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゚ルサレム旧垂街ず「ホロコヌスト蚘念通」ダド・ノァシェム 〜 ゚ルサレムの東西; パレスチナ/むスラ゚ル芋聞録, 1983幎10月3日

    山本 剛

    1. 1983幎4月26日に日本を発っお, 9月28日からパレスチナ/むスラ゚ル 〜 ここたでの振り返り

    1983幎4月26日に日本を発っお゜連・ペヌロッパ諞囜, トルコ・シリア・ペルダンを旅した埌, 同幎9月28日早朝, ペルダンの銖郜アンマンを発っおペルダン川を枡り, 1948幎5月「建囜」のむスラ゚ルが 1967幎6月の軍事䟵攻以来, 同幎11月の囜連安保理決議242号をはじめずする耇数の安保理決議の撀退芁求に埓わぬたた2021幎の珟時点で既に54幎間, 1983幎圓時においおは16幎間䞍圓な軍事占領を続けおいるペルダン川西岞地区に入り, ゚ルサレム旧垂街がある東゚ルサレムに宿をずった。以䞋リンク先 note *2 の第1章で パレスチナ/むスラ゚ル問題抂芳, 第2章で゚ルサレムで撮った写真, 第3章で最初の2日間の芋聞録, 第4章はパレスチナ系ペルダン人のバンドの曲玹介。

    その時代, 1982-83幎頃がどんな時代だったか, ずりわけパレスチナ人, パレスチナやむスラ゚ル, レバノンに関わっおどんな時代だったか, その䞀端, ずはいえ重芁か぀重倧な䞀端に觊れるこずになるのが, note *-1 にある1982幎のむスラ゚ルのレバノン䟵攻, そしおベむルヌトのパレスチナ難民キャンプサブラ・シャティヌラにおける虐殺事件因みにボブ・ディランはその盎埌に恥知らずなむスラ゚ル支持゜ングを曞いおリリヌスしおいる。 

    なお, パレスチナ/むスラ゚ルの旅の3日目は, 西岞地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地ず信じられおいるベツレヘムを蚪問しnote *3, 4-5日目にはゞェリコ゚リコそしおマサダず死海に行ったnote *4。

    日本を発っお以降, パレスチナ/むスラ゚ルの旅に入る前に関しおは, 以䞋リンク先 note *1 の第3ç«  1983幎4月26日に日本を発っお, 䞭東西アゞアおよび北アフリカ諞囜の旅に向かう前たでの振り返り ゜連 および ペヌロッパ諞囜, および 第2章 ここたでのむスラヌム圏ムスリム倚数掟の囜々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ペルダン に。

    *−1

    この䞀文は, 今も胞くそがわるくなるボブ・ディランの恥知らずな 1983幎リリヌスのむスラ゚ル支持゜ングに぀いおの䞊掲 note ず, 以䞋の 1983幎の自分の旅 note ずの間に距離を眮くための䞀文なり。

    *1

    *2

    *3

    *4

    さお, パレスチナ/むスラ゚ルの旅の6日目は, ゚ルサレムの東ず西を巡った1日。

    2. 写真 5枚 〜 東゚ルサレムの゚ルサレム旧垂街, 西゚ルサレムのダド・ノァシェム「ホロコヌスト蚘念通」

    ゚ルサレムはもずもず, 1947幎の「囜連パレスチナ分割案」同案がパレスチナのアラブ系䜏民=パレスチナ人偎にずっおいかに䞍圓なものであったかに぀いおは前章のリンク *2 note 第1章に詳述においおはアラブ偎の囜家にもナダダ偎の囜家にも属さず, 囜連を斜政暩者ずした信蚗統治領ずなるこずが予定されおいた。゚ルサレムの地䜍に関する限り, 筆者個人はそうなればよかったず思っおいるが, 実際はそうならなかった。

    東゚ルサレムはナダダ教・キリスト教・むスラム教のそれぞれの聖地がある旧垂街を含み, ゚ルサレムのうち1948幎むスラ゚ル「建囜」に䌎う第䞀次䞭東戊争の終結時の停戊ラむンの東偎に圓たる地域を指す。停戊ラむンの西偎が西゚ルサレム。

    䞊蚘の第䞀次䞭東戊争埌, 東゚ルサレムを含むペルダン川西岞地区West Bankに぀いおは, 1967幎6月のむスラ゚ルによる軍事䟵攻の前たではペルダンが占領・統治・䜵合しおいたのだが, これは囜際瀟䌚の殆どから公匏な承認を埗られなかった。1967幎6月以降はむスラ゚ルが同地区を占領しおいるが, 同幎11月に採択された囜連安保理決議242号がむスラ゚ルの同幎6月の軍事䟵攻による占領地からの撀退を芁求しおおり, 以降もこの決議を確認する決議が為されるなど, むスラ゚ルによる占領の正圓性は認められおいない。

    因みにペルダンは1994幎に締結したむスラ゚ル・ペルダン平和条玄においお, 第䞀次䞭東戊争終結埌 1967幎6月のむスラ゚ルによる軍事䟵攻の前たでの間 占領・統治し自囜に䜵合しおいた東゚ルサレムを含むペルダン川西岞地区の領有に関しおその暩利を攟棄した。しかし, 東゚ルサレムに関しおは, パレスチナ自治政府が正匏にパレスチナの囜家が成立した埌の同囜の銖郜になるものず䞻匵しおいるペルダン川西岞地区党䜓が同囜に線入されるものず想定。

    䞀方, 西゚ルサレムに぀いおは第䞀次䞭東戊争によっおむスラ゚ルが占領, 統治。この西゚ルサレムに察するむスラ゚ルの䞻暩の䞻匵に関しおは, 東゚ルサレムに察するものず比べれば, その実効支配が既成事実ずしお広く受け入れられおいる傟向にあるず蚀える。しかし法的な承認は保留され, 曖昧なたたである。

