『毅然の烏 —ある葬祭ディレクターと納棺師の記録—』【第31話】その姿変われども
昨日までの報告書には、身体の目立った変化は特に記載されていない。
検案書に記載された死因は、心筋梗塞。湯船で発症したもの。
濡れた長い髪は首や皮膚に張り付いている。
首は壁側を向き、薄く開いた瞳は白い壁を虚に見つめている。
指先は何かを指差しかけているようで、乾燥して少し黒ずみ、皮膚の固くなった唇は何かを言いかけるように開いていた。
灰色の納体袋に入った彼女は全裸だ。
白くなった全身の皮膚には血管が浮かび上がり、くっきりと道筋を示す地図のようになっていた。
「腐敗ガスだ」
スマホを取り出し、蔵さんに電話をかける。
3コール後に電話に出た。
「蔵です」
「今、式中でしたか?」
スケジュールを確認せずにかけてしまったことを思い出し、しまったと思う。
後ろから読経の声が聞こえる。
「…少しなら」
事務所の扉を閉める音がした。
「恐縮です」と心の中で呟きながら、故人様に目をやりながら確認事項を聞く。
「昨日までは、お身体に変化はなかったで間違いないですよね?」
蔵さんが報告書に何かがあったのに書き忘れることはありえない。
「お綺麗でした。…ウジですか?」
少し声が硬くなる。それはそうだろう。ご遺族とのやりとりは全て葬祭ディレクターが行う。
私は、現場で状況を伝えて引き継ぎをするだけ。
でも、正確に確実に報告して処置をする。
「腐敗ガスです。腐敗に伴ってガスが生じ、血管が浮き出ています。腹部にも青緑色の変色が出ていて、微かに腐敗臭もします。お風呂で亡くなったので、進行が早かったのかもしれません。皮膚はまだ強いので、メイクは濃いめにします」
顔に浮かび上がった血管に目をやりながら、その綺麗な肌に厚くファンデーションを塗らなくてはいけないことに悲しくなる。
「ありがとうございます。ご遺族に連絡します」
「他に何かあれば報告書に書きます」
「はい。よろしくお願いします。それでは、また…失礼します」
後ろから聞こえる読経は、他の誰かへ向けた祈り。常に死がそばにある。
「あぁ…お姉さん。こんなに綺麗なのに。早く服を着て、髪を乾かしましょうね」
合掌をして、ゴミ袋を広げて納体袋を抜き取る。
納棺は後から時任さんがしてくれるから、私は体と顔のお手当をする。
両足をクロスさせ、片手で持ち上げ、オムツを入れる。
体液が出ないように肛門と膣に綿花を詰めた。その際、出血や体液の色もチェックする。
身体を拭き、保湿をしてから襦袢を着せて、白装束を着せる。
青緑色に変色した腹部にはシートを念のため当てた。
ドライシャンプーで髪を洗い、ドライヤーで髪を乾かした。
優しく乾かしても、抜け落ちる髪は多かった。
「黒くて綺麗な髪ですね。サラサラですよ」
優しく撫でながら髪を整えて、整顔に入る。
喉と鼻に綿花を入れ体液の量を確認する。少し多い。
歯の間にワックスのついた糸をフロスのように通し、口を閉じていく。
綿花だけより、開く心配が無い。
ファンデーションの色を3色混ぜてヘラに乗せ、肌と合わせていく。
健康的で自然な色に血色を乗せる。
眉毛を書き足し、乾いて固くなった唇に柔らかいワックスを薄く塗り重ね縮まってしまった唇を再生していった。
唇の色は濃すぎず、でも地の色よりは明るく作っていく。
仕上げのパウダーをかけて、髪の毛をふんわりと整えた。
血管はもう見えない。
厚塗りだけど、そこまで厚塗りに見えないはずだ。
「失礼しますね」
棺台を動かして、誰もいない式場にお連れする。
実際の式と同じ照明で確認したかった。
「うん、大丈夫。自然です」
手を組み、眠る一人の女性。
乾いた唇には潤いを多めに加えたから艶やかだ。
手の血管もファンデーションと手甲で隠した。
そこに、亡くなったままの姿はもう存在しない。
亡くなる時の姿は選べなくても、生前のように戻すのが私の仕事。
最後に、薄荷油を垂らす。
尊厳を守るのも、私の仕事。
