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逹長と景直⑦ ー志知城編ー

    ◉五年の歳月

    天正十一年、早春。


    (馬の蹄。乾いた土を踏む音)

    庄田の城を出て、景直は数名の供とともに馬を進めていた。

    目指すは、志知城。

    明朝には、淡路を発つ。

    羽柴秀吉より、参陣の命が届いたのである。

    行き先は、近江。

    賤ヶ岳。

    柴田勝家との決戦を前に、秀吉は淡路にも兵を求めていた。

    景直はそのことを、野口長宗のぐちながむねに直接伝えておこうと思った。

    そして――

    五年前に長宗が自分を訪ねてきたときのことを、その道すがらで思い出していた。


    (馬の蹄)

    五年前。

    あの頃の志知城は、今よりはるかに小さかった。

    土塁と柵。

    粗末な櫓。

    城というより、砦と呼んだ方が似つかわしい。

    その志知城を預かっていたのが、野口長宗であった。

    だが、淡路を治めていた安宅家では、その頃、大きな変化が起きていた。

    安宅信康が病床に伏し、家督を弟の清康に譲ったのである。

    ところが、清康と長宗との間には、次第に意見の食い違いが生まれていった。

    領内のこと。

    家臣の扱い。

    そして、これからの淡路をどうするか。

    一つ一つは小さな違いだった。

    だが、小さな違いは、やがて小競り合いとなった。

    そして――

    清康の根回しによって、長宗は親族の手で志知城を追われることになった。

    (馬の蹄が止まる)