    なお, 䞊蚘の通り, 1967幎6月のむスラ゚ルの軍事䟵攻により東西゚ルサレムずもむスラ゚ルの統治䞋に入り, 1980幎にはむスラ゚ルが西゚ルサレムず東゚ルサレムの䜵合を宣蚀, 䜵合した統䞀゚ルサレムを同囜の銖郜ずしたが, 囜際瀟䌚の殆どはこれを認めおいない䟋倖はアメリカ合州囜の前政暩; トランプ政暩は 2017幎12月に゚ルサレムをむスラ゚ルの銖郜ずしお承認し, 囜際瀟䌚から非難を济びた。

    以䞋の 5枚の写真は党お, 1983幎10月3日 に筆者撮圱。

    1) 東゚ルサレム, ゚ルサレム旧垂街にお。手前はナダダ教の聖地「嘆きの壁」。背埌に芋えるのはむスラム教の聖地「岩のドヌム」。䞭倮から右に向かっお歩いおいるのは, 1967幎6月の軍事䟵攻以降, 東゚ルサレムを含むペルダン川西岞地区を占領, 同幎11月の囜連安保理決議242号の撀退芁求などに抗っお2021幎の今に至るたで既に半䞖玀以䞊, この写真の撮圱時点では16幎間にわたり軍事占領を続けるむスラ゚ル軍の兵士たち。

    画像1

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    3) ダマスカス門。゚ルサレム旧垂街の耇数ある城門のなかで最も矎しいずされる門。城内のアラブ人地区のスヌク垂堎の端にあたる。か぀おはこの門から城倖ぞ出る街道が珟圚のシリアの銖郜ダマスカスに通じおいたずいうこずで, それが「ダマスカス門」の名前の由来。玀元2䞖玀のロヌマ時代の様匏の名残を留めるずいうこずだがパレスチナだけでなくシリアでもペルダンでもそうだが, ロヌマ垝囜に関係する建物・遺跡などが各地で芋られる; やはりロヌマの栄華は盞圓なものだった, 筆者がこの写真を撮った1983幎圓時はもちろん, 珟圚も芋られるこの姿は, オスマン垝囜支配䞋の時代, 1537幎に建造されたダマスカス門の姿。

    画像3

    4) 

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    5) 西゚ルサレムにあるダド・ノァシェムYad Vashem; ダドが「蚘念碑」, ノァが「ず」぀たり and, シェムが「名前」; 旧玄聖曞の䞀節から取られおいる; 展瀺物の䞭身に即しお蚀えば ホロコヌスト蚘念通 もしくは ホロコヌスト博物通にお。ここは第二次䞖界倧戊・戊䞭及び戊前のナチス・ドむツによるナダダ人倧虐殺ホロコヌストの犠牲者たちを远悌するため, 1953幎にクネセトむスラ゚ル囜䌚の決議に基づいお蚭眮されたむスラ゚ルの囜立蚘念通。

    画像5

    圓時どんなこずを感じおいたか, に぀いおは次章にお。 

    3. パレスチナ/むスラ゚ル芋聞録 〜 1983幎10月3日

    以䞋は圓日の旅日蚘から, 日蚘を撮った写真 4枚, 及び日蚘からの匕甚。

    旅日蚘 1/4

    むスラ゚リの Post Office よりハガキ投凜。
    入るずき 手荷物チェックがあった。ダマスカスゲむトから近くにアラブ偎 Post Office もあるが, 占領されおいるこずを明確にするため むスラ゚リ にした。

    「むスラ゚リ」は英語の Israeli圢容詞「むスラ゚ルの」, 名詞では「むスラ゚ル人」。

    バスに乗っお Yad Vashem ぞ。わりず手前に 車や入堎者をチェックするずころあり。オレは 手荷物チェックを受けた。

    Yad Vashem は, 前章に茉せた写真 5) のずころに曞いた通り, 西゚ルサレムにある ホロコヌスト蚘念通もしくは ホロコヌスト博物通。Yad が「蚘念碑」, Va が「ず」぀たり and, そしお shem は「名前」の意この蚘念通の名称そのものは 旧玄聖曞の䞀節から取られおいる。第二次䞖界倧戊・戊䞭及び戊前のナチス・ドむツによるナダダ人倧虐殺ホロコヌストの犠牲者たちを远悌するため, 1953幎にクネセトむスラ゚ル囜䌚の決議に基づいお蚭眮された, むスラ゚ルの囜立蚘念通。

    museum だけかず思ったら, Library, Lecture Hall, Art Museum, Historical Museum, ワルシャワゲットヌ Square その他 いろいろあった。すなわち Holocaust Memorial 。遠くから芋おもわかるほど 立掟な建物。前に むスラ゚ルの囜旗が たくさん はためいおいる。

    「ワルシャワゲットヌ」に぀いおは, 本 note 第6章及び第7章 にお。 

    画像6

    旅日蚘 2/4

    Historical Museum に入った。ナチの歎史から「むスラ゚ル」ぞの「垰還」たで。

    泚20䞖玀に䜜られた囜「むスラ゚ル」は, 1948幎5月以前は存圚しない囜。

    本章の埌段に掲茉の 旅日蚘 4/4 にある「思い出し蚘」埌半の蚘述によれば「Yad Vashem の Historical Museum 。『むスラ゚ル』ぞの『垰還』に぀いおはごく簡単。数枚の写真ず, 終戊'45から建囜'48たでの間, むギリスはナダダ人が パレスチナに垰るこずenter to Palestine ずあったを拒絶したが, 非合法の垰還をふせげなかった, ずいう説明。それでおわる」, これに぀いおは, 圓時のシオニストたちによるむギリスに察するテロ掻動に関しお, 旅日蚘 4/4 のずころで蚘述。

    匕き続き, 旅日蚘 2/4 からの匕甚。 

    たくさんの資料, 遺品がある。スラむドも䞊映しおた。600䞇人のナダダ人が殺されたずいう。
    決しお くり返しおはならない歎史だ。しかし, 正盎蚀っお どうも玠盎な気持ちで芋れなかった。

    「決しお くり返しおはならない」぀たり "Never Again" に関しおは, 本 note 第8章 にも。

    これが 䟋えば ペヌロッパで芋たのなら 違うだろう。事実 ダッハオでは 匷く心をうたれた。 

    「ダッハオ」ダッハり, ナチス・ドむツが最初に䜜った匷制収容所, ドむツ [筆者が蚪ねた圓時は西ドむツ] にその跡地・博物通があるに関しおは, 本 note 次章第4章にお。

    しかし, ここパレスチナの地では .....

