思い出せない名前の話
「キンタッキーって、なんだったかい?」
18時頃。忙しない駅前で信号待ちをしていると、すぐ隣から、白髪まじりのおじいさんが中学生くらいの男の子に話しかけているのが聞こえた。
突然冬がやってきたような夜、吐く息は真っ白。おじいさんのかさついた手には、スーパーの袋。長ネギが顔を出している。
男の子の背中には、大きな黒いリュック。シャツは一番上までボタンが留まっていて、襟に乱れがない。リュックの中まできちんとしていそうだ。
「フライドチキンの、ケンタッキーのことですか?」
男の子が丁寧な口調で言うと、おじいさんは嬉しそうに頷いた。
「そう、それだよ」
けれどその後、何かを考え込むように黙り込んだ。
信号が青になっても、二人はその場を動かない。周りの人が次々と渡っていく。
私はガードレールの端に寄りかかって、かじかんだ指先でスマホをいじるふりをしながら、完全に他人の会話を盗み聞きしている。
「……いや、なんの名前だったかな」
「名前のこと?」
「キンタッキー」
男の子は小さく笑った。
「地名ですよ。アメリカのケンタッキー州、だと思います」
「ほぉ、アメリカか……」
おじいさんは感心したように空を見上げた。
「アメリカって言うと、ハンバーガー、コカコーラ、ジーパン、チキン。だよなあ」
ふふふ。その並べ方、ちょっと古くて、でもなんだか可愛らしい。……って、私は通りすがりAか。
男の子は重たそうなリュックをドサッと足元に下ろしてから、スマホを取り出した。
「ほら、ここ。これがケンタッキー州です」
なんと。地図の上に指を置いて、おじいさんに見せている。できるな、この子。
おじいさんは画面を覗き込みながら「おお、ケンタッキーか」と、二回、三回と繰り返していた。
男の子は口元を押さえながら、「美味しいですよ。僕は好きです」と言って、スマホをおじいさんの方に傾けていた。その仕草がなんとも真面目で、こっちまで、すっと背筋が伸びる。
「おいしいのか?」
あまりにも素直な聞き方で、おじいさんのほうが子供みたいだ。
「ちょうど、そこにありますよ」
男の子が交差点の向こう側を指差すと、おじいさんもそちらに目をやり、「ずいぶん近くにあったもんだな」と、しばらく店のほうを眺めていた。
「せっかくだし、味見でもしてくか」
おじいさんがそう言うと、男の子は照れくさそうにお辞儀をした。
信号が何回目かの青になって、おじいさんは買い物袋をぶら下げたまま、ゆっくりと歩き出した。男の子はおじいさんの歩幅に合わせるように、ぴたりと隣を歩いている。気づけば、私の冷え切った足も、三人目みたいにその後ろを歩いていた。
次の瞬間、自動ドアの音がして私は店内にいた。おじいさんと男の子の二歩後ろ、レジ待ちの列にさりげなく紛れ込む。
……私は何をしているんだ。
「じゃあ、オリジナルチキンを3ピース」と、おじいさんが注文している。
「僕もそれで」と男の子が続ける。
二人の後ろに並んでいた私も、自分の番が来ると、「オリジナルチキン3ピースください」と、なぜかそう口走っていた。
テーブル席に座ったおじいさんと男の子の斜め後ろの席に、私は座った。
見ず知らずの人を尾行して、一緒に店内へ入り、しかも同じ物を頼んでいる。もう完全に、怪しい人である。
トレイの上から立ち上る湯気が、おじいさんの顔をふわっと包み込んでいる。どこを持てばいいのか分からないみたいに手を動かしてから、チキンをじっと見つめて、思い切りかじりついた。
「ほぉ」と、口を開けたまま、感心したように声をあげている。
私もつられるようにチキンにかじりつきながら、斜め前の二人に目をやった。
「これが、ケンタッキーか。美味いな」
そう言って、トレイに乗っていた白い紙で口の周りを拭いてから、今度は骨のまわりを狙って、ぐいと肉を噛みちぎった。
骨をくるりと回して、まだ肉が残っていないか確かめている。
男の子は、その様子を見てうれしそうに笑っている。私も、口元をベタつかせたまま、一緒になって微笑んでいた。
すると、おじいさんがふいに話し始めた。
「孫がな、このチキンが好きでな」
チキンを持ったまま、男の子の食べる手がぴたっと止まった。
「去年、亡くなったんだ。まだ14だった。病気で、長いこと入院しててな。最後に『おじいちゃん、退院したらケンタッキー食べに行こうね』って言ってたんだ」
おじいさんは、節くれ立った大きな手でチキンを持ち直して、じっと見つめたまま続けた。
「でも、名前が思い出せなくてな。キンタッキー、キンタッキーって、ずっと間違えて覚えていた。君に教えてもらって、ようやく思い出せてな。あの子に報告しようと思って」
おじいさんは、またチキンにかじりついた。
「美味いなぁ、これ」
その声は少し湿っていて、男の子は視線を落としたまま、静かに「はい」とだけ答えた。
私は自分の席で、チキンを持ったまま固まっていた。しばらくして、おじいさんと男の子は店を出て行った。
おじいさんは、本当に「キンタッキー」を忘れていたんだろうか。
冷めかけたチキンは、妙に塩っ辛かった。
というのは、半分妄想の話だ。
本当は、昨日の夜、駅前の信号待ちで二人を見かけただけ。
おじいさんの「キンタッキーって、なんだったかい?」という問いかけも、男の子がスマホで何かを見せていたのも事実。「せっかくだし、味見でもしてくか」と言って、おじいさんだけが店に向かっていったところまでが、私の見た現実だ。
そこから先、私が彼らについていったのも、切ないお孫さんの話も、全部私の頭が勝手に作り出した。おじいさんがなぜキンタッキーを尋ねたのか、本当の理由はわからない。
今夜、私はケンタッキーのフライドチキンを夕飯にした。
この部分は、間違いのない事実だ。
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