冒頭試し読み「饒舌な喪失」
筒井透子「群青の余生」に収録している短編「饒舌な喪失」の冒頭試し読みです。
書斎の机に置かれたあの人の骨壷は、まだ自分の状況に戸惑っているように、所在なげだ。
今、あの人の息子さんが、骨壷と対面して、一礼している。
「母が、よろしくと」
頭を下げ終わってから、息子さんがわたしに向き直って、言った。一瞬目が合い、すぐにそらされた。息子さんの背は私より数センチ高かった。水色の半袖のシャツのボタンが上まできちんと閉められていて、そこに彼の緊張が宿っているように思えた。
「挨拶に来たいと言っていましたが、なんとなく遠慮すると」
作家だったあの人の葬儀には、編集の人が数人、出版社の人と、数少ない友だちが来ていた。家に何度か来て、いつもあの人と喧嘩していた編集の人が、葬儀では一番泣いていて、その泣き声だけが響く、静かな場だった。わたしが、十年ほど前に離婚したあの人の前の奥さんと息子さんに会ったのも、葬儀の場が初めてだった。あの人の死を連絡したのはわたしだったが、葬儀のときも、事務的なこと以外は、話さなかった。
骨壷はわたしに託された。
その後、息子さんがこうやって、わたしの家に来ている。息子さんはわたしにも頭を下げた。
「父のことは、いろいろと、ありがとうございました」
息子さんはあの人とは似ていない。あの人から漂っていたある種の投げやりさが、彼にはなかった。息子さんは清潔で、まだ大学生なのに、人として整っているように見えた。
息子さんに、わたしは慌てて尋ねた。
「あの。こうやって、ここにいてもいいんでしょうか」
主語が言えなくて、何を聞いているのかわからなくなった。息子さんは一瞬首をかしげたが、わたしの視線の先を追って、そこに骨壷があるのを見て、「ああ」と声に出した。
「父のことでしたら、父はここが落ち着くんじゃないかと、母と話しましたので。僕たちはもう、父と離れて随分経ちますし。僕は、父から、あなたとのことは聞いていましたから、母にも話していたんですよ」
「そうですか」
力が抜けた。息子さんから来訪の連絡があったとき、わたしは、息子さんがあの人を連れて帰るつもりでいると思っていたのだった。
息子さんは少し困ったように笑って、また目を逸らした。わたしがじっと見ていたのだろう。
「大学に合格した時、父が食事に連れて行ってくれて。あなたのことを話していました。あなたと暮らし始めたころだったと思います」
その話は初耳だった。わたしはもういちど、「そうですか」と言った。それしか言えなかった。
「今後のことはいろいろ話さないといけないですが、それは母とも相談しつつで。今日は、ただ、父のことが知りたくて来ました。本棚を、拝見したくて。いいですか?」
そういって彼は書斎を見回した。わたしは頷いた。息子さんは本棚にむかって歩き始めて、わたしもついていく。
わたしのマンションに一年前に移ってきたあの人の本が、そこにはあふれていた。あの人の荷物はほとんどが本だった。前の家の本棚は捨てたと言うので、新しい本棚を買い、届いたそれを二人で組み立てた。あの人は不器用だったから棚板を斜めに取り付けたりしていて、結局わたしがほとんど組み立てた。汗をかいて作業するわたしにあの人は悪びれもせずに、段ボールから本をせっせと出しては背表紙を見ていた。できあがった本棚に、あの人は機嫌良く本を並べていった。並べるルールがあるようで本を抜いたり入れたりしていた。わたしが力仕事に疲れてシャワーを浴び、髪を拭きながらまた書斎に戻ると、あの人はわたしのまだ濡れた髪を大きな手でくしゃっと触ってわたしを引き寄せ、唇を合わせてきた。わたしが応じようとしたらすっと離れ、「ありがとう」とだけ言い、そこからまた本棚に戻ってわたしを見もせずに、本並べに没頭しはじめた。わたしは仕方がないなと思いながら、あの人の背中を眺めて、お茶を飲んだ。
その本棚もあっというまに本が溢れて、棚の下にも本が積み上がっている。また新しい本棚を買わないとね、組み立てないとね、と、あの人はあたかも自分が組み立てるかのように言いながら、それを放っていた。本は毎日のように増えていき、わたしとあの人が過ごした日々と同じように積み上がっていった。
