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冒頭試し読み「北斎幽女」筒井透子

 退屈だ。とても退屈。
 蔵には高い位置に窓がついていて、昼の日差しが降ってくるけれどなかなか床までは届かない。でも薄い線となった光のなかに埃が舞い、青磁の壺の周りをくるくると待ってから、きらきらとわたしのそばに舞い降りる。綺麗だ。だけど、わたしはひとつ咳き込む。薄い紫の、気に入っている絹の着物にも埃が留まる。また、お辰に頼んで、掃除してもらおう。
 ここにいるのが一番落ち着く。この忘れられた蔵には、お義父様が収蔵したものがたくさん収められている。壺、巻物、螺鈿の箱、鮮やかな色彩の甲冑もある。この甲冑はきっと戦には出ていない、飾りとして買われたものだ。刀も無造作に置かれている。美しい刀だけれど、触るのは怖い。
 お義父様がわたしにこの場所を教えてくれた。屋敷でぽつんと一人で菓子を食べていたわたしを誘って、この蔵に連れてきてくれたのだ。
「次郎左衛門はこういうのに疎うてな。ちっとも感心してくれん。金がなくなるからほどほどにしろと言いやがる。つまらん男に育ててもうたわ」
 お義父様は、わたしがここに輿入れした時はもう頭に白いものが目立って、歯も何本かなかったけれど、背筋はぴんと張っていた。商売人が文字通り殺し合いをするような大坂の街で、呉服屋の大黒屋、その五代目新右衛門といえば知らぬものはない。御維新が過ぎて世の中が大きく変わっても、ご老体はぴくりともせず、お店たなを支えた。しかし、わたしの輿入れとともに隠居した。
「お桐さんはどうかな、こういうのは好きか?」
 退屈で死にそうになっていたわたしは、大きくうなずいた。
 お義父様はわたしと二人なのを意識してか、少し鼻の下をこすって落ち着かなさそうに立っていたが、わたしが青磁の壺や、木の彫り物で作られた煌びやかな鳥など見て、だんだんと身を乗り出していくと、得意そうになってたくさん解説してくれた。これはな、清国から買い付けた壺や。こんな綺麗な青、見たことあらへんやろ。こちらの鳥は鳳凰や。これも清国から買い付けた。わしはな、もう隠居したから、これからは商売は息子に任せてな、こういう綺麗な、価値のあるもんを集めて過ごしたいんや。あ、そや。
 途切れなく話し続けながら、お義父様は奥へとわたしを誘った。奥の方には壁際に五段ほどの棚がしつらえてあり、そこに一つ、縦に長い木箱が置かれていた。
「おまえさんとおんなじ、桐や」そう笑いながら一つ手に取って蓋を開ける。掛け軸が入っていた。巻きつけられた紐をほどき、お義父様はそれをすとんと落とした。
 そこには美人が立っていた。しどけなく、でも凛として。
「北斎や。肉筆を手に入れたんや」
 肉筆つうのはな、刷って印刷して大量に出回ってる浮世絵とは違って、一点ものや。どや、すごいやろ。
 わたしは鼻息の荒いお義父様の声は聞こえなかった。なんて美しいひと
なんだろう。顎から首につながる繊細な線が、着物の襟のなかに溶け込んでいく。うなじの白い輝きが見えるようだ。
 わたしが絵に見惚れているのに気づいたのか、お義父様は満足そうにほほえんだ。
「お桐さんは、美人画から抜け出たみたいやなあ」
 掛け軸を、壁の隙間に無造作にかけて、お義父様はわたしに少しずつ近寄ってくる。着物の襟元を優しく指でつまんで、少し下にずらす。わたしの肌が顕になる。わたしは絵を見続ける、いまのわたしと鏡合わせのようになっているあの美人画を。
 わたしのうなじに、お義父様が唇を這わせた。
 お義父様は、わたしを可愛がり過ぎて、その一年後に亡くなった。わたしには蔵が遺された。誰も来ないこの蔵が、わたしの居場所だ。
 奥まで歩を進めると、掛け軸がかかったままになっている。鏡合わせの美人がわたしをじっと見ている。ずっと掛けたままでいたから、少し色褪せてしまっていた。
「今日も、退屈やね」
 彼女は答えない。そんな彼女を巻いて紐でくるんで、わたしは桐の箱にしまった。

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