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葉子さんの休日

足のガングリオンを切ることになりました。
昔、ガングリオンの小説を書いたので、記念に全文掲載します。

 葉子さんがその声を初めて聞いたのは、病院からの帰り道だった。声はいきなり「おい」と、失礼な口調で葉子さんを呼んだ。振り向いたが誰もいない。気のせいかな、と首を傾げながらまた歩き出すとまた声がする。
「おい、おまえや、おまえ」
 葉子さんはキョロキョロする。
「俺や。さっき見てたやろ」
 偉そうなおっさんの声だった。また首を傾げる。近くにおっさんはいない。
「MRIの写真見てたやろ」
 さっき見ていたのは足首に出来た大きなできものの写真だ。ガングリオンというらしい。「良性のようですが大きいし、切るかどうか検討してはどうですか」とお医者さんにどうでも良さそうに言われたやつ。
 葉子さんは慌てて家に帰った。「おい、聞いてんのか」という声が何度か届いた。
 一人暮らしの家に帰って玄関先で靴を脱いでそのまま靴下を脱いだ。さっきMRIで見たガングリオンが、まんまるく飛び出て、葉子さんの足首にあった。
「お、そうよ、俺よ」
 声が嬉しそうになった。
「やっと気づいたか」
「口はついてない」
 葉子さんは事実を言った。ガングリオンは丸くてつるんとしていて、はち切れる寸前の風船みたいな緊張があった。
「口はいらんのよ」
 声がしたが、風船のつるんは変わらなかった。
「おまえ、俺を切る気なんやろ? やめとけよ」
 葉子さんは首を傾げた。誰に言うともなく言った。
「疲れてるんかな、とりあえず寝よう」
「違うで、これ、現実」声が言った。

 朝起きてもその声は「おい、聞いてるか?」「俺を切る気なんか?」と話し続けていた。葉子さんはその日も仕事を休むことにした。そして心療内科に生まれて初めて行った。
「先生、なんか、男の人の声が急に聞こえ始めて、足に、ガングリオンってできものができてるんですけど、どうもあれが喋ってるみたいで」
 しどろもどろに話すと、急にお医者さんがとても優しい顔になった。
「お疲れなんですね、薬を飲んで様子を見てください」
 声は「幻聴とちゃうって、ほんまに聞こえてるねんて」「心療内科の薬キツいやろ、飲んだらやばいで」などと騒ぎ続けたが、薬を飲んだらこの声が消えるのかな、と思い、葉子さんは薬を飲んでみた。
 ひどい眩暈がした。夜中にトイレに立った時、葉子さんは歩けなくて床に崩折れてしまった。「ほら、副作用すごいやん」声が言った。その声は勝ち誇るというより心配げだった。
「おい、大丈夫か? 救急車呼ぶか?」
 なんとか起き上がって、葉子さんは言った。
「大丈夫」
 その声に初めて返事をした瞬間だった。

 葉子さんは翌日ふらふらと職場に行った。直属の部長に昨日病院でもらった診断書を出した。
「一ヶ月お休みをいただきたいです」
 部長は診断書を見てから、葉子さんの定まらない目線を凝視して、戸惑った声で言った。
「疲れてるんやね。わかりました」
 引継はすぐに終わり、葉子さんはお昼には家についていた。
「あの部長、おまえにそんなに仕事させてたっけ? って顔してたな」
 お昼ご飯に買ってきた冷やし中華をズルズルと食べていたら、声に言われて、葉子さんは笑ってしまった。
「そやね。たいした仕事してへんから」
「つうか、おまえなんで休み取ってんの。もう自分が病気じゃないって気づいてるんやろ?」
「うん」葉子さんは曖昧に頷く。もう薬は飲んでいない。

 数日のあいだ、葉子さんはだらだらと家で寝ていた。その間、声はずっと話しかけてきた。
「おまえ、俺のこと切る気?」声は何度も同じことを聞いた。
「どうしよっかなあ。麻酔するから痛くないって言ってたし」
「待ってえな。俺は生きてるんやから、切られたら死んでまうやん。人殺しやん」
 そう言われて葉子さんはガングリオンをじっと見た。パンパンに膨らんだ小さなそれは、全く動かなかった。
「人なん?」
「そのツッコミやめろや」
「だって」
「生きてるねんよ。自我が、芽生えちゃったのよ、俺」
「自我かあ、なんかかっこええな」
「なんやそれ」
 そんな話をしていたら、ふと思うところがあり、葉子さんはある日、出かけることにした。
 コンビニ以外で、五日ぶりの外出だった。

