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小説『歩み重なり、季節は巡る』 前編

    【 紡いだ景色、色を添えゆく | 2026年10月6日 】


    【あらすじ】

    愛おしさと寂しさを重ね合わせながら、大人たちは今日を歩く。
    不器用で愛おしい、日常の余白を描いた物語。
    夫を見送り、女手一つで育て上げた娘が、自分の手元を離れ遠い空の下へと旅立った。
    慌ただしく過ぎ去った年月が落ち着きを取り戻し、ふと訪れた静寂の中で、主人公は自身の人生と静かに向き合い始める。
    ​悲しみや痛みを言葉にせずとも、沈黙だけで分かり合える親友。
    別々の道を歩みながらも、かつての伴侶を深く敬愛し続ける親族。
    そして、過去のふとした旅先で出会い、同じ景色を並んで歩くうちに、いつしか「なくてはならない存在」となっていた、一回り年下の友人――。
    ​それぞれに喪失や孤独を抱えた大人たちが、ともに食卓を囲み、過ぎゆく季節の風を感じながら、心地よい「距離感」を確かめ合っていく。
    劇的な事件や、燃え上がるような恋が起きるわけではない。けれど、日常のふとした瞬間にこぼれる本音や、不器用な優しさが、胸の奥で止まっていた時間を少しずつ動かしていく。
    ​親としての顔、一人の女性としての顔、そして、ただの「私」へ。
    喪失を抱えながらも、誰かと共に歩く時間の温かさを丁寧に掬い上げた、大人のための静かな群像劇。


    空の色が移ろうように、寄せては返す波のように、人の心もまた少しずつ形を変えていく。悲しみが癒えない夜があり、何気ないひと言で、心がすっと軽くなる朝も訪れる。

    思いがけない再会が拓く、まだ見ぬ景色。

    遠く離れた家族と、心で結ばれた絆。

    ​友人と笑い合う、ありふれた風景。

    言葉を交わさずとも、ただ隣にいるだけで心が自然と落ち着くような関係。


    この物語は「美知子」というひとりの女性が経験する、どこか身近な情景を描き出している。そこに綴られる出来事は、特別なものではなく、日々の折々で静かに訪れる心の揺らぎや、小さな選択が織りなす日常である。



    第一話 この夏の始まり 


    壁一面を覆う広大なガラス窓から、抜けるような青空の輝きが惜しげもなく差し込んでいる。

    様々な言葉が行き交うアナウンスが、ひんやりと乾いたロビーに絶え間なく響いていた。 

    旅行客で溢れるフロアの片隅で、美知子は、ショーウィンドウに映る自分を気恥ずかしそうに直す。久しぶりの、再会に少し張り切り過ぎただろうか。



    二十歳になった娘は学期末の休暇を迎え、留学先のアメリカから帰国したのが、この夏の始まりだった。

    到着ロビーのざわめきのなか、美知子は人の波を探すように辺りを見渡す。


    その時、遠くの方で手を振りながら近づいてくる人影があった。歩くたびにふわりと揺れる長い髪。背が伸び、手足もスラリと長く、その表情は見違えるほど大人びた我が子の光里(ひかり)だった。


    「もぉ~、お母さんどこ見てたのよ!」

    光里が笑いながら駆け寄ってくる。


    「お母さんたらーあんなに大きく手を振っていたのに、全然気付いてくれないんだから!」


    「ごめん、ごめん、しばらく見ないうちに、綺麗になっちゃって……どちら様かしら? と思ったわよ!」


    「おばあちゃん……今の光里を見たら、きっと驚いて、嬉しさのあまり……腰を抜かしちゃうかもねぇ」


    そう言う美知子に、光里は少し照れたように肩をすくめて笑った。

    「もぅ……大袈裟なんだから」

    待ちわびていた愛娘との再会に喜びを噛みしめる美知子だった。


    「ねぇ。どこかでお茶でも飲んで、ゆっくりしよっか」 


    光里はすぐさま、美知子の腕に自分の腕をギュッと絡ませ、弾んだ声で応えた。

    「だったら、美味しいスイーツ食べたいな」


    「そんなことだろうと思ってね……スイーツが美味しそうなお店、探しておいたの。さ、行くわよ」

    美知子は得意げに胸を張った。


    その自信満々な顔の裏で――

    昨夜から慣れない手つきでインスタを開き、必死に店を探していたことは、もちろん内緒だ。


    「楽しみっ!」


    光里が子どもの頃のように声を弾ませると

    「相変わらず、美味しいものの話になると目が輝くのね。中身はちっとも変わってないわ」

    ​美知子は娘の成長を嬉しく思いつつも、幼い頃の面影が垣間見えたことに、そっと目尻を下げる。

    ゴロゴロと響くスーツケースのキャスターが、磨かれた床を小気味よいリズムで鳴らしていく。

    ​

    行き交う人波を縫うように進む二人の足取りは、これから始まる時間への期待を映すように、どこまでも軽やかだった。



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    第二話 あの時も、暑い夏だった


    美知子が幼い光里を連れて、上京してきた頃から住み続けている、マンションの一室。


    ドアを開けた瞬間、光里はふっと足を止めた。

    カーテンの色も、ダイニングテーブルも、

    そしてソファーの上に置かれた、少し色あせたクッションも――

    あの頃のままだった。


    くすっと笑いながら、光里がクッションを手に取る。

    懐かしそうに部屋を見渡しながら、それを胸に抱き寄せると、ふわりと、あの頃と変わらない匂いが広がった。 


    「……これ、まだ使ってたんだ?」

    その一言に、美知子は小さく頷き、

    「あれ、毎日抱えて寝てたの、誰だったかしらね」

    と、口元を優しくほころばせた。


    美知子は少しだけ背筋を伸ばし、光里の足元にある鞄へ目を向けた。


    「さっ、その大きな荷物を自分の部屋にしまいなさい。夕飯まではまだ時間があるから、疲れたでしょう。ゆっくりしたらいいわ」


    光里は、

    「うん」

    と頷き、どこか照れくさそうに笑みを浮かべる。


    その夜は、時間を忘れるほど取り留めのない話に花が咲き、空白の時間を埋めるように、二人の穏やかな語らいが夜更けまで続いた。



    ――「じゃ、ちょっと行ってくるね!」


    翌日、光里はそう言って、軽やかに玄関を飛び出していった。


    渋谷、原宿――

    懐かしい街に、懐かしい友達。

    夜遅くに帰ってきては、楽しそうに今日の出来事を話し、笑い声が、途切れることなく部屋に広がる。


    そんな時間が、まるでこぼれ落ちるように過ぎていった。



    ――そして今。 


    シートベルト着用のサイン音……

    キーンという飛行機のエンジン音……

    眼下に広がる景色は、いつしか無機質なビル群から、複雑に入り組んだ海岸線と、紺碧の海に散らばる大小の島々へと変わっている。


    美知子は光里と二人で、九州の小さな漁師町、母の待つ故郷ヘ向かう飛行機の中にいた。


    今回、留学先からの帰国を機に、二十歳を迎えた娘の姿をひと目見せてあげたい。

    その思いを胸に美知子は、光里と共に、故郷の地を踏んだのだった。



    漁船の行き交う港。

    遠くの汽笛は、心地よく響きわたる。

    潮の香りが懐かしく、

    久方ぶりの故郷はあの頃と何も変わっていなかった。


    波打つ音に混ざり、風が坂道を駆け上がってくる。やがて潮騒へと変わり、梢を揺らす音は辺りを包みこんでいく。

    海を一望する高台。

    静かに佇む墓石には、亡き父が眠る。

    風に髪をなびかせながら、じっと手を合わせる娘の姿。側には母の笑顔があった。


    その後ろで、目を閉じ静かに手を合わせる

    美知子。


    (……お父ちゃん、見てる?)


    じっと目を閉じ、亡き父へ届くように、胸の内でそっと語りかけた。


    (泣き虫で、ちっちゃかった、あの光里がもう二十歳よ。すっかり大人びて、綺麗になったでしょ)

    指先で目元を拭い、懐かしむように遠い日へと思いを馳せる。


    (お父ちゃんたら、いつも口を開けば、光里、光里って……暇さえあれば軽トラに乗せて、よく出掛けていたよね。あの時の光里の嬉しそうな顔ったら、……フフ、思い出すだけで、涙が出ちゃうわ)

     

    墓前に手を合わせていた美知子の胸を、ふいに熱い風が通り抜けた。



    ――あの時も、今日と同じように、暑い日だった。

    最愛の人を、不慮の事故で亡くしたあの日……


    夫は建築設計士として、現場の立ち会いに行っていた。

    その日、突然足場が崩れ、逃げ切れずに下敷きとなってしまい、病院に運ばれた時は、まだ息をしていたという。

    けれど、美知子が駆けつけた時には……

    もう、静かに息を引き取った後だった。


    ベッドに横たわる夫を見た瞬間、

    美知子の世界は音もなく止まった。


    ついこの前、光里の三歳の誕生日を三人で祝ったばかりだった。

    笑い声の余韻すら消えぬうちに、

    幸福だった日々が、指のあいだからこぼれ落ちる砂のように、音もなく崩れていった。


    胸の奥が引き裂かれるのに、

    なぜか、涙は出なかった。

    ただ、身体のどこかがぽっかりと消えてしまったようで……



    悲しみに暮れる中、美知子は、なす術もなく娘の小さな手を握りしめ、生まれ育った小さな漁師町の実家へと身を寄せた。それからの一歩一歩を支えてくれたのは、何も言わずにただ寄り添ってくれた、両親の存在だった。


    安らかな光里の寝顔を見ては、込み上げてくる涙を堪えきれず母の胸に顔を埋めて泣き明かしたことも……その度に、いつも傍には母の温もりがあった。

    失われた夫の影と、その欠けた部分をそっと埋めるように、父と母の温かな存在が寄り添ってくれていた。

    あの頃の美知子は、その温もりに救われていたのだった。


    ――お父ちゃん。


    私がここまで光里を育ててこれたのは、お父ちゃん達が傍にいてくれたからなの。

    あの時、私ひとりでは無理だったわ――

    心の中でそう呟いた瞬間、胸の奥で、そっと何かがほどけていくのを感じた。


    蝉の声が遠くで響き、墓前の花が静かな風に揺れている。


    ふと顔を上げると、木立の向こうに、夏の陽射しを弾く海が、わずかに覗いている。

    視線の先に、見覚えのある色の軽トラが、エンジン音を響かせてゆっくりと横切っていった。まるで、あの頃の父がそこにいるかのように――



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    第三話 そっとひとつに溶けていく


    久方ぶりに、母と三人で囲む食卓。

    湯気の立つ料理が、所狭しと並んでいる。

    つややかに光る刺身の皿に、鱧(はも)の湯引き、梅のさっぱりとした香りが、ふわりと鼻をくすぐった。


    「ほら、冷めないうちに食べなさい」


    母の声に促されるように、光里が箸を伸ばす。


    「うわ……これ、懐かしい味」

    小さく目を細めるその表情に、美知子も思わず和やかに笑みをこぼした。


    雑魚の天ぷらの衣が、さくっと軽やかな音を立てる。

    香ばしく炊き上げられた鯛のあら煮の甘辛い香りが、食卓いっぱいに広がっている。


    「このお刺身プリプリしてて新鮮!」 


    「でしょう……今朝、漁に出て獲れたばかりの魚を、翔三叔父さんが『みっちゃんたちに食べさせてやれ』って、わざわざ捌いて持ってきてくれたとよ」


    「翔三おじさんらしいよね……」


    その優しさに触れた瞬間、遠い日の父の背中が、胸の奥に浮かび上がった。


    「どれどれ」

    美知子も思わず箸を伸ばす。


    「……ああ、この醤油。とろりと濃厚で、だしの利いた深い甘みがたまらん。この弾いた身に……すっと馴染むのよね」


    目を細めた美知子の視線の先を光里に向けて、「そうだ、このお醤油、由里ちゃんにお土産に持っていてあげたらどうかしら?」


    「うん、由里子おばちゃん喜ぶんじゃない? 東京じゃ、なかなか手に入らないもんね。亮ちゃんにも持って行ってあげたら? 料理上手だし、絶対こういうの好きそう」

    光里の表情が、ふっとやわらいだ。


    「亮ちゃん、北海道に出張でさ。今回はちょっと長いみたいだから――またでいいかな?」


    会話を聞きながら、母はくすっと笑って

    「よかよ、二人分用意しとくたいね。それにこの際やけん、翔太さん達の分も用意しとこうかね」

    そう言って立ち上がった母は、台所の奥にある棚を覗き込んだ。


    そこには、美知子たちだけでなく、家族みんなが――いつ、誰が帰ってきてもいいようにと、使い慣れた地醤油や調味料の予備が、いつもきちんと並べられていた。


    「……あぁ、そういえば……翔太叔父さん、これ好きだったもんね」


    懐かしさに目を細める美知子の傍で、不意に、元気な声が食卓に弾けた。


    「あっ、これこれ……ん〜っ! 

    お婆ちゃんのあら煮は、やっぱり最高!」


    無邪気に笑いながら箸を伸ばす光里に、母が優しく声を掛ける。

    「光里ちゃん、骨に気をつけてね」


    娘にとっては、親代わりのようにいつも側で見守ってくれた、大きくて温かな存在だった。


    食卓の余韻がまだ温かく残るなか、

    たわいもない話で、笑い合い、そのたびに空気がやわらかくほどけていった。



    やがて夜も更け、三人で枕を並べて横になりながら、光里は留学先での出来事や、胸に抱いている未来の夢を、まるで溢れ出すように楽しそうに語り続けていた。


    母は、その一つひとつに耳を傾け、まなざしに愛おしさを滲ませながら、静かに受け止めていた。

    やがて、夜が深まるにつれ楽しげな声は少しずつ柔らかくなり、話の途中でふと途切れた。


    遠くで漁船の汽笛が微かに響き、部屋の中に静けさが満ちていく。


    「……光里?」


    美知子が娘の顔を覗き込みながら……

    「……あら、寝ちゃったのね」


    ​光里はすでに静かな寝息を立てて、夢の中にいた……額にかかった髪を指先でそっと払いながら、その向こう側の母へ、美知子は視線を向ける。


    「……電気、消すね」


    そう囁くと、母は

    「よかよ」

    とだけ応えた。


    電灯の紐が、時折小さく揺れている。



    薄闇に目が慣れてくると、横たわる三人の気配が、ぼんやりと浮かび上がった。


    「大きくなったねぇ……」


    孫を見つめる母の目尻が、穏やかに下がる。

    その声にはどこか安堵が滲んでいた。


    「うん」


    美知子は小さく頷き、光里の胸元まで肌掛けを引き上げた。お日様の温もりを閉じ込めたような、洗い立ての優しい香りがふわりと鼻先を掠める。その指先が、ほんの一瞬だけ名残を惜しむようにとどまった。


    「幸せそうな顔をして……」 


    眠る娘の頬に視線を落としたまま、かすかに声を落として続ける。


    「この子、ずっとお母さんに会いたがっていたから……きっと安心したのね」


    そう言って微笑むその横顔には、満たされたような静けさと、かすかな想いが揺れていた。


    そして美知子は、ふと遠い日の記憶を口にした。


    「ねぇ、お母ちゃん……覚えてる?」


    母は少し息をつき、布団の中で寝返りを打つ気配がして、衣擦れの小さな音が、かすかに溶けた。


    「光里が小学校に上がる前、私が東京へ行くって言い出した時のことやけど……」


    「……あん時、お父ちゃんが、あんなに反対したとに、お母ちゃんはなんも言わんで……お父ちゃんを説得してくれたじゃなかね」


    「そうじゃなかよ――あん時美知子の気持ちを、一番わかっとったとは、父さんばい」


    懐かしむように目を細めじっと、天井を見つめる。


    「美知子も聞いちょると思うけど……父さんは若か頃、すぐ下の弟、翔次さんば、船の事故で亡くしとるけんね……一緒におったとに助けてやれんかったと……あれが、ずうっと、心に残っちょって、ほんなこつ辛かったって」


    言葉を探すように、母は小さく吐息を漏らした。


    「一時期、船に乗るのが、恐ろしくなったって……いっそんこと漁師ばやめて、知らん土地に行こうかと、何度も考えたらしかと……」


    母はそこで一つ大きく息を吐き、身をよじるように目の慣れた薄暗がりの中で美知子へ視線を向ける。その顔は懐かしさと寂しさが入り交じったような、不思議な静けさを帯びていた。


    「そいでん、三男の翔三さんや、まだ小さかった四男の翔太さん達がおったけん…… だからね、父さんは、長男としての責任が思いとどまらせたって……」


    母は枕に頬を沈めたまま呟く。


    「美知子がいつか家を出ることは、父さんも覚悟しとったとよ。ここにおって、あんたが隆さんの思い出に縛られていくのを、誰より見るのが辛かったとは、父さんやけん。『美知子の思うようにさせてやろう』そう言うて、ずっとあんたの背中を見守っとったとよ」