    あの夜。

    庄田城。

    景直のもとへ、数十の手勢を率いた長宗が現れた。

    「船越殿……」

    疲れ切った顔だった。

    それでも、その目だけは死んでいなかった。

    「志知を追われました」

    景直は、黙って長宗を見た。

    「しばらく、ここに置いていただきたい」

    だが長宗は、すぐに首を振った。

    「いや……それも、長くは叶いますまい」

    そして、言った。

    「船を一艘、貸していただきたい」

    「どこへ行く?」

    「信長様のところへ」

    その言葉に、景直は眉をひそめた。

    「信長……」

    「淡路に残って、身内同士で争っているよりは、外へ出た方がよい」

    長宗はそう言った。

    「外へ出て、己の力で道を開きます」

    景直は船を貸した。

    長宗は淡路を離れ、海を渡った。

    そして――

    織田信長のもとへ。

    さらに秀吉のもとへ。

    そこで長宗は、少しずつ信を得ていった。

    戦場では無理をせず、しかし与えられた役目は確実に果たす。

    派手な武功を誇るわけではない。

    だが、任せれば崩さない。

    守れと言われれば守り、攻めよと言われれば攻める。

    そんな手堅さが、秀吉の目に留まった。

    長宗は正式に秀吉の配下となり、戦場で一つ、また一つと功を重ねていった。

    そして――

    二年ほどが過ぎた頃。

    再び長宗が、景直の前に姿を現した。

    その頃には、もう「志知を追われた野口長宗」ではなかった。

    羽柴の旗のもとで戦う、一人の武将になっていた。

    そのとき、長宗は景直に言った。

    「羽柴の軍は強い」

    景直は笑った。

    「そなたが、そこまで言うか」

    「強い。……いや、強いというより、戦のやり方が違う」

    兵の数だけではない。

    兵糧。

    武器。

    船。

    道。

    情報。

    そして何より、人を使う。

    一つ一つを積み上げて、最後には大きな力にしてしまう。

    それが秀吉という男だった。

    「いずれ、淡路にも潮目が来るやもしれぬ」

    長宗は、海の向こうを見ながら言った。

    「そのときは……」

    景直が問う。

    「勝てぬか」

    長宗は、少し黙った。

    そして答えた。

    「勝てぬでしょうな」

    あまりにもあっさりとした答えだった。

    「ならば、戦う前に帰順されることです」

    景直は、その言葉を聞いても、すぐには答えなかった。

    長宗は続けた。

    「秀吉様は、味方には手厚いお方です」

    「武功の大小で、人を分け隔てることもない」

    「私が、よい例でしょう」

    わずか数年。

    志知を追われた一人の男が、羽柴の家臣として取り立てられている。

    それは確かに、長宗自身の才覚によるものでもあった。

    だが同時に――

    秀吉という男が、人を見ているということでもあった。

    「働けば、働いた分だけ返してくださる」

    長宗はそう言った。

    「だからこそ、私は秀吉様に賭けたのです」

    その言葉を、景直は忘れなかった。

    そして――

    実際に、長宗の言葉どおりになった。


    天正九年。

    秀吉の大軍が淡路へ押し寄せた。

    海を埋め尽くすような船。

    次々と上陸する兵。

    淡路の諸勢力は、なすすべもなく崩れていった。

    長宗が言っていた「潮目」は、本当に来た。

    しかも――

    想像していたより、はるかに激しい潮だった。

    戦の後。

    長宗は、再び志知へ戻った。

    今度は、追われる者としてではない。

    秀吉の命によって、志知城の城代として。

    五年前。

    手勢を連れて庄田城へ逃げてきた男が――

    今では、秀吉の命を受けて、かつて自分が追われた城を預かっている。

    人生とは、不思議なものだ。

    (馬の蹄)

    景直は、我に返った。

    気がつけば、志知へ向かう道の先に、城の姿が見え始めていた。

    「……あれが、志知か」

    だが――

    景直は目を疑った。

    以前の志知城とは、まるで違っている。

    土塁は高くなり、柵は幾重にも巡らされている。

    櫓も増えている。

    城の周囲には堀が整えられ、兵を置くための場所も設けられている。

    砦という言葉では、もはや足りない。

    小さな要塞。

    いや――

    これからさらに大きくなる城の、始まり。

    景直は、しばらく言葉を失った。

    「……半年で、ここまでにしたのか」

    長宗が、この普請を任されていることは聞いていた。

    だが、実際に目にしてみると驚かされる。

    派手さはない。

    けれど、隙がない。

    どこを見ても、必要なものが必要な場所に置かれている。

    長宗らしい。

    景直は、思わず苦笑した。

    「昔から変わらぬな……」

    志知を追われたときも。

    羽柴の軍に加わったときも。

    そして今も。

    長宗は、与えられた場所で、与えられた役目を、ただ黙々と果たしている。

    その積み重ねが、今の姿を作っている。

    だが――

    景直は、城を見上げながら思った。

    この城を、わずか半年でここまで整えさせたものは、長宗一人の才覚だけではない。

    秀吉の命は、早い。

    そして、的確だ。

    必要とあれば、すぐに人を送り、材を集め、兵を動かす。

    何をすべきかを見極めれば、迷わない。

    人を使い、土地を使い、時間さえも味方につける。

    景直は、改めて思った。

    羽柴秀吉という男は――

    戦に強いだけの男ではない。

    戦のあとに何をするかまで、すでに考えている。

    淡路を落とした。

    それで終わりではない。

    落とした土地を治める者を置き、

    城を直し、

    兵を備え、

    次の戦に備える。

    その一つ一つが、恐ろしいほど速い。

    景直は、志知城を見つめた。

    五年前。

    ここから追われた男がいた。

    そして今。

    その男は、この城を守る側に立っている。

    景直は、小さく息を吐いた。

    「……なるほど」

    馬がゆっくりと歩を進める。

    明日、自分も羽柴の軍として、淡路を離れる。

    向かう先は近江。

    そこで、また新たな戦が始まる。

    その先に何が待っているのか――

    まだ、誰にも分からない。

    ただ一つ分かっていることがある。

    潮は、止まらない。

    そして――

    その潮を、誰より早く読んでいる男がいる。

    景直は志知城を見上げた。

    羽柴秀吉。

    その名を、今度は以前とは違う重さで、心の中に刻んだ。

    (馬の蹄が遠ざかる)

