
第八話|帰ってきてください
第八話|帰ってきてください
依頼は深夜に届いた。
通知音は鳴らなかった。
震えもしなかった。
画面だけが少し明るくなった。
帰ってきてください
件名はなかった。
本文は一行だけだった。
私はしばらく画面を見ていた。
帰る、という言葉だけ、
少し位置が定まっていないみたいに見えた。
外へ出る。
雨は降っていなかった。
道路だけ濡れていた。
街灯の光が、
薄く伸びていた。
駅へ向かう途中、
閉まったクリーニング店の前を通った。
シャッターの下に、
ハンガーが一つだけ落ちていた。
誰も拾わなかった。
部屋は今までと同じ階数だった。
そう思った。
でも、
エレベーターを降りた時、
何階だったか少し分からなくなった。
鍵はポストの中にあった。
見慣れている気がした。
触ると少し冷たかった。
ドアを開ける。
音はしなかった。
部屋に入る。
明るかった。
白かった。
病院の待合室みたいに、
少し明るすぎた。
換気扇だけ回っていた。
最初に、
植物が見えた。
窓から離されたまま置かれていた。
受け皿の水が少し濁っていた。
机の上に、
伏せられた本があった。
ページの隙間から、
レシートの端だけ見えていた。
椅子は窓を向いていた。
脚の下に、
透明な爪が落ちていた。
洗面所を見る。
ゴミ箱の中に、
青い歯ブラシが入っていた。
少し濡れていた。
洗濯機は止まっていた。
蓋の裏に、
乾いた泡が薄く残っていた。
私は立ったまま見ていた。
何も思い出さなかった。
最初から、
こうだった気もした。
スマートフォンが震えた。
開く。
ありがとうございました
私は画面を見ていた。
句点はなかった。
部屋の奥を見る。
カーテンが半分だけ閉まっていた。
隙間から、
白い外の光だけ入っていた。
冷蔵庫のモーター音がした。
静かな工場みたいだった。
でも、
第一話の部屋より、
ずっと明るかった。
私はキッチンへ行く。
流し台に皿が一枚置かれていた。
泡は乾いていた。
薄い膜になっていた。
指で触る。
カサリ、と小さく音がした。
私は手を洗わなかった。
報告を打つ。
戻りました
そこで止まる。
戻りました、のあとに、
句点を打つか少し迷った。
今度は消さなかった。
送信する。
既読はつかなかった。
部屋は静かだった。
換気扇だけ回っていた。
私は椅子に座らなかった。
窓も閉めなかった。
植物にも触らなかった。
冷蔵庫の音だけ聞いていた。
まだ少しだけ、
間に合っている気がした。