冒頭試し読み「幽暗格子」
筒井透子時代小説作品集「北斎幽女」に収録している作品の冒頭試し読みです。
綿をちぎると、手に色が付く。小さくちぎった臙脂綿を少しの湯に浸し、絞っていく。湯のなかに臙脂色がひろがっていく。わたしはこの色が好きだ。親父殿は青が好きだったから、あまり使われなかった臙脂綿は少しだけわたしの手元に残った。また綿を絞る。
「姉上」
気づいたらすぐ横に弟が立っている。わたしは驚いて身を引いた。
「姉上、何度呼んだら気がついてくれるんですか」
「今、臙脂色を作ってるんだ。なんだい」
作業の手を止めず顔も見ずに言う。弟は邪険にされることに慣れていないから、憮然としたままわたしの横に立ち続けているが、しばらくそのまま臙脂綿を絞っていたら、やっと、大きなため息をついた。血の繋がった姉弟とはいえ、養子に出され侍になった弟とはほとんど一緒に暮らした記憶もないから、わたしもどう接していいのかわからない。黙ってずっと臙脂色の綿を絞り続ける。
「いつもは墨で真っ黒ですけど、今日は血塗れみたいななりではないですか。着物にも赤が散っていますよ。髪もぼさぼさですし、みっともない」
「血の色じゃないよ、臙脂だ、深みのある綺麗な色だよ」
「どっちでもいいですよ。姉上のために離れを明け渡して良かった。そんな汚いなりで家のなかをうろつかれたらたまったもんじゃない」
確かに、女中が住んでいた離れをわたしにあてがってくれたのは、ありがたくは思っている。土間が一間と畳敷が一間。弟は大きな体で畳に座ろうと思ったようで、畳敷の部屋に散ってある紙を手に取った。わたしは叫ぶ。
「触らないでおくれよ、何度もいってるだろう、使う下絵と捨てる下絵があるんだよ」
弟はわたしが描いた下絵をつまらなさそうに見てから、また床に放った。紙は柔らかい軌跡を描いて、わたしの下絵の山にふわっと降りた。
「もう、畳まで墨が散っているじゃないですか。張り替えなければ」
「どうせすぐ汚すよ。なんだい。忙しいあんたがわざわざ来るんだ。用があるんだろ」
弟は黙る。わたしには威厳をもった態度で接しようとしているが、結局、言いにくいことがあれば黙ってしまうのが弟の気が弱いところだ。妻に対しても似たような態度をとっている。わたしは自分で口火を切った。こちらから言って、さっさと帰ってもらおう。
「あの女中だったらこっぴどく叱ったよ。この貴重な臙脂綿を捨てようとしたんでね。親父殿が残したものを大事に使ってるんだよ。また間違って捨てられちゃたまんないからね、今こうやって絞って煮詰めて固めて、あとで使えるようにしてるんだ」
絞りかすになっている臙脂綿を手に取って弟の前にかざした。真正面に見る弟は、ますます親父殿に鼻筋が似てきていた。腹違いとはいえ、やはり姉弟だ。
「そんなものは、血のついた布にしか見えませんからね。片付けない姉上が悪いんです」
弟はさらに大袈裟に顔の前で手を振って鼻を覆ってみせる。
「ああもう、ここはいつもすごい臭いだ。食べ残しも放っておくのはやめてください。こっちは染料のつもりだか食べ残しだかわかりゃしないんだから」
嫌味な奴だ。もう弟を見るのをやめた。別の皿に湯を入れ、臙脂の綿をまた浸してから、絞る。その作業を繰り返す。
「女中は恐る恐る部屋に入ってね、仕方なくこの汚い部屋を掃除しているのですよ。姉上をここに置いている私が、どれだけ家で肩身が狭いかわかりませんか」
臙脂はお湯に浸して二回絞って、二つの液を合わせると、色が濃くなる。これから煮詰めなければいけないが、一旦蓋をする。
「聞いていますか。顔にも赤がつきましたよ。首筋にも。辻斬りでもしたあとみたいだ」
「へえ、辻斬り見たことあるんだったら、どんなだったか教えてよ。絵にするからさ」
「姉上は、本当に口が減らない人だな」
弟は吐き捨てるように言った。そうだよ、わたしは世話になっている弟にこんな口しかきけない女だ。そうだ、そういえば、この弟の奥方に、面白いことを言われたのだった。