 河川敷に、葉子さんは座っている。川の幅はとても広く、水はゆったりと流れている。大きな橋の下に、段ボールが規則正しく並んでいる。黒いシルエットが段ボールの中に入っていく。葉子さんは河川敷をぼうっと見て、それから自分の青いスニーカーを見て、鞄からスマートフォンを取り出す。
「あ、お母さん?」
 葉子さんは話し始める。
「なあ、お父さんって、今どこにいてるんやっけ?」
「お父さん? 知らんわ、どないしたん」
 葉子さんのお母さんは面食らった声を出す。
「なんか、川沿いの目撃談、なかったっけ?」
 葉子さんはそう言って、自分が今いる川の名前を言う。
「あー、そこの河川敷におるって話? 半年くらい前に、似た人がおるって話聞いたけど」
「お母さん見に行ってへんの」
「行くわけないやん。ホームレスになってたら会うのも気まずいわ」
「そうやなあ」
「あんた急にどうしたん、会社は?」
「んー、今日は休み取った」
 そこから少し近況報告をして、葉子さんは電話を切った。それから、また段ボールを眺める。
「おい、まさかと思うけどおまえ」
 声が話しかけてくる。
「俺のこと父親やと思ってる? 生霊? 幽霊?」
 葉子さんはすっくと立ち上がる。のびをする。
「違うのん? もしかしてと思ってんけどな」
「俺に説明をつけようとすんのはやめろ。俺は俺や」
 葉子さんは青いスニーカーで土を踏みしめ、足の向くまま、歩く。段ボール前に座っている男性が葉子さんを見た。伸びた髪が顔を覆い、隙間から見える目だけがギラギラしていた。葉子さんはその人に、父の名を言って、知りませんかと聞いてみた。
「わからん、ここではみんな名前は捨ててるよ」男性は答えた。
 葉子さんは、そうか、と思った。
 そして、夕方になった。夕日を浴びる川面はキラキラしている。座り込んでそれを眺める葉子さんに、声が聞いた。
「お父さん、どないしたん」
「借金作って出て行った。私が、高校生の時」
 聞いておいて、声は黙っていた。葉子さんはなんとなく、川を見たまま、話し続けた。
「残されたお母さんと二人でめっちゃ働いた。何年も」
「え、でも、今は」
「うん、今はもうええねん。お母さんが、いきなり再婚してん。お金持ち
と。で、借金なくなってん」
「よかったやないか」
「うん、なんか、」
 葉子さんは伸びをして、立ち上がった。
「気ぃ抜けちゃって、家を出て一人暮らしして、しんどい仕事も辞めて、楽な仕事に転職して」
 夕日を背に、葉子さんは歩き出した。河川敷から、独りの家に。
「なんやろ、何年もずっと、誰とも喋ってなかった気がする。ガンちゃんが話しかけてくるまで」
 声は少し黙った。
「え、ガンちゃんって俺?」
「うん」
「そんな。俺のカッコええ名前を略すなよ」
「ガングリオンさんって、他人行儀やん」
 声はしばらく黙った。
「他人行儀か」
 そのあと、足下からぼそっと聞こえる声は、心なしか嬉しそうだった。

 そのあとまた何日か葉子さんは家に篭って、映画を見たり、その感想をガンちゃんと言い合ったりしていた。
「そろそろ仕事せんで大丈夫なんか」
 ある日、ガンちゃんが聞いた。答える代わりに葉子さんは聞いた。
「なあガンちゃん、仕事辞めて結婚すんのと、仕事辞めて転職すんの、どっちがええやろ」
 ガンちゃんは言った。
「どっちもやればええんちゃうの」
 しばらく黙ってから、葉子さんは言った。
「そっか」

 葉子さんはすぐにテキパキと動き始めた。会社に退職届を郵送し、転職サイトと婚活サイトに登録した。転職サイトの資格欄に「簿記一級」と書いたら「おまえ案外スペック高いな」とガンちゃんがつっこんだ。
「前の職場で、資格取ったら給料上がるって言われてさ」
 ある日、葉子さんは久しぶりにストッキングを履く。ガンちゃんが薄い膜で覆われる。
「おい、くすぐったいぞ」
 葉子さんは無視して、タイトスカートを履く。
「今から面接行くから、ごめんね」
 葉子さんは、黙っててね、の意味で言った。
 ヒールの靴を履く。「きついぞ」ガンちゃんはうめく。

 転職先は一瞬で決まった。入社日も決まり、葉子さんのお休みは終わりに近づいていた。
 葉子さんはある日、お風呂上がりに、足首に話しかけた。
「ガンちゃん、悪いけど、切るわ」
 それは突然だった。慌てた声がした。
「え、なんでなん、俺ら、上手くやっとったやんか」
 葉子さんは少し考えた。
「うーん、うまくやっとったからかも」
「どういうこと?」
「私、これから、人と喋っていこうと思うねん。ガンちゃんは、結局、私やろ?」
 ガンちゃんは黙った。
「ガンちゃんとずっと話してたら、私、あかんようになると思ってん」
 ガンちゃんは「そっか」と言った。
「わかった、今までありがとうな」
 ガンちゃんは話さなくなった。葉子さんは寂しかった。

 整形外科に行った葉子さんは、目に涙を溜めながら、「ガングリオンを切ってください」とお医者さんに頼んだ。お医者さんは葉子さんの目をじっと見てから、言った。
「切るの怖いんやったら、針を刺して、中の水分を抜くこともできますよ。それで小さくなるから」
「ええっ」
 葉子さんは叫んでしまった。
「それ、早く言ってくださいよ」

 小さくなったガンちゃんは、しかし、喋らなかった。葉子さんは寂しいまま、新しい職場で経理として働きはじめた。人と話すのはまだ慣れないが、寡黙に働く葉子さんは、自分が信頼を得ているのになんとなく気づいていた。居心地がよかった。
 ある日、隣の企画課の男性に、廊下で声をかけられた。仕事の用件だった。話していると、足首から声がした。
「おぎゃあ」
 ガンちゃんが若返っていたのに気づいたのはその時だった。
 ガンちゃんは、その人と話すときに、いつも泣いた。まだ赤ちゃんなのに、ガンちゃんはうるさかった。
 わかったよガンちゃん。婚活も、ちょっと、頑張ってみるよ。
 葉子さんはこっそり、足首に話しかけた。

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