    ――羽柴秀吉。

    この男は、一体どこまで行くつもりなのか。


    ◉志知城の長宗

    (戸を開ける音)

    「久しいな、船越殿」

    「長宗殿」

    志知城の一室。

    景直と野口長宗は、向かい合って座った。


    五年前。

    志知を追われ、庄田城へ逃げてきた男。

    そして今――

    その男は、秀吉の命を受け、この志知城を預かっている。

    景直は改めて、長宗の顔を見た。

    昔と変わらぬ。

    穏やかな顔。

    だが、その眼差しには、以前にはなかった落ち着きがあった。

    「ずいぶん立派になったものだ」

    景直が言う。

    長宗は苦笑した。

    「まだまだです」

    「これが、まだまだか」

    「城は立派になっても、守る者が頼りなければ意味がありませんからな」

    「相変わらず、手堅い男だ」

    二人は笑った。

    しばし、昔話に花が咲いた。

    やがて景直は、本題を切り出した。

    「明朝、淡路を発つ」

    「聞いております」

    「秀吉様から、賤ヶ岳への参陣を命じられた」

    長宗は頷いた。

    「柴田勝家との決戦ですな」

    「そうなるだろう」

    「ならば――」

    長宗は少し考えた。

    「この戦の勝敗は、秀吉様ご自身の行く末だけではありますまい」

    景直が顔を上げる。

    「どういう意味だ?」

    「今後の羽柴軍の行く末が、決まるかもしれぬということです」

    長宗は静かに言った。

    「もし秀吉様が勝てば、これまで以上に大きな力を持つでしょう」

    「だが、負ければ……」

    「これまで秀吉様のもとに集まった者たちも、それぞれに考えを改めねばならぬ」

    景直は黙った。

    長宗は続ける。

    「淡路も、その例外ではありません」

    「淡路が?」

    「今の淡路は、仙石様に任されております」

    「仙石秀久か」

    「ええ」

    長宗は苦笑した。

    「あの方は、四国へ出たくて仕方がないようです」

    「四国?」

    「長宗我部元親が、四国の制圧を進めておりますからな」

    その名を聞いて、景直の表情が変わった。

    長宗我部元親。

    土佐を基盤に勢力を広げ、四国を呑み込もうとしている男。

    「三好一族の十河存保そごうまさやす殿からは、再三の援軍要請が来ております」

    「十河から……」

    「はい」

    長宗は頷いた。

    「長宗我部に押されておりますからな。援軍を求めるのも無理はない」

    「では、仙石殿が兵を出すのか?」

    「今のところは、そう簡単にはいきません」

    長宗は首を横に振った。

    「秀吉様は、畿内のことで手いっぱいです」

    「黒田殿は?」

    「官兵衛殿ですか」

    「うむ」

    「普請のことで、いくつかやり取りがあった程度です」

    長宗は答えた。

    「この半年、官兵衛殿も畿内のことに付きっきりです」

    「なるほど……」

    「ですから、四国へ回せる兵など、そう多くはありません」

    長宗は一度、言葉を切った。

    「とはいえ――」

    「いつ仙石様に、四国出兵の命が下ってもおかしくはありません」

    景直は頷いた。

    「仙石殿は、その命を待っている」

    「待っているというより……」

    長宗は苦笑した。

    「息巻いております」

    「やはりか」

    「ええ。淡路を預かる者として、四国へ兵を出すことに乗り気なのは間違いありません」

    景直は腕を組んだ。

    「淡路が、また戦の前線になるかもしれんな」

    「そうなるでしょう」

    長宗の返事は早かった。

    「この海の向こうは、もう穏やかではありません」

    (風の音)

    しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

    景直は、ふと別のことを尋ねた。

    「ところで……」

    「何でしょう?」

    「逹長のことだ」

    長宗の表情が、わずかに変わった。

    「何か聞いているか?」

    「噂程度ですが」

    長宗は声を落とした。

    「どうやら、長宗我部殿のもとに身を寄せているという話があります」

    「……そうか」

    「はい」

    景直は黙った。

    あの男が――

    長宗我部元親のもとに。

    「確かな話か?」

    「確証はありません」

    長宗は首を振った。

    「ただ、もし本当だとすれば……」

    「すれば?」

    「一つ、気になることがあります」

    長宗は景直を見た。

    「長宗我部殿は、明智光秀殿と親交が深かった」

    景直の目が細くなる。

    「明智と……」

    「ええ」

    長宗はゆっくりと言葉を続けた。

    「もし逹長が長宗我部殿のもとにいたのなら、四国から何らかの情報を得ていた可能性があります」

    「情報……」

    「明智殿が、何を考えていたのか」

    「本能寺の後、世の中がどう動くのか」

    「そして――」

    長宗は一度、息を吸った。

    「明智の天下が成立する可能性が、本当にあるのか」

    景直は黙って聞いていた。

    長宗の声が、少しだけ低くなった。

    「もし、長宗我部殿からそうした情報が逹長に伝わっていたとしたら……」

    「洲本城を奪ったことも、説明がつく」

    景直が呟いた。

    長宗は頷いた。

    「私は、そう考えます」

    「……」

    「逹長は、本能寺の変を知って動いた」

    「それだけではない」

    「明智が勝つ可能性を見ていた」

    長宗は、静かに言った。

    「だから、洲本城を取った」

    景直は目を伏せた。

    あの夜。

    梅鉢の旗。

    開いた門。

    そして――

    洲本城。

    「もしも……」

    景直が口を開いた。

    「もしも、明智が天下を取っていたら?」

    長宗は、しばらく答えなかった。

    やがて、

    「そのときは」

    と、静かに言った。

    「逹長の判断が、正解だったことになりますな」

    (風の音)

    その言葉は、妙に重かった。

    勝者が歴史を作る。

    だが――

    敗れた者にも、そのとき、その者にしか見えなかった未来があったのかもしれない。

    景直は、逹長のことを考えた。

    自分とは違う男。

    秀吉に従うことを選ばなかった男。

    洲本城を奪い、そして今は、どこか遠くで生きている。

    それが正しかったのか。

    間違っていたのか。

    今の景直には、まだ分からなかった。

    ただ一つ。

    逹長は、あのとき、自分が見た潮目に従って動いた。

    それだけは、分かる気がした。

    (しばし沈黙)


    やがて景直が立ち上がった。

    「明朝、出る」

    「はい」

    「世話になった」

    「何を仰る」

    長宗も立ち上がった。

    「船越殿」

    「うん?」

    長宗は、少しだけ間を置いた。

    そして、景直をまっすぐ見た。

    「必ず……」

    声が止まる。

    「必ず、淡路へ戻ってこられよ」

    景直は、黙って長宗を見た。

    その言葉には、ただの挨拶以上のものがあった。

    友として。

    同じ淡路に生きる者として。

    そして――

    五年前、庄田城で船を貸してくれた男への恩を忘れぬ者として。

    長宗は、静かに頭を下げた。

    「この志知は、私が守っております」

    景直は、少し笑った。

    「ならば、安心して出られる」

    二人は、しばらく何も言わなかった。

    やがて景直が、部屋を出る。

    (戸が閉まる音)

    廊下を歩く景直の足音。

    その背中を、長宗は黙って見送っていた。


    (馬の嘶き)

    庄田へ戻る道。

    景直は馬上から、振り返った。

    遠くに志知城が見える。

    五年前。

    そこから追われた男がいた。

    今は、その男が城を守っている。

    そして自分は――

    これから戦へ向かう。

    景直は、志知城を見つめた。

    「必ず戻る」

    小さく呟いた。

    馬が走り出す。

    (馬の蹄)

    その先に待つのは――

    賤ヶ岳。

    淡路の海を越えたところで、また新たな戦が始まろうとしていた。

     
     
    東京生まれ東京育ち。淡路島に移住して子育てしてます。😌

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