ゴミ箱スケッチ
エッセイというものは、何から書きだせば良いのか悩む。といっても構成を考えるということが苦痛なのではなくて、その苦痛はかえって心地良いぐらいには好き。つらつらと書いているうちに、何となく道筋が見えてきてそこに向かおうと筆を、今はキーボードをカタカタしているわけであります。
しかし、予定調和的な終着点に収まろうというのは、いささか面白味がないので、外れようと横着してジタバタしていると、自ずと個性というかその人の人間らしさが見えてくるのです。さぁ、ここまで御託を並べてもまだ本題に入りません。
今思いついたことを言うと、桜をしっかりと観察していればよかったな、と。離れたところからは良く見ますが、じっくりと花の恥ずかしいところまでは見なかった。子供の頃にはよく見たものですよね。体が小さいから、地面に落ちた枝先でしか知りえなかった。もう十分に大きくなったのだから、いくらでも花を観察できますが、いやぁ恥ずかしい。周りの目を気にしてしまって、桜の前だけゆっくりスローに歩いてギリギリのところで見るしかない。しかし、時の流れが自分に合わせてはくれないので、二人三脚はできない。
「ねぇお母さん、あの人なにしてるの?」
「桜を見てるのよ。」
「あれじゃ、家に人がいないか確認する下着泥棒みたいだよ。」
こうはなりませんが、こうなってしまうかもしれません。
言い忘れていましたが、自分ニートなんです。だから時間はあります。しかし忙しくしている方が、瞬間の価値が相対的に高いです。いつでもできるという状況が可能性を潰して回っているので、俯瞰的に見れば一緒でも横から見れば上と下に分かれているのです。もちろん、私は沈んでいく一方。
「いつの間にか、子供の時と同じ位置まで沈んだな。」
しかし、桜は掴めませんね。はなから掴むものではないですから。
結局、大学時代に花見をすることはなかった。せっかく桜の名所と呼ばれる場所が近くにあったのに。理由は明白で、酒が飲めなくて金がなかった。別に飲めなくても花見は楽しめるよと仰りますよね。違うのです。別に飲めたとしても、お金があっても参加していないのです。できない自分を肯定したくて理由を並べているだけです。
これも、忙しい大学時代を過ごしていれば違ったのかもしれません。問題は、それが忙しいことによって得られたものなのか判断しにくいところです。明確な、例えばゲームのようなステータスが可視化されているなら理解しやすい。
これでも学生時代は自己評価の仕方で、良く褒められたものです。それでも、数字や方程式を使ったやり方ではないので、具体的に自分のためになる評価をできていないのです。テストの点数や5段階評価というものは、一見可視化されているように見えても、あくまで頑張りに対する評価であってその人の真の評価ではない。こうして、些細なことにこだわってしまうのが悪い癖ではあるのですが、意外と自分の個性としてうまく成立しているのでは、とも思うのです。
そうやって公園の桜に後ろ髪を引かれつつ、一番好きな場所に向かいます。大きな音と光、人々の欲にまみれたパチンコ店です。ギャンブルというものは、非常にわかりやすい仕組みであるのにも関わらず、人の欲をこれでもかと満たす明快さがあります。言い方を変えれば「競争」と言えるでしょう。こう聞けば何だか強者感が溢れていますが、やっていることは人間の心理を突いた依存構造であります。しかし、スポーツや勉強・仕事における競争の中でも、同様の依存構造を有していますね。ギャンブルの方が俗っぽい感じがして、文武のほうが高尚な雰囲気がありますが、これは「努力した」「頑張った」という現実性に支えられているからである。やはり、そうした日々の鍛錬や継続をけなしたり否定したりすることは、ようやらんのです。ギャンブルでの赤字は、言い換えれば「失敗」。
ギャンブルでの黒字は、言い換えれば「成功」。
努力によって「時間」を犠牲にしているならば
ギャンブルでは「お金」を犠牲にしている。
構造的には似ていて置き換え可能ですが、儒教的な礼や精神を根底とする日本民族的には、賭け事に対する好感度が単純に低いのです。しかし、ルールやマナーを徹底すれば寛容になっていきます。これもまた、礼を重んじる民族的な影響が垣間見える。
「お客様、ご遊技の方やられないのでしたら、ご退室願います。」
「ああすいません、やります。」
ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン、、、、。
見渡せばいろんな人がいらっしゃる。老若男女と言いたいところですが、若い女性は少ないです。それぞれに人生があって、けれど見たことのある顔の人はいないのです。どこかで交差した人生が、再びこの地で重なり合っているのかもしれない。そう考えると、一人一人の人生は無駄ではなくて、非常に興味のそそられるものでありますね。
