
8時間、8億円 エピローグ
あらすじ
佐倉透(さくら とおる)二十八歳。
会議室で居眠りを叱られ、同期の出世を笑顔で祝い、恋人との未来にも答えを出せない。何者にもなれないまま、毎晩こう願っていた。
「眠るだけで、金になればいいのに」
ある雨上がりの夜、公園に白いスーツの男が現れる。
「あなたの睡眠時間を、買い取らせていただきたいのです」
一時間、千円。
眠りの質が上がれば、一万円、十万円。
眠るだけで口座は膨らみ、透は会社を辞め、起業し、やがて業界の頂点へと登りつめていく。
だが、すべてを手にしたと思った頃、透は眠れなくなる。
そして気づく。
あの男に会えるのは、深く眠れたときだけだと……
眠ることで人生を手に入れた男が、最後に失うものとは。
眠りの価値を問う、異色のホラー。
エピローグ 四十九日
紗那は母の家のリビングで、お茶を淹れていた。
四十九日が終わったところだった。
法要には親戚が何人か集まった。
透と顔を合わせたことのない、遠い親戚もいた。
「若くして、立派だったのに」
「惜しい人を亡くした」
そんな言葉が何度か繰り返された。
紗那は、そのたびに頭を下げた。
母は、ずっと穏やかな顔をしていた。
泣かなかった。
夕方、親戚たちはみな帰っていった。
家には、母と娘の二人だけが残された。
「お母さん、お茶」
「ありがとう」
節子は、テーブルに古いアルバムを広げていた。
透が亡くなってから、ずっとこれをめくっている。紗那は黙って隣に座った。
「ねえ、紗那。見て」
節子が、一枚の大きな写真を指差した。
「お父さんの会社の設立パーティーよ」
「……お兄ちゃん、小さい」
写真の中、若い父が誇らしげに笑っていた。その隣で、幼い透が父の手を握って嬉しそうに笑い、周りには、当時の社員や取引先の人たち。数十人の集合写真だった。
「お父さん、この頃が一番幸せそうだった」
「うん」
紗那は、写真の父を見て微笑んだ。
節子は、写真を指でそっとなぞった。
父の顔。透の顔。二人の笑顔を。
「透もね、最近よくテレビに出てて。誇らしかったのよ」
「うん」
「会社も大きくして、お父さんみたいになって」
紗那は、母の声が少しずつ細くなっていくのを聞いていた。
「……お父さん、亡くなったの三十だったのよね」
「うん。私が生まれる前」
「透も、三十だった」
紗那は何も言えなかった。
節子は写真の中の透をもう一度撫でた。
そして、ぽつりと言った。
「……亡くなり方まで、お父さんに似なくてもよかったのに」
紗那は、母の手に、そっと自分の手を重ねた。
言葉が、出てこなかった。
「お茶、入れ直すね」
紗那は立ち上がり、台所へ向かった。
残された節子は写真の透を、指でもう一度なぞった。
窓の外、夕日が沈んでいく。
紗那が、お茶を持って戻ってきた。母の隣に腰を下ろす。
「会社の方から聞いたんだけど……」
節子が、ぽつりと言った。
「透、最後の頃、ほとんど眠れてなかったんですって」
紗那はマグカップを両手で包んだ。
「……そうなんだ」
「何日も、眠れなくて。ひどく、やつれていたって」
節子は自分の手を見た。
「もっと早く、気づいてあげればよかった」
紗那は何も言えなかった。沈黙が続いた。
「私ね、最近布団に入ると、すぐ眠っちゃうの」
節子の湯呑みを持つ手が止まった。
「あら、そう」
紗那は、湯呑みに口をつけた。
穏やかな横顔だった。
「……それなら、よかったわ」
節子が紗那の手を、そっと握った。
少しだけ強く。
紗那は母の顔を見た。
節子は何も言わなかった。
ただ、握った手を離さなかった。
窓の外、夕日が完全に沈んだ。
部屋に闇が満ちていく。
紗那は、湯呑みを手にしたまま母の隣で黙って座っていた。
誰も言葉を発しなかった。
時計の針だけが、静かに時を刻んでいた。
やがて二人は立ち上がり、部屋を出ていった。
誰もいなくなったリビング。
テーブルの上には、一冊の古いアルバムだけが残された。
夕闇の中、開かれたままのページの写真に、白いスーツの男が静かに立っていた。
灰色の瞳がこちらを見つめる。
微笑んだまま。
次のお客様を待ちながら。
了