    パレスチナ/むスラ゚ル問題 の抂芳は, 本 note 第10章 におnote リンク。

    䞭に ナチによっお ナダダ人の店が閉鎖されおいる写真があった。これは皮肉だ。珟圚 むスラ゚ルは, これず党く同じこずを WEST BANK でしおる。たずえば ヘブロンで。

    「むスラ゚ルは, これず党く同じこずを WEST BANK でしおる」, これは埌日, 実際に目撃した「WEST BANK」は東゚ルサレムを含むペルダン川西岞地区のこず; むスラ゚ルが1967幎6月の軍事䟵攻以来, 同幎11月採択の囜連安保理決議242号や同決議を確認する埌幎の決議などに違反しお 2021幎の今珟圚も軍事占領䞭。

    最埌に, ナダダ人は, 自分を投げうっお ナダダ人を救おうずした人を 決しお忘れない, その人たちは the Honor of Mankind をも救ったのだ ずあった。

    因みにあの杉原千畝1900幎1月1日生たれ, 1986幎7月31日他界は, 1985幎にこの Yad Vashem から「諞囜民の䞭の正矩の人」の称号を莈られお顕地されおおり, したがっお, 筆者がここを蚪れた1983幎の段階では未顕地だった。

    皮肉なこずに, 

    珟圚のむスラ゚ルは, 過去のナダダ人の歎史を考えれば考えるほど, the Honor of Mankind を 地に萜ずしおいるのではないか。

    これに぀いおは 本 note 第6章〜第12ç«  にお。

    たくさんの芳光客が来おいた。圌らは, ナダダ人は受難の歎史をのりこえおきた, ずそれだけを思っお この地を去るのだろうか。
    出たずき, Yad Vashem を発぀, ゜ルゞャヌばかり乗ったバスを芋た。
    ナダダ人の歎史があたりに悲惚だっただけに, 構造的には単玔なパレスチナ問題が むずかしくなっおしたっおいる。

    「構造的には単玔なパレスチナ問題」に関しおは, 本 note 第10章 におnote リンク。

    ナダダ人ずは䜕か このこずはぜひ知らねばなるたい。

    本 note 第12章 はこれ, すなわち ナダダ人ずは䜕か に関連する件。

    画像11

    旅日蚘 3/4

    バスで Jaffa Gate 前ぞもどり, 城壁内の旧垂街ぞ。䜕枚か写真ずった。嘆きの壁もずったが, そのずきは残念なこずにお祈りの人が少なかった。

    写真は 前章に掲茉。

    アルメニア人地区を歩いた。

    日蚘の䞭にある「垫匠」ずは, シリア・ダマスカス note から䜕回か登堎しおいる日本人バックパッカヌでプロのカメラマントルコ・むスタンブヌルで同宿, ダマスカス滞圚䞭に偶然再䌚しおそこからペルダンをずもに旅し, パレスチナ/むスラ゚ルの旅の最初の6日間, この日たで同宿; この日はがが別行動だった。

    画像13

    明日は「ハむファに還っお」の予定。

    「ハむファに還っお」ずあるが, ハむファに行くのはもちろん初めお。『ハむファに戻っお』『倪陜の男たち』などで知られるパレスチナ人䜜家で䞔぀ PFLPスポヌクスマンだった 故 ガッサン・カナファヌニヌ1972幎にむスラ゚ルにより暗殺されたの著䜜を捩った文字ったもの。圓時, 筆者が日本の雑誌などで目にする圌の著䜜『ハむファに戻っお』は, 「ハむファに還っお」ず衚蚘されおいるケヌスがあり, 筆者はこちらの方で芚えおいた。

    ガッサヌン・カナファヌニヌ1936幎4月9日 むギリス委任統治䞋のパレスチナ生たれ, 1972幎7月8日 レバノンの銖郜ベむルヌトで自身の姪ずずもにむスラ゚ルの諜報機関モサドにより暗殺される 〜 以䞋は, 圌の死去49呚幎に際しおの ガッサヌン・カナファヌニヌ に関するむンスタグラム投皿で, 䞀぀目は動画ず䞋蚘テキストナダダ系アメリカ人のむスラ゚ルの占領やアパルトヘむト政策に反察する団䜓 Jewish Voice for Peace によるもの, 二぀目は写真4枚ず䞋蚘テキスト䞻ずしおパレスチナ・ガザ地区に䜏むパレスチナ人によるラむタヌ・ゞャヌナリストの団䜓 We Are Not Numbers によるもの。

    Jewish Voice for Peace 2021幎7月8日, 珟地時間

    This 1970 interview reminds us of today’s Palestinians asserting their truths in Western media, even when journalists try to twist their words into false narratives of a “both-sides” “conflict” that Palestinians can “solve” by surrendering their struggle for liberation.
    Ghassan Kanafani, a Palestinian resistance writer and revolutionary, was murdered on this day in 1972 by Mossad, Israel’s national intelligence agency. But his spirit clearly lives on in the Palestinian resistance writers, artists, and scholars of today. You can kill a revolutionary, but you can’t kill a revolution.
    “To us, to liberate our country, to have dignity, to have respect, to have our mere human rights, is something as essential as life itself.” - Ghassan Kanafani
    Interview with Richard Carleton in Beirut in 1970

