見出し画像

おばちゃんと飴ちゃんとおかん

 朝の電車は始発駅なので、毎日座って出勤できている。毎朝の行列で3列目くらいにいれば、きびきびと動けば座ることができる。ありがたいことだ。7人が横一列で座る電車で、今日も俺はしっかり席を確保できた。
 席について電車が動き出したとたん、咳が止まらなくなった。カバンを探って水筒を取り出し、一口お茶を飲む。まだ咳き込む。喉がイガイガしている。こういう日に限ってのど飴を持っていないものだ。困った。ゲホ、ゲホ。
「飴ちゃん、いる?」
 隣から声がした。左を向くと、おばちゃんがカバンをごそごそしているところだった。「あったあった」と言いながらカバンから右手を出し、個包装されたのど飴を笑顔で差し出してくる。満面の笑みだ。そういや毎日同じ車両に乗っているおばちゃんだった。
「いやそんな、いいです」
 そう言いながら咳き込んでしまった。おばちゃんは笑って俺が平たく置いたカバンの上に容赦無くあめちゃんを置く。
「いつも入れてるからな、なめとき」
 ゲホ。仕方なく俺は飴ちゃんを口に入れた。個包装だから大丈夫だろう。いつしか咳は止まった。
 おばちゃんは左隣で眠りについた。

 その日は、電車から車窓をながめると、ぽつりぽつりと窓に雨粒があたり、それがだんだん激しくなっていった。しまった。傘を持っていない。俺はまたカバンを探ったが、折りたたみ傘も入っていなかった。カバンを閉じて、目も閉じる。駅前にコンビニがあったから傘を買うしかなさそうだ。
「傘、いる?」
 左隣から声がした。振り向くと、あの時のおばちゃんがまた自分のカバンを探していた。
「あ、あったあった、いつもいれてるから」
 おばちゃんはカバンから右手を出した。そこには紺色の無地の折り畳み傘が握られていた。おばちゃんは今日は豹柄のTシャツだったが、傘は超地味だった。ギャップがすごい。
 既視感に一瞬めまいがしたが、俺はさすがに手をぶんぶん振って断った。
「いや、そんな、いいですよ、そちらも必要でしょう」
 おばちゃんは、自分の左側にたてかけてある長い傘をふいと持ち上げた。
「長いの持ってきてるのに、カバンに入ってたんよ」
 満面の笑みだった。そう言って、俺のカバンの上に容赦無く傘をぽんと置いた。「遠慮せんとき」
「いやだからそんな」
「私も荷物が軽くなって助かるわ」
 おばちゃんは俺がおろおろするのもきかず、満面の笑みでそう言って目を閉じて眠りについてしまった。狸寝入りかと思ったら俺の肩にもたれてきたから、本当にすぐ寝たようだった。俺が先に降りるのだが、俺が降りる駅についてもおばちゃんは起きる気配がなかった。傘を置いて出ようか迷ったが、おばちゃんのスカートの上に置くのも憚られ、仕方なく傘を手に電車を降りた。
 紺色の傘は俺の手になじんだ。俺が持ってきたみたいだった。

 その日以降、俺はきっちり乾燥させて畳んだ紺色の折り畳み傘をカバンに入れて持ち歩くようになった。そんな時に限っておばちゃんにはなかなか会わないし、会っても隣の席には座れなかったりした。傘だけ渡して席についてもいいのだが、席取り合戦は一瞬で、おばちゃんに傘を渡す間に自分の席がなくなってしまう。
 ある日、やっと隣に座れたので、俺はいそいそとカバンから傘を出して、おばちゃんに返した。いつもと逆であった。
「これ、ありがとうございました。助かりました」
「ああ、忘れとったわ」
 おばちゃんは平然と傘を受け取り、カバンにゴソゴソと入れた。そこからまだカバンをゴソゴソとして、また何かを取り出した。
「弁当、いる?」
 それは巾着袋に包まれた、どう見ても弁当箱だった。その小さいカバンのどこに傘だの弁当だのが入るんだ、と俺は驚く。四次元ポケットか?
「いや、いりません、大丈夫です」
「たまたまふたつ作ったから、食べとき」
 なんでたまたま二つ作るのか。
「お昼、もってきてんの?」
 俺は独身一人暮らし、昼はいつも近所のコンビニで調達している。俺は首を横に振った。
「ほな、ええやんか。ほら」
 おばちゃんは俺のカバンの上にまた弁当を押し付け、そこから狸寝入りを決め込んだ。
 弁当は俺のカバンには入らず、俺は巾着をそのまま持ち込む羽目になった。
「なんやお前、弁当めずらしいやん、彼女でもできたんか」
 同僚に冷やかされたが、「知らんおばちゃんがくれた」とは言い出せず、俺は曖昧に笑って「節約しようと思って」とか言いながら、弁当を取り出した。曲げわっぱだった。
 中学の時におかんが持たせてくれた弁当が曲げわっぱで、なんだか年寄り臭い気がしたものだった。蓋を開けると、ご飯に梅干し、ブロッコリーを蒸したサラダ、肉の炒め物、漬物が入っている。炒め物を口にして、俺はうっかり泣きそうになった。おかんがいつもありあわせの野菜と牛肉の残りで作る炒め物と同じ味がしたのだ。
 お母さん。
 一瞬遠くを見つめてしまう。
 いや、これではおかんが死んだみたいではないか。俺のおかんは元気に生きている。電車で一時間の距離で暮らして、定年退職して家でだらだらいる父のことを愚痴りながら、近所のおばちゃんたちとエアロビ教室に通っている。超元気だ。
 どうしてそんなおかんを今ここで懐かしまねばならぬのか。意味がわからない。
 俺は弁当を完食した。

