試し読み「紋次郎の家」
紋次郎の最初の記憶は揺れている。
嫌な匂いがして気分が悪い。おなかの中から何かがせりあがってきて、紋次郎は咳き込む。今朝食べたお肉の匂いがするものを口から吐き出す。気分が悪い。
「うわあ、もんちゃんが吐いたわ。あんたもうちょっと優しく運転できへんの」
声が聴こえる。ついさっき現れて、紋次郎を抱っこして、そのままここに連れてきた人だ。気分が悪くてよくわからない。紋次郎はまた吐く。
「わあ、またやわ。段ボールのなかがびちょびちょよ。もんちゃん、大丈夫?」
その声の人は紋次郎が入っている箱に手を入れて、紋次郎の口元を拭いたりしてくれる。口の周りのべとべとは取れたけれど、気持ち悪さは消えない。とにかく揺れている。
「そんなん言われても、道路ががたがたなんよ。っていうかお母さん、もんちゃんってなんなん」
前の方から声がする。紋次郎の口を拭きながら声の主が答える。
「この子の名前。紋次郎にするわ」「えらい渋い名前やね」「柴犬やし、きりっとしてるやろ。木枯らし紋次郎って感じやんか」「そうか? まだきりっとはしてへんで、ころんころんでまんまるやんか」「これからキリッとするんよ」
紋次郎は、自分が「紋次郎」と呼ばれるようになることは、まだ認識できていない。とにかく揺れている。気持ち悪さはおさまって、ぐったりとする。いつしか意識が途絶える。
「紋次郎、ついたで」
起きたらもう揺れていない。さっき、前のほうから聴こえていた声と同じ声が、そういって、段ボールごと紋次郎を持ち上げて、地面に置いた。そこから紋次郎を抱っこする。
「まだ口元汚れてるやん、ごめんな、気持ち悪かったな」
ごしごしと口元を拭かれる。紋次郎は目を閉じる。外のにおいが、今までと違う。土の匂いと、木の匂いが強い。また目を開くと、大きな建物が見えている。
さっきまで近くにいた、お父さんやお母さんや、弟たちはどこにいるんだろう。紋次郎はまたタオルでわちゃわちゃと顔を拭かれながら、ぼんやりと思う。家族の匂いはどこからもしなかった。
「かわいいなあ」
また声がする。声は何度も何度もかわいい、と連呼している。かわいいとはなんだろうと紋次郎は思っているが、これからずっと言われ続けてすぐに慣れることになる言葉だ。
「これからうちらの家族やな、よろしくやで」
いつのまにか玄関に降ろされる。足下にはふわふわしたものが敷かれていて、紋次郎は少し気持ちがよくなる。くるくると回って、ころんと横になる。「かわいいなあ」という声を聴きながら、いつしか記憶は途絶える。
紋次郎は、まずは自分が紋次郎と呼ばれていることを覚えた。そこから、その家でのルールを少しずつ覚えていった。紋次郎は玄関に寝かされたが、いつでも自由に家のなかに入ることができた。玄関から家に入るには、ちょっと段が高くなっているから、最初は大変だったが、少し大きくなるとすぐ登れるようになった。玄関には、紐のついた何かが置かれていたので、最初の方は楽しくて引っ張って遊んでいたら、「紋次郎、あかんて、靴のひも、噛まんとって」と叱られて、その「くつ」は片付けられてしまった。そこから紋次郎は靴を噛まなくなる。
家にあがれるようになってから、家の中で粗相をすると、お母さんと呼ばれている人にひどく叱られた。だから、してはいけないんだと覚えた。おしっこがしたくなったら、家の扉をがりがりとひっかくか、誰かの近くに行ってじっとみていると、扉を開けてくれるので、外に出ておしっこをすればいいことも覚えた。大きい方は最初から家でしたい気分にはなぜかならなかった。土のにおいがしないとできないからだった。
庭は紋次郎には十分な広さで、最初はそこを走り回って、紋次郎の匂いをつけることに夢中になった。庭はほとんどは土で、たくさん草が生えていた。紋次郎がかじりたくなる草もあったので、常々かじったり、おしっこをかけたりしていたら、年々、草は減っていった。小ぶりの松の木だけが、それでもしっかりと生えていた。
家にはお母さんと呼ばれている人と、あやこと呼ばれている人がいた。あやこは、最初の記憶で前のほうにいた人だ。あの時に乗っていたのが「車」だというのも紋次郎は覚えたが、そのあとも、緑の台に載せられて痛いことをされる場所に連れて行かれる時に乗せられたりしたから、紋次郎は車が嫌いだ。その場所は病院と言っていたが、そこも嫌いだ。