    諭すような響きの中に、確かな安堵をにじませる。


    「そいで、こうも言うちょったとよ。『あん時のわしと違って、美知子には背負うもんは、光里だけたい。わしらもついちょるし、なんたって東京には翔太もおるけん――心配はいらんばい』ってね」


    かつての夫の不器用さを愛おしむように、母は目元を緩めた。


    「父さんが反対したとは、美知子の気持ちを確かめたかっただけたい。『大都会で、女手ひとつで子どもを育てていくには、なまじっかなことじゃなかけん』そう言うちょったけど……」


    その言葉のあと、ほんのわずかな間が落ちた。母は身を寄せ、内緒話をするように声を潜める。


    「本当はね、父さん、美知子や光里ちゃんと離れるのが、寂しかったんだと思うとよ」


    母はその気持ちを初めから分かっていたかのように、優しく微笑んでいた。


    その言葉を聞いた瞬間、ふと昔の匂いが、美知子の胸の奥を締め付けるのだった。

    あの頃の私は、夫の突然の死を受け入れられず、息をするだけで胸が痛いほど苦しかった。



    ――時間だけが過ぎていく中で、いつもあの人の記憶だけがやさしく浮かび上がってくる。

    横浜育ちの夫にとって、海はいつも身近な存在だった。子どもの頃は両親と湘南の海へ泳ぎに行き、学生の頃には釣りやサーフィンに夢中だったと、どこか懐かしむように楽しそうに話してくれた。


    ​美知子の父の小さな漁船に、初めて乗せてもらった時、デッキに響くエンジンの振動と、父の真っ黒に日焼けした太い腕に、隆はただ圧倒されるばかりで……

    そこには、言葉にできないほどの重みと、確かな生き様を感じたらしい。

    ​

    長女の加代子が嫁ぎ、数年後に末の美知子が隆と結婚したのと同時に、父は代々続いた網元の家督を、弟の翔三おじさんに譲ったのだった。


    娘たちの人生を、この家に縛りつけたくはない——

    その反面、翔三おじさんには三人の息子がいてくれたこともあり、父はどこか肩の荷を下ろしたように、潔くその役目を弟へと託した。


    家督を退いた父は、小さな漁船に乗り、近海で魚やタコを釣って、ほそぼそと生計を立てていた。

    それでも――当時は中小企業のサラリーマンより、よほど稼いでいた時代だったという。


    そんな父に連れられて、隆が初めて船に乗った日のことだった。 

    湘南の海とはまた違う、茫洋と広がる沖の海……父の手際のいい舟さばきや、無駄のない動きで網を繰るその手つき…… 

    そのすべてが新鮮で、心の奥まで解き放たれるような気持ちになったらしい。

    ​

    『海って、こんなに気持ちいいものなんだな』

    そう言って、少年のような瞳で笑った隆の姿を、美知子は今でも忘れられずにいた。


    それ以来、連休が取れると、よくドライブを兼ねて美知子の実家へ帰り、父の船に乗せてもらって海へ出ることを、隆は楽しみにしていたのだった。


    あの頃の父と夫の姿が今でも目に焼き付いていて、夕暮れの海を見るたびに、美知子は押し寄せる寂しさに呑み込まれそうになる。

    言葉にせずとも、その想いは刺すような切実さで、二人には、もう十分に伝わっていた。


    だからこそ、父は美知子の決断に反対しながらも、こう言ってくれた。

    『無理はするなよ。辛い時はいつでも帰ってこい。お前たちの居場所はここにもあるけん、忘れるな』


    その言葉を聴きながら―― 

    美知子の視界はこらえきれずに溢れ、声にならない嗚咽がこぼれた。

    父が自分を突き放すのではなく、最後の砦(とりで)になろうとしてくれている――

    その想いが、痛いほど胸に迫った。


    隣では、母が何も言わずに美知子の背中に手を添えて、さするような手のひらの温もりが、「大丈夫だよ」という無言のメッセージとなって、一歩先へと押し出してくれるようだった。



    ​その夜、安らぎに包まれた部屋には、光里の寝息だけが満ちていた。


    ​幽(かす)かに響く漁船の汽笛。その余韻のなかで、かつての痛みと今の温もりとが、そっとひとつに溶け合っていくようだった。






    第四話 夜空に大輪を咲かせ


    港の景色や、懐かしい潮の香りが縁側まで届く。実家での穏やかな時間に身を浸していた、ある日の昼下がりだった。

    玄関から張りのある明るい声が飛び込んできた。


    「みっちゃーん! 来たよー!」


    その耳に馴染んだ呼びかけに、美知子は弾かれたように顔を上げる。


    「え!? お姉ちゃん?」


    急いで廊下へ出ると、そこには五つ上の姉、加代子が立っていた。数年ぶりに見るその眩しい笑顔に、美知子の胸は懐かしさと驚きで、一気に高鳴り始めた。


    ​「加代子おばちゃん!」


    光里も満面の笑みで駆け寄り、静かだった玄関先は、一瞬にして再会を喜ぶ賑やかな歓声で華やいだ。


    ​「お姉ちゃん、お店の方は大丈夫なの?」


    驚く美知子に、加代子はくすっと笑い、

    「大丈夫、大丈夫。……はい、お土産」

    老舗の屋号が入った手提げ袋を軽く掲げてみせる。


    「新作なんだけど、けっこう評判いいのよ」


    そう言って手渡すと、少し肩をすくめるように続けた。


    「こっちは巨峰。今の時期が一番、よお出回っとってね、粒も大きゅうて甘かとよ」


    ​加代子はそう言って、ずっしりと重い紙袋を美知子の手に持たせた。袋の隙間から、深い紫色の瑞々しい香りが伝わってくる。


    「頂き物やけどね、お父ちゃん好きやったから、御仏壇にお供えしてあげて。その後、冷やして皆で食べよう」


    「ありがとう。でも、お店の方、忙しいんじゃないの?」


    「それがね、今日はこっちで花火大会があるやろ? そしたら家ん人がね、『みっちゃん達に早う顔を見せてやれ……お店はなんとかなるけん、一緒に花火見て楽しんでこい』って、送り出してくれたとよ」


    ​和菓子屋に嫁いだ加代子にとって、お盆前は一年で最も忙しい時期だ。

    近年は観光客も増え、店は息つく暇もないはずなのに――。


    夫に送り出されてきた姉の横顔を、そっと見つめる美知子。​​ふと目が合い、どちらからともなく笑みがこぼれる。

    ​実家の穏やかな空気に触れて――。

    二人は、遠い日の少女のような、柔らかさを取り戻しているようだった。


    「久しぶりやねぇ、みっちゃん。それにしても光里ちゃん、大きくなったねぇ!」


    「お姉ちゃん」

    美知子の胸に、少女の頃の懐かしい温もりがふわりと広がる。


    いつも賑やかな加代子の笑顔を前に、

    まるで時間が巻き戻ったかのような気がした。目の前の笑顔は、あの頃と何も変わらない。


    (皆そろって花火大会なんて…… いつ以来かしら)

    美知子は胸の奥で、そんな思いをしみじみと噛みしめていた。


    ​ふと隣を見ると、加代子も同じ記憶を辿っているのか、目を細めて遠い海を見つめている。


    「そうそう、光里ちゃん。お母さんとおばちゃんが、まだこれくらい小さかった頃はね……」

    加代子はそう言って、膝のあたりに手をかざしながら、懐かしそうに笑った。


    「おじいちゃんの船ば出して、海の上から花火ば見よったとよ」

    ​加代子は懐かしさに声を弾ませた。


    「真上で大きな花火が弾けて、火の粉が自分たちの上に降ってくるんじゃないかって……首が痛くなるくらい見上げて、そりゃあもう、心臓まで響くごて凄かったんだから」


    美知子も笑顔で言葉を重ねる。


    「ドーンって、地響きみたいに、お腹の底まで震えるのよね」

    両手を広げて、火花が散るような仕草をしてみせた。


    光里は羨ましそうに目を丸くして、

    「へぇ、……いいなぁ!」

    と声をあげる。


    ​すると加代子が、悪戯(いたずら)っぽく、目を細めて付け足した。


    「でもね、おばあちゃんは船酔いしちゃうからって~、これまで一度も行けてないの。漁師の奥さんなのに…… ふふ、可笑しいよね?」

    加代子は口元を抑えながら、台所の方をちらりと見て声を潜めた。


    その途端、昔の夏休みのように賑やかな笑い声が家の中に広がり、

    久しぶりに、家族だけの柔らかな空気が満ちていった。



    母が縫ってくれた浴衣に袖を通す光里の後ろ姿、スラリとした首筋、しなやかに伸びた指先。


    「はい、できたよ」


    母が最後のひと結びで帯をきゅっと締めると、光里の背筋がピンと伸びた。


    後ろで見てた姉の加代子が、パッと顔を輝かせ、嬉しそうに微笑んだ。


    「光里ちゃん、スタイル良かから映えるたいねぇ。綺麗よ〜」 


    ​「ホンにね、隆さんに見せたかったね……」

    ​母の声が、少しだけ震えた。


    その言葉が、静かな部屋に波紋のように広がっていく。

    美知子の視界が、瞬く間に滲んでいった。


    母の声の奥には、娘を思う気持ちと、亡き婿への想いが入り混じっている。

    その震える声を聞きながら、美知子はそっと母を見つめた。長い年月、どんな時も私を支え、守り続けてくれた、小さくなったその背中を――。




    ――夜の帳が降りはじめ、

    遠くの海辺から、ドンッ! と低い音が響いた。


    「わぁ……、きれい……!」


    思いきり空を見上げる光里の横で、美知子と加代子も頬を花火に染め、目を輝かせながら、次々と夜空へ咲く花火を見上げていた。


    その隣で母は、静かに空を見つめている。

    そのまなざしは、まるで過ぎ去った日々を慈しむように、どこか遠く穏やかだった。

    家族揃ってこうして花火を眺めるのは、何年ぶりだろう。


    「父さんや隆さんも……一緒に見られたらよかったとにね」


    花火の音にかき消されそうな、母の小さな声。そこには喜びと愁(うれ)いが静かに溶け合っていて、その想いに触れた美知子の胸は、じんわりと熱くなっていく。


    ​打ち上がった花火が夜空に大輪を咲かせ、やがて静かに闇へ溶けていく。

    消えてしまうからこそ、これほどまでに美しいのかもしれない――。


    故郷で過ごした、美知子と光里の短い夏。

    失われた時間を埋めるように紡がれたこの景色も、きっと忘れられない鮮やかな記憶として、二人の胸に刻まれていくのだろう。


    ​だが、その輝きが消えたあとの静寂が、無情にも告げていた。

    明日の朝には、またそれぞれの「日常」へと戻る時間が、すぐそこまで迫っていることを。






    第五話 愛おしさと寂し寂しと幾重にも重なり


    夏の夕方の空港

    ガラス張りの大きな窓から差し込む夕陽が赤く床に反射している。

    冷房の効いた涼しいロビーにいながら、窓から差し込む陽光が、娘を見つめる美知子のまなざしを淡くにじませる。


    人々のざわめきとアナウンスが交錯する中、光里はこの夏の想い出が詰まった大きなキャリーバッグを引いて歩いていく。


    振り返り、手を振るその凛とした姿……

    規則正しく響くキャスターの音が、次第に遠ざかっていく。

    ——思わず呼び止めそうになるのを、美知子はぐっとこらえた。その胸は、誇らしさと切なさが混じり合った熱い鼓動を刻んでいた。


     

    (――行ってらっしゃい。)


    そう心で呟きながらも、美知子はただ、娘の姿を目で追い続けていた。


    消えていった背中の向こうに、愛おしさと寂しさだけが、幾重にも重なっていく。

    そのすべてを抱えたまま、美知子はしばらく動けなかった。


    さっきまで目の前にあった、あの真っ直ぐで迷いのない背中。

    それとは正反対の、震える小さな肩を抱きしめていた記憶が、鮮やかな色を伴って蘇ってくる。



    小学校入学を機に、二人で東京へ上京したあの頃……

    幼い光里は、慣れない校門の前で立ちすくみ、小さな手が指に食い込むほど、美知子の手を強く握りしめて離そうとしなかった。


    突然

    「おばあちゃん、おじいちゃんに会いたい……」

    と泣き出しては、美知子を困らせたあの日々。


    どれも昨日のことのように鮮やかで――

    そのすべてが、今の光里へと続いているのだと思うと、胸が熱く締めつけられた。


    (ねぇ、あなた見てる? ……光里の、はにかむような笑い顔や横顔……あなたにそっくりよ。あんなに泣き虫で、いつも私の手を離さなかったあの子が――今では、笑顔で手を振りながら、遠い場所へ行っちゃったわ)


    どこか誇らしげに、亡き夫に語りかける。


    (光里も、いつの間にか自分の世界を歩き始めているのね……)


    ​その先の言葉は、形になる前に、晩夏の夕陽の中へとそっとほどけていった。



    寂しさだけが残る帰りのホーム。

    エスカレーターから流れてくる人の波が、途切れることなく通り過ぎていく。

    行き交う人々の喧騒が、どこか遠くの出来事のように感じた。


    このまま、光里が旅立ったあとの静まり返った部屋へ帰る気にはなれなかった。

    こんな時、声を聞きたくなるのは――やっぱり由里子だった。


    美知子は、携帯を開く。

    すると、ちょうどその由里子から着信が入っていたことに気づき、思わず慌ててかけ直す。


    「由里ちゃん、電話気づかなくてごめんね」


    電話の向こうから、拍子抜けするほど明るい声が飛び込んできた。


    『光里ちゃん、今日戻るって言ってたでしょ。……みっちゃん、絶対寂しがってると思ってたんだけど。……心配するほどでもなかったかな?』


    クスッ、と電話越しに笑う気配。


    『どう? これから飲みに行く?』 


    あまりのタイミングの良さに、美知子はふっと小さく息をこぼした。


    「私も、由里ちゃんに連絡しようと思って携帯開いたら、ちょうど着信に気づいて今、電話しようとしたところよ」


    美知子が言い終わらないうちに、すかさず——

    『良かった。そんなことだろうってね……居酒屋【鳥勝】予約しておいたから、先に行って待ってるね。早く来て』


    「【鳥勝】かぁ~いいねぇ!……直ぐ、行くから待ってて」


    くすりと笑いがこぼれるような自然な会話が弾む。


    (由里ちゃんらしいなぁ……。あぁ、やっぱり持つべきものは、解り合える親友なんだよなぁ)


    (あっ……そういえば、お土産……)


    故郷の地醤油と、姉から渡された新商品の和菓子が、ふっと頭に浮かぶ。


    (今日会うと思ってなかったから、持ってきてないや。まっ、どうせまた直ぐに会うと思うから)


    胸の中でそう呟くと、美知子の足取りは、さっきまでよりずっと軽くなっていた。


    ホームに滑り込んできた電車の風が、やわらかく髪を揺らす。

    さっきまで肌に重くまとわりついていた空気も、今は驚くほど心地よかった。






    第六話 夜風が吹き抜け、髪をそっと揺らした


    光里が留学先へ戻ってから二週間後のことだった。

    ちょうどアメリカから帰国した父の弟、翔太に誘われ、美知子は麻布のステーキハウスを訪れていた。


    カウンターで隣り合う叔父の翔太は、

     父の四人兄弟の末っ子で、長年、日本とアメリカを行き来しているせいか、その佇まいには自由で洗練された空気が宿っている。実年齢を感じさせない若々しさは美知子と並んでも、気の置けない兄妹のような親密さを漂わせている。


    「翔太叔父さん、さすがだね。こんなお洒落なお店、よく知ってるよね」


    美知子が感嘆すると、翔太は軽く肩をすくめ、苦笑いした。

    「取引先の人に教えてもらってね。料理もサービスも良くて気に入ってるんだ。光里ちゃんも一緒に連れてきてあげたかったけど、ちょっとタイミングが合わなくて残念だったよ」


    その言葉に、美知子は嬉しそうに目を細めた。

     離れていても、こうして娘のことを気にかけてくれている―― そのさりげない優しさが、胸に温かく沁みる。



    ​目の前の鉄板では、厚みのある肉が小気味よい音を立てて焼かれている。


    ​「そうそう、真理子から聞いたよ……」

    光里ちゃんと一緒に顔出してくれたみたいじゃないか、お土産も沢山もらったって、真理子喜んでいたよ……


    「お母ちゃんがねぇ、翔太叔父さん九州の地醤油好きだからって……それに、お姉ちゃんとこの、新商品のお菓子も持たされて。けっこう評判いいみたいで」

    美知子は、思い出したように肩を揺らして笑う。


    「真理子おばさんに食べて欲しかったみたいで……ほら、お姉ちゃん、真理子おばさんのこと昔から大好きだから」


    「はは……相変わらずだなぁ」 翔太は、どこか照れくさそうに苦笑した。


    ​「……地醤油は有難いな。俺、どこに行っても順応性だけはある方だと思っとったんだけどな。最近齢のせいか、日本食が――それも故郷の味が、無性に恋しくなることが増えてさ」

