冒頭試し読み「愛だの恋だの」
作品集「愛だの恋だの」の表題作の冒頭お試しです。
死体を運ぶのってこんな感じかな。
エレベーターに大人の男を無理やり引き摺り込んでぜいぜいしながら、私はその死体に聞く。
「何階? 佐倉さん、何階?」
腕を私の肩に回してそのままうなだれている佐倉さんの顔が近い。私の大声はさぞ響いていることだろう、佐倉さんはうめいた。「ご、ごかい」
五のボタンを押す。エレベーターの濁ったガラスに、死体のような酒臭い男と、それを支える、ばさばさの髪の女が映っている。そんな二人を上に運んでいくエレベーターは狭くて、汗の臭いやゴミの臭いなんかが混じり合ったむわっとした空気が充満している。壁紙も少し剥がれているし、ガタガタと音を立てながらゆっくり上がっていくこのエレベーターの感じだと、私のマンションとあまり変わらない生活水準だな、しょせん同じ職場の男だな、と、案外私は冷静にそんなことを考える。でもエレベーターがあってよかった、階段しかないアパートだったら、この死体は下の道路に放り出して帰るか、私の家に連れ込むしかなかった。
こんなに悪酔いする人とは知らなかった。私は全然飲ませてないのに、一人で勝手に酔い潰れた。酒の息が私の頬にもろにかかる。近い。こんなに男が近くに寄ってくるのはいつぶりだろうか。
ガタガタと音がして、エレベーターは五階に着いた。ほとんど歩けず重い男を引きずって、私はエレベーターを出て、狭い廊下を歩く。夜も更けている。さすがに声を落として佐倉さんに聞く。「何号室?」何度か訊いたらやっと返事があった。「ごーまるさん」
その五〇三号室は目の前だった。
確か佐倉さんには扶養家族はいなかったはず。同居の家族もいなかった。一人暮らしだ。一年前に異動してきた佐倉さんの諸々の書類を手続きしたのは私だ。そして、さっき飲んでいる時にバツイチと聞いたところだ。じゃあ鍵は本人が持ってるのか、と聞こうとして先にノブを回してみたらドアが開いた。開く? 鍵かけ忘れたのか。佐倉さんの仕事でのうっかりぶりを知っているのであまり気にせずドアを全開にして、佐倉さんを引きずって家に入った。ドアをなんとか閉めて、とりあえず佐倉さんの靴を脱がせなければと声をかける。
「佐倉さん、家ですよ」
狭い玄関には佐倉さんのものらしき、青くてすりきれたスニーカーがあったほかは、小さいピンクのスニーカーだけだったので、靴を踏まずにいられた。その視界に入ったピンクの小ささに違和感を感じた矢先に佐倉さんがバランスを崩してぐらっと覆い被さってくる。もろに私に抱きついてきて私は壁に追い詰められ、壁ドンってこれのことか、いやこんなのは違う、とか考えるまもなく、子どもの声が聞こえた。
「なにやってんの」
覆いかぶさる佐倉さんで視界の半分は塞がれていたが、なんとか部屋の中に顔を向けると、すらっと背の高い少女がいた。こちらを凝視している。ああ、ピンクのスニーカーのひと、え、でも誰? なんなん、もう情報量多すぎる、こっちも酔ってるんやけど。へなへなとへたりこんだら、さらに佐倉さんが上にかぶさってきた。重い。急に汗がどっと出てくるのを自覚した。
「手伝おうか?」
言ってることとは裏腹に、少女の声は冷たかった。
「っていうか、おばさん誰?」
「えっと、とりあえず靴脱がせて、中に入れるけど、えっと、どこに寝かせたらええかな?」
佐倉さんを無理やり座らせ、ぐったりしてるなか靴を脱がせ、目の前にいる女の子をみたら、「あっち」と奥を指差している。やっと佐倉さんを立たせて、ずるずると、ほぼひきずるように、少女についていく。玄関から続く、一人分の狭い廊下を抜けてリビングに出た。ふた部屋ぶち抜きくらいの広さのリビングの左横にドアが二つあり、奥の方の部屋のドアを少女があけてくれた。ほぼベッドだけの殺風景な部屋。ベッドに佐倉さんを放った。寝かせる、というよりそこに倒す、という感じだったが、佐倉さんはそのまま眠りこんでいる。私もその横に座り込んだ。さっきから止まらない汗が目に入り、手の甲でごしごし拭う。
「ほんまはベルトくらい外してやりたいけどなあ」
やっと引きずられずに済んだ、といわんばかりに寝息をたてはじめた佐倉さんを見ながらつぶやいたら、後ろにいた少女が言った。
「ほうっとき。よくあることやから。お茶飲む?」
振り向いたら少女は冷蔵庫に向かっていて背中しか見えなかった。私はよろよろと立ち上がり、部屋を出てリビングに行く。少女はてきぱきとお茶を取り出し、コップを取り出し、注いでくれている。素直にありがたい。ツインテールというんだったか、二つ結びの髪の分け目がはっきり見えた。
「座っとって」
ぼうっと立っていたら少女に言われて、私は黙ってリビングにある椅子に座って、テーブルに肘を置いた。すごく疲れていた。肩がじんじんする。細くてか弱い感じの佐倉さんは、案外がっしりと重かった。
リビングと英語で言うのも憚られるくらいオシャレではない雰囲気の、くすんだ茶色の壁紙と、コップの丸いカタがくっきりついているテーブルをぼうっと視界に入れていた。ほんまにうちの家みたい、と思っていたら、ふと気づくと少女が私の前に座って、コップに入れたお茶を私の前に置いてくれている。ああ。
「ありがとう」
飲み干した。酔い覚ましになる冷たさのすっきりした麦茶がそのまま胃になだれこむ。冷たさが私をすとんと落ち着かせた。汗もひいてきた。
やっと、私は今の状況をじわじわと理解し始めていた。
この子は誰だ。普通に考えたら娘だけど、扶養家族はいなかったはず。じっと見てしまったら少女は真顔で言った。
「誰? って思ってるよね? 誘拐されたとか思ってる? ここで監禁されてるとか」
言われてはじめてその可能性に気付いたが、驚くより前に少女が吐き捨てるように言った。
「この調子やとお父さんは私のことは黙ってるねんな」
ああ、娘だ。
(続)
