試し読み「雨のカモシカ走り」
雨だ。突然ばたばたばた、と激しい音を立ててフロントガラスを叩いた雨は、ワイパーを最速にしても、ワイパーが左に寄った隙を大きな丸い粒で埋め、逆も然り、つまり前なんか見えない。まだ青かった空が前から急にどす黒く変わっていく。達郎はイラつく。なんやねん、この雲は俺についてきてるんか。バケツひっくり返したみたいな雨やないか。でも達郎は思い直すことにした。雨はチャンスや。人通りが減るし、歩くのが大変になればなるほどターゲットはゲットしやすいはず。それにしても事故りそうや、気をつけやんと。生来の真面目さが出て、達郎はスピードを少し落とした。車も実家のトヨタだ。
一本道だった。視界の右側の上を高架が走っている。その高速道路からは大阪湾が見えるはずだが、下道からはでかい柱しか見えない。前には誰も歩いていなかった。急に暗くなった空が達郎の視野を狭める。
ちらりと、左に赤いものが見えた。視線を向けると赤い傘だった。その次に視界に入ったのは、膝丈スカートから伸びる脚、きゅっと締まった足首。
カモシカみたいな脚の女や。
葛西さんは言うてはった。それや。カモシカみたいな脚ってどんなんかわからんけど、きっとあれや。あの脚や。低いヒールを履いて危なげに路肩を歩くその女は、葛西の注文にぴったりに思えた。トレンチコートを羽織り、背中から上は傘ですっぽり隠れている。車が近づくにつれ女の解像度が上がっていく。女は傘を両手でぎゅっと持って、雨に耐えて歩いている。
左に車を寄せていく。女の横まであと数メートル。女を少しだけ追い抜いて車を止めた。助手席側の窓を開ける。
えっと、どう言ったらええんやろ。はじめてで、ようわからん。
「乗って行きますか?」
女は立ち止まった。傘を前に持ち、吹き荒ぶ風に髪が踊り、達郎からは女の顔は見えなかった。
「え? なんて?」
「乗って行きますか?」
女の声がでかかったので、雨に負けじと達郎も大声を出した。
「え、乗ってええんですか? ほんま?」
あれ、なんか、思ってたんと違う、と思った瞬間、女は助手席のドアを勢いよく開けた。
「助かりますわー! ありがとう」
濡れた髪がはりついて水浸しのその顔には、皺が大量にあった。マスカラが剥げたのか目の下がどす黒い。目が小さく鼻が横に大きいその女は濃い赤に塗った唇をにっかりと開いた。どうやら笑ったらしい。そのままよっこいしょ、と声がして助手席の椅子に女の尻がどんと乗った。そのまま、赤い傘を外に出してぱたぱたと振って畳んでいる。達郎が止めるまもなく、女はそのカモシカみたいな脚をぎゅっと車の中に押し込め、自分で助手席のドアを閉めた。
「ありがとうなー、ほな、最寄り駅までおねがいしよかな」
女はタクシーに乗ったかのように言った。