    ​照れ隠しのように視線を逸らすその横顔に、ふっと深い笑みが差す。


    「みっちゃたちが持ってきてくれたあの醤油は、ほんに嬉しかったよ。……流石、義姉さんたい。俺の好みをよう解っちょる」

    ​翔太は愛おしそうに独り言のように呟いてから、美知子を振り返った。


    「みっちゃんも、あれだけの荷物重かっただろう。悪かったな、わざわざ」

    翔太の申し訳なさそうな声に、「ううん、そげんことなかよ」と優しく微笑んだ。

    ​「光里と二人で、ほら、車で行ったけん」と、どこか嬉しそうに呟いた。



    翔太と真理子は、別々に暮らしている、今でも、時折こうして連絡を取り合っているらしい。

    真理子叔母さんの話をする時の翔太叔父さんは、どこか嬉しそうだし…… また、真理子おばさんも、翔太叔父さんの名前が出るたび、少し照れたように笑う。

    長い年月を経た今でも、二人の間には、簡単には消えない繋がりのようなものが確かに残っていた。


    ――それなのに、なぜ別れたんだろう。

    その疑問は、ずっと前から彼女の胸の奥に引っかかっていて……

    一度だけ、母に尋ねようとしたことがある。けれど母は、 「余計なこと詮索せんでよか」 と、ぴしゃりと言葉を切った。

    あの時の、踏み込ませまいとするような母の声だけが、今も妙に耳に残っている。



    「……みっちゃん、肉、冷めるぞ」

    翔太叔父さんの穏やかな声に引き戻されたように「わぁ、美味しそう……!」と、目を輝かせた。


    ライトに照らされた鉄板の上では、 シェフがコテとナイフを鮮やかに操りながら、 焼き上がった極上の肉を、心地よいリズムでサイコロ状に切り分けていく。断面からは、じゅわっと肉汁が滲み出していた。


    美知子は熱々の一切れを箸で摘み、ゆっくりと口に含んだ。

    噛み締めた瞬間、上質な脂の香ばしい甘みが弾け、自家製のタレと溶け合いながら、じんわりと口いっぱいに広がった。


    「うぅ〜ん、しあわせ……」


    贅沢な食事に囲まれた、満ち足りた時間

    ―― それなのに美知子の胸には、とっくに翔太叔父さんと別れていながらも、今も 自分達を気にかけてくれる真理子おばさんの姿が、胸に浮かんでくるのだった。


    こんなにも自然に互いを思いやっているのに、 どうして二人は、離れて暮らしているのだろう――

    彼女は、グラスに滲む深い紅色を、ぼんやり見つめた。



    ​都会の喧騒を忘れさせる、柔らかな灯りの店内で――。

    二人はゆっくりと言葉を交わしながら、話題はこの夏に過ごした故郷のことや、母、そして姉たちの近況へと移っていく。

    ​翔太はゆっくりとワイングラスを傾けた。


    「そう言えば……光里ちゃん、背も伸びて綺麗になったな。それに、隆くんによう似てきたと思わんか?」

    ​その言葉に、嬉しそうに頬を緩める。


    「……翔太叔父さんも、そう思った?」


    ​「ああ。特に笑った時の顔なんか、そっくりだよ。光里ちゃんに会いに行ったのは、半年ほど前になるかな……隆くんを彷彿とさせる成長ぶりに驚いたよ。義姉さんも、驚いたんじゃないか……」

    ​

    「ええ……『隆さんに見せたかったねぇ……』って言って、涙ぐんでいたわ」

    ​美知子が答えると、翔太はふっと微笑み、「義姉さんらしいよ」と、グラスに視線を落とした。

    ​

    「誰よりも隆くんが、光里ちゃんの成長を喜んどると思うからな。……無理もなかよ」

    ​その穏やかな声が、胸の奥へじんわりと沁みていく。


    目の前のステーキの芳醇な香りと、叔父の温かな言葉。都会の夜の真ん中で、今は亡き人の存在が、確かな体温を持ってそこに在るような気がした。


    光里が留学してからというもの、翔太は折に触れて彼女の様子を見に行ってくれていた。その知らせを娘から聞くたび、ありがたさを感じる一方で、どこかこの叔父の大きな優しさに甘えきっている自分にも気づいていた。


    「……義姉さんの気持ち、よくわかるよ」

    ​

    翔太の言葉を噛みしめながら、美知子の意識は、かつて父や母が何度も語ってくれた遠い日の記憶へと、ゆっくりと遡(さかのぼ)っていった。



    ――九州の小さな漁師町から東大へ。

    当時、それは町始まって以来の快挙だったという。合格の報(しら)せが届いた日のことを、父や母は何度も誇らしげに語ってくれた。

    ​

    『おらが町から、東大生が出た!』

    ​

    町中が歓喜の声で溢れ、地方紙の紙面を飾るほどの熱狂ぶり。その中心にいた翔太叔父さん自身は、最初、進学するという発想すら持っていなかったそうだ。

    ​海と共に生き、漁師として家を継ぐのが当たり前だと思っていた青年。そんな彼の背を「挑戦してみろ」と強く押したのは、兄夫婦であり、私の父と母だった。

    ​当時のその町には、塾も予備校もなく、勉強に専念できる環境などどこにもなかった。

    だからこそ、あの日、彼が手にした合格通知の重みは、町の人々にとって希望そのものだったのだろう。 


    年の離れた兄夫婦が親代わりになって、面倒見てくれたおかげで今の自分がある。

    親のように寄り添い、東大受験へと背中を押してくれた兄と義姉。挑戦する勇気をくれたのは、あの二人だった。

    『先が見えんでもよかとよ。最初の一歩を踏み出せば、この町におっては見られん景色が、きっと見えてくるけん』


    ふと、翔太の胸に昔の記憶がよみがえる。

    もしあの時、義姉のあの言葉がなかったら、兄夫婦が手を差し伸べてくれなければ、自分は今頃、故郷の海で漁師として生きていたに違いない。そんな、幾度となく繰り返してきた確信が、改めて深く胸をよぎった。


    兄夫婦は、翔太の可能性を誰より信じてくれていた。

    『こんな小さな町で終わらせるには、もったいなか』その言葉は、今も胸の奥に生きている。


    ……だから、今度は自分が――

    兄が最期まで案じていた、あの親子を支えていきたいと思った。



    光里に留学を勧めたのも、この叔父だった。

    かつて兄夫婦が『この町におっては見られん景色が、きっと見えてくるけん』と、

    自分の背中を押してくれたように――

    今度は光里に、もっと広い世界を見せてやりたい。それは、翔太なりの恩返しでもあった。


    目の前の叔父が、自分や光里へ向けてくれている優しさは――

    かつて父と母から受けた愛情を、今度は自分たちへ繋ごうとしてくれているのだと。


    穏やかに笑う翔太の横顔を見つめながら、その想いの深さが、胸の奥へゆっくり沁みていく。

     

    「ごちそうさま…… ほんと、美味しかった!」


    店を出た瞬間、ふっと頬をゆるめた。

    ほのかな酔いに頬を染めながらも、その微笑みは満ち足りた温かさにあふれている。

    久しぶりに心から笑い、語り合えたひとときであった。


    「いやぁ…… 今夜は飲んだな」

    翔太は軽く肩を回しながら、満足気に笑った。


    「みっちゃんと飲んでると楽しくて、時間を忘れるよ」

    そう言いながら、火照った顔で、隣を涼しげに歩く美知子の顔をまじまじと見つめる。


    「しかしみっちゃん、相変わらず強かね。兄貴に似たのかな」

    そう言いながら苦笑する。


    店の扉を押して外へ出ると、夏の熱をわずかに残した麻布の夜風が頬を掠めた。

    通りの向こうには、呼んでおいたタクシーが、夜道にライトを浮かべながら待っている。


    翔太の歩みには、わずかな酔いの揺らぎが見えるが、その隣を歩く彼女の足取りは、まるで素面(しらふ)のようにしっかりとしていた。


    夜の通りには、食事を終えた人々の笑い声や、遠くを走る車の音がかすかに混じっていた。


    店先に待機していたタクシーのドアが静かに開く。翔太は後部座席のドアに手を添え、先に乗るように促した。

    小さく会釈して、車内へ滑り込む姿を見届けてから、自分もそのあとに身体を沈めた。


    ドアが閉まり、タクシーは緩やかに夜の通りへと走り出した。窓の外を、街の灯りが帯のように流れていく。


    「そういえば……光里ちゃんが、時々口にしてる、「ウォーキング仲間の亮ちゃん、だったかな。……彼とはどうなっとるとね?」みっちゃんもそろそろ、自分のことば考えても良か頃じゃなかね」少し間を置き「結婚とかも含めてさ……」


    流れていく夜の街を窓越しに見つめながら、「結婚はもうよか……彼も、たぶん同じような気持ちやと思うよ」

    そう呟くと、少し間を置いて続けた。


    「上手く言えんけど……今の、私達には、この距離感がちょうど良かとよ」

    苦笑まじりにそう言うその表情は、どこか肩の力が抜けたように穏やかだった。


    「距離感、か……」

    翔太は小さく繰り返すと、どこか納得したように笑った。


    それから少し身を乗り出し、悪戯っぽい視線を向ける。

    「そいでん、彼とは、もう長かとやろ、年の差のある、男女がこげん長く続けていらるっとは、よほど相性が良かか?……それとも、腐れ縁か?」翔太は、ふざけるように視線を寄越して笑った。

    美知子も、苦笑いしながら、ここぞとばかりに切り出した。


    「翔太叔父さんこそ、真理子おばさんと、こんまま別々でよかと?」


    「アハハー、そうきたか、そうだな……俺達も、こん距離感がちょうど合っとるんだろうな」昔から、確信に触れそうになると、翔太には上手く煙に巻かれてしまう。

    結局、それ以上踏み込めなくなるのだった。


    しばらくして翔太は、流れていく夜景へ視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。

    「なぁ、みっちゃん。

    俺の人生で一番のラッキーくじは……真理子に出会えて、女房にできたことだよ」


    窓の外を流れる街灯が、翔太の横顔を交互に照らし、その瞳の奥に宿る寂しさを一瞬だけ浮かび上がらせた。

    「……これだけは、本当に良かったと思っとるよ」


    「じゃあ、どうして――」

    そこまで口にした瞬間だった。


    「あっ、みっちゃん、もうマンションの前や……話よると早かね」

    翔太は、含みのある笑みを浮かべながら、前方へ視線を向けた。


    車はゆっくりと速度を落とし、美知子の住むマンションの前へと滑るように停まった。


    「じゃあまたな……いつでも連絡しろよ」

    後部座席の窓越しに、翔太が軽く手を上げる。さりげない別れの挨拶を見送りながら、小さく手を振り返した。


    タクシーがゆっくりと走り出し、尾灯の赤が夜道に滲んでいく。その光が角を曲がって完全に見えなくなるまで、しばらく立ち尽くしていた。


    日本を飛び回り、海外にも拠点を置くようになって――いつしか、滅多に会えない存在になっていった叔父。

    その翔太が、夜景を見つめながらぽつりと零した言葉。

    『真理子に出会えたことが、人生一番のラッキーくじだった』そう言い切る横顔が、妙に眩しく見えて――

    美知子は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。


    ――叔父さん、やっぱ格好良いよ……

    子供の頃からずっと、憧れは変わらない。

    なのに、いつもどこか遠い。


    夜風が吹き抜け、美知子の髪をそっと揺らした。






    第七話 同じ景色を見て、同じ道を歩き


    秋晴れの休日。


    美知子は、いつものウォーキングから戻り、玄関でシューズを揃えて置いた、まさにその時だった。


    携帯に届いた、一件のLINE

    久しぶりに目にする名前に、思わず小さく息をのむ。


    ――杉下 亮。

    北海道への出張が決まった日から、季節はひとつ進んでいた。


    『やっと戻ってきました。元気ですか?』

    その一文が、止まっていた時間を静かに動かし始めた。



    杉下亮とは、もう十年以上の付き合いになる。


    光里がまだ小学生だった、あの春――


    春休みを利用して、親友の由里子と、幼い光里を連れ、熱海旅行に出かけた。


    ホテルの​フロントでの手続きを終え、ようやくロビーのソファーに深く腰を下ろしたとき、美知子は隣に座る我が子の横顔を愛おしく見つめながら……

    ​小学校に入学した頃は、慣れない東京の環境に馴染めず、休みがちだった光里。

    それが三年生になる頃から、嘘のように毎日、笑顔で通えるようになっていった。


    『いつもお留守番やお手伝いをがんばってくれてるご褒美に、たまには海の見える、景色の綺麗なところに連れて行ってあげたいの、どこがいいと思う?』

    美知子がそう由里子に相談したとき、彼女は自分のことのように目を輝かせた。


    『だったら、熱海か、伊豆辺り良いんじゃない。知り合いに旅行好きで、詳しい人がいるから聞いてみるわ!  料理が美味しくて、全室オーシャンビューのホテルとか探してあげるね!任せといて』

    そうして、あちこちに連絡を取りながら見つけてくれたのが、この宿だった――


    ​ロビーの広々とした空間を見渡し、美知子は思わず感嘆の声を漏らした。

    大きなガラス窓の向こうには、眩しいほどにきらめく春の海が広がっている。

    ​

    「ねぇ、ほらここから海が見えるよ!」

    それまで大人しくしていた光里も、窓の向こうを指さして嬉しそうにはしゃぎ始めた。

    ​

    「由里ちゃん、素晴らしい眺めね。話には聞いていたけれど、期待以上だわ……よくこんな素敵な場所を見つけたわね」

    ​満足そうにはしゃぐ光里と、その横で微笑む由里子を見つめながら、美知子は心からの安堵を覚えた。


    ​「大したことないわよ!……なんて言いたいところだけど」由里子は照れ隠しのようにはにかみ、そっと口元を押さえる。

     

    「それがね、旅行好きの同僚が、張り切って手配してくれたのよ。うふふ」

    ​美知子もつられるようにして、穏やかな笑みをこぼす。


    「ねぇ、光里の嬉しそうな顔ったら……」

    ​二人の弾んだ笑い声が、吹き抜けのロビーに柔らかく溶けていった。



    その一角で、少し離れた円卓を囲むようにして、二人の若い男性が大きな地図を広げていた。

    ​

    「そう言えばこの辺に……美味いラーメン屋があったよな」地図の一角を指で辿りながら懐かしそうに二人は笑う。


    「大学の頃、写真部の連中と熱海に来るたび、そこ食いにいってたな……なにせ狭い店だったから、俺らだけで貸し切りみたいになってさ」


    当時を思い出したように顔を見合わせ、彼らは堪えきれずに吹き出した。その屈託のない笑い声は、静かなロビーの空気をふっと明るく塗り替えていく。


    旅に慣れているのか、あるいはこの街を熟知しているのか。彼らの周りにだけ、春の陽だまりのような自由な空気が流れているように見えた。


    後になって知ったのだが、彼らもまた休暇を利用して、熱海を訪れていたらしい。

    社会人三年目という彼らは、若々しさと落ち着きが同居した、不思議な魅力を持っていた。


    ​「……ねえ、あの人たち、詳しそうじゃない?」

    ​隣でパンフレットを眺めていた由里子が、面白そうに目を輝かせた。こういう時の、彼女の直感と行動力には、敵わない。

    ​「ちょっと聞いてくるわ」

    「えっ、由里ちゃん……」

    ​止める間もなく、彼女は軽やかな足取りで彼らの方へ歩み寄っていった。

    美知子は少し戸惑いながらも、

    「まったく……由里ちゃんらしいな」

    隣に座る光里の小さな手を握りながら、その様子を苦笑まじりに眺めていた。


    「すみません、ちょっとお聞きしてもいいですか?」

    ​由里子に声をかけられ、地図を覗き込んでいた二人が同時に顔を上げた。

    「明日、初島へ行こうと思っているんですけど。子連れでもゆっくり食事ができるような、美味しい海鮮料理のお店ってありますか?」


    ​突然の問いかけに一瞬だけ驚いたものの、二人はすぐに柔らかな微笑みを浮かべた。

    ​

    「ねえ、みっちゃーん!」

    人懐っこく相手の懐へ入り込んだ由里子は、笑顔で手を振った。

    光里の手を引きながら近づくと、亮が優しく視線を向けてくれる。


    「初島ですか――」

    先に口を開いた亮の、思ったより低く心地よい低音に、美知子は少し意外そうに目を瞬かせる。


    ​「それなら港の近くに何軒か――」

    話が弾み始めたところで、由里子は改めて軽く頭を下げた。

    「あ、ごめんなさい。私、坂田由里子と言います」


    隣にいる美知子に手をやり、光里の小さな肩を抱き寄せて微笑む。

    「こちらが美知子さんと、娘の光里ちゃんです」


    ​応えるように、男性の一人がすかさず口を開いた。

    「僕は杉下(すぎした)です」


    その横の男性が、少し照れくさそうに……

    「澤田です。僕たち、大学の同級生なんですよ」


    ​都会的な若さを残しながらも、どこか丁寧で誠実な二人の話しぶり。その温かな空気に引き込まれるように、美知子たちの緊張はいつしか解け、気づけば旅の話が自然と弾み始めていた。


