試し読み「恋」
「ねえねえ、私いつもと違うでしょ?」
日差しが、何重にも阻まれた遮光仕様の窓を隔てて青く煌めき、エマの目の前の小さなグラスに反射する。エマは同僚のマリと向かい合って慌ただしく昼食を食べていた。緑や黄色の野菜がふんだんに使われたクリームパスタはこのおしゃれなカフェの定番メニューだ。昼からのミーティングのことを考えながら、マリのたわいもない話に耳を傾ける。
「違う? そうかなあ、なんか少し姿勢がいいような」
「最近話題の、ブラというものをつけてみたのよ。本当に、肩の凝りがましになる」
「そっか、マリは胸が大きいから、効果あるのかな。私は、なんだか窮屈そうで」
「エマも相当大きいから、多分楽になると思うよ。これまでこんなに重いものを自力で下げていたかと思うとね」
食後のコーヒーが運ばれてくる。エプロンをつけた店員の胸元をなんとなく見上げる。店員さんが去ってから、マリに言う。
「あの人くらい胸が小さいといいよね」
「そうだよねえ、本当に羨ましい」
ほぼ満席の店内を見渡しても、マリのようにブラをつけている人はいなさそうだった。みんな自然体で座っている。マリは髪を伸ばして後ろで一つに留めているが、周りの人はエマも含めて髪は肩の上あたりだ。それが一番楽だと前に主張したら「結んでしまったら伸ばしていた方が楽だよ。散髪行かなくていいし」と反論された。
「子どもを産むと母乳で余計膨らんで、大きな人は大変らしいよね」
「マリはいつ産むつもりなの? パートナーもいるからいつでもいいのかな」
マリは少し遠い目をする。将来を考えている人特有の顔つき。
「まだあまり考えてないけど、相方は仕事が嫌いらしいから、産んでも私が続けようかなって。相方に育ててもらって。エマは? やっぱり跡継ぎを産みなさいって圧はかかるんでしょ、社長の子だったら」
「うん、そろそろ適齢期って言われるんだけど、今仕事が面白くて、どうしようかなって」
「え、でもエマのところくらいお金あったら乳母さんもたくさん雇えるでしょ」
「産んだら少しの間、働けなくなるでしょ。今度ね、私が設計して建設しているところの現場を見せてもらいに行くの。やっと、自分が設計したものが形になってきたところだから、今は少しでも仕事は抜けたくないかな」
「そうだよねえ、でもさあ、子どもも産んだといっても、確率も二分の一だし、難しいよね。あ、そろそろ行こうか」
時計は十三時に近づいている。エマも慌ててコーヒーを飲み干す。
職場はビルの十階だ。百年以上前は、もっと高いビルも建っていたようだが、ドーム建設に伴い、ビルの高さは制限されている。巨大ドームで制約がある中で、それでも暮らしやすい建物を模索して、エマも日々設計をしている。納期も迫る。今日も残業になりそうだ。目が疲れて肩がこり、作業を進めながらエマは肩を回す。休憩がてら、ブラジャーについて検索をする。
「へえ、こんな形なんですね、ブラジャーって」
隣の席の後輩が覗き込んできた。肩こりにいいらしいよと話をしながら眺める。メッシュ素材で蒸れない、胸元の下の汗疹がなくなる、といったメリットが書かれていた。汗疹に悩んでいるエマは熟読してしまう。
すると画面に、一斉連絡のチャットが点滅する。後輩と一緒に画面を見ると、先輩のナミの休業に関する連絡だった。
休業期間短縮。半年で復帰。
「あ」
後輩が一瞬声を出してから、黙った。
「仕事に戻ろうか」
エマもあえてそう言って、また画面に向かうが、しばらくは図面が頭に入らない。
ナミは出産休暇中だった。半年で復帰とは、二分の一の確率に外れたことを指す。休暇に入る前、臨月のおなかで、少しふくよかになったナミは、まろやかな笑顔でみんなに挨拶をしていた。その顔が脳裏に浮かんで、エマはぎゅっと目をつぶった。
家に帰ると母がいた。母がいる時は、一緒に夕食を摂るのがならわしになっている。エマは暗い気分で食卓についた。母が何を言うか、だいたいわかった。
食卓には、料理人が作ってくれた料理が並ぶ。母もエマも料理はせず、料理のプロに任せている。肩までの髪を後ろできゅっと束ねた料理人は、母とエマにワインを注ぐと去っていった。沈黙が訪れる。
「ナミさんの通知は見た?」
やっぱりだ。エマは急に、今食べているローストビーフの味がしなくなった。少し無理して飲み込んでから、答える。
「見ました」
「家では敬語使わなくていいわよ」
「うん」
母はワインを一口飲む。いつもどおり、話す。
「ナミさんは男を産んだんだって」
母は、従業員の出産には慣れている。だから平然と言えるのだろうと思う。
「うん、そうだと思っていました」
敬語に戻ってしまう。
「男を産むとね、半年間は母乳で育てるけど、そのあとは教団に連れていかれるの」
「知っています」
「出生前に性別を診断できるようにしてほしいけれど、教団がそれを固く禁じているの」
「知っています」
エマは食べるのを諦めて、フォークを置いた。ナミの笑顔がちらつく。母をみると、厳しい顔でエマを見ていた。
「男も、産まないといけないの、でないと、最後には誰も産まれなくなってしまうから。それが、私たちの使命なの」
幼い頃から学校の授業でも何度も聞かされていることを、母がどうしてわざわざ言っているのか、答えは一つしかない。母は少し間を置いてから、言った。
「あなたには必ず女を産んでもらいます。そろそろ考えなさい、出産。もう二十五歳、若くはないのよ」
「でも。今建設中の、ドーム3のショッピングモール、見に行けることになったの。私が主体でデザインしたものが、やっと形になってきているの。社長ももちろん把握しているでしょう」
あえて、社長と言って反論する。
「視察は危ないけれど、あなたがどうしてもというから仕方なく認めたものです」
「話を逸らさないでください。今、仕事がすごく面白いの。私はそういうことが言いたいの。今は産む時じゃないの」
「子育ては乳母に任せたらいいんだから」
「少しでも休みたくないの。働く人間としてちゃんと私を見てほしい」
そのあともエマは、今の仕事がいかに充実しているかを話し続けた。しかし母は黙々と食事を進めるのみで、一度も顔を上げない。そしてエマより先に食べ終わって、フォークを置いた。ごちそうさま、と言ったあと、母は冷たい声で付け足す。
「カタログ、手配しておきますから」
エマはひとり残って、涙を浮かべて食事を摂った。美味しいはずのメニューに味がしない。いつもそうだ。母には何も通じない。母だって駆け出しの頃はあったはずなのに。しかし、エマはただの社員ではない。跡継ぎだった。