 その曲げわっぱは綺麗に洗って乾かして、俺は今度は紙袋を用意して巾着ごと入れた。朝は無理やり隣に座った。さっさと返してしまいたかった。紙袋をおばちゃんに渡して礼を言った。
「ああ、忘れてたわ」
 忘れるなよ、とさすがに脳内でつっこんだ。
 おばちゃんは器用に巾着ごと小さなカバンに弁当を片付けた。四次元ポケットか?と思ったら、またごそごそしはじめた。
「いやもうなにもいりませんから」
 俺は言った。おばちゃんが取り出したのはスマホだった。じっと画面を見始めた。なんだ、さすがにもう何もないな、よかった。そう思って俺は目を閉じた。少し眠ろう。これで縁が切れるだろう。
「なあ、あんた、彼女いてる?」
 おばちゃんの声がして俺は目をひらいた。おばちゃんは満面の笑みで俺を見ている。
 いや、なんだこれは、最近のおばちゃんはこうやって男に迫るのか? 新手のストーカーなのか? 飴ちゃんから始まる恋? いやいやいや。おばちゃんをじっと見たがいやいや、無理である。どう見ても母と同年代だ。
「なあ、いてるの、いてへんの」
 俺が黙っていたらたたみかけられた。俺は脊髄反射でつい返事した。
「いません」
 大学でつきあっていた彼女に振られて以来、いない歴3年だ。放っておいてくれ。
「ほな、彼女、いる?」
 ん? 言葉の意味をはかりかねていると、おばちゃんはスマホをまたいじりはじめた。
「あらま、消えてもうたわ。うちの会社の新人の女の子が、彼氏欲しがってるんやけどな」
 あ、あったあった、とおばちゃんは画面のスクロールをやめ、スマホを俺にさしだした。
「この子やねんけどな」
 俺はなるべくポーカーフェイスを保ちたかったが、無理だった。そこには長澤まさみを若くしたような黒髪美女が笑顔で写真におさまっていた。白いシャツと紺色のスカート。事務服を初々しく着こなし、細くて締まった脚がヒールにおさまっていた。
 なんで知ってるんだ、なんで俺の好みをこんなに。
「どうやろか、可愛いと思うねんけどな」
「かわいいですね」
 俺はまた脊髄反射で言ってしまった。おばちゃんは満面の笑みになって、ほな、と今度はカバンから手帳を取り出した。スマホを見て何かを書き写す。そして手帳の1ページを破って俺に渡した。
 どう見ても電話番号が書いてあった。
「その子の電話番号。さつきちゃんっていうねん、かけたって。本人にはいうとくから」
「いや、そんな、いきなりそんな」
「よろしくな、ほな、寝るわ」
 おばちゃんはまた眠りについた。肩にもたれてくるのも気にならず、俺は電話番号を凝視した。
 いや、いや、そんな。さすがにそんな。

 そのメモはとても大切に自分の手帳に挟んだ。時々取り出してながめた。夜8時ごろならいいだろうか、とスマホを出して番号を押すところまではした。でもできなかった。
 新手の詐欺かもしれないし、ハニトラかもしれない。電話でさんざん俺に甘い言葉をはいて俺から何十万も振込をさせる気かもしれない。電話の先にいるのは声を変えたおばちゃんか、おばちゃんの娘か、そんなところだろう。
 こんな普通の平社員の俺にハニトラをする意味がわからなかったが、そうやって何人もから金を引き出せば稼ぎにはなるだろう。そうだ、きっとそうに違いない。こんないい話があるわけがない。俺はやはり電話をかけるのはやめた。ただ、メモは捨てられなかった。

 朝、また同じ電車に乗った。するとあのおばちゃんが向かってきた。なんだ、怒っているのか、というくらいすごい勢いだった。おばちゃんは俺から少し離れた席にどすんと座り、「ここ座り」と、後ろにいた人に声をかけた。おばちゃんで隠れて見えていなかったその女子が、俺とおばちゃんの間におずおずと座った。
「さつきちゃんや。あんたが電話かけへんから連れてきた」
 おばちゃんがそう言って、にんまり笑い、もういきなり目を閉じた。明らかに狸寝入りに見えた。
 俺はまじまじとその女子を見た。本物だった。あの写真の、長澤まさみ風女子。
本物の方が数倍可愛かった。
 そのさつきちゃんも少し困った顔で、俺に会釈した。
「はじめまして、山本さつきです」
「はじめまして、新田浩樹です」
 しばらく沈黙があった。あたりまえだ。初対面だ。
 するとさつきちゃんの左肩におばちゃんがもたれかかった。本当に寝たらしい。よく寝られるな。心でつっこんでいると、さつきちゃんがおばちゃんを見て、俺を見て、困りましたね、という顔で微笑んだ。
 ドストライクだった。
「なんか、いつもお母さんみたいによくしてくれるんです」
 さつきちゃんは、おばちゃんをもう一度見てから、言った。
「会社の若い子たちに、みんな。お弁当を持ってきてくれたり、彼女いてへん、彼氏いてへんって子には紹介してくれたり」
 くすくすとさつきちゃんは笑いだす。
「最初はドン引きしてたんですけど、今となってはわかるんです。何にも考えてへんねんな、ただ、おかんみたいに動いてるだけなんやなって」
 さつきちゃんはこう結んだ。
「この人、みんなのおかんなんです」

 1年後、俺たちは、結婚式におばちゃんを身内枠で呼ぶかどうか、悩むことになった。
 俺のおかん、いてるのに。


いいなと思ったら応援しよう!