
【ショートショート】温泉
男湯の露天風呂に入ると、ひとりのおじいさんが湯船に浸かっていた。景色を眺めているようだった。
「おいそこの若ぇの、話を聞いてくれ」
げ、話しかけられた。仕方がないので応える。
「はい、なんでしょう」
「お前はこれからどこへ向かうんだね」
「どこって……どこにも行きませんけど」
「なんて?」
「どこにも行かないですよ。ここが目的地です」
「おお、そうかい。まだ何も知らないのか。若いから仕方のないことだな、ハハ」
なんだ、このおじいさんは。初対面の人に哲学的な話をして何になるのか。
それに加えて耳も悪いときた。歳はとりたくないものだよ、まったく。
そんなことを思っていると、おじいさんが立ち上がる。
「そろそろ帰るわ。……あっ。こんにちは」
おじいさんは振り返って私を見つけ、挨拶してきた。ん? 何かがおかしい。
さっきおじいさんは私と話をしていたのだ。歳のせいで忘れっぽいのだろうか?
いや違う。彼が話しかけていたのは私ではない。温泉だったのだ。
湧き出したお湯は排水口に流れゆく。その後、どこに向かうかを尋ねた。そして私の声を温泉の声だと勘違いして、会話した。
湧いてすぐの水分子を「若いの」だと思っている。思えば、たしかに違和感はあった。
私が思考を巡らせるあいだ、おじいさんは一歩も動かず気まずそうにしている。やがて口を開く。
「……す、すみません、おばあさん」
「ええ。今は掃除の時間よ。はやく戻ってちょうだい」