    ​

    それが、すべての始まりだった。


    「そうそう、美味しい海鮮なら、せっかくだし網代(あじろ)まで足を延ばすのもおすすめですよ」亮は、ふと、思い出したように笑った。


    「熱海と違って静かな町なんですけど、海沿いに、朝獲れの魚を食べさせてくれる店があるんですよ。せっかくだから、ちょっと寄ってみるのもいいと思いますよ。

    俺たち、熱海に来たら必ず網代に足を伸ばしてから帰るんだけど。……よかったら一緒にどうですか?」


    ​

    実は、熱海へは美知子は初めてで、由里子にしても、ずいぶん前に会社の同僚と一泊旅行で訪れて以来だという。

    こうして、ホテルだけは、由里子の知人が、予約してくれていたので安心していたものの――初島にフェリーで渡る予定以外、二人はほとんど何も決めていなかった。


    「まあ、大丈夫でしょ。なんとかなるわよ」

    そう笑い合ってはいたが、幼い光里を連れての旅に、美知子は内心少しだけ心細さを抱えていた。​それは、由里子も同じだったのだろう。

    だからこそ、この街をよく知る彼らに自然と声をかけ、その気さくな返事に、妙な頼もしさを感じていた。


    ​「良かったぁ、やっぱり詳しい人に聞けて。せっかく熱海に来たからには、新鮮な海鮮は食べたいわよね」

    由里子の言葉に、亮と澤田は、顔を見合わせるように笑った。



    亮たちが、熱海へ来るようになったのは、大学一年の夏休みがきっかけだった。

    当時、写真部だった仲間と立てた旅行の計画で、関東近県のいくつかの候補の中から、多数決により選ばれたのが熱海だったという。学生だった彼らは、できるだけ予算を抑えようと、現地での移動はほとんど徒歩での旅を選んだ。


    汗だくになりながら坂道を登り、海沿いの風に歓声をあげ、陽が落ちるまで夢中でシャッターを切っていたという。


    今回のウォーキングも亮の声かけだった。かつての無鉄砲で予算に限りのある学生の旅行とは違い、社会人となった今は、少し背伸びしながらも、当時憧れていたホテルに泊まり、あの頃と同じ潮風の匂いに、ふと足を止めている。


    澤田にとっても、初めて賞をもらった作品が、写真部で来た時の、熱海で撮った一枚だった。海と緩やかな波の煌めきが織りなす、あの赤く染まった風景。レンズ越しに見たその瞬間の熱量は、のちに彼をプロの世界へと押し出す一枚となった。

    その一瞬を切り取った記憶は、今も色褪せることなく澤田の胸に刻まれている。


    そして亮にとっても、同じだった。隣で響く澤田の鋭いシャッター音を肌で感じたとき、自分の中にあった何かが音を立てて崩れ、同時に新しい何かが芽吹くのを感じたのだ。友の才能を誇らしく思う反面、否応無く浮かび上がる自分自身の輪郭。

    あの熱海の湿った風の中で、二人はそれぞれに、自分の立つべき場所を見定めていた。それは亮にとっても、思入れのある特別な場所であった。



    「まだ、夕食までには、時間があるので、近くの海岸で写真撮ろうと思ってるんですけど、良かったら一緒にどうですか?潮風に当たるのも良いですよ。」

    光里もすっかりその気になったようで、目を輝かせている。

    その様子に、美知子と由里子は顔を見合わせ、自然と一緒に行く流れになった。


    海岸を歩く間も澤田は、時折しゃがみ込みながら、光里の目線に合わせて話し掛けていた。

    人見知りだった光里も、いつしか緊張を忘れたように、笑顔を見せている。


    この二人と出会えてなによりも美知子が嬉しかったのは――光里が、澤田や時には亮とすっかり打ち解けていったことだった。



    「それ、光里ちゃんが撮ったの?」

    澤田にそう声をかけられ、差し出されたカメラの液晶を覗き込みながら、


    「光里ちゃん、すごいなぁ。綺麗に撮れてるじゃないか」

    「どれどれ」横から亮も覗き込み、カメラの液晶へ顔を寄せた。


    最初こそ戸惑っていたものの、教え上手な澤田のペースに引き込まれ、いつの間にか屈託のない笑顔で、ケラケラと声を立てて笑っていた。


    その様子を、少し離れたところから眺めていた由里子も、光里の弾けるような笑い声につられるように言った。

    「光里ちゃん、本当に楽しそう…… 見てるこっちまで、笑い出しそうだわ。うふふ……」


    初めての場所、初めて会った人たちと

    人見知りの激しい光里がこんなふうに笑えて溶け込んでいる。

    それだけで、もう十分だった。

    美知子は、その声を聞きながら、胸の奥に長く溜まっていたものが、自然とほどけていくのを感じていた。


    遠くで微かに見える、初島を眺めながら……由里子が指先でその小さな影をなぞり、独り言のように呟く。


    『ねぇ、光里ちゃん。あそこに小さく見える島があるでしょ……明日フェリーであそこへ渡るわよ』


    「やったー!」

    光里はぱっと顔を輝かせた。

    「お兄ちゃん達も、一緒に行くんでしょ」

    すかさず、苦笑いする美知子。


    「お兄ちゃん達は、他に行く所があるから別行動なのよ」

    「でも、また会えるんでしょ?」


    「会えるわよ。美味しい海鮮料理のお店に、お兄さん達が連れて行ってくれるんだって。楽しみだね」



    ​――潮騒の音に混じって響く皆の笑い声。


    あの熱海での出会いが、これほど長い付き合いの始まりになるとは、その時の私たちはまだ知る由もなかった。」


    それ以来、亮とも連絡を取り合うようになり、時には由里子や、澤田も加わり、

    休日が合えば声を掛け合って、皆で連れ立って歩くこともあった。


    最初の頃、美知子にとって、亮は、あくまで気の合うウォーキング仲間の一人だった。

    特別に意識することもなく、ただ同じ景色を見て、同じ道を歩き、笑い合う。

    そんな自然体でいられる時間が、いつしか美知子にとってかけがえのない楽しみの一つになっていった。


    二人は次第に顔を合わせる時間を、少しずつ重ねていくようになり、亮は美知子にとって一回り年下でありながら、年齢差を感じさせないほど頼れる存在になっていた。



    ​光里が中学に入学して、最初の夏休み。

    『おばあちゃんに会いたい』

    娘の突然の願いに、美知子は戸惑いながらも故郷へと送り出した。光里が去った後の部屋は、まるで息を潜めたように静まり返っていた。


    娘の自立を誇らしく思う反面、ふと胸をかすめるのは、どうしようもない疎外感だった。その孤独を埋めるように、あの夜も亮は、抱えきれないほどの食材を持ってやってきた。

    『今日は俺が作るよ。みっちゃん、テーブルの上片付けてくれる』


    湯気に包まれた食卓に、得意のアクアパッツァが並ぶ。魚介の濃厚な出汁と、立ちのぼるハーブの香りが、張り詰めていた美知子の心を、少しずつほどいていったのを覚えている。


    今では笑い話だが、どちらからともなく『今夜は飲むぞ!』と二人で梯子酒をしたこともあった。挙句の果てには、美知子の家のリビングのソファーで酔いつぶれていたことさえある。そんな風に、気兼ねなく隙を晒し合える相手だった。


    美知子にとって、亮の存在がどれほど心強かったか。彼は信頼できる、大切な友人。

    ……それだけだと、思っていた。


    ……つい、さっきまでは。


    今回、亮の長期出張で、会えない時間が続くうちに、ただの友人では済まされない何かが、いつの間にか心の奥に根を下ろしていた。


    電話で声を聞くだけでは満たされない

    そんな空白があることを、初めて知った。

    かと言って……燃え上がるような情熱とも違う。


    それでも――

    会いたい時に会い、同じ空気を吸い、

    同じ景色を見て、

    ただそこにいてくれるだけで、

    それがどれほど尊く、かけがえのないことなのか――

    亮は、美知子にとって

    いつの間にか「なくてはならない存在」になっていた。


    (亮が、帰ってきてる)

    美知子の胸はざわめいた。

    「少し話したいな」

    そんな思いにかられて、気づけば亮の名前をタップしていた。

    発信音が、耳の奥に規則正しく響いた。


    ――ツー…… ツー……


    聞きながら…

    「…メールにすれば良かったかな……」

    一瞬、後悔の念が胸をよぎる。

    指先が通話を切ろうと、画面に触れかけた


    ――その時だった。


    ――カチリ。


    『よう……みっちゃん?』

    少し低くて、穏やかな、聞き慣れた声。


    『どうした? 生きてたか?』

    それは、いつもの亮の、美知子への第一声だった。

    ​

    「………しつこく生きてるわよ」


    ​その言葉を返した瞬間、張り詰めていた胸の奥が、ふっと緩んでいくのがわかった。説明なんていらない。互いの無事を確かめるには、それで十分だった。


    『どう? 久しぶりに、熱海か伊豆あたりでも歩いてみないか?』

    亮の思いがけない誘いに、嬉しさで胸が弾む。


    (急に連休が取れるだろうか……)

    そんな不安を悟られまいと、あえて一拍おいてから口を開いた。


    ​「そうね、今月は無理だけど……来月の後半なら、一泊くらいなら行けると思う」

    ​

    『よかった。北海道じゃほとんど車移動だったからさ、無性に歩きたくてね』

    ​

    「たぶん来月の後半になるけど、亮ちゃんは大丈夫?」

    ​

    『俺は大丈夫。みっちゃんに合わせるよ』


    ​​その言葉を聞き、美知子はゆっくりと携帯を下ろした。



    これまで何度も、こうして一緒に歩いてきた。

    ただ並んで景色を眺め、

    他愛もない会話を交わし、

    ふざけては笑い合う。

    そんな時間が、互いに抱えてきた影のような記憶を、いつの間にかほどいてくれる気がしていた。

    ​静かで、満たされた、特別な時間だった。

    ​

    『合わせるよ』

    たったそれだけのやり取り。けれど二人の間に流れる空気は、十年という歳月を経てなお、あの熱海の春の日と少しも変わっていなかった。






    第八話 潮風に運ばれるように 



    画像


    ​美知子と亮は、初島へ向かうフェリーのデッキに立っていた。進行方向の背には、澄み渡る秋空を従えた富士山が鮮やかに浮かび上がっている。潮風が髪を揺らすたび、晩秋を思わせるひんやりとした空気が頬を撫でていった。


    「こうして初島へ渡るのって……本当に久しぶりだわ」

    美知子は静かに海へ目を向ける。


    「由里ちゃんと光里を連れて、初めて熱海に来た時以来かしら……」

    ​そして、小さく笑って、隣に立つ亮の横顔を盗み見る。


    「あの時、初めて亮ちゃんに会ったのよね……」

    亮と出会ったあの日、彼がこんなにも大切な存在になるとは、想像もしていなかった。

    ​ 

    「……景色、あまり変わらないわね」


    「そうかな。俺たちは、少し変わったかもしれないけど」

    亮は、ふざけるように笑った。


    その言葉に、美知子はどきりと胸を突かれる。 フェリーが白い波を引きながら進むたび、潮風が二人の間をすり抜けていく。


    網代まで何度も歩いた海沿いの道。

    亮が写真部の仲間と通っていたという、大将の店にも必ず立ち寄り、二人で活きのいい海鮮料理を囲んだものだ。


    潮の匂いのする帰り道、他愛ない話を交わしながら、ただ隣を歩いているだけで、不思議と心の隙間が満たされていった。

    二人は、そんな時間を重ねながら、互いの抱える傷を、言葉にしないまま癒し合ってきたのかもしれない。



    ゆっくり遠ざかっていく熱海の街並みを眺めながら、美知子はどこか懐かしそうに目を細めた。


    フェリーを追いかけるようについてくる

    カモメを目で追いかけ、ぽつりと呟いた。

    「そうそう! カモメが船の直ぐ側まで近づくたび、あの子ったら嬉しそうにずっと目で追いかけてね。

    『お兄ちゃん達も一緒に来れば良かったのにねぇ……』って。


    一緒にいたのは、ホテルに近い海辺を皆で歩いた僅かな時間だった。それでも、光里の心には、よほど楽しかったのだろう。

    ふっと思い出したように、美知子はくすりと笑った。


    「それでね、光里ったら、カモメと一緒のところを写真に撮りたかったみたいなんだけど、近づいてくる瞬間って難しくてね。光里のすぐそばまでカモメが来た時も、私達二人ともタイミングを外しちゃって、うまく撮れなくて……」


    「そしたら光里、『お兄ちゃん達がいたら、ちゃんと綺麗に撮ってもらえたのに』って、残念がってたわよ」


    その言葉に、亮は肩を揺らして吹き出した。 「確かに、動いてるものを撮るのは難しいからなぁ……でもまぁ、みっちゃんや由里ちゃんの、そんな腕じゃ、しょうがないよ」


    「なによ、その、そんな腕”って!」 美知子はむっと眉を寄せる。 「オバサンだと思ってバカにしてるな? ……あっ、由里ちゃんに言ってやろ」


    「やべぇ」 亮は大げさに顔をしかめた。 「彼女の耳に入ったら、倍になって返ってくるからなぁ」そのやり取りに、二人は潮風の抜けるデッキに、賑やかな笑い声が広がった。



    「そういえば、澤田さん、元気にしてるの?」

    潮風に運ばれるように、言葉は自然と続いていく。


    亮は一瞬きょとんとしたあと、それから小さく笑った。  

    「ああ。あいつは、放送局の出世コースを真っしぐらださ、今は、イギリスにいる」


    「へぇ、……カメラマンとして、今も頑張ってるんだね」

     

    ​「同期の写真部で、突き抜けたのは澤田だけだからな。あの頃から、あいつのカメラとの向き合い方は、俺たちとはどこか違って……一目置かれてたもんな」

    亮は、まるで自分のことのように誇らしげだ。

    ​

    「あいつ、相変わらず忙しいみたいでさ。メールはたまに来るけど、なかなか腰を据えて会う時間がとれなくてね」


    ​潮風が美知子の髪を乱した。


    彼女はふと、当時の澤田の横顔を思い出していた。無邪気にはしゃぐ光里の相手をしながらも、ふとした瞬間に、ファインダーを覗く瞬間だけは、別人のように鋭い眼差しをしていた――。



    「そうそう。今年の夏、光里が留学先から帰ってきた時ね。亮ちゃんは出張でいないって話したら、『なあんだ……亮ちゃんのアクアパッツァ楽しみにしてたのになぁ……』って、すごく残念がってたわよ」

    美知子は、あの時の光里の拗ねたような顔を思い出して、思わず頬を緩めた。


    ​亮もまた、その頃を思い出したように笑い

    「そう言えば、光里ちゃんが小学五年生の頃だったかな。澤田の話になった時に、俺が思わず『五郎はすごいよな』ってこぼしたら、光里ちゃんが急に、真面目な顔になって――」

     

    亮は少し照れくさそうに続きを語る。

    「何を言うかと思えば、『五郎ちゃんはカメラマンでカッコいいけど、亮ちゃんだって料理すごーく上手だし……亮ちゃんも負けないくらいカッコいいよ』って」

    亮はどこか照れくさそうに、ふっと目を細めて苦笑いした。


    「あの小さな手で、俺の肩をポンポンとたたいて励ましてくれたことあってさ……」


    ​「ふふっ、そんなこと言ってたの?」

    二人は顔を見合わせて、堪えきれずに吹き出した。きっと同じように、幼い頃の光里の得意気な顔を、思い浮かべていたのだろう。


    海風に乗って、二人の笑い声がデッキの向こうへ溶けていく。その笑いが静まるのを待つように、美知子は小さく息を整えながら、亮へ語りかけるように言った。


    「光里はね……熱海の旅行から、表情が少しずつ変わっていったの」

    美知子は、デッキの柵に手を置き、遠い日を見つめるように言った。


    「人見知りの激しかったあの子が、いつの間にか亮ちゃんたちの輪のなかで笑っていたでしょう? あの時は、信じられなかったわ。由里子もね、あの子が見違えるほど明るくなったって驚いていたのよ」


