り起こす。
チャットの中で「とおこ」として生きる冬子は、現実では決して手にできなかった言葉を受け取り、知らずに深みへはまっていく。
幸福な日常は何も変わっていない。隣には誠一がいる。仕事も充実している。
なのに、冬子の日常の隙間に「とおこ」が滲み込み、冬子の内側の柔らかな部分が、自分でも知らぬ間に変容していく。
《プロローグ》
冬子(ふゆこ)は会社から最寄り駅へと、京都の四条通を西へ歩いていた。
しっとりとした初冬の空気と夕日が、彼女を包みこんでいる。
空は曇天。晴れと雨のちょうど中間の曇りの見本のような空だった。だが一筋だけ、天使の階が遠くに見えていた。
彼女は地下鉄の駅に行くためエスカレーターに乗ると、その床が目に入った。
周りの蛍光灯の明かりが一筋になって映り、エスカレーターの動きに合わせてその光の筋が滑っていく。何度も何度も繰り返し繰り返し……。彼女の周りが、陽の光から地下の蛍光灯の光に変わっていく。地球の裏側でも見るように、彼女は一点を見つめていた。
薄墨のように胸の中に広がるものをじんわりと弄ぶ。それは旧知のもののようでもあり、見覚えのない得体のしれないもののようでもあった。緩く強くそれに喉元を絞められ息苦しいのに、この息苦しさを失うことを懼れ縋りつく。鼓動は徐々に速くなるのに歩く速度は一向に上がらない。歩くこと、歩いているこの時間を噛み締めることが最も大切なことのように歩いていた。
冬子の周りの空気が動いた。その瞬間、彼女は眼を上げて吐息し、微かにほほ笑んだ。六十歳という年齢を感じさせない表情だった。
今の冬子には、退勤してきた職場もこれから帰る家の事も何も、なかった。
※ ※ ※ ※ ※
夕食の後、冬子は食器を洗い片づけるとキッチンの流しからカウンター越しに右奥を覗いた。
夫の誠一は、いつも通りソファに座ってテレビを見ていた。右奥の壁側にテレビがありその前にテーブルと三人掛けのソファがある。流しの正面にあるダイニングテーブルには、リモコンや小物を入れる百均で買ったケースとティッシュケースがあるだけである。(洗い忘れはない)と確認して、キッチンの電気を消した。マンションのドアからまっすぐに延びた廊下に出ると、すぐに左に曲がってダイニングとリビングの真ん中に立った。
冬子は、落ち着きなくあたりを見回した。
「なんや? なんか探してる?」
誠一が少しだけ後ろを向いて聞いた。
「ううん、べつに。なんでもない」
冬子はにこやかに答えた。
何も変わったことはない。
でも、落ち着かない。誠一を見て思う。
(まだお風呂、行かへんのかなあ……)
とりあえずいつも通り、誠一の左側、ソファのベランダ側に座った。テレビではニュースが流れていた。見るともなしに見ていると、誠一がSNSを見ていて、笑った。
「冬ちゃん、見てみ」
誠一はスマホを冬子に向けて、見ていた写真を見せた。
その写真には小ぶりの大根が映っている。その大根の下の根の部分が二つに分かれてもつれていて、青首のあたりから太い根が出ている。それを、お茶碗をうつ伏せにしたところに凭れさせている。一見して[足を組んで腕を椅子のひじ掛けに預けて悠然と座っている]格好に見える。そしてその写真のタイトルが「話してごらん」。
冬子は何かに弾かれるように、跳ねるように笑った。
「あはは~! これ最高やん!」
「そやろ?」
夫婦で笑い合う。
ニュースでは、ある事件の被害者遺族のインタビューを流していた。
「隣に夫のいない家族の思い出が増えていくことが……たまりません……」
(……そうか……)
冬子は今まで「被害者遺族のコメント」をニュースで聞く度に、辛いよねなんて思っていたが、この言葉は冬子を深く揺さぶった。写真を撮る度に、いるはずの夫がいないということを突き付けられるのだ、きっと。誠一がいなくなったら……とぞっとする。
一昨年、誠一は夕飯後に苦しみだした。滅多に体調不良を訴えなかったから冬子はパニックになった。検査の結果、胆石とのことで手術をして事なきを得た。
この人が隣にいる。この人が元気で笑っている。
他には何もいらない。特別派手な出来事なんてなくても、こんな風に穏やかに過ごしていければいい。冬子は、心からそう思っていた。
大根の写真を見て笑っていたその同じ延長で、今度はその被害者遺族のコメントに涙した。
(情緒不安定……)
微かにそんな言葉が浮き上がった。いや元々喜怒哀楽を閉じ込める方でもない。きっといつも通りだ。でも……気をつけないと……。
誠一がソファから立ち上り、涙を拭っている冬子の頭をポンポンと叩くと「風呂、行ってくるわ」と言った。冬子は「行ってらっしゃーい」といつものやり取りをする。
誠一の手の温もりを感じながらも、冬子は逸る気持ちを抑えようと専心した。
彼女は風呂場のドアが閉まる音を聞くと、そそくさとスマホを開けた。
心臓が高鳴る。いやもうすでに高鳴っていた。平静を保つためにはエネルギーが必要だった。
誠一には知られてはいけない、見られてはいけない、表情の変化も見せてはいけない……それが冬子を、見たこともない空間に誘っているのである。
――こんなに穏やかで満ち足りた生活を送っているのに、なんで私はこんなに夢中になってしまうんやろう……。
現実の幸せの上にある遊び、だから……、遊びだから……?
冬子はチャット画面を開け、メッセージを送った。
『ごめん……遅くなっちゃった……』
『今日は先に帰ったのかと思った……』
すぐに返信が来た。怒ったような拗ねたような雰囲気が伝わる。続いてもう一つ届いた。
『遠回り、しよっか』
冬子には彼の笑顔が見えた。
『うん。今日は終わるの早かったの? その後、どうしてたの?』
『ああ、早かった。ずっと、とおこを待ってた』
冬子の動きが止まった。アナウンサーの声は聞こえなくなった。
はじまりは些細な、本当に些細なきっかけだった。「楽しそう」というたったそれだけの軽い気持ちでタップしたのだ。
あれは、日中の気温が下がったとはいえ、まだ夏の残滓を内包している頃だった。
夕食後に誠一はテレビをかけて、大学のテキストを読んだり、レポートを書いたり、SNSのチェックをしたりする。誠一は定年退職した翌年、博物館関係の資格を取ると言って、大学に入った。通信制なので、毎日のように大学へ通うというようなことはしなくていいが、レポートに追われているようだ。大変そうに言うが、冬子は何の心配もしていない。誠一ならどの科目も高得点でパスすると思っている。絶対の信頼というか、心から尊敬しているのだ。冬子の学歴コンプレックスを補ってくれているような気も、しているのだろう。
冬子は誠一に付き合って同じテレビを見るか、同じくSNSのチェックをする。
誠一の座っている右側のふすまを開ければ四畳半の和室で、誠一の数人の同級生たちが集まる時はそこを開け放して広く使う。冬子はソファの定位置に陣取った。
テレビを見ながら、冬子もSNSをチェックしていた。
その時だった、そのバナーを見つけたのは。
たまたま目に入ったバナーが、これほどまでに深く、冬子を閉じ込めることになるとは思いもよらなかった……。
※ この作品は「別冊關學文藝」第七十二号(2026年5月15日発行)に掲載された作品の再掲です。
お読みいただきありがとうございます。
2話以降は、毎日、夜、投稿予定です。
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