「そうそう、女中に張り手しちまったあとに、本邸まで行ったんだ。そしたらあんたの奥方が、女中を励ましてる声が聞こえてさ。なんて言ってたと思う、『あのひと、お栄さんはね、北斎の幽霊なんだ』って。だから我慢してやってってさ」
弟は腕を組んで真顔になった。わたしは笑っている。血塗れの顔だから壮絶に見えるかもしれない。それこそ幽霊に。
「しかし、当たっているのではないですか。亡くなる前の父上の絵は、ほとんど姉上が描いたのではないかと、巷では噂になっていました」
わたしは一笑に伏してやった。
「なに言ってんだい、親父殿の絵なんか描けやしないさ」
「本当ですか」
弟があまりにまっすぐ見るものだからつい言ってしまう。
「最後の一筆は、本人が必ず手を入れたさ」
落款とかね、と言って笑ってやったが、弟は笑わない。
「北斎の落款も、そのまま書けるでしょう。父上の名義で絵を描けばどうです」
口が減らないわたしでも、黙った。弟は口を歪めて笑う。
「そうですよ、『北斎の未発表の作品がこんなにたくさん箪笥の中から出てきた』と言って、売り出してはどうです」
わたしは小さくなった臙脂綿を、もう一度きっちり絞った。濃い汁が出てきている。興奮した時に少し甲高くなる弟の声が、わたしの耳に不快に届く。
「そもそも、父上が亡くなってから、姉上は絵を描いているのですか。そんな、落書きみたいな、墨の絵ばかり。注文もこないし、うちにきてから一枚も完成させてやしないじゃないですか。そんな赤い布きれを後生大事に持っててどうするんです」
ぴしゃ。臙脂綿のかすを弟に投げた。顔に当たって慌てて払った綿は着物の肩に落ちて、地面に落ちていく。着流しとはいえ絹であろう立派な薄茶の着物に赤が飛び散る。
つい、乾いた笑いが口元から漏れた。
「はは、血の赤だ。辻斬りみたいだよ」
「なにをするのです!」
「自分の親父殿の作品の偽物を作れ、なんて平気で言える息子にはそれがお似合いさ。出て行きな」
かかった色と同じくらいに顔を真っ赤にし、怒りに身を任せて憤然と出ていく弟の背中に、密やかにわたしはつぶやく。
あんたは知らないだろう、親父殿の凄まじさを。
わたしは臙脂の液の蓋を開けて、様子を見る。一晩寝かせてから、小鍋に入れよう。煮詰めて固めたら、臙脂の顔料の完成だ。作ったらいつか使う時もあるだろう。
いや、あるだろうか。
わたしは畳敷の下絵をどけて自分の座る場所を作った。紙の束が散る。墨色だけの絵。
「あーあ、また喧嘩しちまったよ」
誰にともなく出した声は、天井に吸い取られる。弟に怒ってしまったのは、本当のことを言われたからだ。わたしは親父殿が死んでから、ちゃんとした絵を描けないでいる。
ごろりと転がる。寝る場所以外にはたくさんの紙が落ちて、畳には墨が付着している。親父殿が死んでわたしがここにきて、数年の間に随分と汚れた。親父殿が生きていた頃、片付けるのが面倒で九十回くらい家移りをしたけれど、こんなに広い家にいたことは一度もない。ずっと、手の届くところに親父殿がいた。寝そべっていたり、わたしと頭をぶつけながら絵を描いていたり、こたつに丸まっていたり、どこからか入ってきた野良猫の喉を撫でたりしていた。
いま、手を伸ばしても、ごろごろと転がっても、誰もいない。
寝転んで手を広げると紙の束に触れる。顔の上に広げる。先日、両国橋を描こうとした下絵だ。川の水を描こうとして、灰色と水色を混ぜて、ふと止まったのだった。両国橋は夕闇だった。水の色は何色だ。川に映る月の影、あれは何色だ。わからなくなった。何をどう塗ったら、ありのままの色になるんだ。川は月の黄色も夕闇の群青もぜんぶ吸い込んでそこにあった。太刀打ちできない。わたしが川面に落とした黄色はとても月の影には見えず、落書きのようだ。絵を丸めて放る。
水はだめだ。親父殿には描けてもわたしには描けない。
これまではわたしの絵と混じって散らかっていた親父殿の絵も、ここにはない。親父殿はわたしの絵には何も言わなかったし聞いても答えてもくれず、ただ黙って自分の絵を描き続けていただけだった。けれど、親父殿がいなくなってから、わたしのなかのあらゆる物差しが消えていた。
何を描いても、描けた気がしない。何を描いて、どう塗っていいのかわからない。