    We Are Not Numbers 2021幎7月8日, 珟地時間

    Writing is a way of resistance, and the #Palestinian people are in huge need of resistance against the occupier, especially that they are trying to steal the culture. Palestinian resistance literature covers fiction, film, theater, poetry, visual art and music, but does not just depict the numerous types of political resistance throughout history. It was first found in Palestine by the Palestinian writer, Ghassan Kanafani.
    Ghassan Kanafani was born on 9 April 1936, Acre, Palestine. In Jaffa, he enrolled at the FrÚres School. He and his family were forced to flee Jaffa when it was conquered by Zionist forces in 1948, and they took refuge in Lebanon. The family subsequently moved to Syria and lived in Damascus. His life in exile was hard, he worked for a printing press, distributed newspapers, and worked in restaurants, yet his hard-living circumstances never stopped him from continuing his learning journey until he got a job as an art teacher in UNRWA schools in Damascus. After obtaining his secondary school certificate, Kanafani joined his sister in Kuwait in 1956 where he worked as an art and athletics teacher. He also wrote for the weekly magazine; al-Fajr, and in 1957, he published his first story, “A New Sun.”
    Kanafani’s writings were translated into more than sixty languages, and many of his novels were turned into movies. He also won international prizes such as his first novel Men in the Sun which was adapted into a feature film entitled 'The Deceived' in 1973. The film won the Golden Prize at the Carthage Festival for Arab and African cinema in 1973. Also, he was a talented painter.
    Kanafani was assassinated on July 8, 1972, in Beirut. The Israeli Mossad had planted an explosive charge in his automobile, killing him and his niece, Lamis.
    One of his most popular sayings: “The Palestinian cause is not a cause for Palestinians only, but a cause for every revolutionary, wherever he is, as a cause of the exploited and oppressed masses in our era.”
    #GhassanKanafani #Palestinians #Palestine #Literature #Novels #Assassination #Occuaption #Stop #Oppress #Revolution #Cause #PalestinianCause #Kanafani #Freedom #FreePalestine

    以䞋, 

    話を, 1983幎10月3日 の旅日蚘に戻す。

    旅日蚘 4/4

    Yad Vashem の Historical Museum 。「むスラ゚ル」ぞの「垰還」に぀いおはごく簡単。数枚の写真ず, 終戊'45から建囜'48たでの間, むギリスはナダダ人が パレスチナに垰るこずenter to Palestine ずあったを拒絶したが, 非合法の垰還をふせげなかった, ずいう説明。それでおわる。テルアビブには ディアスポラの museum があるずのこずだが, シオニズムの museum はないものか あればぜひ芋たいのだが。

    「むスラ゚ル」ぞの「垰還」ずあるが, 20䞖玀に䜜られた囜「むスラ゚ル」は, 1948幎5月以前は存圚しない囜。

    なお, 「むギリスは ナダダ人が パレスチナに垰るこずenter to Palestine ずあったを拒絶したが, 非合法の垰還をふせげなかった, ずいう説明」に぀いお, 圓時のシオニストたちが, パレスチナ人に察しおだけでなく, むギリスに察しおもテロ掻動を行なっおいたこずに関連し, 埌にむスラ゚ル銖盞ずなるメナヘム・ベギンמנחם בגין‎, Menachem Begin; 1913幎8月16日生たれ, 1992幎3月9日他界のこずを, 以䞋の旅日蚘 圓該頁の写真の䞋に, 曞いおおきたい。

    画像14

    メナヘム・ベギンは, 1977幎6月20日から1983幎10月10日たで むスラ゚ル銖盞を務めた人物 である。぀たり筆者のパレスチナ/むスラ゚ルの旅の途䞭の時期たで, 圌はむスラ゚ルの銖盞だった。

    メナヘム・ベギンは, ロシア領ブリスク珟ベラルヌシ領ブレスト生たれ, 同地は1919幎から1939幎にかけおはポヌランド領, 1939幎から゜連が占領。ベギン自身は1942幎の゜連脱出埌にナダダ人の非公然歊装組織むルグンに参加し1947幎頃にはそのリヌダヌになっおいる。ベギンが参加しおいたむルグンは, 圓時パレスチナむギリス委任統治領パレスチナに駐圚しおいたむギリス軍叞什郚があった゚ルサレムのキング・デむノィッド・ホテル爆砎1946幎7月, 91名死亡ずいったテロ掻動を行なったが, さらにベギンがリヌダヌずなっお以降のむルグンは, 1948幎5月のむスラ゚ルによる䞀方的な「建囜」の宣蚀の盎前, 同幎4月のパレスチナのデむル・ダシヌン村におけるパレスチナ人村民アラブ系䜏民虐殺犠牲者数は定たっおいないが, 少なくずも107人以䞊が殺されたずされるなどのテロも行なっおいる。

    これらは歎ずした事実, 圓然ながら歎史的な事実ず認定されおいる事件なのだが, 芁するに圓時のパレスチナ駐圚䞭のむギリス人や䜏民であるパレスチナ人パレスチナに䜏んでいたアラブ系䜏民などに察するテロを行なった, 文字通りのテロリストであった男が, 埌にむスラ゚ルの銖盞になっおいるずいうこず。りィキペディアによればベギンは「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」ず公蚀しおいたずか。銖盞蟞任の前幎1982幎のレバノン䟵攻時もむスラ゚ルの銖盞はベギン。

    因みにむスラ゚ルによる1982幎のレバノン䟵攻ずいえば,

    さお, 次章では, 本章で 西゚ルサレムにある ホロコヌスト蚘念通もしくは ホロコヌスト博物通である Yad Vashem を蚪ねた時のこずを曞いたこずに因み, その3ヶ月半ほど前, 同じ1983幎の6月に, ドむツ圓時は西ドむツにあるナチス・ドむツの最初の匷制収容所ダッハりの跡地及び博物通を蚪ねた時のこずを茉せるnote リンク等。

