
サイバー五目 第6話
第6話(最終話)「私はここにいる」
強烈な起爆シグナルがスタジアム全体に鳴り響いた直後、アイは最後の一手を打つために右手を伸ばした。
静寂の中で、石が盤面に触れる音がした。
たった一つの、小さな音。
しかしそれは、五万人が息を呑む中で、スタジアムの天井まで届くほど——鮮明に、響いた。
『勝負あり! 第4戦の勝者は——アイ!!!』
実況のアナウンスが、堰を切ったように会場を揺らした。
歓声が、波になる。地鳴りのような声量が天井を叩き、壁面の液晶パネルがアイの名前を映し出す。シアン、マゼンタ、金色のネオンが、祝福するように点滅を繰り返した。
しかしアイは、その歓声を遠くに聞いていた。
煙が晴れた盤面を、ただ静かに見つめていた。
息を、呑んだ。
父の圧倒的な支配の象徴であった『HAL』の文字は、消え去っていた。爆風が過ぎ去った後の盤面には、焼け野原のような静けさがある。
しかし。
その中に——残っているものがあった。
爆風を逃れた、アイのシアン色の石。それらは盤面の中心で、見事なまでに縦一列に連なっていた。
五つ。
ぴたりと、揃っている。
縦一本の線。
アイはしばらくその形を見つめ、それから——小さく、笑った。
それはアルファベットの『I』だった。
計算の「AI」でもなく、ただの瞳の「Eye」でもない。何者にも依存せず、過去に縛られず、自分の足で盤面の外の世界を歩んでいく——私自身(I)の、証明。
「お父さん。全部お父さんの読み通りだったんだね。」
「私はここに生きてるよ……お父さん」とアイは盤面の「I」の文字をなでる。
ぽつりとこぼした言葉に応えるように、盤面の向こう側で微かな駆動音が止まった。
ケイの瞳から、あの青白い明滅が消えた。
父のAIが——沈黙した。
まるで、すべてを見届けたかのように。
ゆっくりと、ケイが顔を上げる。その瞳に宿っていた狂おしいほどの天才の圧力は、もうない。そこにあったのは、少し疲れたような、無精髭の似合う「ケイおじさん」の——優しい眼差しだった。
「……まったく。あいつの計算通りってわけだ」
ケイは肩をすくめ、憑き物が落ちたように笑った。
「あいつは本当にサプライズが好きだったからね。最初から大きくなった君とこの大舞台で対決をし、君を驚かそうとするために——あいつはこのAIを私に託したんだよ。もちろん、君を悲しませないためにね。アイちゃんがジャケットのトリックを使うことも、HALの文字に気づくことも、ちゃんと全部読んでいた。最初にクロノスでのイカサマはあいつなりのいたずら心だろう。どこか子供っぽいところがあったからね、あいつは。クロノスもあの後、俺とあいつのAIの共同で開発したんだ...だけど、アイちゃんは父のイタズラもその強さすらも乗り越えた……アイちゃん、本当に大きくなったね」
ちゃん付けで呼ばれたのは、いつぶりだろう。
張り詰めていた糸が、切れた。
アイは盤面の上に額をつけ、子供のように声を上げて泣いた。勝者らしくなく、天才らしくなく、ただ父に会いたかった十七歳の子供として。
五万人が見ていることも、スタジアムの歓声も、何も聞こえなかった。
ケイはただ、黙って待っていた。
立ち上がりもせず、声をかけることもせず——ただ、そこにいた。それだけで十分だった。 十年前も、きっとそうだったのだ。何も言わずに消えて、ずっとそこにいた。
どのくらい泣いただろう。
アイはゆっくりと顔を上げ、袖で目元を拭った。インディゴブルーのジャケットの袖が、涙で少し滲んでいる。
「……台無しね。せっかくのお気に入りなのに」
「アイちゃんが泣いたのなんて、七歳ぶりじゃないかな」
「泣いてない」
「泣いてたよ」
ケイが、声を立てて笑った。
アイも、つられて笑った。
スコアは2対2。
いよいよ、C-5グランプリの頂点を決める——最終の第5戦だ。
アタッシュケースが二つ、それぞれの手元に置かれた。
アイはケースを開く。〈ステルス碁石〉。〈碁石爆弾〉。〈碁石レーダー〉。三つのアイテムが、静かに光を反射している。
アイの手が、迷わず動いた。
「さあ、最後だ。手加減はしないよ」
ケイが、静かに言った。その声はただのケイおじさんの、少しかすれた声だった。
「望むところよ。コテンパンにしてあげる」
アタッシュケースを閉じ、二人は——笑い合った。
「第5戦、スタート!」
スタートシグナルが鳴り響く。
シアンとマゼンタの石が、交互に盤面を彩っていく。
宝石のように輝く光の軌跡。復讐も、AIの重圧も、命を削るような殺気もない。ただ、サイバー五目という最高のゲームを純粋に楽しむ——一人のプレイヤーとしての喜びだけが、盤面に満ちていた。
アイは一手を置くたびに、盤面の向こう側を見た。
ケイが、いる。
そしてケイの中に——父が、いる。
父はずっとそこにいたのだ。十年間、ずっと。復讐という名の檻を破る日を、ただ静かに待ちながら。
父の残した言葉が、今ならはっきりとわかる。
盤面に囚われるな。私たちの人生は盤面の外にも広がっていて、過去から未来へと続いているのだから。
何手目かは、もう数えていなかった。
ただ打つ。ただ応じる。石と石が呼応するように、シアンとマゼンタが絡み合う。
これが、サイバー五目だ。
碁石爆弾も、ステルスも、レーダーも——関係ない。今この盤面にあるのは、二人の人間と、石と、それだけでいい。
やがて、決着の瞬間が来た。
アイは最後の一手を、右手でゆっくりと置いた。
透明でも、爆弾でもない。ただの、白い碁石。
それが盤面に触れた瞬間——電子音が、静かに鳴った。
アイは顔を上げ、眩しいネオンの光の向こう側を見つめた。
「アイっていう名前はな——人工知能『AI』ほどの賢さを持ちながら、真実を見つめる瞳『Eye』を持ってほしいという意味でな……」
「お父さんは本当にダジャレが好きねぇ」
と母が笑う。
「それとな……アイっていうのは『I』! 五目が並んだ時みたいで縁起がいいだろ!! ガハハハッ!」
「本当にくだらないことが大好きなんだから、もう……」
母があきれた顔で笑う。
「俺たちはアイのことを『愛』している」
父が、やさしく言った。
「アイも俺たち家族のことを、ずっと『愛』してくれるといいな……」
「それが本当のアイの由来でしょ! もうまったく……」
母が笑う。
父が笑う。
幼いアイも、つられて笑う。
白い和室に、三人分の笑い声が満ちている。
全てを思い出したアイの目は、温かさをはらんでいた。
私の名前は、アイ。
人工知能『AI』ほどの賢さと、真実を見つめる瞳『Eye』と——そして、自分自身の足で歩んでいく『I』。
父の愛を胸に抱き、過去ではなく未来を見つめて、私自身の人生を生きる。
それが——私の名前の、本当の意味だった。
さあ、次の一手を打とう。
私の、未来へ。