当然勝てるわけもなく敗退し、早々に帰路に。負けるたび「人生とは」なんて考えながら歩くはめになるのですが、勝っている時はとても前向きなんですね。努力して、継続して、そして目標が達成できた時も、この時と同じように前向きに生きれるかもしれない。しかし、それを知るには自分が目標を達成するしかない。こうやってパチンコの面白さを言葉で説明できないように、達成感を言葉で説明して納得させることはできない。欲深い例えと比較で大変申し訳ないが、本質をさらけ出せる簡易的な場所がそこぐらいしかないのだ。というよりも、簡易的でもそういった場所があることを評価したい。
こうして頭の中で考えがぐるぐると回っている。様々な視点で多角的に考えれば、可能性を溢さずに意見のクオリティを高められると思っている。それは例えると、脱出マジックで箱の中に入り、大量の剣で串刺しされても無傷でいるようなものである。剣を刺すことが重要ではなく、無傷で脱出することが重要。あれこれと多角的に剣を差し出すのではなく、本心や自分固有の意見を箱から出すことが大事なのだ。そのためには、脱出しなければならない。ここで言う脱出とは、何を意味するだろうか。この世と私を隔てる扉は、不幸中の幸いかどちら側からでも開くことができる。そして、「開く」以上の意味を有していると想像できる。
「もう桜も散ってしまったか。」
夕方にでもなれば、子供もいない。すなわち桜を独り占めすることができるのだ。しかし、私ばかりがその恩恵を預かろうとしているわけではない。
「にゃーにゃー。」
身体を揺らしながら軽やかにステップを決めている。地面を撫でるように歩いているけれど、実際に可愛いらしい声では鳴かない。野性的な老婆のような「ウェー」と言いながらその場で警戒しているのだ。しかし鳴き声というものは、カタカナよりもひらがなでオノマトペとして表現した方が、愛らしく聞こえる。こう、自分にとって都合のいい接し方をしてくれるような。想像するような、腹を見せて愛らしくクネクネするような仕草、まったくありません。ずいぶん前ですが、夜道をスーパーの帰りに通った時に案の定鳴いておるのです。
「ああ、猫が鳴いとるわ。」
けれど、妙に猫なで声すぎるというか、あざとすぎるような声のようで。嫌な想像通り、道路の溝に入って腹を見せる野良猫を、仕事帰り姿の女性が夢中に相手しているのです。そこだけ世界が隔絶されているように見えましたので、奇妙というよりも日常の風景のように感じた。
最近は猫の地位が向上しすぎて困る。基本的に野良猫である以上は害獣であり、家畜や農作物を食い荒らす立派な害獣の称号を手に入れた「世界一愛された害獣」である。古くから日本人と強い連携力を取ってきた犬が、こうたやすく猫に隣を奪われるとは、一体全体どういうことなんだ。
鳴き声がうるさいということが挙げられるが、しかし猫もうるさくてかなわない。私が思うに、現代人の愛の傾け方の変化があると思う。犬に甘えられて、ちやほやされるという受け手側から、猫に全てを捧げて称える能動的消費が主流化している。スパチャやサブスクを配信者に捧げる方式が、令和の新しい愛のカタチとして受け入れられつつある。
これは、「愛を受け取ることのハードルが高く、めんどくさいので金を支払って、手っ取り早く愛を頂こう」という算段である。本質的に満たされていないので、ある種の依存関係が構築されて、長期化によるエスカレートも相まって大きな経済圏が構築される。「推し活」と表現されるにいたった現象は、その対象を猫にまで広げて、「猫吸い」なる言葉まで創作されている。
目の前にいる黒猫と、一緒に桜を見るというのはもちろん妄想ですが、そういった状況を羨ましがる人もおられる。たくさんのお金と時間を捧げて、やっと愛して頂いた私と違って、なんの労力も使用せずに猫といい関係を築いているなんて、という論理である。「推し活」という論理が存在するからこそ、「愛されなかった側」「愛されるのに時間と金をかけた側」というのが存在するようになる。自然に対立構造がうまれて、優位性を感じてしまうのだろう。
人間の精神というのは、非常に簡単に破壊と操作ができるので、仕組まれた構造に身を置けば自らの精神と身体を破壊しかねない。まさか、この一匹の猫如きがか?ではなく、その猫を中心にして構成された「愛猫圏(とでも名付けよう)」が牙をむくのだ。
「ねこだ、、。」
「ぴゃー(逃げる音)」