もうひとり「おばあちゃん」と呼ばれている人が、一階の奥の部屋にいる。その人は部屋から出ることはほとんどない。玄関にいる時からその部屋の匂いは強かったが、その匂いが気に入って、紋次郎はその部屋にいくことが多かった。おばあちゃんは紋次郎には何も言わず、にこにこしている。紋次郎はおばあちゃんが好きだ。
そんなふうに過ごしていたら、いつのまにか紋次郎は大きくなっている。不安定だった身体が、なんだかどっしりと安定した感じが、紋次郎にもわかる。
「ほら。紋次郎、って顔になったやろ」
ある時お母さんが、玄関で座り込んで紋次郎の頭を撫でながらそう言った。綾子も横でうなずいている。横から紋次郎の背を撫でながら。
「ほんまやなあ、渋くてええ顔になったわ。かっこええな、紋次郎」
両方から撫でられて、紋次郎は気分が良い。つい尻尾を振ってしまう。
家の間取りも少しずつ覚えていった。一階におばあちゃんの部屋とお母さんの部屋、あとは美味しいにおいがふんだんにする部屋がある。キッチンと呼ばれている。美味しい匂いの部屋で匂いがある時に尻尾を振っていたら、お母さんが「しょうがないなあ」といって、何かくれる時がある。とても美味しいものの時もあるし、ただのはっぱのときもある。お腹がすいたらとりあえず食べることにしている。そこでは時間が合えば、綾子とお母さんは一緒に晩御飯を食べているが、お母さん一人で食べることが多い。紋次郎はお母さんの足下にいつもスタンバイし、お母さんの足を見ながら、寝そべっている。ご飯をもらいたい時はおねだりしないといけないのに、忘れて眠ってしまう時も多い。
お母さんは自分のご飯を食べる前に、おばあちゃんの部屋で、おばあちゃんの口にご飯を入れる。紋次郎はおばあちゃんが好きだから、おばあちゃんのベッドの下に寝転んで、いつもその様子を見守っている。下から見上げるおばあちゃんは、いつもニコニコしているが、お母さんはいつも機嫌が悪い。おばあちゃんの食べているものを紋次郎が欲しがると、お母さんにだいたい、ダメ、これはとろみがついてるから、と、叱られる。
一階にはトイレも風呂場もあった。風呂場は紋次郎にとっては地獄の入口だ。最初はわからなくて、抱っこされてそのまま入ってしまったら、熱いお湯をかけられ、泡でごしごしと洗われた。うっかり耳元にお湯をかけられると耳が一時期聴こえづらいしすごく不快だ。風呂から出て体が濡れていて気持ちが悪いので体を震わせると、「うわあ、今ブルブルしたらあかん」と、お母さんと綾子におさえられる。逃げて体を振って水分を取ろうとするが、綾子とお母さんで二人がかりで追いかけられて、捕まえられて、布でぐるぐるまきにされ、そのあとに熱風をかけられる。不愉快極まりない。でも、身体が乾いたら、なんとなく清々しく、自分の匂いが清潔になったのも感じる。それでも毎回、お風呂と聞くだけで逃げ回るので、毎回お母さんと綾子の二人がかりで紋次郎を捕まえられてお風呂に入れられる。一大イベントだ。紋次郎は毎回逃げながらも、綾子とお母さんが構ってくれるので、ちょっとだけ、楽しい。
そんな一階から階段を上がると、二階には綾子の部屋がある。階段は、小さい頃はなかなか上がれず、今度は上がれても降りるのが怖くて、戸惑っていたらお母さんに笑われた。ある時えいっと降りたらコツをつかめて、そこからはいつでも好きな時に上がったり降りたりしている。綾子の部屋は物が多い。綾子が「まんが」と言っているものが散乱していたり、布の服が落ちていたりする。
普段は、玄関先の自分のベッド、と言われるふわふわの敷物の上で寝ている紋次郎だが、冬だけは二階に上がって、綾子の布団で寝るのが習慣になった。お母さんは入れてくれないが、綾子だけは布団の中に紋次郎を入れてくれた。綾子の部屋に来て、寝ている綾子の布団をツンツンとすると、綾子は起き上がって、布団を持ち上げて「どうぞ」と言ってくれる。紋次郎はもぞもぞと布団に潜り込む。
「あんたはほんま冬にだけ、ここにくるなあ。普段はツンデレやのに。調子のええ犬やわ」
綾子は笑いながらそんなことを言って、時々は紋次郎をぎゅっとしながら眠りにつく。でも綾子が寝てしまうと、寝相の悪い綾子に足で蹴られたりする時があるので、仕方なく布団の外に出る時もある。そんな時は布団の横で寝そべった。それでも暖かかった。紋次郎は二階が大好きになった。
