
石橋の と読んでみた だいじょうぶ研究家、二度目の発見
前に一度、「ぬばたまの」を借りて歌を詠んだ話を書いた。
枕詞というやつである。「ぬばたまの」と置けば夜が来る。借りものなのに、それらしく見える。便利なものだ、と味をしめた。
味をしめた人間は、もう一度やる。私のことである。
そこで今度は、別の枕詞を探しに出かけた。
前に気づいたことがある。「ぬばたまの」は、本家の百人一首には入っていない。あれは万葉集のあたりに住んでいる言葉らしい。
ならば、と万葉集を覗いてみた。枕詞の宝庫だと聞いたからである。
覗いているうちに、一首の歌に出くわした。
うつせみの
人目を繁み
石橋の
間近き君に
恋ひ渡るかも
笠女郎(かさのいらつめ)という人の歌である。
人目が多いので、すぐ近くにいるあなたなのに逢えず、ずっと恋い続けている。そういう歌だという。
で、枕詞である。
「うつせみの」。これは、いい。
「人」や「世」にかかる枕詞だと聞いて、なるほどと思った。声に出すと、どこか儚い。蝉の抜け殻のような、この世のはかなさのような、そういう気配がある。ぬばたまのの仲間だな、と素直に頷いた。
問題は、その次である。
「石橋の」も、枕詞だというのだ。
……いや待て。
石橋は、石の橋やろ。
物やん。橋やん。どう見ても、ただの物体である。「ぬばたまの」や「うつせみの」みたいに、意味がふわっとした言葉ならわかる。だが「石橋」は、もろに物である。これが枕詞?
私は、納得がいかなかった。
枕詞が、いつも歌の頭にあるとは限らない。それは前回、いやというほど思い知った。途中に置かれていても、もう驚かない。
だが今回ひっかかったのは、置き場所ではない。
「石橋」という、こんなにもはっきりした物が、なぜ枕詞なのか。そっちである。
気になって、調べた。
すると、こうだった。
ここでいう石橋とは、立派なアーチ型の橋のことではない。川に点々と置かれた、飛び石のことだという。
飛び石は、石と石とのあいだが、近かったり遠かったりする。その「間」から、「石橋の」は「間近き」にかかる。
なるほど、と声が出た。
「石橋の間近き君」。
飛び石を一つ渡れば、もう手が届く。それくらいの近さだ、ということらしい。
ただ「間近き君」と言うより、ずっと近く感じる。すぐそこにいるのに、あいだに水がある。あと一歩なのに、渡れない。人目という名の、浅い川。
ここで私は、ようやく気づいた。
「石橋の」は、物のまま枕詞になっている。
意味を抜いて、ふわっと次の言葉を呼ぶのではない。飛び石という景色を、まるごと連れてきている。石と石のあいだ。近いのに渡れない、あの距離。その景色ごと、「間近き君」を立ち上げている。
枕詞とは、言葉の前に置く飾りではないのかもしれない。
後ろの言葉に、景色を連れてくる装置なのだ。
「ぬばたまの」は、外から夜を連れてくる。「石橋の」は、飛び石の距離を連れてくる。連れてくるものが、ちゃんと違う。
そう考えて、私はまた、いつものところに戻ってくる。
では、「だいじょうぶ」は——。
いや、前にも言った。「だいじょうぶ」は枕詞ではない。それは一度、決着がついている。
だが、枕詞が景色を連れてくる装置だとして、「だいじょうぶ」も、何かを連れてくる気がするのだ。ただし、向きが逆である。
「ぬばたまの」が、外から夜を連れてくるのに対して。「だいじょうぶ」と置いたとき立ち上がるのは、夜でも飛び石でもない。その人がしまい込んでいた何かが、内側から、そっと表に出てくる。
うまくいかなかった一日かもしれない。言えなかった一言かもしれない。あと一歩で、渡れなかった橋かもしれない。
枕詞ではない。けれど、枕詞を裏返したような働きをする。
これは、二度目の発見である。
一度目は一晩で消えたが、今度のは、少しだけ長持ちしている気がする。
念のため言っておくと、私は古典の専門家ではない。工場で働き、あちこちに落ちている「だいじょうぶ」を拾っているだけである。
だが、拾っているうちに、たまにこうして、千年前の人と目が合うことがある。
笠女郎は、人目に阻まれても、歌の中でなお恋い続けていた。
千年経っても、人はだいたい、何かの手前で立ち止まっている。あと一歩の、橋の手前で。
そんなとき、ぽつりと「だいじょうぶ」と置いてみる。
すると、渡れずにいる自分が、少しだけ見えてくる。
渡れるようにはならない。ならないが、見えてくる。
見えれば、それでいい気もする。