    美知子は一度言葉を切り、少しだけ声を潤ませた。


    「あの子があんなふうに笑えたのは、亮ちゃんたちが、大人としてではなく、友達みたいに接してくれたからだと思うの」

    美知子は穏やかな眼差しで亮を見つめた。


    ​「……熱海から帰ってからかは、あの子が本当によく笑うようになったの。それを由里ちゃんに話したら、『それだけみっちゃんに似てきたんじゃないの』って言われてね」


    『私に?』って驚いたら


    『そうよ。みっちゃんだってよく笑うじゃない。一度ツボに入ったら誰にも止められないし』って、楽しそうにいじってきたのよ」

    美知子は、少し照れたように目を伏せた


    それを聞いた亮は頷き、「確かに!」と笑いをこらえきれず、クックッと笑い出した。

    「由里ちゃんらしいな」

    すかさず美知子に「笑いすぎ!」と一喝され、亮は小さく肩をすくめた。



    ​しばしの沈黙の中で、亮は出会った頃のことを思い返していた。

    ​

    「光里ちゃんも、今はもう二十歳か……気づけば独りでアメリカに留学だもんな」

    ​

    ふとこぼれた亮の言葉に、美知子はしばらく黙ったまま、遠くを見つめていた。やがて深く息を吸い込むと、

    「ほんとにね……」と呟いた。その声には、喜びとも寂しさともつかない響きが混じっていた。



    「東京に出てきたばかりの頃は、人見知りが激しくて学校にも馴染めなくって。私のそばを片時も離れようとしない子だったから、本当に手を焼いたのよ。あの光里が……」


    そこで言葉が途切れ、美知子は溢れそうになる思いを噛みしめた。


    「今では、私の手を離れて、遠い世界へ飛び立っていくみたいで……」


    ​美知子の瞳は、波立つ水面を映して優しく揺れている。

    ​

    「嬉しいような、寂しいような……」


    彼女は遠くを見つめながら、独り言のように呟いた。

    ​

    デッキの上では、カモメが甲高く鳴きながら青空を横切っていく。二人はしばし言葉を交わすこともなく、ただ波音に身を委ねていた。それぞれの想い出が、潮風とともに通り過ぎていく。


    ​潮風に吹かれているうちに時間は静かに流れ、気づけばフェリーは初島の港へ向けて、その船体を滑り込ませていた。


    「ねぇ亮ちゃん、フェリーを降りたら、ちょっと早いけど……先にお昼にしない? なんだかお腹空いちゃった」

    ​

    美知子の言葉に、亮は待ってましたと言わ

    んばかりに表情を輝かせた。


    「おー、良いね! 俺もペコペコだよ。折角だから、新鮮なアワビの刺身なんてどうかな? ここのは絶対に美味いよ!」

    ​

    「わぁ、最高ね!」

    ​

    「さっ、降りるぞ! 忘れ物はない?」


    ​亮の弾んだ声に促され、二人は足早にデッキを進んでいく。


    ​潮風に乗って響いた二人の笑い声は、そのまま初島の島影へと吸い込まれていった。

    ​

    ――こうして、長い船旅を終えたフェリーは、静かな初島の港へと着岸した。


    桟橋へ渡るタラップが降ろされ、観光客たちが一斉に動き出す。美知子も亮の後に続いてデッキを降りようとしたが、ふと足を止めた。

    ​

    「あれ……?」

    ​

    美知子は持っていたバッグの中身を慌ててかき回し始めた。

    ​

    「どうした?」

    ​

    振り返った亮が、不思議そうに眉を寄せる。

    ​

    「戻りのフェリーのチケットがないの。確かこの辺に入れたはずなんだけど……」

    ​

    焦る美知子の様子に、亮は呆れたように肩をすくめ、小さく笑った。

    ​

    「みっちゃん、落ち着いて。それ、さっき降りる直前に、自分でパンツの右ポケットにしまってたよ」

    ​

    「えっ……あ、ほんとだ」

    ​

    恐る恐るポケットに手を突っ込むと、確かにそこにはチケットが折り重なっていた。赤面する美知子を横目に、亮はからかうような眼差しを向けてくる。


    ​「まったく、世話が焼けるんだから」

    ​

    ​亮はわざとらしく溜息をつき、言葉を継いだ。


    「あれ、誰だっけ?『チケットは、解るところに、ちゃんとしまってね』なんて、俺にさんざん言ってたけど……」


    「もう……! そんなに笑わないでよ!」

    ​

    亮の軽やかな笑い声が、初島の潮騒に溶けていった。






    第九話  時間だけが緩やかに遡ったような


    翌朝、フェリーで初島から戻った美知子と亮は、熱海城を背に、網代に向けて海沿いの道へと歩き出していた。



    しばらく、言葉はなかった。

    潮の匂いを含んだ風だけが、二人の間をすり抜けていく。

    左手に広がる水平線は何処までも青く、右手に迫る山肌から、港湾へ沿うように連なる街並みは、一歩ごとにゆっくりと遠ざかっていく。


    柔らかな陽射しを浴びた海は、淡くきらめき、寄せては返す波の音だけが、一定のリズムで続いている。


    「こうして歩いていると…… 車じゃ、通り過ぎちゃう景色よね」

    美知子は、舗装された道の先、岬がゆるやかに伸びていく方向を見つめていた。


    「そうそう、亮ちゃん二日酔いはどうなの? あんなに楽しみにしてたのに、朝食は殆ど食べて無かったじゃない?」

    冴えない亮を横目で見ながら、笑いを噛み殺す美知子。


    「うん、昨夜は調子に乗り過ぎたかなぁ……」

    ボソっと呟いたと思えば……


    「でも、しじみの味噌汁だけは、お代わりしたよ!」

    何故か、そこは自慢げだった。


    「今頃になってお腹空いてきたなぁ、コンビニあったらちょっと寄ってくれる?」

    亮の気恥ずかしそうにしてる仕草が、無性に可笑しく、美知子は、笑いを堪えきれずに首を縦に振るのがやっとだった。



    ​ひとしきりの笑い声が、潮風に溶けていくように、ゆっくりと静まっていく。

    亮は肩越しに風を感じ、前を向いた。

    美知子も、自然とその歩幅に合わせるように後に付いて歩いた。


    途中で、二人は柑橘の香りが漂う小さな土産物店に立ち寄った。

    店先にはレモンや橙(だいだい)、ニューサマーオレンジなどを使ったジャムやゼリーが並び、爽やかな香りが潮風と混じり合う。

    ​

    店の棚に目を留めた美知子は、迷うことなく足を止めた。

    ​

    「あっ、これよこれ」

    ​

    手に取ったのは、甘夏のマーマレード。彼女にとっては懐かしい熱海の味だ。

    実はここへ来る前から、もし見つけたら絶対に由里子に買って帰ろうと決めていた。


    掌に収まる瓶の中で、黄赤色に透けるマーマレードを見つめながら、美知子は自然と頬を緩める。


    (由里ちゃん、きっと喜ぶわね……)


    渡した瞬間、ぱっと目を輝かせて懐かしむ由里子の笑顔が、ありありと脳裏に浮かんだ。

    ​

    ​しばらくして、店先で待っていた亮の元へ、会計を済ませた美知子が戻ってきた。


    「亮ちゃん、おまたせ。探してたのあったわよ」

    美知子は、見つけたことが嬉しくてたまらないといったように、にんまりと笑った。


    その表情に、亮もほっとしたように目元を和ませる。


    だが、美知子が提げている和柄の紙袋へ目を落とし、不思議そうに首を傾げた。


    「それにしても……ジャム瓶ひとつにしては、袋がでかくないか?」

    亮が紙袋を覗き込む。


    「ううん。あれはもうリュックにしまったわ。これはね、大将のお店に差し入れ。ほら、このお菓子。大将、目がないって言ってなかった?」


    「ああ、これね……。よく覚えてたね。きっと喜ぶよ」


    「なら、良かった」

    美知子はそう言って、大事そうに抱え直した。


    「さ、行こうか?」


    亮の声に促され、二人は再び歩き出す。


    それぞれの想いを胸に抱きながら歩くこの時間が、不思議なほど穏やかで――

    言葉にしなくても伝わるものが、確かにそこにあった。


    海から吹いてくる潮風が心地よく、美知子は自然と小さく息をつく。


    「陽射しは暖かいのに、風がひんやりしていて、気持ちいいわ……」


    亮も潮風を受けながら目を細めた。


    「ほんとだな。昨日の初島もそうだったけど、今回の熱海は、天気に恵まれたよなぁ」

    と、青く広がる海へと景色を移し――


    ふと、前方を指さした。


    「……ほら、海岸が見えてきた。もうすぐ網代だよ」

    亮は足を止め、すぐ後ろを歩く美知子を振り返った。


    「あっ、……ほんとだ!」

    視界の先に広がる海岸線を見て、美知子の声が弾む。


    「まだ午後一時過ぎたところね。思っていたより早く着きそうだわ」

    その声には、疲れよりも軽やかな期待が滲んでいた。


    「そういえば……私、大将のお店に行くの、いつ以来かしら」

    懐かしそうに呟きながら、美知子は少し前を歩く亮の背中を見つめた。


    彼は北海道への長期出張を控えたある日、思い立ったように仕事を早めに切り上げ、一人でこの店を訪れたと言っていた。


    「ここまでくれば、大将の店はもうすぐだ」

    亮がそう言って、少し足取りを早めた。


    それにつられるように、美知子も足を速める。

    潮の香りに混じって、あの懐かしい、香ばしい醤油と魚の匂いが不意に蘇る。



    ​元々漁師だった大将は、自ら海に出て朝獲れた魚を捌き、形が不揃いなものは焼いたり揚げたりしてくれた。当時学生だった写真部の亮たちに、新鮮で旨い魚を、安く、腹いっぱい食べさせてくれたのだ。それ以来、亮たちは熱海に来るたび、必ず網代まで足を延ばし、大将の店に立ち寄るのが恒例となっていた。


    ​美知子にとっても、熱海で亮たちと出会ったあの時、初めて連れてきてもらった思い出の場所だ。懐かしさに胸を満たされながら、ゆっくりと店先を見上げる。

    大将の店構えは、あの頃と少しも変わっていなかった。ただ、いつも入口で客を迎えている暖簾はまだ下がっておらず、代わりに「準備中」の木札が、ひっそりと入口脇に立て掛けられている。


    「準備中のところ、申し訳ないわね」


    美知子の言葉に、亮は振り返って笑った。


    ​「気にしなくていいよ。みっちゃんも一緒だって伝えたら、大将、活きのいい魚を用意しとくからって、すごく嬉しそうだったし」


    さらに言葉を継ぐ。


    「営業前の方がゆっくり話せるから早めに来いってさ。大将のことだから、今ごろ張り切って待ってるはずだよ」

     

    ​亮はそっと店先の木戸を開けた。


    顔を覗かせるより早く、

    「よう! いらっしゃい!」

    威勢のいい、よく通る声が、小気味よい包丁の音とともに開いた戸口へ飛んできた。


    「大将、久しぶり」


    亮が声をかけると、美知子もその肩越しに店内を覗き込む。

    「こんにちは! ご無沙汰してます」


    「おう、待ってたぞ!」

    大将はニカッと白い歯を見せ、手捌きを緩めずに言った。


    変わらない大将の笑顔に、美知子の緊張も自然とほどけていく。

    準備中の店内は、いつもの賑わいはなく、静かな空間は、まるで亮と美知子の貸切のようだった。

    ​

    大将は美知子と目を合わせて軽く頷き、事もなげに亮へと顔を向ける。

    「カウンターの端、空いてるぞ」


    亮は昔から、店が空いていれば必ずその場所に座っていた。厨房の様子を隅々まで見渡せるその特等席が、お気に入りだった。


    「……大将、相変わらずだな」

    苦笑いしながら、いつもの席についた。


    背負っていたリュックを下ろすと、中から少し皺になった、けれど上品な薄緑の紙袋を出し、

    「はい、これ。この間、電話で話した北海道土産」

    目の前のカウンターに置く。


    「こっちは、みっちゃんからの差し入れだって。大将の好きなやつ」

    道中で美知子から預かっていた和柄の紙袋から、老舗和菓子店のレトロな絵柄が目を引く小箱を手に取り、大将へ差し出した。


    美知子は亮の隣で少し照れくさそうに微笑み、その品にそっと視線を落とす。


    ​「皆さんで召し上がって下さい」


    ​「おお、『伊豆乃踊子』じゃないか。こりゃーいい! 胡桃の入った白餡が、渋い緑茶によく合うんだよな。みんなでご馳走になるよ。みっちゃん、ありがとな」


    嬉しそうに笑うと、すぐに亮の土産へ目をやる。


    薄緑をした気品のある手提げ袋から、白地に波模様が浮かぶ、端正な包みの木箱を取り出した。手に伝わるずっしりとした重みに、思わず声を漏らす。


    「……こいつは立派だな。小樽の硝子ってのは聞いたことあるが、お目にかかるのは初めてだよ」


    「私も初めてだわ……大将、早く開けて見せて」


    北海道でグラスを買ったことは亮から聞いていたが、どんな色形をしているのかまでは美知子も知らない。好奇心に満ちた弾むような声色で、すっと身を乗り出す。


    包みが解かれると、木肌に施された繊細な刻印が現れた。大将はひとつ深く呼吸を置いてから、ゆっくりと蓋を持ち上げる。


    「なるほど……これが小樽ガラスか」


    山吹色の柔らかな布に包まれ、深い藍色の一客が鮮やかに映り込む。

    吸い込まれるような透明度と、光を鋭く分かつ精密なカット。その一点の曇りもない工芸としての完成度に、大将はしばし言葉を失う。見事な意匠が施されたロックグラスを、食い入るように見つめる。

    口元からは、​隠しきれない喜びが溢れていた。


    「この模様は、職人さんが流氷をイメージして彫ったもので、光の当たり方で、海に浮かぶ流氷みたいに表情が変わるらしいんだ」

    亮は、店員から聞いた話を思い出しながら説明した。

    ​

    ​大将は、ゴツゴツとした大きな手でグラスを包み込むように持ち上げ、光にかざす。深い青の中で、白い流氷のカットに光が反射し、砕けるように美しく煌めいた。


    「細かいカットが効いてるな。流氷か……渋いじゃねえか。これこそ、熟練された職人技だな。良い仕事してんなぁ……」


    ​美知子もたまらず立ち上がり、カウンター越しに大将の手元へ顔を近づける。


    「わぁ……本当に、魔法みたい。光が入るたびに表情が変わるのね。まるで生きているようだわ……」

    そう呟いてから、大将と目を合わせた。


    「深みがあって、見れば見るほど味があるじゃない……このグラス、大将にぴったりね」


    その言葉に亮が感心したように、

    「みっちゃん、うまいこと言うね……」


    「でしょう?」

    美知子は、誇らしげに微笑んだ。


    「長い時間をかけて磨かれてきたものだけが持つ、味わい深さってあるじゃない? このグラスも、大将のお料理も、同じ気がするわ」


    ​亮は大将の横顔を見つめながら、労いを込めて言葉を添える。

    「大将、店を閉めたあとの一杯が一番の楽しみだって、いつも言ってたろ? だからさ、どうしても大将にこれで飲んでほしくてね」


    その想いに、大将は手にした贈り物を見つめたまま、一瞬だけ押し黙った。自分の何気ない独り言をずっと覚えていてくれた亮の心遣いが、胸に染みたのだろうか。


    すぐに、いつもの活気ある笑顔に戻り、大将はグラスを大切そうに奥の棚へとそっと置いた。


    「おう、ありがとよ、亮。これで飲む毎晩の酒が、さらに待ち遠しくなっちまったな。……よし、今日はとびきり旨い魚を捌いてやるから、覚悟してろよ!」


    大将は嬉しそうに笑いながら、迷いのない手つきで包丁を手に取り、魚を捌き始めようとして、ハッとしたように顔を上げた。


    「悪い悪い、生ビールがまだだったな」


    苦笑いとともに包丁を置き、清潔な布巾でさっと手を拭うと、振り返ってサーバーのレバーを引く。よく冷えた大小のジョッキが、すぐさま目の前へ置かれた。


    「はい、お待ち! 生の小と大!」


    相変わらず張りのある声が店内に響く。

    その様子に、亮と美知子は顔を見合わせ、思わず声を上げて笑った。


    ​

    ――トントン、軽快に響く包丁の音。

    炭の残り香と潮の匂いが、優しく混じり合う店内。


    大将は慣れた手つきで刺身を盛り付けながら、ぴたりと箸を止めた。顔を上げ、美知子へと言葉を向ける。


    「そういやぁ、みっちゃん。えらく久しぶりだけど、前に来たのはいつだったかな?」


    不意の問いに、美知子が小首を傾げて考え込んでいると、隣の亮が記憶を辿るように天井を見上げた。

    「最後に来たのは……光里ちゃんの留学祝いをここでやった時じゃないか?」


    ​「あ、そうそう!」

    美知子は、ぽんと手を打った。


    「光里の留学が決まって、みんなでお祝いしようって、大将のお店に集まったのよね。あの時は、澤田くんも忙しい合間を縫って駆けつけてくれたっけ……。あれから、けっこう経ったわね」


