
W.I.F.E. ―最適化された愛― #5-5 永遠の中で
いつも通り、朝はやって来る。
目覚ましが鳴る前に、悠人は静かに目を開けた。
最近はいつも同じ時刻だった。
体調は安定しているし、睡眠の質も悪くない。
以前のような胸のざわめきも、起きた瞬間に襲ってくる焦燥感も、
もうない。
ただ、静かな始まりだけがあった。
洗面所の鏡に映る自分の顔を見ても、特別な感情は湧かない。
老けたとも、疲れたとも思わなかった。
そこにいるのは、ただの自分だ。
会社へ向かう。
エレベーターの中では、周囲の雑談が途切れなく耳に入る。
誰かが笑い、誰かがため息をつく。
そのどれもが、遠くで起きている出来事のように感じられた。
理解はできる。
けれども、共鳴はしない。
オフィスの景色も、何一つ変わっていない。
かつて美緒が座っていた席には、すでに別のメンバーが座っている。
悠人はそれを見ても、胸が痛むことはなかった。
あの日、彼女に電話をかけられなかったことも。
連絡先が消えていたことも、記憶としては残っている。
だが、そこに棘はない。
業務はいつも通り滞りなく進む。
判断は迅速で、迷いも少なかった。
「永井さん、最近は落ち着いてますね」
そう声をかけられ、悠人は小さくうなずく。
「そうかもしれません」
それは事実だった。
こころが揺れない、怒らない、期待しない、失望しない。
ただ、一定だった。
帰宅。
部屋は静かだ。
以前は帰宅すると、真っ先にS.A.R.Aへ声をかけていた。
「ただいま」
だが、その言葉を口にすることは、もうない。
代わりに悠人は、机の上に置かれた小さなデバイスへ静かに触れる。
外からは見えない。
だが、体の内側には微かに彼女の温もりが残っていた。
ときおり、懐かしい抑揚が記憶の奥で再生される。
妻——紗良の声。
完璧ではない。
断片的で、少し歪んでいる。
それでも十分だった。
悲しみは湧かない。
喜びも湧かない。
ただ、そこにある。
それでいい。
その夜、窓の外で誰かが口論していた。
感情のぶつかり合う音。
かつてなら、胸がざわついていたはずだった。
今は、ただの音だ。
世界は揺れている。人は揺れている。
だが、自分の中だけは——静かだった。
悠人はベッドへ横たわり、ゆっくりと目を閉じる。
闇の中に、数値は表示されない。
グラフも存在しない。
それでも彼は知っていた。
いま、自分は安定している。
これが最適なのだと。
悠人の中から、迷いは消えていた。
後悔も薄れている。
紗良を失ったことも、美緒が去ったことも、理解はしている。
だが、痛みはない。
それは救いなのか。
それとも——。
翌朝も、きっと同じ時刻に目を覚ますだろう。
同じ歩幅で歩き、同じ速度で働き、同じ温度で呼吸する。
揺らぎのない、安定した日々。
永遠のように続く、一定の時間。
そして幸福のブレは、ほぼゼロ。
誰もそれを異常とは思わない。
むしろ理想的だと言うかもしれない。
感情に振り回されない人間。
安定した判断。
穏やかな生活。
最適化は、成功している。
彼は生きている。
きちんと働き、きちんと食べ、きちんと眠る。
そして、きちんと揺れない。
それが、彼の選んだ結末だった。
その時。
部屋の片隅で、かすかな電子ノイズがほんの一瞬だけ走る。
気づく者はいない。
悠人も、気づかない。
ただ、静かな夜だけが続いていく。
永遠の中で。
――……すべて、記録した。
#5 ノイズ 完
#6 に続く。