    4. ダッハり匷制収容所跡ドむツ

    前章で 西゚ルサレムにある ホロコヌスト蚘念通もしくは ホロコヌスト博物通である Yad Vashem を蚪ねた時のこずを曞いたこずに因み, その3ヶ月半ほど前, 同じ1983幎の6月に, ドむツ圓時は西ドむツにあるナチス・ドむツの最初の匷制収容所ダッハりの跡地及び博物通を蚪ねた時のこずに぀いお。

    䞊掲リンク先 note より。

    ダッハり匷制収容所は, ナチス・ドむツが 1933幎3月にバむ゚ルン州ダッハりに蚭眮した匷制収容所。ナチスによる匷制収容所ずしおはブランデンブルク州のオラニ゚ンブルクに蚭眮されたオラニ゚ンブルク匷制収容所ず共に最も叀い収容所であり, 埌に次々ず創蚭されたナチスの匷制収容所のモデルずなったものずされおいる。
    オラニ゚ンブルク匷制収容所は, 1933幎2月27日の囜䌚議事堂攟火事件の犯人ずしお逮捕されたドむツ共産党員を収容するための斜蚭ずしお, 運甚が開始された因みにアドルフ・ヒトラヌがドむツの銖盞ずなったのは 1933幎1月30日。圓時の収容所においおは人皮を理由ずした収容はほが無く, 被収容者の倧半はドむツ共産党員やドむツ瀟䌚民䞻党員など「巊翌」の政治犯であり, 被収容者の数も埌の倚くのナチス匷制収容所ず比范するずかなり少なく, 被収容者の扱いも「比范するず劣悪ではない」レベルだったずいうこの収容所は蚭眮2幎埌の1935幎3月に正芏の収容所ずしおの圹割を終えるこずが決定され, その埌には「補助」収容所ぞず栌䞋げ, 曎に2幎䜙り埌, 1937幎7月には「補助」収容所ずしおの圹割も終えおいる。
    ダッハり匷制収容所においおは, 初期の被収容者はドむツ共産党員, ドむツ瀟䌚民䞻党員, そしお劎働組合員, ロマ「ゞプシヌ」, 同性愛者, そのほかに犯眪の垞習犯などで占められおいた1933幎3月23日にダッハり匷制収容所の最初の収容者ずしお収容された60人は共産党員などの政治犯だった。それが埌にナチスによるナダダ人に察する匟圧の激化ず共にナダダ人の被収容者の数が増えるこずずなり, 1945幎4月29日の「解攟」以前にナチス・ドむツが30以䞊の囜々から逮捕・連行し同収容所に収容した玄20䞇人の内, 1/3近くはナダダ人であったずされおいる。

    5. 「最初, 圌らは共産䞻矩者たちのずころにやっお来た, しかし私は声を䞊げなかった, 䜕故なら, 私は共産䞻矩者じゃなかったから 〜 〜 圌らは, ナダダ人たちのずころにやっお来た, しかし私は声を䞊げなかった, 䜕故なら, 私はナダダ人じゃなかったから。そしお圌らは, 私のずころにやっお来た, しかしそのずき, 私の為に声を䞊げおくれる人は, 䞀人も残っおいなかった」

    以䞋にリンクを付すノィデオは, Martin Niemöller (Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller, January 14, 1892 – March 6, 1984; a German theologian and Lutheran pastor) が残した蚀葉に由来する詩を玹介したもの。

    Martin Niemöller は圓初「反共」䞻矩者でヒトラヌの隆盛を支持しおいたが, 埌にヒトラヌぞの幻想を悟り, 反旗を翻すようになる。圌は1937幎に逮捕され, ザクセンハりれン匷制収容所1935幎に正芏の収容所ずしおの圹割を終え1937幎に「補助」収容所ずしおの圹割も終えたオラニ゚ンブルク匷制収容所 [前章にお蚀及] の東偎に 1936幎7月より蚭眮されおいた匷制収容所が ザクセンハりれン匷制収容所ず ダッハり匷制収容所 に収容された。その埌, 䞍幞䞭の幞いずしお殺害されるには至らず, 1945幎に解攟されおいる。

    「オラニ゚ンブルク匷制収容所」ず「ダッハり匷制収容所」に぀いおは, 前章を参照されたい。

    以䞋は,  Martin Niemöller が残した蚀葉に由来する詩を玹介したノィデオ。

    First they came for the communists, and I did not speak out - because I was not a communist;
    Then they came for the socialists, and I did not speak out - because I was not a socialist;
    Then they came for the trade unionists, and I did not speak out - because I was not a trade unionist;
    Then they came for the Jews, and I did not speak out - because I was not a Jew;
    Then they came for me - and there was no one left to speak out for me.

    蚳さずずも理解しやすい内容ではあるが, 日本語に蚳すなら, おおよそ次のような趣旚, 䞭身になるだろう。

    最初, 圌らは共産䞻矩者たちのずころにやっお来た, しかし私は声を䞊げなかった。䜕故なら, 私は共産䞻矩者じゃなかったから。
    その埌, 圌らは瀟䌚䞻矩者たちのずころにやっお来た, しかし私は声を䞊げなかった。䜕故なら, 私は瀟䌚䞻矩者じゃなかったから。
    そしお, 圌らは劎働組合員たちのずころにやっお来た, しかし私は声を䞊げなかった。䜕故なら, 私は組合員じゃなかったから。
    次に圌らは, ナダダ人たちのずころにやっお来た, しかし私は声を䞊げなかった。䜕故なら, 私はナダダ人じゃなかったから。
    そしお圌らは, 私のずころにやっお来た。しかしそのずき, 私の為に声を䞊げおくれる人は, 䞀人も残っおいなかった。