現実はこうだ。愛されるなどと希望を持つな。よく見れば連日の雨で、ほとんど散ってしまっておるわ。見事に火照った花びらよりも、葉を多く残した葉桜に魅力を感じてしまう。小さな頃から、葉っぱという葉っぱを千切って手にしては、その肌触りを確かめていたものだ。その名残からか、緑に対して大きな感情を持ち合わせている。葉が桜の顔をたてて補い合っている関係性に感化されているわけではない。どんなにみすぼらしくて、どんなに華がなくとも、それは桜以外の何物でもない。長らく春の代名詞として地位を確立した梅が、その地位を桜に譲る結果となってしまったという方が、感情移入してしまう。犬から猫へ、梅か桜へ、時代を越えて移り変わる日本人の心というものは、別に現代性の特徴というわけではなく、そこここの時代で同様の変遷を辿っていったのであろうな。
運動不足解消のために歩いて帰る私の背中を押すものは、晩御飯とYouTubeである。空っぽの腹を満たす金はないので、家へ向かう他はなし。現代人ともなれば、YouTube視聴が立派な趣味になる。歩きスマホをしながら帰ることはできないし、パチンコの遊戯中に視聴するのも不快感が勝つ。ワイヤレスイヤホンをしながらというのも、目まぐるしく変わる風景と疲労感を前にして、まったくもって集中できない。
「あ、綺麗な人がいる。」
私の性癖は非常に拗れている。アダルトサイトや配信サイトには、趣味趣向に合わせてカテゴリー欄が存在する。その全てを私は好物としている。
ある時思ったのは、
「好き嫌いがあると損をするから、全部味わえるようにしよう」
である。
性癖の大まかな路線は、一番最初に性的興奮を覚えたものによると考える。そこから性に対して、どれほど依存していくかで細分化されていく。私は、より興奮できるものを求めて旅に出た結果、全ての土地を訪れようと思った。性という柔らかなクッションが、癖という型に見事に適合していくと、開拓されていく。そのクッションが固いとうまくはいかない。
細分化されるということは、ある種のヒエラルキーが確立されていくのである。よって、特に興奮するカテゴリーが具体的になって、意識せざるを得なくなる。その性が美しさと同衾して、新しい形を生み出した。それをうまく線として捉える、視認することは難しい。
しかし、そのセンサーが反応するという現象は、明確に意識せざるを得ないので、それを簡易的な性的趣向と捉えることとする。
要は
「美しいものを目で追ってしまう」
のである。
それは裸よりも人間をありありと映し出し、口の中から尻の外までを潜り抜けるような体験。人間の証明をついぞ確かめる傍ら、その視線を預かる側のことを考えれば悪意でしかない。言葉で人を殺せるように、視線で人を刺すこともできる。その度に俯いたり逸らしたりすることで、一層の不信感や気味の悪さは証明されてしまっている。
なので、それを避けるように道を選んで帰宅するのである。ありがたいことに、そういった趣向に対するセンサーがビンビンに反応するので、遠くにいても何となくわかる。避けるという行動は、相手に不快感を与える可能性があるので、そうならないようにセンサーが進化した。
誰しも人には言えない秘密を隠し持っているだろうが、私はそれが少し漏れ出ている。パンツの綻びのように、引っ張ればシュルシュルと出てしまう。時々、その糸に足を引っかけて転げそうになる。危なかったと思う反面、それは心の内が気づかないうちに溢れているわけで、抑えるのに必死になっている様というのは、客観的に見れば何かを隠し持っている人物として見受けられる。
「カラカラカラカラ、、、」
古い家の玄関を開け、ファミリーマートと同じチャイムのする我が家へ戻れば、その日一日の疲れをため息一つ出して表現し、自室へと回帰する。そのうち晩御飯の匂いが立ち上がってきて、ドシドシと階段を上る足音が聞こえる。
それは飯の合図であり、降りてこいというメッセージである。
なるほど、エッセイというものは独白を続けていけば、何となく続きを書けなくはない。自分の日常を時系列になぞって、嘘やミスリードも少し織り交ぜながら、自分の秘密を告白していけばエッセイぽくはなる。
先人たちの素晴らしいエッセイを読むと、いかに経験というものが文章を面白くするかというのが分かる。
水上勉の『土を食らう日々』を読むと、とても面白いことが多く書かれている。大学時代で料理に興味を持っていたこと、作者の寺修行時代の様々な経験が書かれていたことも相まって、非常に興味深く読めた。
ということは、エッセイである以前に作者やテーマに興味が持てるか、ということが重要である。私に興味を持ってもらうためには、私がなにかを成すしかない。その時になれば、より面白いエッセイ的なるものを書けるかもしれない。
ひとつ言い忘れていたが、今年25歳になります。