冒頭試し読み「群青の余生」筒井透子
目の前には茶畑の絵が置かれていた。
夕暮れ時の橙色の空の下、広がるのは段になっている緑の茶畑。その油絵は、美賀子には見慣れない白い板状のものに描かれて、木の棒で組まれた台に載せられていた。
絵は、美賀子と対峙している若者の、その横に置かれている。美賀子は目線を茶畑から若者に戻す。畳の上に平伏している若者の着物の袖は少し汚れていて、それは絵具の汚れではなく泥の汚れに見えた。ふっくらした光沢のある座布団に座すその若者は、いつもは美賀子の部屋には訪れない類の来訪者だった。
何か感想を言わねば。美賀子がわざわざ彼を呼んで、絵を見せてもらっているのだから。しかし美賀子には絵の価値はわからなかった。
美賀子の夫はいつも出かけていて、絵を書いたり、ホトグラフを撮ったりしている。前に見た夫の絵に比べると、その絵の色遣いは少し明るすぎ、深みが足りないように見えた。しかし逆を言えば、濁りが感じられない素直な色にも見えた。好ましかった。
「これは、ホトグラフのようですね」
ふと思ったことを言ってみる。若者は顔を上げた。
「なんて言ったらいいのかしら、絵は平らですけど、そこにある景色を見るかのような気がします」
「これは西洋の遠近法という技法を用いております。遠くのものを小さく、近くのものを大きく描くことで、奥行きを出す技法にございます。これにより、景色を見たままに描くことができますゆえ、現を写しとるホトグラフに近づいておるかと思います」
急に話し始めた若者を美賀子は見据えた。まだ十代半ばだろう、この年代の若者は月代を剃ったりはしない。黒々とした頭に切りそろえられた前髪は、若者の目の力を強調していた。好きなものを話すときには急に力強くなるところは、夫によく似ている。
「それは、夫から聞いたのですか」
「そうでございます」
美賀子は絵から離れ、その若者の前に、打掛を払って座り直した。横に女中の加世がいる。先ほど美賀子と客人にお茶を置き、そのまま横に控えている。
「さて、辰巳とやら。美しい、良い絵を描きますね」
「恐悦至極に存じます。辰巳彦五郎と申します。御台様におかれましては、お初にお目にかかります」
「そう、固くならないでいただけますか。それに、私が御台所でなくなって、十年以上経ちますよ」
緊張をほぐすつもりであえて軽く言ったが、若者はますます平伏してしまう。美賀子はこのような感覚にはもう慣れていた。自分は最後の将軍、徳川慶喜の御台所だ。皆が一目置いて、距離をとるのは、仕方がないこと。
「夫から絵の指南を受けていると聞きました」
好きなことなら話すのではないか、そう思い水を向けたところ、果たして彦五郎は話しはじめた。
「はい、もともとはこちらで慶喜様の馬のお世話を仰せつかり、慶喜様に付き従うことが多いのですが、そこで慶喜様から、絵を描いてみないかとお誘いいただき、恐れ多くも筆を持たせていただきました。そこから慶喜様が筆や絵具などを貸して下さるようになりまして、時折、共に描かせていただいております」
先日、夫が夜に美賀子の元にやってきた。久しぶりの逢瀬だった。いつもは閨の時にはほとんど話さないのに、その日は珍しく着物を整えて眠る前に夫は話し始めた。近頃絵を教えている若者がいること、絵の筋がいいこと。その話をする夫は朗らかで、いつも漂っている憂いがなかった。美賀子はその若者に会ってみようと、強く思ったのだった。
「お父様は幕臣だったそうですね、加世から聞いております」
「はい。ご維新ののち、駿河の地に徳川家と共に参りまして、今は茶の栽培を生業にしております」
彦五郎の父が昔武士だった名残が、こうやって平伏している彦五郎の立居振る舞いにも現れていた。簡素な着物を着ているが、しっかりした受け答えをする。
美賀子はもう一度目を遣って、茶畑の絵を見た。素直な絵。美賀子も夫と同じく、この若者に好感を持った。この若者に願いを託すことにして、美賀子は視線を彼に戻した。
「ところで今日は、あなたにお願いがあって呼びました」
彦五郎はさらに深く平伏した。用があって呼ばれたことには彼も気づいているようだった。
「なんでございましょうか」
「夫に聞いてほしいことがあります」
「慶喜様に?」
「鳥羽伏見の戦の時、一人で大坂城から出た理由を、聞いてほしいの」
(続)
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「群青の余生」あるいは「北斎幽女」に収録しています。