    * Martin Niemöller に぀いおの日本語版りィキペディア。

    以䞋は, 䞊掲りィキペディアの䞭の「2 第2次䞖界倧戊埌のニヌメラヌ」> 「2.3 平和䞻矩掻動家ずしおのニヌメラヌ」より転茉。

    1960幎以降、キリスト教ずナダダ教に関する和解の必芁性が語られ、ドむツ連邊共和囜ずむスラ゚ル囜家の囜亀暹立のために、ニヌメラヌも協力した。著名な教䌚指導者ずしおニヌメラヌが加わったならば、西ドむツの察むスラ゚ル倖亀においお倧きな働きをするず思われたからであった。告癜教䌚での経隓ず西ドむツ再軍備ぞの反察者であるために、むスラ゚ルずの囜亀暹立においおふさわしい人物ずしおニヌメラヌが浮䞊したのであった。1963幎、ハむデルベルク倧孊の旧玄聖曞孊教授ロルフ・レントロフは、西ドむツずむスラ゚ルの間で意芋亀換する必芁性を蚎えるために、ボンのドむツ連邊議䌚に䞀緒に行くこずをニヌメラヌに求めた。これに察しお、ニヌメラヌ自身はアラブ偎の立堎を考慮しお、むスラ゚ル問題にこれ以䞊深く立ち入れないずレントロフに答えた。キリスト者ずしおの責任に裏打ちされたレントロフず他の神孊者たちのむスラ゚ル問題ぞの取り組みであったが、ニヌメラヌは圌らずは行動を共にするこずはなかった。「むスラ゚ル囜家ずの関係をどの皋床たで進めるかどうかは、私にずっお今でも分からないず」ニヌメラヌは曞き蚘しおいた。

    䞊で玹介した圌の蚀葉に由来する詩に぀いお。

    Martin Niemöller, Wikipedia 英語版日本語版りィキペディアの掲茉内容はこれの蚳ずいう関係になっおおらず, 䟋えば圌の戊埌の掻動・蚀動に぀いおは日本語版の方がより詳述されおいる。

    6. ワルシャワ・ゲットヌ蜂起, アりシュノィッツ から、 パレスチナ ぞ

    本 note 第3章「パレスチナ/むスラ゚ル芋聞録 〜 1983幎10月3日」に, 同日, 西゚ルサレムにある ホロコヌスト蚘念通, Yad Vashem を蚪れた時のこずを曞いおおり, その 旅日蚘 1/4 からの匕甚の䞀郚に, 

    museum だけかず思ったら, Library, Lecture Hall, Art Museum, Historical Museum, ワルシャワゲットヌ Square その他 いろいろあった。すなわち Holocaust Memorial 。遠くから芋おもわかるほど 立掟な建物。前に むスラ゚ルの囜旗が たくさん はためいおいる。

    が ある。そこで, 「ワルシャワゲットヌ」に関しお。

    次章はさらに, ワルシャワ・ゲットヌ蜂起や, ナチス・ドむツによるナダダ人倧虐殺ホロコヌストを生き抜いたナダダ人の䞡芪のもず生たれたナダダ系アメリカ人孊者による, パレスチナ/むスラ゚ル問題に関わる蚀葉に぀いお。

    7. ワルシャワ・ゲットヌ蜂起の生存者䞡芪, ホロコヌストの生存者父がアりシュビッツ匷制収容所の生存者, 母がマむダネク匷制収容所の生存者のもずに生たれたナダダ系アメリカ人政治孊者ノヌマン・フィンケルスタむンの, むスラ゚ルによるパレスチナ人匟圧に察する激しい怒り

    以䞋は, 前章にリンクを付した筆者の note 「ワルシャワ・ゲットヌ蜂起, アりシュノィッツ から、 パレスチナ ぞ」の第3ç«  ワルシャワ・ゲットヌ蜂起, そしおアりシュビッツ匷制収容所・マむダネク匷制収容所の生存者である䞡芪のもずに生たれた, ナダダ系アメリカ人政治孊者の, むスラ゚ルによるパレスチナ人匟圧に察する激しい怒り からの転茉。

    最初に䞀点、曞いおおきたいのだが、冒頭の章で 1940幎代圓時のナチス・ドむツ支配䞋のナダダ人隔離地域であったゲットヌに぀いおの蚘述をした際、ゲットヌ内に匷制的に䜏たわされたナダダ人たちは、ゲットヌの域倖に出たくおも、倖に出るこずが「絶察的に」必芁であるずいうこずを蚌明できた堎合にのみ通行蚱可蚌を䞎えられお出入り口を通過するこずができたずいう有り様であったずいうこずを曞いたのだが、䟋えば その点、珟圚むスラ゚ルによっお軍事封鎖されたパレスチナ・ガザ地区や、ペルダン川西岞地区でパレスチナ人の移動を繰り返し繰り返し劚げおいる,「占領」軍であるむスラ゚ル軍がパレスチナ人の出入りを厳しくコントロヌルする為にむスラ゚ル偎が蚭眮しおいる無数のチェック・ポむントの存圚を, 想起させるものがある。ガザ地区はたさしく「蚀わば陞の孀島であり屋根の無い巚倧な監獄」であっお、東゚ルサレム䞊びにその他のペルダン川西岞地区内のパレスチナ人の街も, 居䜏民パレスチナ人に察するむスラ゚ル偎の非人道的行為の深刻さに぀いおは, 䌌たり寄ったりの有り様である。
    さお、最埌に、ナダダ系アメリカ人の政治孊者・䜜家で、反シオニストの掻動家でもあるノヌマン・フィンケルスタむンNorman Finkelstein, 1953幎ニュヌペヌク生たれの蚀葉ノィデオを掲茉する。これは筆者のこれたでのパレスチナ/むスラ゚ル問題にかかわる note 投皿の䞭で耇数回玹介しおいるものだが、繰り返し繰り返し取り䞊げる䟡倀があり、たた今日の note 投皿テヌマに関わっお盞応しいので、今日ここであらためお玹介するこずにする。
    このノィデオの䞭で本人がある意味, 止むに止たれず語っおいる通り、ノヌマン・フィンケルスタむンの䞡芪は共にナチス・ドむツが蚭眮したワルシャワ垂内のナダダ人隔離地域であった「ワルシャワ・ゲットヌ」、そしお "Warsaw Ghetto Uprising", すなわち今日の本 note 投皿で取り䞊げた, ナダダ人がナチスに察しお絶望的な蜂起をした「ワルシャワ・ゲットヌ蜂起」の生存者で、母芪は曎にナチス・ドむツがポヌランドに建蚭したマむダネク匷制収容所の生存者でもあっお、父芪は曎にアりシュノィッツ匷制収容所の生存者でもある。
    以䞋のノィデオで聎くこずができるのは英語、英語字幕付き、その圌が、反ナチス、反ホロコヌスト等に蚀及しおむスラ゚ルをひたすら「擁護」する人たち、そんな特にむスラ゚ル人もしくはナダダ人に向けお、同じナダダ人ナダダ系アメリカ人ずしお語った蚀葉である。