    ​​「おう、そんなこともあったな」

    大将は深く一つ頷き、再び包丁を動かし始める。


    規則正しく刻まれる刃音。

    昔と少しも変わらないその拍子を聞いているうち、美知子の意識は、いつしかあの日の光景へと引き戻されていた。


    親友の由里子と娘の光里を連れて訪れた、熱海。

    あの海辺で、亮と澤田の二人に初めて出会った日のことを――


    ​​「……しかし、月日が経つのはあっという間だな」

    大将が、ぽつりと呟く。

    繰り返される響きは、刃先をいなす白木へ吸い込まれていく。

    ​

    亮がトイレへ立ち、席を離れた。


    その背中を見送ってから、大将は包丁を置き、動かしていた手を止める。

    そして、美知子へ穏やかな視線を向けた。

    ​

    「ところで、光里ちゃん、今は元気でやってるのかい?」


    「はい、お陰さまで……。 今年の夏に、あの子が留学先から帰ってきたんです。二十歳になったあの子を、実家の母に見せてあげたくて……。 それで、久しぶりに一緒に帰省してきたところなんです」


    ​「なに? 光里ちゃん……もうそんなになるのか。お袋さん、さぞ喜んだだろう」

    そう言う大将の声には、我が事のような温もりがこもっていた。


    「喜ぶもなにも……大将、聞いて下さいよ。…… あの子が帰ってきたとき、私のときはただのハイタッチだったのに、母と顔を合わせた瞬間、駆け寄って思いきり抱きついちゃって! これじゃ、どちらが本当の親だか分からないですよね」


    美知子は困ったように首を横に振りながらも、口元は嬉しそうに緩んでいた。


    ​​それを聞いた大将は包丁を置き、

    「そりゃいいや! アハハ!」

    と、店の奥まで響き渡るような声で大笑いした。

    ​

    「やけに楽しそうだね」

    大将の笑い声に、戻ってきた亮が思わず足を止める。


    「なんだよ、ずいぶん盛り上がっちゃって……」

    そう言いながら席へ戻ると、美知子と大将は顔を見合わせてくすりと笑った。


    「大将にね、この夏、光里と里帰りしたときの話、聞いて貰ってたの」

    美知子は少しはにかんだ。


    「光里ちゃん、もう二十歳になるんだってよ! 最初にここへ来たときは、まだ小学生で、こんなに小さかったのにな」

    大将はカウンター越しに腰の高さを示しながら、懐かしそうに目尻にシワを寄せた。


    「俺、ちょうど出張中で、せっかく帰ってきたのに、今回は会えなくて……」


    「そうか、亮は会えなかったのか」

    大将はそう言うと、慣れた手つきで小鉢を二人の前へ静かに置いた。

    ​

    「はい、おまち。鯵(あじ)のなめろうだ。亮、これ好きだろ」

    味噌と大葉、そして生姜の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

    ​

    「なめろうか。いや……久しぶりだな」


    亮は箸でひと口分を摘み、じっくりと噛み締めた。深い旨味に顔がほころび、自然と笑みが溢れる。しみじみと大将へ顔を向け、無言の賛辞を視線に込めた。

    肩を並べる美知子は、その様子を幸せそうに見守っている。

     

    ​「美味ぇだろう。この時期の鯵は、小ぶりだけど脂がのってて最高なんだよ」


    大将は満足げに頷くと、会心の笑みを浮かべた。

    それは、亮が学生時代からずっと見慣れている、昔のままの姿だった。

    ​ 

    かつての写真部の仲間たちも、社会人になってからはそれぞれに忙しくなり、集まる機会は自然と減っていった。

    それでも亮だけは、折に触れてこの店を訪れていた。大将もまた、そんな律儀な亮を気にかけるようになっていた。


    思えば大学時代、恋人と別れた夜も、将来が見えず自暴自棄になっていた時期も、亮は何度もこの店の暖簾をくぐってきた。

    そんな時、大将は決まって――。

    『おう、座れや』

    と、いつもの席を指さしてくれた。

    多くを語らずとも、ただそこにいるだけで心が楽になる。亮にとってここは、いつ帰ってきても変わらずに迎え入れてくれる、かけがえのない場所だった。



    簀(いけす)から網ですくい上げられた魚が、まな板の上で勢いよく跳ねる。淀みない包丁運びで、あっという間に捌かれ、鮮やかに大皿へ盛りつけられていく。その一連の動作は、昔と少しも変わらない。


    ​美知子は、その様子を眺めながら、帰りの電車で由里子が熱っぽく大将の仕事ぶりを絶賛していた姿を思い出していた。記憶の中の親友に同意するように、思わず吐息混じりの言葉がこぼれる。


    「……本当。由里ちゃんじゃないけど、大将の包丁さばきには、いつ見ても惚れ惚れしますよ」

    ​

    ​その一言にも、大将の刃先が狂うことはない。ただ淡々と次の仕込みへ移りながら、落ち着いた声で返す。

    「美味いもんを食ってもらいてぇ。ただそれだけで、握ってる包丁だからな。見栄えなんてのは、後からついてきたおまけみたいなもんさ」


    そう短く応じ、動かしていた手を止め、亮へと声をかけた。

    「もっとも、お前だって、魚を捌く手際は大したもんだよ」

    ​

    「え、俺のこと?」

    急に話を振られた亮は、きょとんとして大将の顔を見返した。


    「本当ね。大将の言う通りだわ」

    美知子が、隣から深く頷いた。


    「ねえ、覚えているかしら。光里も小さい頃、よく言っていたじゃない。亮ちゃんがコックさんになったら、毎日食べに行くのにって」


    懐かしむような穏やかな声に、亮は少し居心地が悪そうに言葉を濁す。

    「いや……あれは光里ちゃんが小さかったからだよ。俺なんて、学生時代に少しかじった程度だしな」


    「それであれだけできりゃ、大したもんだよ」

    大将はしみじみと言葉を重ねる。

    「いい腕持ってるのによ、惜しいよなぁ」


    その言葉に、美知子は思わず隣の亮を見つめた。

    まるで自分のことのように、胸の奥が熱くなる。


    「聞いた? 本職のお墨付きよ」

    そう言って、彼の肩を軽く叩く。


    思いがけない真っ直ぐな賛辞に挟まれ、ただ困ったように、苦笑いを浮かべるしかなかった。


    ​こうして二人は、短い熱海の旅の余韻に浸りながら、久しぶりに大将の料理をゆっくりと味わっていた。



    やがて、裏口の戸を開く音が、ゆったりと流れていた空気を心地よく揺らした。


    「おはようございます」


    「大将、おはようございます!」


    ​​店開けに向けて出勤してきた若い衆の声だ。次々と奥の仕切り暖簾をくぐり、板場へ姿を見せる。彼らの声に押し出されて、くつろいだ余韻の漂う店内へ、少しずつ威勢の良い活気が満ちていく。


    その賑わいとともに、板前着をさらりと着こなした男が板場へ入ってきた。大将の隣へと立ち、前掛けの紐をきゅっと締め直しながら、そのまま亮へ人懐っこい笑みを向ける。


    ​「亮さん、いらっしゃい」

    並んで座る美知子へも軽く頭を下げ、歓迎の意を示す。


    ​板場ではベテランの域に差しかかった春樹――皆から『はるさん』と呼ばれ、亮とも昔から気さくに言葉を交わしてくれる職人だ。


    彼は手際よく自分の立ち位置を整えながら、大将をちらりと見やり、気負いのない調子で告げた。

    「大将、昨日から、お二人が来るのを待ちかねてましたよ」


    「​ったく……余計なことを」

    そっけなく返し、すぐにいつもの淡々とした調子で指示を出した。


    「春樹、賄いができてる。店を開ける前に、若い衆と一緒に腹ごしらえしてこい」


    どこか話を打ち切るような大将の様子に、亮は思わず小さく吹き出してしまった。


    ​「ああ、それから、そこの菓子はみっちゃんからの差し入れだ。皆で分けてご馳走になれ」


    ​その言葉を受け、春樹は美知子へ丁寧に向き直る。

    「お気遣いありがとうございます。後で皆で、美味しくいただきます」


    ​大将は亮へ顔を向けると、

    「おう、お前たちも、賄いのカレー食べるか?」


    「もちろん、折角の賄いカレーを、食わないで帰るなんてあり得ない」

    亮が即答すると、隣で美知子も嬉しそうに声を弾ませた。


    「ふふ、さっきからいい匂いがすると思っていたのよ。由里ちゃん、よそでカレーを見るたびに『大将のが食べたい』って言ってたから……これを知ったら、きっと羨ましがるわね」


    持ち上げられたことには構わず、その願いだけを掬(すく)い取る。


    「カレーくらいならいつでも作ってやるから、たまには顔を出しなと言っておきな」


    照れくささを隠すような飾らない調子でそう言い残すと、お玉を握り直し、湯気立つ鍋の前へと戻っていった。


    スパイスの香りの奥では、もう次の仕込みに取り掛かっている。


    旅の余韻を帯びた空気が、板場から響く確かな音と重なり合い、時は少しずつ夜の営みへと移ろっていく。



    程なくして、賄いを済ませた若い衆が店の奥で立ち働き、大将の傍らでは、春樹が手際よく小鉢を並べている。


    ​「もう、こんな時間だ。そろそろ行くか」

    亮が思い出したように腕時計に目を落とす。


    「本当ね……あっという間だったわ」

    その動きにつられるように、美知子も自分の携帯を確かめた。


    彼女は手際よく荷物を手に取ると、彼が席を立つ動きに合わせて立ち上がる。


    ​「大将、また来るよ」


    名残を含んだ声に寄り添うように、美知子も言葉を継いだ。

    「ごちそうさまでした。由里ちゃんに会ったら、大将のカレーを食べてきたって自慢しておきますね」


    ​「おう。……よろしく伝えてやってくれ」


    大将は低く応じ、手元の作業を止めてこちらを見た。

    ​「また顔を出せよ」


    ​ぶっきらぼうな口ぶりの奥に、裏表のない情がこもっている。


    ​「ああ。また寄らせてもらうよ」

    亮が落ち着いた声で応じ、踵(きびす)を返すと、美知子も自然な足取りでそれに続く。


    「あれ、もうお帰りですか。今日はいつもより早いですね」

    手を動かしたままの春樹が、ふと顔を上げて問いかける。


    ​「二人とも明日は朝から仕事が待ってんだってよ」

    横から口を挟み、そのまま店の奥へと呼びかけた。

    「おい、優。駅まで送って行ってくれ」


    ​「はい、わかりました!」


    威勢の良い返事とともに奥から顔を覗かせたのは、見習いのなかで一番若い優太だった。まだどこかあどけなさの残る顔立ちだが、車の運転は丁寧で、大将も安心して任せている。


    店の前へ車をつけるべく、彼はすぐさま勝手口のほうへと駆けていった。


    店を出る間際、亮は確かめるように板場を振り返った。

    そこにはもう、次の仕込みへと没頭する変わらない姿がある。

    黙々と包丁を握るその佇まいを目にすると、いつでも帰るべき場所があるという安堵が、心地よい重みとともに胸の裡へと下りてきた。



    引き戸を開け、店の外へと足を踏み出す。

    さっきまでの穏やかな時間が嘘のように、日が傾いた通りには、十一月らしい、少しひんやりとした風が肌に触れる。


    「優太くん、いつも悪いな……助かるよ」


    「いえいえ!」


    屈託なく笑う優太に、亮も自然と笑みがこぼれる。

    スマホで帰りの電車の時刻を確かめ、美知子と共に車へ乗り込んだ。


    ​店の明かりが少しずつ遠ざかっていく。


    満ち足りた時間と、美味しい料理の余韻を胸に、二人は店を後にした。



    ​東京へ向かう電車の中。

    窓の外を流れていく夜景を眺めながら、美知子は思い出したように亮へ囁いた。


    「ねぇ、大将って、最初に会った頃と全然変わらないわよね」


    その一言に、亮は外を向いたまま、

    「ああ」

    と、小さく相槌を打つ。


    やがて、懐かしげに笑って言葉を継いだ。


    ​「昔から貫禄があったけど……きっと、やりたいことを仕事にして、今を楽しんでるから変わらないんだろうな」


    窓外の夜陰を見据えると、記憶をたどりながら頷いた。


    ​​「俺が学生の頃から、ずっと言ってたしな。自分の店を持つのが夢だって。今の仕事も、たぶん趣味の延長みたいな感覚なんじゃないかな」


    亮は苦笑いを浮かべる。


    「だから、どんなに大変でも苦にならないんだってさ」


    ​流れる景色から、一瞬だけ言葉を探して目を伏せる。

    そして美知子へ顔を向けた。


    「澤田も似たようなことを言っていたな。子どもの頃からの憧れだったカメラの仕事。毎日ヘトヘトなのに『好きなことだから苦じゃない』って笑ってたよ」


    「いいわね……。そう言える生き方、羨ましいわね」


    美知子は暗くなっていく車窓を眺めながら、小さく微笑んだ。羨望の言葉とは裏腹に、その横顔はどこか誇らしげにも見えた。

     

    「二人ともさ……ちゃんと自分の夢を掴んでいるんだよな」

    亮は再び外へ向き直った。



    顧客の課題を分析し、最適な解決策を提案する。それが彼の仕事だ。


    ​けれど皮肉なことに――自分自身の人生の解決策だけは、いまだ見つけられずにいる。


    暗くなった窓ガラスに映る自分の横顔が、どこか他人のように見えた。



    「……亮ちゃん?」


    不意に名を呼ぶと、亮がこちらを見て、小さく笑みをこぼした。

    その笑顔の奥にある想いを、美知子はまだ知らない。



    東京に着く頃には、街はすっかり夜の色に沈んでいた。

    改札を出て、ほんの少しだけ立ち止まり、二人は別れを惜しむように、それぞれの日常へと戻っていく。


    美知子は数歩進んでから、ふと振り返った。


    雑踏に紛れていく亮の背中。いつもと変わらないはずなのに――なぜだろう。

    その背中が、ひどく寂しそうに見えた。

    ​

    胸の奥に小さな引っかかりを覚えながら、しばらくその後ろ姿を見つめていた。



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    第十話  甘夏のマーマレード


    朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。

    目覚まし時計の音に、美知子はゆっくりと身を起こす。


    キッチンで湯を沸かし、ハーブティーを淹れる。トーストが焼ける軽やかな音と、ほのかに漂うハーブの香り。その小さな気配が、いつもの朝の始まりを告げていた。


    仕事へ向かう支度を整え、バッグを手に取ろうとしたとき、玄関脇の棚に置いたままの、小さな紙袋が視界に入った。


    「……あっ」

    美知子は、思わず足を止める。


    「そうだ…… 熱海から帰ってきてから、まだ由里ちゃんに連絡してなかったわ」

    小さく呟いて、紙袋を手に取る。


    甘夏のマーマレード。

    忙しさの中で、ずっとここに置き去りにしたままだった。


    熱海から戻ったあとの二、三日は、

    インポートブランド業務の企画書の締め切り。販促の打ち合わせ。また修正。

    頭の中は仕事のことで埋め尽くされ、

    気がつけば一日が、あっという間に終わっていた。

    けれど、ふとした瞬間に東京駅で別れたあの時の光景がフラッシュバックする。 


    『それじゃあ、また』

    そう言って別れた直後、美知子がふと振り返ったときに見えた、亮の背中。


    雑踏の中に溶け込もうとするその姿は、妙に小さく、そして言葉にならない寂しさを孕んでいるように見えた。


    (……あの時、彼は何を思っていたんだろう)


    突き放すような、あるいは何かを言い淀むような、あの背中の温度。その光景が、忙しさの隙間から時折、チクリと胸を刺す。

    それでも、潮の匂いが胸の奥をかすめるたび、美知子はわざと仕事のファイルに視線を落とし、その記憶を心の隅へと追いやってきた。


    (……由里ちゃん、今夜会えるかな?)


