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試し読み「芭蕉と私の推し活」

 卵を割っていたら、雪美の声がした。
「最近さ、おじいちゃん、ずっと喋ってるよね」
 綺麗な色の黄身がボウルに流れこむ。少し醤油を足し、軽くかき混ぜながら返事をする。
「そうなんよ、いつも喋ってるんよ」
「お母さんも気づいてた? そりゃ気づくか」
 雪美は化粧を終えて黒々とした睫毛を向けて、私の料理の手元を覗き込んでいる。
「ずっとぶつぶつ言ってる。私らのことは覚えてへんのになあ」
 大学の帰りに寄れるとき、雪美は義父のいる老人ホームに顔を出してくれていた。
 義父は、面会に行っても、一人でぶつぶつと話をしている。何を言っているのかわからないし、問いかけても返事はない。
 卵をフライパンに流し入れながら、雪美に愚痴ってしまう。
「話、聞き取られへん。何を言っているか全然わからん。シラカワって言うてた時はあったけど。白川さんって知り合いおるんかなあ」
 雪美が首を傾げたのが感じ取れた。
「なんか、旅をしてるんちゃうかなって、思ってるねんけど」
「旅?」
「地名が聞こえるねんな。前は松島って言ってたし、昨日は平泉って」
「松島? 平泉?」
「うん、有名どころやし、おじいちゃん行ったことあるんかなあ」
 旅、ねえ。そんなことを言いながら卵焼きを弁当箱に入れていたら、あ、時間や、ほないってきまーす、と、雪美の声が遠ざかる。
「あいつ、朝早いな」
 いつのまにかソファに座ってネクタイを締めている夫に、お弁当箱を渡した。夫は私を見ないまま、「さんきゅ」と受け取る。
 朝から行ってちゃんと授業に出ないと単位もらわれへんらしいよ、私がそう言うと、大学生も大変やな、俺らと一緒や、とのんびり言いながら、夫は立ち上がる。
 その背中に聞いてみる。
「なあ、お義父とうさんって、松島に行ったことあるかな?」
「親父が松島? って、あの松島? どこやっけ」
「えっと、東北? 仙台?」
「さあ、出張くらいはしたんかもな。親父も仕事人間やったし。家族旅行で行った記憶はないけど。なんで?」
「うん、いや、別に」
 もごもご言っていたら、夫は靴を履いて出かけていった。
 いつものように、一人になった。
 ソファに座って、朝は時間がわかるようにいつも同じチャンネルに合わせているテレビを、ぼんやり見る。見たことのあるホテルの入り口が映って、私は少し前のめりになる。ああ、こないだ明子と美穂と行ったところだ。アフタヌーンティーをいただいた。その時は、明子の課長昇進祝いだった。
「すごいな、明子は二回も育休取ってて課長やもんなあ」
「同期の男の人と比べたらだいぶ遅れてるし、ほんまはやりたくないんよ」
 二人はそんな会話をしていて、私もすごいよね、と相槌をうちながら、三段重ねの洒落たプレートに小さく綺麗に盛り付けられたデザートの数々をどう食べようか、フォークでいくのか手でつまんでしまうのか、内心困っていたのだった。さっきまでこのアフタヌーンティーセット一人前でお米は何キロ買えるのか、などと心の中で暗算していたから、二人の話があまり頭に入ってきていない。明子は大手企業の課長、美穂は社会保険労務士事務所を経営しているから、二人ともこういう贅沢に躊躇がない。
「そうやん、芳美んとこも、咲恵ちゃん就職したんやったよね? 雪美ちゃんはまだ大学生やっけ?」
 美穂が思い出したように水をむけてくれて、私は少し近況を報告する。
「うん、東京で就職して一人暮らししてる」
 会社名を言ったら、二人はおおお、と感嘆した。誰もが知っている社名だった。
「すごいなあ。咲恵ちゃんはちっちゃい時からしっかりしてたもんねえ」
「遊びに行ったらずっと敬語やったもんな、こーんなにちっちゃい時から」
 美穂がテーブルくらいの高さを示し、「そうそう」と明子が笑う。
「そうなんよ、私の子とは思われへん」
 私も笑いながら同調する。何度も言っている話だ。
 明子も美穂も大学のバトミントンサークルからのつきあいだ。私の結婚式にも出てくれて、子どもたちとも何度も会ってくれている。
 雪美の近況も伝えると、まだ子どもが小さい明子はため息をつく。
「いいなあ、手が離れてて。うちの子は二人とも小学生やし。今日は旦那に預けてやっと出てこれたんよ」
 そこからは子育てと仕事との両立の話で二人は熱心に話し込み始める。私は少し口角をあげて話を聞きながら、小さなマンゴーのデザートと悪戦苦闘した。
「この季節はメロンをふんだんに使ったアフタヌーンティーが食べられます」
 テレビのレポーターが声を張り上げて、私はまたテレビを見る。マンゴー推しは終わったんだ、と思っていたら、洗濯機から音がした。畳まなければ。
 よっこいしょ、声に出しながら重い腰を上げる。

 老人ホーム「たらちね」は家から車で十分の距離だ。二十年ものの軽自動車を運転して施設の駐車場に入る。エレベーターを三階で降りて義父のいる四人部屋に行く。
 カーテンを開くと、既に義父がベッドに寝転んだままぶつぶつ呟いていた。
 ずっと黙っていた義父が突然話し始めた時にも私はここにいた。私たちのことを思い出したんだと思った。
「お義父さん? わかりますか?」
 何度か話しかけたけれど義父は私を見ない。ずっと遠くを見たまま、何かぶつぶつと話す。懸命に話を聞こうとしたが、何を言っているのかわからない。もごもごと聞き取りづらく、義父はコテコテの関西弁のはずなのにどこか違う場所の方言に聞こえ、話が像を結ばないのだ。でもなんとなく、困っているような雰囲気は伝わってきた。
「お義父さん、何か困ってるんですか?」
「ごひゃくたび」
 そう聞こえた。
「五百?」
 聞いてみたけれど、義父はどこか遠くを恍惚とした目で見ているだけだった。
「あー、黒川さんきてくれてはったんですね。いつもありがとうございますー」
 義父の介護担当チーフの的場さんがカーテンを開き、元気な声で話しかけてきた。
 私と同い年くらい、五十代前半だろう。小柄だけど声がよく通る女性で、いつもキビキビと部下に指示をしていて頼もしい。
「こちらこそ。厚手のパジャマ持ってきましたので、着替えさせてあげてください」
「ありがとうございます。そろそろ秋と思ったら、最近はあっという間に冬ですもんねえ」
 そんな会話をしていても、義父はぶつぶつと話し続けていた。
 的場さんは、またですね、といつもの調子だ。
「どっかにいっちゃってるんでしょうね」
 言ってから的場さんは「あ、そんなつもりじゃなくて」と大袈裟に手を横に振った。
「すみません、言い方失礼でしたね。違うんです、ここにいながら違うところにいるみたいな感じなんです。なんか、楽しそうですし」
 今朝の雪美の話も思い出す。私はもう一度、義父に話しかけてみる。
「お義父さん、旅に出てるんですか?」


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