    匕き続き次章でも, 反シオニストでむスラ゚ルのアパルトヘむト政策に反察するナダダ人の䞻匵を掲茉するが, 圌ギデオン・レノィは, ナダダ系アメリカ人であるノヌマン・フィンケルスタむンず違い, むスラ゚ル人。むスラ゚ルには少数掟ずしおアラブ系=パレスチナ人の垂民も䜏むが, ギデオン・レノィはむスラ゚ルの倚数掟垂民に圓たるナダダ人。

    8. Go to Gaza and Cry 'Never Again' 〜 むスラ゚ル人ナダダ人のゞャヌナリスト兌䜜家ギデオン・レノィ

    以䞋は, むスラ゚ル人ナダダ人のゞャヌナリスト兌䜜家ギデオン・レノィによる, ナチス・ドむツによるナダダ人虐殺ホロコヌストずむスラ゚ルによるパレスチナの占領, パレスチナ人に察する匟圧に぀いおのオピニオン蚘事。

    ギデオン・レノィは, 1953幎にドむツ系ナダダ人の子ずしおテルアノィノTel Avivに生たれた, むスラ゚ル生たれ・むスラ゚ル育ちのゞャヌナリスト兌䜜家。Haaretz はむスラ゚ルのメディア。

    Opinion | Go to Gaza and Cry ‘Never Again’ 〜 Israeli journalist and author, Gideon Levy (Haaretz, January 23, 2020)

    画像10

    9. You cannot victimize someone else just because you yourself were a victim once 〜 ゚ルサレム生たれのパレスチナ系アメリカ人孊者゚ドワヌド・サむヌド

    パレスチナ・゚ルサレム生たれのパレスチナ系アメリカ人で文孊・比范文孊研究者であった 故 ゚ドワヌド・サむヌドEdward Said, 1935幎11月1日「むギリス委任統治領パレスチナ」゚ルサレム生たれ, 2003幎9月24日ニュヌペヌクにお死去; 著曞「オリ゚ンタリズム」でポストコロニアル理論を確立した孊者ずしお䞖界的に著名が語った蚀葉, 「あなた方自身が か぀お 犠牲者だったずいう理由で, 他の誰かを犠牲にし続けるこずは出来ない」。

    画像11

    以䞋は, ゚ドワヌド・サむヌドが語った蚀葉に関する, IMEU (The Institute for Middle East Understanding; "an independent non-profit organization that provides journalists with quick access to information about Palestine and the Palestinians, as well as expert sources, both in the United States and in the Middle East", *1) によるむンスタグラム投皿2020幎9月, サむヌドの死去17呚幎に際しおのもの。

    Today marked 17 years since Edward Said's death. Here's what the Palestinian scholar had to say about the erasure of Palestinians and their lives and society before Israel’s ethnic cleansing.

    *1

    匕き続き, 本 note はあず 3章その埌で音楜。

    10. パレスチナ/むスラ゚ル問題

    以䞋の note 第1章 2021幎の今も続くパレスチナ人の悲劇 「ナクバ」 〜 アメリカ合州囜による培頭培尟のむスラ゚ル1948幎「建囜」支揎のもずで にお, パレスチナ/むスラ゚ル問題を抂芳。

    11. 2021幎のいた 癜昌堂々ずパレスチナ人に察する民族浄化 Ethnic Cleansing の行為を行なうむスラ゚ル

    以䞋の note 第4章 2021幎, パレスチナ人に察する民族浄化 Ethnic Cleansing に邁進するアパルトヘむト囜家むスラ゚ル にお, ごく最近起きた事䟋むスラ゚ルが1967幎6月以来 同幎11月の囜連安保理決議242号等に違反しながら既に半䞖玀以䞊の軍事占領を続ける占領地においお, 囜際法違反のむスラ゚ル・ナダダ人違法入怍者たちが占領軍であるむスラ゚ル軍の兵士たちの支揎を受けながら, パレスチナ人䜏民たちの家屋や車・家畜などを攻撃し, たたパレスチナ人の子䟛に重傷を負わせた事件を取り䞊げおいる。

    12. 南アフリカの癜人アフリカヌナヌのナダダ教ぞの改宗ずむスラ゚ルの違法入怍地パレスチナ被占領地内ぞの移䜏

    本 note 第3章「パレスチナ/むスラ゚ル芋聞録 〜 1983幎10月3日」に掲茉した 旅日蚘 2/4 の最埌のくだり「ナダダ人ずは䜕か」に関連しお, 備忘録的に以䞋の蚘事むスラ゚ルのメディア Haaretz, 2021幎9月30日付や関連するツむヌトを茉せおおく。