    スマホを手に取って、メッセージ画面を開き、……何も打たずに、そっと閉じた。



    由里子は、大手のお菓子メーカーで企画や広報を担当している。

    新作立ち上げのPRに、宣伝、時には現場対応までこなしていた。


    『忙しいよね』

    と笑い合えるほど、その大変さを互いに知っていた。


    美知子自身も、百貨店の催事やイベントがあれば、販売応援として売り場に立つことが年々増えていった。

    企画と現場、お互いに、その両方を知っているからこそ、仕事に追われる感覚は、痛いほどわかっている。

    由里子と知り合ったのも、そんな売り場だった。



    学生の頃から、美知子の勤めるブランドのファンだったという由里子は、

    新作が出たり、イベントがあるたびに、欠かさず売り場に顔を出していた。


    『今回のデザイン、斬新で素敵よね』


    『でしょう? 今季の一押しなんです』


    そんな何気ない会話を、何度も交わしてきた。


    学生の頃は、好きでも手が届かなかった憧れのブランドだった。

    けれど今では、顧客として売場に足を運べるようになっている。

    その姿が、いつしか美知子の記憶に残るようになった。

    ありふれたやり取りの積み重ねが、やがて仕事の枠を越えていく。お酒好きという共通点もあって、二人で食事に出かける機会も増えていた。

    気がつけば、友人と呼べるほど近い存在になっていった。


    そして――

    二人の距離を、決定的に近づけたのは、

    お互いが背負ってきた人生の重さだった。

    美知子は、夫を亡くし、故郷を離れ、ひとりで子どもを育ててきた。


    由里子は、結婚し、初めて授かった命を失った。

    その後も子どもに恵まれることはなく、

    夫の帰らない日が、次第に増えていった。

    待つことにも、期待することにも、疲れた頃――彼女は、ひとりで生きていく道を選んでいた。


    多くを語らなくても、互いの沈黙の意味が、呼吸を合わせるように分かってしまうことがあった。


    『無理しないでね』


    『……ありがとう』


    それだけで、十分だった。



    美知子は紙袋を胸に抱き直す。

    由里子の朝の食卓。 そこに、このマーマレードが並ぶ光景を思い浮かべ、ふっと微笑んだ。


    「後で、連絡してみよう」


    そう決めて、紙袋をバッグにしまおうとした時、ふと視線を上げた先の丸い時計が目に入った。


    (いけない、もうこんな時間)


    美知子は慌ててバッグを肩に掛けると、小さく笑いながら部屋を後にした。






    第十一話 この距離感が一番いい


    仕事の終わりの夕方。

    美知子は少し早めに仕事を切り上げ、人波の中を改札へと向かっていた。

    今夜は、久しぶりに由里子と居酒屋で会う約束だった。


    「みっちゃん! こっちこっち!」

    少し高めの、よく通る声。 


    店の奥から、由里子が変わらない調子で大きく手を振っている。


    「待った?」 


    美知子が近づくと、 

    「私も、さっき来たところ」

     由里子はそう言って、向かいの席に腰を下ろした。


    その動作に、しばらくぶりの再会という気負いはなかった。

    カウンター越しに立ちのぼる湯気、焼き物の香ばしい匂い。仕事帰りの客たちの話し声が、店の中で心地よく混じり合っている。

    二人にとっては、こうした場所が、いちばん落ち着けるのだった。


    「あ〜、お腹ペコペコ」 

    美知子が、ほっと息をつく。


    ちょうどそのタイミングで、隣の席に料理が運ばれ、湯気と香ばしい匂いが立ちのぼった。


    「これは、早く頼まないとだね」

    由里子は自分のお腹を軽く押さえながら小さく笑う。


    「すいませーん、注文お願いします」

    由里子は店員と目が合うなり、明るく声を上げた。


    その様子を見て美知子はクスッと笑う。


    「お待たせしました。先に、お飲み物、伺いますが何にしますか?」 

    ベテラン風の店員が、慣れた口調で聞いてくる。


    由里子は、美知子にさりげなくアイコンタクトを送った後、

    「とりあえず、生ビールの中と小を一つずつ」


    メニューに目を落としながら、ちらりと美知子を見る。 

    「ねぇ、これ…今日のおまかせコース、白子の茶碗蒸しだって! それに金目鯛の薄造り! 他にも季節の料理がいろいろ付くみたいよ。……これ、絶対良くない?」


    美知子は、メニューの文字を指でなぞるように追いながら、ふっと口元を緩めた。

    「それ、良いんじゃない」


    無駄のないやり取り。由里子らしい、テキパキとした注文だった。


    注文を取り終えた店員は、立ち去ると 


    「はい、これ!」 

    美知子はバッグから、小さな紙袋を取り出す。


    「なに?」

    由里子が、身を乗り出して覗き込む。


    「熱海のお土産。甘夏のマーマレード」

    美知子は少し照れくさそうに微笑んで、そっと差し出した。


    「わぁ……! 懐かしい! さすがみっちゃん、覚えていてくれたのね!」

    由里子の顔が、ぱっと明るくなる。

    まるで、あの頃に戻ったみたいに――



    「……久々の熱海だったから、たまには熱海プリンも良いかなと、迷ったんだけどね」


    美知子は、笑いをこらえながら肩をすくめた。


    ​「なによ、私がプリン食べないの知ってるくせに。味は好きなんだけどねぇ……あの、つるんって食感が、どうも苦手で」

    由里子が少し顔をしかめる。その反応に、美知子は思わず吹き出した。

    ​

    「わかってるわよ。だからプリンは自分用に買ってきたわ。二個なんてペロッと食べちゃった。コクがあって美味しいのに……」

    ​

    「もう、みっちゃんったら」


    由里子の呆れたような声に、美知子は愉快そうに肩を揺らした。


    「私には、このマーマレードがあれば良いの、みっちゃん、ありがとうね」

    笑みを浮かべ、紙袋を大事そうに胸へ抱えた。



    その時、由里子がパッと顔を上げる。

    「あ、来た来た!」


    そのタイミングで、先ほどの店員が戻ってきた。 慣れた手つきで、生ビールの中ジョッキと小グラスをテーブルへ置く。

    続いて運ばれてきたのは、前菜の三種盛り。野菜の煮浸し、魚介の酢の物、小鉢に彩りよく盛り付けられた料理が並ぶと、食卓が一気に華やいだ。



    由里子は中ジョッキを手に取ると、美知子へ目配せするように視線を向けた。

    逸る気持ちをぐっと抑え、敢えてほんの少しだけ声をひそめる。


    「ねぇ、乾杯しない?」


    美知子は笑顔で応えるとグラスを持ち上げた。


    そして二人の声が重なる。


    『カンパ~イ!』


    打ち合わさる涼やかな余韻が残るなか、生ビールを一気にあおった。


    「……はぁ」

    思わず声が漏れる。


    「このひと口が、たまらんわ〜」


    「……で? 熱海、どうだった?」

    由里子は、目を輝かせて問いかける。

     

    ​「うん、一泊二日だったけど、天気にも恵まれて良かったわよ」

    美知子は旅の光景を思い描くように、嬉しそうに語り出した。


    「初日は初島に渡って……そうそう、由里ちゃんと一緒に行った時にランチを食べたあのお店、覚えてる?」


    「はいはい!」

    由里子はジョッキをテーブルに置きながら身を乗り出した。


    「あの活きたアワビの肝でしょ。お刺身がコリコリでねぇ」

    ​

    「そう、そのアワビの肝よ!」

    美知子は人差し指を立てて、得意げに微笑む。


    「いいなぁ……。活きのいいアワビなんて、なかなか食べられないからね」

    由里子は未練がましくジョッキを傾けた。


    ​「いいでしょ」

    美知子は調子に乗りながら続ける。


    「由里ちゃんが羨ましがるついでにもう一つ。大将の賄いカレーも食べてきたわよ」

    由里子の顔を覗き込むようにして、いたずらっぽく笑った。


    ​「あーいいなぁ。大将の賄いカレー、絶品だよなぁ」


    そんな羨ましそうな由里子に、美知子は大将からの伝言を告げた。


    「由里ちゃんが大将のカレーが好きだって伝えたらね、『カレーが食いたかったらいつでも作ってやるから、たまには顔見せに来い』って言ってたよ」


    その言葉を聞いた由里子は、ふっと目を細めた。


    大将の豪快な笑い声や、いつもの気さくな笑顔が、ふいに胸の奥に蘇る。


    「なんだか、大将に会いたくなっちゃったなぁ……」

    そう呟くと、由里子は美知子にに顔を向け、嬉しそうに笑みをこぼした。


    「ねぇ、久しぶりに二人で、大将のお店に行ってみない?」


    ​美知子もつられるように、小さく笑った。


    「いいわねぇ。きっとあの大将のことだから、『おう、待ってたぞ!』なんて、いつもの顔で迎えてくれるわよ」


    二人は顔を見合わせ、まるで学生時代に戻ったような笑顔を交わした。


    「あ、それでね!」 

    美知子は笑いを抑えきれない様子で、身を乗り出した。


    「次の日は、熱海から網代まで、いつものコースを歩いたの!」

    彼女は弾んだ声で言葉を重ねる。


    ふと、思い出したように美知子が笑い出した。


    「亮ちゃんね、前の晩に飲み過ぎてさ。あんなに楽しみにしてた朝ごはんも、ほとんど手を付けられないでいたくせにさ、『けど、しじみのお味噌汁は二日酔いに効くからおかわりしたよ』って自慢げに言っちゃってさ。あのときの、冴えないドヤ顔を見せてあげたかったわ」

    ​美知子はクスクスと喉を鳴らし、当時の様子を思い浮かべる。


    「……想像つくわ」

    肩を揺らして笑う由里子につられ、美知子の笑みもさらに深くなる。


    ​「でも、いざ歩き出したら『腹減ったなー』なんて言い出して。……結局、すぐにいつもの亮ちゃんに戻ってたけどね」

    ​

    「あれだけの距離を歩くのも本当に久しぶりだったから、ちゃんと歩けるかなって、正直心配だったの。でも不思議なくらい疲れなくて、むしろ網代に着いたのがいつもより早いくらいだったわ



    美知子の視線は、遠くの虚空を漂うように、記憶の中の熱海の海へと向けられていた。


    「海岸沿いを歩いてると、十一月だとは思えないほど風が柔らかくて……」


    じっと話を聞いてる由里子の表情を楽しむように、

    「陽射しにきらめく海がね『美知子、大丈夫だよ』って、囁いてくるのよね」


    「真剣に聞いてれば、何が!『美知子、大丈夫』なのよ」

    ふざけていることに気づき、由里子は苦笑する。


    「さすがに、それはないか……うふふ」


    そう笑ったかと思うと、美知子はすっと真顔になり、記憶の中の光景に浸るように手元のグラスを見つめた。


    「……ただ歩いてるだけなのにね。なぜか、すごく幸せな気持ちになってきて。どこまででも歩いていけそうだったわ」

    そう言って、名残惜しむように小さく息をつく。


    由里子は何も言わず、その横顔を見つめていた。亮と美知子が互いに惹かれ合っていることなど、とっくに気づいている。

    けれど彼女は、亡き夫への想いを胸の奥に抱えたまま、長い間その気持ちに蓋をしてきた。


    でも、今の美知子の表情は、これまで見てきたどの笑顔とも少し違っていた。

    肩の力が抜け、心の奥まで満たされたような穏やかな顔。


    由里子はグラスを口元へ運びながら、そっと微笑んだ。

    「――良かったわね」


    ふぅ、と息をついて由里子がグラスを傾けたとき、タイミング良く店員が料理を運んできた。

    金目鯛の薄造りに白子の茶碗蒸し、旬の野菜をあしらったメインディッシュ。手際良く空いた皿が下げられ、テーブルの上には彩り豊かな料理が並ぶ。それまで弾んでいた空気が、ふっと穏やかなものに変わった。


    由里子は金目鯛に箸を伸ばし、

    「美味しそう。……ねえ、みっちゃん。あの日、大将のお店に行ったときも確かこんなふうに季節のものが並んでいたわよね」


    そう言って箸を置くと、由里子は美知子の顔をじっと見つめた。

    熱海の話しをしている間、彼女の表情に浮かんでいた柔らかな光。その繊細な変化に、由里子は静かに目を留めたのだ。


    「亮ちゃんと、旅してる時の話をするみっちゃん、なんていうか…… すごく、穏やかな顔してる」

    そう告げると、ほっとしたように、ふわりと微笑む。


    二人の間に、わずかな沈黙が生まれた。


    「無理してないっていうかさ。あなた達、二人一緒なら、どこまででも歩いていけそうなのにね。……惜しい気もするけどなぁ」


    美知子は、そう言う由里子の言葉を遮るように、口を開きかけた。

    「だから、それは……」


    由里子は、先回りして言葉を被せ、ひらひらと手を振る。

    「はい、はい解ってますって」


    「みっちゃん達は、今のこの距離感が一番いいのよね。」

    そう言って、ジョッキを軽く持ち上げる。


    由里子は、ジョッキを口元に運びながら、

    「そう言えば、大将のお店!……最後に行ったのいつだったかしら?」


    「ほら、光里の留学先が決まった時、由里ちゃん達が、大将のお店で、お祝いやってくれたじゃない。あれ以来よ」


    「あぁ、もうそんなに経つのねぇ!」


    「もう何年も経ってるのに大将、全然変わってなくて。包丁を握る手も、立ち姿も昔のまんま」

    美知子は懐かしそうに目を細めた。


    ​「でもね、変わったこともあったの」


    ​「なに?」

    ​「あの頃は、大将と春さんの二人で厨房を回していたじゃない。でもね、この間行ったら、若い見習いさんが三人も入っていて。春さんが『こら、そこは丁寧にな』なんて声を飛ばしながら、手を止めることなくテキパキと指示を出していてね。……すっかり見習い長としての貫禄がついていたわよ


    美知子はグラスを置き、遠くを見るような目で微笑んだ。


    「厨房の中から威勢の良い声が響いてきてね。なんだかお店全体が、以前よりずっと明るくなったみたいだったわ」


    ​「へぇ、あの一番弟子の春さんがねぇ……」

    ​由里子は懐かしさよりも先におかしさがこみ上げてきて、思わず吹き出した。


    「そう、あの一番弟子の、春さんよ」


    美知子が問いかけると、二人は目を合わせるなり、どちらからともなく笑いがこみ上げ、肩を震わせながら小さな声を漏らした。

    ​

    「亮ちゃんたちに連れられて、初めて大将の店に行った時よ。大将が『俺の右腕になってくれてる、春樹ってんだ』って紹介すると、すかさず本人が『一番弟子の春樹っていいます。』って被せてきてね」

    ​

    由里子が低音の大将の口調を真似ると、美知子も笑いを噛み殺しながら続ける。


    「そしたら大将が『お前一人しかいないのに、一番も二番もあるか』って呆れてたわよね」

    ​

    「で、春さんがすかさず『俺一人だから、一番弟子に変わりないですよ』なんて言い返してさ……」


    ​「そうそう!」

    と、由里子がまた大笑いする。


    「結局、口では敵わないと思ったのか、大将が『屁理屈言ってないで、さっさと手を動かしな』ってね。あのアホみたいなやり取り、思い出しただけで笑っちゃうわね」


    ​「そういえば由里ちゃん、初めて会ったとき『大将の仕事ぶり、惚れ惚れする』って言ってたじゃない」


    「あぁ……そうだったかも。大将の器用な手捌きや、無駄のない動き。カウンターの向こうで繰り広げられる技は、ずっと観ていられるものね」

    由里子は、少しだけ目を細めて遠くを見つめた。

    ​

    「失礼な言い方かもしれないけど、有名で老舗でもない、網代の小さなお店に、若い人が集まってくるなんて、それだけ大将の腕が本物だって証拠よね」


    ​由里子の言葉に、亮から聞いたある話を不意に思い出す。


    「そういえばね、亮ちゃんから聞いたんだけど、春さんって、大将のお店に来る前は、京都の有名な老舗料亭で修行してたらしくて。それをわざわざ辞めて、大将に頼み込んで弟子入りしたんですって」

