冒頭試し読み「いつか、あの日のスウィングを」筒井透子
序
レコードの針が上がり、ジーッという音が消えた。
寝息を立てているマスターを起こさないように、みどりは引き戸を静かに開けて、部屋を出た。階段を降りて、一階の喫茶店の扉をあけた。扉に吊り下げられた小さな鐘がカランカランと鳴らないように、静かに。
外に出た。目の前の街灯はまだ倒れたままだ。月の灯りしかないけれど、明るい。慣れた道を歩く。
マスターが眠るまで聴いていた曲を、いつのまにか口ずさんでいた。英語の歌詞はわからないけれど、空を見上げて歩きながら、歌う。スターダスト。
今夜は晴れていて星屑がよく見える。
マスターは、みどりが横にいないと眠れない。布団に入って必ずみどりを呼ぶ。みどりが布団に潜り込むと、マスターは震えながらみどりを抱きしめて、すると少しずつ震えがおさまって、やっと眠る。終戦から二年が経ったが、夜になるとマスターはいつもそうだった。
今日も、眠るまで見届けた。
そこから、みどりは自分の家に向かう。
ずっとみどりが住んでいた家の玄関は朽ちていた。爆撃で断片だけ残った家には、もう住めない。一部屋だけ残った部屋がある。そこにはピアノがあった。みどりが小さい頃から弾いていたアップライトピアノ。空襲で、その部屋だけが焼け残った。そのピアノに会いに、みどりは時々家に戻っていた。喫茶店から、歩いて十分の距離だ。
遠くから、ピアノの音がしていた。みどりは一瞬だけ立ち止まる。
小走りになった。
誰かが、私のピアノを弾いてる。
近づくと音がはっきりする。メロディだけが聴こえてきた。その曲がみどりのなかで像を結ぶ。マスターがよく聴いている曲だ。題名が思い出せない。
朽ちた玄関を走り抜け、空が見える廊下を通って、みどりはその部屋の扉を開いた。
男が一人、ピアノの前に座っていた。左手は動かず、右手が曲を形作る。男はみどりに背中を向けていたが、誰かが入ってきたことに気づいて、ぱっと振り向いた。窓からの月が、男に影を作り、顔はよく見えなかった。
「ここ、私の家」
みどりは、震えながら言った。
「住まれへんけど、私の家」
何度も同じことを繰り返す。男はしばらくぼうっとみどりを見てから、立ち上がった。
「ごめんなさい」
出て行こうとする男の背中にみどりは聞いていた。
「今の曲、題名、なんやったっけ」
男は立ち止まる。
「わからないんです。知っているなら教えて欲しい」
「わからん曲やのに弾けるん?」
「一度、聴いたことがあるから」
男はうつむいていて表情は見えない。立ち去りがたく見えた男に、みどりはあえて明るく、話し続けた。
「聴いたら弾けるんや、すごいね。ピアノもずっとやってるん?」
「うん、小さい頃」
男はみどりと話しながら、ピアノに目を向けていた。
「このあたりを前歩いてたら、ピアノの音がしたから、ピアノ、あるんかな、って。勝手に入って、すみません」
ここでピアノを弾くのはみどりだけだった。拙い演奏が聴かれていたのかと恥ずかしくなる。でも、みどりはいつのまにかこう言っていた。
「ええよ、いくらでも弾いて」
この人はピアノを必要としている、そう思った。
「ありがとうございます」
ほんの少し月明かりがさしたような顔になって、礼を言う男に、私は近くの喫茶店におるから、とだけ言って、みどりは家を出た。
歩きながら、今度はさっきの男が弾いていた曲を歌ってみる。
ドゥワ、ドゥワ、ドゥワ、ドゥワ……
あんなに、悲しい曲じゃなかったはずだけどな。