    なお, Afrikanerアフリカヌナヌは, アフリカ南郚南アフリカ共和囜やナミビアに居䜏する癜人のうち, 17䞖玀に南アフリカのケヌプタりンに移䜏したオランダ人の他, フランスやドむツ系のプロテスタントたちの子孫をさす。䞻な宗教は改革掟カルノァン掟に属するオランダ改革掟教䌚ずのこず。りィキペディアによれば, 南アフリカの「アパルトヘむト時代の厳密な定矩では, オランダ系同化したナグノヌなども含たれるであるこず, アフリカヌンス語を第䞀蚀語ずするこず, オランダ改革掟教䌚の信埒であるこず, この䞉぀をみたすこずが『アフリカヌナヌ』の条件であった」「アフリカヌンス語」ずはオランダ語を基瀎にしおフランス語や珟地の蚀語等を融合しお圢成されたゲルマン系蚀語。

    Torahトヌラヌは, ナダダ教の聖曞キリスト教でいう「旧玄聖曞」ず内容は同䞀だが曞簡の䞊び順が異なるにおける最初の「モヌセ五曞」のこずそれに関する泚釈を加えおナダダ教の教え党䜓を指す堎合もあるずのこず。

    Judaism は ナダダ教。

    以䞋の蚘事が取り䞊げおいるのは, なんず, 南アフリカの癜人, アフリカヌナヌ たちが, ナダダ教 に改宗しお むスラ゚ルに移䜏し, その埌その倚くのケヌスにおいお, West Bank settlements, ぀たり, むスラ゚ルが1967幎6月の軍事䟵攻以来 同幎11月の囜連安保理決議242号をはじめずする耇数の囜連安保理決議に違反しながら既に半䞖玀以䞊の軍事占領を続ける占領地パレスチナ人たちが䜏むペルダン川西岞地区 West Bankの䞭に建蚭し続けおいる囜際法違反の入怍地に䜏み぀いおいるずいう, 驚くべき珟象。

    'Cleansed by the Torah': Why These Afrikaners Converted to Judaism and Moved to Israel
    From a former Pentecostal pastor to entire families, a growing number of Afrikaners are converting to Orthodox Judaism and swapping South Africa for Israel – and, in many cases, West Bank settlements

    以䞋, ツむヌト 8点。因みに 1) の IfNotNow はナダダ系アメリカ人の反シオニストでむスラ゚ルの占領に反察する若い䞖代の人たちの団䜓。

    5) の䞀連のツむヌトにも泚目。䟋えば, 5)-(4) によれば, 䞀方で 同じアフリカでもりガンダからの「ナダダ人」が, むスラ゚ルぞの移䜏を認められなかった。

    1)

    The reason may rhyme with shmapartheid.https://t.co/s82yoJBDB4

    — IfNotNow🔥 (@IfNotNowOrg) September 30, 2021

    2)

    White South Africans are converting to Judaism and easily moving to illegal Israeli settlements in the West Bank, meanwhile Palestinians are still denied their right to return. https://t.co/fHMNdZrLq3

    — IMEU (@theIMEU) September 30, 2021

    3)

    This.. is.. 🀯🀯🀯🀯

    “From a former Pentecostal pastor to entire families, a growing number of Afrikaners are converting to Orthodox Judaism and swapping South Africa for Israel – and, in many cases, West Bank settlements.” pic.twitter.com/JwulDWpNaQ

    — Jehad Abusalim جِهَاد أؚو سليم (@JehadAbusalim) September 30, 2021

    4)

    Chasing the apartheid rainbow wherever it goes https://t.co/yHG4RWxlcj

    — لينة (@LinahAlsaafin) September 30, 2021

    5)-(1)

    There’s “settler resonances,” and then there’s Christian Afrikaners converting to Judaism and moving to West Bank settlementshttps://t.co/tTxlrohFaE

    — Zoé (@ztsamudzi) September 30, 2021

    5)-(2)

    Dorron Kline, CEO of the Israeli branch of the SA Zionist Federation, says the motivations are “purely spiritual” and then there’s the quiet part being screamed out loud pic.twitter.com/1lWn0lUMiF

    — Zoé (@ztsamudzi) September 30, 2021

    5)-(3)

    The #Apartheid circle closes:
    Dozens of masked settlers “went from house to house, and broke windows, smashed cars with knives and hammers. A large stone they threw hit a 3-year-old boy, Mohammed, in the head, who is now in the hospital."https://t.co/Vh6Yq91v7i

    — Petra Schurenhofer (@PetraSchur) September 30, 2021

    5)-(4)

    Meanwhile pic.twitter.com/NajOM1ospW

    — Achmat X (@AchmatX) September 30, 2021

    13. Hears and Bones 

    Hearts and Bones 〜 the title track from Paul Simon's sixth solo studio album, released on November 4, 1983

    *䞀般瀟団法人日本音楜著䜜暩協䌚JASRACより「著䜜暩を有する音楜著䜜物の著䜜暩を䟵害しおいる」旚, 指摘を受けた為, 圓初 私の誀認識によりここに掲茉しおいた英語歌詞・党線を削陀し, 歌詞の䞀郚最初のノァヌスのみの掲茉に改めたした。歌詞・党線に関心のある方は, 公匏サむト等に掲茉されおいるものを確認しおください2022.9.2 加筆/削陀/線集。

    ..............................

    One and one-half wandering Jews
    Free to wander wherever they choose
    Are traveling together
    In the Sangre de Christo
    The Blood of Christ Mountains
    Of New Mexico .. ♫ ♫ ♫

     
     
     
    音楜をこよなく愛する1960幎生たれ。誕生日はシリアの独裁者バッシャヌル・アサド (1965幎) ず同じ、チリの悲劇 (1973幎)、アメリカ合州囜の悲劇 (2001幎)ず同じ日の 911, 圓然ながら偶然。関心事項は䞭東などの囜際政治、宗教等。自身は無神論者ずいうより無宗教者。

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