    ​

    「へぇ、あの春さんに! そんな経緯があったなんて、それってさぁ……有名企業を辞めて、小さな会社に就職したってことでしょう」


    「よほどの覚悟がないと、できないことだと思うの」
    美知子は、そう言って大きくうなずいた。


    「春さんって、見かけはひょうひょうとしてるけど……結構、男気あるじゃない」

    由里子は感心したように、ふうっと息をついた。

    そして、グラスにわずかに残った生ビールを飲み干すと、空になったジョッキをそっと持ち上げた。


    「……次、何にする?」


    美知子も、グラスの底で黄金色が心もとなく揺れているのに目を落とし、ふっと笑う。


    「そうねぇ……お刺身をつまんでると、久しぶりに冷酒をキュッといきたくならない?」


    「それ、いいわねぇ。」

    由里子は待ってましたとばかりに顔をほころばせた。


    しばらくして運ばれてきた冷酒を、二人は静かに酌み交わす。

    ときおり盃を重ね、箸を動かすかすかな音だけが、ゆるやかに流れる時間に溶け込んでいった。



    次第に話を切り出し始めた由里子は、

    冷酒の入ったグラスの縁を指でなぞりながら――


    「……みっちゃんさぁ。前にさ、駅のホームで私を見かけたって言ってたじゃない? 『声かけようかと思ったんだけど、男の人と一緒だったから、声かけなかった』って」


    美知子は箸を動かしながら、一瞬首を傾げた。次の瞬間、何かを思い出したように目を大きく見開く。

    ​

    「あっ、そうそう! あったわね、そんなこと。……おしゃれで、イケてる感じの人だったわよね。確か、同じ会社の企画の人だって言ってたじゃない」

    ​​美知子は、小さく含み笑いをした。

    ​

    「……実は、彼、別れた夫なの」

    ​由里子は視線を落とした。


    「まさかあそこにみっちゃんがいるなんて、びっくりしちゃって……とっさに『会社の企画の人』なんて嘘をついちゃったの。ごめんなさいね」

    ​

    美知子は目を見開いたまま、息を呑んだ。 


    「えっ……」 

    声にならない吐息だけが漏れ、しばらく言葉が出てこなかった。


    ​由里子は口元に手を当て、吹き出しそうになるのを必死にこらえて、肩を震わせた。


    「なによ、ハトが豆鉄砲くらったような顔しちゃって……そんなに驚くこと?」

    ​

    美知子は少しためらい、小さく息をつくと、喉に詰まった感情を押し出すように口を開いた。

    ​

    「驚くなっていうのが無理でしょう……だって、元ご主人、別れてからずっと海外にいるんじゃなかったの?」


    「まっ、そうなんだけどね……」

    ​

    由里子はグラスを置いた。周囲にさりげなく目をやり、賑わう店内をひと巡り見渡すと、腕時計に目を落とす。

    ​

    「あら、もうこんな時間。みっちゃん、明日は休みでしょ? この近くに、おしゃれで静かなバーを見つけたのよ。これから行ってみない?」

    ​

    「へぇ、バーねぇ。行く、行く」

    ​美知子は逸る気持ちを抑え、深く頷いた。



    それぞれの想いを胸の奥にしまい込み、二人は賑わいを増す店を後にした。

    ​

    ​扉を開けると、外は少し冷え込んでいる。

    二人は夜風を浴びながら、静かな夜の街へと踏み出していった。






    第十二話 解放、そして再生


    ひんやりとした空気が、火照った身体に心地よく澄み渡った。

    宵の口から夜半へ、街は喧騒に彩られている。

    ​賑やかな大通りから路地裏へ一本入ると、街のざわめきが遠のいた。

    街灯がまばらになる中、ひっそりと看板を灯す小さなバーの前で、二人は足を止める。

    ​重い扉を押し、一歩足を踏み入れると、
    低く抑えられた灯りが二人を包み込み、壁一面に並ぶ琥珀色のボトルが、仄(ほの)かな光を受けて密やかに瞬いていた。

    氷を削る、澄んだ音。

    カクテルグラスに注がれる液体の細い流れ。

    さきほどまでの賑やかさが、まるで嘘のように、時間の流れさえも緩やかに感じられた。

    ​二人はカウンターの高い椅子に並んで腰を下ろした。店内を見渡し、美知子はそっと囁く。

    「ねぇ、映画に出てきそうな素敵なお店ね……こんなお店を知ってるなんて、さすがだわ」

    二人の前には、由里子おすすめのカクテル「ライム&ジンジャークーラー」が置かれている。
    淡いライム色の液面が照明を映し、かすかに揺らめいていた。

    「ライムの酸味に、生姜のピリッとした刺激がね。食後の消化も助けてくれるし、口当りもさっぱりしてるから、日本酒の後にはちょうどいいわよ」
    由里子はカクテルの魅力を楽しそうに語ると、冷えたグラスの細い脚を指先でそっとすくい上げた。

    「じゃあ、まずは乾杯といきますか」

    その言葉に、二人は静かにグラスを寄せた。
    微かな音が薄暗い空間に溶けていく。

    美知子はグラスを手元に戻すと、照明を反射して淡く揺れる液面を見つめながら、
    「まるで時間が止まったみたい」
    ――うっとりと囁き、吐息をこぼす。

    「良かった、気に入ってもらえて。実はこのお店ね、彼に連れて来てもらったの」
    由里子は悪戯っぽく笑った。
    ​
    「えっ! 彼って、元ご主人のこと?」
    ​
    「昨年、仕事で日本に戻ってきていたみたいで、突然電話がかかってきて驚いたわ。……ちょうどその時期、私、仕事のスランプから抜け出せずにいたの」

    由里子は、グラスを指先でゆっくり回しながら、小さく息をついた。

    「彼は向こうで仕事も順調みたいだったし、海外でどんな仕事をしてきたのか、いろいろ聞いてみたくなってね。もしかしたら、今の私の、何かヒントになるかもしれないって……。それで会うことにしたのよ」

    言葉を区切ると、由里子は美知子をまっすぐ見つめる。

    「……みっちゃんが私たちを見かけたのは、その帰りだったの」

    美知子は思わず息を呑んだ。
    目の前の親友が抱えていた葛藤を思い、胸が締め付けられる。ふと、一昨年の電話でのやり取りが脳裏をよぎった。

    近年の美知子は新店舗の管理で多忙を極めていた。二人はなかなか会えなくなっていたが、それでも時間を見つけては言葉を交わしてきた。

    『みっちゃんも大変なのね。私も新商品の企画が通らなくて、もう頭を抱えてるわよ』
    ​
    ​受話器の向こうで、由里子はいつものように笑っていた。あの時の明るい声の裏側にあった重圧に、当時の自分は何も気づけなかったのだ。

    「あの時、そんな状態だったなんて……何も気づいてあげられなくて、ごめんね」
    ​
    「そんなことないわ。こればかりは誰かに相談したからって、どうなることでもないもの。自分で乗り越えていくしかないのよ」
    由里子は穏やかに微笑んだ。

    「それにね、みっちゃんと電話で話しているだけで元気をもらえてたの。私、すごく救われていたのよ」

    少しの間を置き、美知子は由里子の横顔を見つめた。

    「それで……。再会した元旦那様は、どんな様子だったの?」

    カクテルを一口飲み、由里子は美知子を見つめてふっとはにかんだ。
    「うん、良かった……本当に、会えて良かったわ」
    ​
    その真っ直ぐな瞳に、美知子の胸がかすかに震える。

    ​「再会した席で、彼の作品を観せてもらったの。元々、私なんか足元にも及ばないほど発想力に長けた人だったけれど、さらに進化していたわ」

    懐かしさを噛みしめるように目を伏せ、由里子はそっとグラスの縁をなぞった。

    「不思議よね……話し始めた途端、離れていた時間なんてなかったみたいで、大学で一緒に学んだ頃のように、生き生きとディスカッションしてね。目をキラキラさせちゃって……」​

    彼女の口元には、自然と愛おしげな笑みがこぼれる。

    「その様子を見ていたら思い出したのよ。私、そんな彼のことが大好きだったんだって。数年ぶりに見る彼は、あの頃の目をしてた」

    そして視線を落としたまま、独り言のように言葉を継いだ。

    美知子は、グラスに手を添えたまま親友を見つめる。 ここまで楽しそうに昔話をする由里子を見るのは、本当に久しぶりだった。その表情を見ているだけで、自身の胸も温かくなっていく。

    「元ご主人、これからも時々は帰ってくることあるんでしょ?」

    すると彼女の顔がぱっと華やぎ、手に持つ器を軽く掲げる。

    「そうなるみたい。日本からのオファーも増えてるみたいで……この間の電話では、来月には戻ってくるようなこと言ってたけど……」

    ​「由里ちゃん達、今なら、お互いに公私共に、支えあって上手くやっていけそうな気がするんだけどなぁ」

    「……ううん、それは違うと思う」

    期待が滲む言葉に、由里子はカクテルを口元に運んだまま、ゆっくり首を振った。

    かつて結婚していた頃、由里子は彼の背中を追いかけ、彼もまたそんな由里子に何かを求めていた。しかし、一緒に暮らす中で、あの眩かったはずの彼の輝きは、少しずつ生活の澱(おり)のようなものに隠され、由里子の目からは消えていってしまったのだ。

    ​今、目の前で語られる彼の姿は、由里子が知る「夫」としての彼ではなく、荒波のような海外の環境で磨き上げられた、純度の高い成功者そのものだった。その充実した表情を見れば見るほど、由里子には確信めいたものが浮かんでくる。やはり、彼はあの広い場所でこそ輝くのだと。

    ​ 
    由里子は穏やかに微笑む。
    それは拒絶ではなく、ようやく辿り着いた自分たちへの肯定だった。

    ​「今の彼が素敵なのは、あの環境に身を置いているからよ。私たちは、もう一緒には暮らさないわ。学生時代に戻ったみたいに、こうして必要な時に会って、美味しいお酒を飲んだり、刺激的なディスカッションをしたり。……ほら、みっちゃんが、よく言ってたでしょ。『亮ちゃんとは、この距離感が良いの』って」

    そう言って、由里子は、悪戯っぽく小さくウィンクした。

    「私たちも、そんな距離感がベストなの」

    言い切った由里子の表情は穏やかだった。
    その眼差しには、もう迷いはなかった。

    美知子は少し驚いたように由里子を見つめた。 その迷いのない瞳を見ているうちに、胸につかえていたものがすっとほどけていく。

    「そっか……」
    思わず笑みがこぼれ、ふっと肩の力を抜いて笑い返した。

    ​由里子はひとつ息をつくと、水滴をまとったグラスをそっと握り直し美知子へ視線を向ける。一瞬、言葉を探すように迷ってから、彼女は静かに口を開いた。

    「私、正直言ってね、みっちゃんの言う距離感って、……亡くなったご主人のことを今でも引きずって踏み出せないでいるだけなのかな?と勝手に思ってたんだけど……」

    その言葉に頷くと、美知子はやわらかく微笑んだ。

    「やっぱり由里ちゃんには、お見通しだったのね。」

    美知子はグラスをそっと両手で包み込み、琥珀色の液面へ静かに目を落とした。懐かしい記憶を一つひとつたどるように、その揺らめきをしばらく見つめていた。

    「由里ちゃんがいうように、以前の私は、一歩前へ進むことに躊躇してた……。新しい人生を歩きたい気持ちはあるのに、その一歩を踏み出したら、亡くなった夫、隆さんとの思い出まで少しずつ薄れてしまう気がして……。それが怖かったのかもしれないわね」

    「でもね――」

    「光里が今年の夏休みに留学先から帰ってきたじゃない。その時……キャリーケースを引いて向かってくるあの子を見た瞬間、思わずハッとしたわ」

    「また背が伸びていて、目元なんか、もうそっくり。成長するたび、隆さんに似てきて、ああ、やっぱり親子なんだなぁって」

    そう思った途端、娘の笑った顔が胸に浮かぶ。あの人に似た、あの表情。

    「あの人が生きていた証は、ちゃんと娘の中に受け継がれているんだとね」
    美知子は、どこか照れたように微笑んだ。

    「その時、胸の奥でずっと固まっていたものが、ふっと軽くなるのを感じたの、気づけば、楽になっている自分がいて……」

    美知子は、そっと宙を見つめると、迷いがほどけたように由里子へ視線を戻し、やわらかく微笑んだ。

    じっと聞き入っていた由里子は、嬉しそうに笑みをこぼす美知子の横顔を見つめながら
    「……隆さんを失った傷が、消えたわけじゃないでしょうけど……それはもう、言葉にできる思い出や、記憶に変わってきてるのね」

    そう独りごちる小さな呟きは、氷とシェイカーが織りなす響きへ溶けていった。

    バーカウンターでは、氷を砕く音、シャカシャカとアルコールが混ざり合うリズムが打ち解け合い、二人の間を緩やかに流れていく。

    グラスを口に運ぶと、残りのカクテルを飲み干し、美知子に顔を近づける。

    「ねぇ、カクテル、リクエストしてみない?」

    「えっ? どういうこと?」
    美知子が目を丸くする。

    「マスターにお願いして、イメージで作ってもらうのよ。リクエストすれば作ってくれるんだって。これね、浩ちゃん……浩一っていうんだけどね、彼が教えてくれたの」
    由里子は、少し得意げに声を弾ませた。

    「へぇ、浩一さんね」
    美知子は思わず口元を緩めた。由里子が親しげに愛称で呼ぶ、元ご主人の名前を聞いたのは初めてだった。

    「テーマは何が良いかしら……」
    由里子は楽しそうに首を傾け、笑みを深める。

    「二人とも、少しずつ前に進めた記念になるような、一杯がいいわね。みっちゃんは、隆さんとのことを大切な想い出にしながら、一歩踏み出せるようになったし、私も、輝きを取り戻した浩ちゃんと、また会えるようにもなったし……」

    人差し指をそっと唇に当て、手元のグラスをじっと見つめながら考えを巡らせる。

    ふいに何か閃いたように顔を上げると、瞳をパッと輝かせた。

    「ねぇ! ……『再生』ってどう?」

    美知子は呆気にとられながらも、その明るさに頬を緩めた。

    「まっ、なんだかよくわからないけど…… 由里ちゃんに任せるわ」

    由里子はカウンターの向こうを見て声をかける。

    「マスター! カクテル、リクエストしてもいい?」

    カウンター越しに、マスターが
    「もちろんです」と笑顔で頷く。

    それを見て二人は顔を見合わせ、思わず笑みをこぼした。
    吹っ切れたような、清々しい笑顔だった。

    「そうそう。今度、浩一さんだっけ?」
    美知子は何気ない風を装いながらも、ちらりと由里子の様子をうかがう。

    「えっ?」

    由里子は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに照れくさそうに笑った。

    その様子を見届けるように、美知子は意味ありげに一拍置き、

    「今度その浩一さんに、紹介してよね」
    と、にやりと口角を上げてみせた。 

    由里子は、美知子の顔を見つめ、嬉しそうに微笑んだ。

    「いいわよ。来月、帰国したらね。どのくらいいるか分からないけど、彼がいる間に、みんなでクリスマスを過ごさない?」

    思いがけない返事に、一瞬目を丸くし、
    言葉を詰まらせた。

    美知子は困ったように、笑いながら、
    「クリスマスって…… 十数年ぶりの二人だけのクリスマスになるんじゃない?そんな特別な時期にお邪魔したら悪いわよ」

    由里子は、そんな美知子の遠慮を汲み取ると、ひらひらと軽快に手を振りながら朗らかに告げる。

    「なに気を使ってるのよ。今さら、二人きりでロマンチックな聖夜って柄でもないし。むしろ、みっちゃんがいてくれた方が、浩ちゃんだって絶対に喜ぶわ」

    そこでふっと、何か思いついたように目を細める。

    「……あ、そうだ」

    少し身を乗り出し、美知子の顔を覗き込む。

    「亮ちゃんも、誘ってみたら?」

    その一言に、美知子は一瞬きょとんとする。

    「え?」

    すぐに意味を察して、ふっと視線を逸らした。

    「どうしようかなぁ……」

    美知子は、照れたように、そっとグラスに口をつける。

    「……もう、調子いいんだから」

    由里子は思わず吹き出した。ひと呼吸おいて、彼女はいたずらっぽくウインクする。

    ​「ま、楽しみにしてるね」

    ​その軽やかな余韻が空気に溶け出す。

    カウンターの向こうでは、マスターの流麗な所作が、すでに仕上げの時を迎えていた。
    幾つものボトルが入れ替わり、分厚い一枚板にコトリ、コトリと硬質な音が落ちる。
    薄暗い照明の下、バースプーンが微かに光を反射した。銀色の螺旋を伝い、とろみのある液体が細い糸のように静かに滑り落ちていく。
    比重の異なる雫を、決して混ざらぬよう、慎重に、幾重にも折り重ねる。液面の揺れさえ許さない極限の集中が、見えない器の中に密やかな境界線を編み上げていった。
    ​やがて完成を告げるように、手にしたボトルが真っ直ぐに置かれる。

    磨き上げられた木目を擦る微かな音が響き、積み上げられた液面を精緻に保ち、二つのグラスがカウンターの上を滑り出す。

    「お待たせいたしました。『再生』でございます。長い夜が明け、再び光が世界を染め上げていく。そんな朝の空をイメージしてお作りしました」

    マスターの静かな声とともに、二人の目の前には、すらりとした背の高いグラスがぴたりと並ぶ。

    遠くで流れるジャズだけが、二人の間を静かに満たしていた。

    ​底に沈むのは、太陽のような力強い赤。上へ向かうにつれて、温かみのあるオレンジ、そして光を孕んだ鮮やかな黄色へと滑らかに溶け合い、天頂の静寂(しじま)を宿す深い青へと移り行く。夜明け前の夜空を閉じ込めた、鮮やかなグラデーションだった。

    クリスタルガラスの表面に結露した滴が、一筋だけゆっくりと流れ落ちる。

    ​かつての傷跡が、もう二人を縛る鎖ではないことを確かめ合い、過ぎ去った暗い日々を、これからは糧として抱いていける。

    二人は、小さな夜明けを慈しむ手つきで掬い上げ、ごく自然に、互いの新しい時間を祝してグラスを合わせた。



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    カクテル『再生』




     
     
    日々の中で心が疲れ、現実から少し離れたくなったとき。そんな瞬間にそっと寄り添う物語を届けています。 描くのは、人生の喪失や再会、縁(えにし)の中で紡がれる何気ない会話と沈黙。 温かい飲み物を傍らにページをめくる、そんなひとときのお供に。心に静かな余韻を残せますように。

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