「へえ、こんなの読んでたのか」
息子さんの声で、わたしは今に引き戻された。唇の感触まで思い出したのに、そこにはあの人の骨壷があった。
数々の本の背表紙を眺めている息子さんは、「筒井康隆、全部揃ってるなあ。安部公房も」「あ、でも、思っているより昔の人が多いな」「へえ、漱石も川端も。端正な文章も読んでいたんだな」などと小さい声で言いながら、本棚を見ていた。しゃがみ込んで、積み上がった本も丹念に眺めている。
「本棚って、その人の頭の中が全部入っている気がしませんか」
息子さんが本棚を見つめたまま張った声を出した。わたしに聞かれているのだとわかり、答えた。
「わたしは本を読まないから、見てもよくわからないですけど、言いたいことはわかります」
彼は「そうだ」と言い、いきなりわたしに向き直った。目が微笑んでいた。
「父の小説って読んだことあります? 意味、わかりましたか?」
わたしは正直に答えた。
「わかりません」
息子さんの笑みは目だけでなく顔全体に広がった。急にかわいらしい顔になった。
「よかった、わかりませんよね。僕にも全くわからなくて。母と離婚してから時々会う父はほとんど話さないのに、小説はものすごくよくしゃべりますよね。主人公も頭の中でずっと考えていて、一人称でも三人称でもかまわずにずっと喋り続けていて。それに何でもかんでもがしゃべる感じで」
一人称、とかいう言葉はあの人も言っていたけど、よくわからない。でも息子さんの言いたいことはわかったので、わたしは頷く。
「蛇とか昆虫とか、いきなり普通に話しかけてきてました」
「そうそう。生き物ならまだしも、椅子が喋り始めたやつもありました」
「あれは、『人間椅子』って作品を目指したんだ、と言ってましたよ」
「江戸川乱歩のですか。ぜんぜん違うし。意味わかんないな、すごいな」
あの人の書くものは世間では「不条理」とか言われているらしい。わたしはもともと本を読まずに生きてきた人だから読んでもわからないのかと思っていたが、世間でもよくわからないらしかった。コアなファンがついていて、あの人が死んだ時もSNSで一部反応があったが、「作家」の死にしては、それはあまりにささやかな反応だった。
「あまりに父の本がよくわからないので、だから僕、大学では文学部に入ったんです」
本の背表紙を見ながら、息子さんが言った。
「高校の教科書に載っている夏目漱石の小説と、全く違うものだったので。小説ってどういうものなのか、どこまで許されるのか、そんなことを知りたくなったんです。入学したら周りに読書好きが多いので、父以外の本もたくさん薦められて読みました。そうしたらますます父のことが知りたくなって。だから、ここにも来てみたんですけど、見れば見るほどわかんないですね。ああ、乱歩も揃っていますね」
「そういえば、乱歩という人は、小説を書いてなかったら人を殺していたと思う、そんなことを言っていました」
「父が言いそうだな。あ、これは」
本棚には一冊だけ、背の高い単行本があった。赤い背表紙に「即興幻夢」と書かれていた。
「これですよね」
そう言って、息子さんは背表紙を人差し指で引き寄せ、斜めに傾いた本を手に取って、わたしに表紙を見せた。その時の指の動きやしなやかさは、あの人にそっくりだった。わたしは一瞬どこにいるのかわからなくなった。
あの人からこの本を受け取った時、「この本は、なんか、大きいですね」とわたしは言った。まだ他人行儀なときだった。あの人は笑って、本のことは何も知らないんですね、と言いながら、「これは単行本といって、最初はこのサイズで出て、売れたら文庫にしてくれるんです」と説明してくれた。「これはどうかな、文庫になるかな」。
文庫になる前にあの人は死んでしまった。
そして今、息子さんから、わたしはそれを受け取った。
「あなたに取材をして書いた本ですよね。ジャズがテーマの」
「はい」
「読みました」
わたしも頷いた。わけがわからないあの人の本の中で、唯一何度か読んだ本だった。
