
退職金が消えた日⑩ 人生は終わらなかった
この物語はフィクションです。
実際の投資詐欺被害の手口や心理は、私の経験を基に考え構成しています。
最終章 人生は終わらなかった、その先に
春だった。
桜が咲いていた。
去年の春、恒一は定年退職を迎えた。
人生で最も大きな過ちを犯したのは、そのすぐ後のことだ。
あれから一年。
街は同じように春を迎えている。
だが、恒一はもう同じ人間ではなかった。
市民センターの会議室。
今日は被害防止講演会の日だった。
椅子が並び、資料が配られている。
参加者は五十人ほど。
高齢者もいれば、若い夫婦もいる。会社員らしい男性の姿もあった。
誰もが真剣な顔をしていた。
恒一は演台の横で深呼吸した。
以前なら緊張していただろう。だが、今は違う。
上手く話そうとは思わない。格好良く見せようとも思わない。
ただ、本当のことだけを話そうと思った。
司会者が紹介する。
「本日は、実際に投資詐欺被害を経験された田辺恒一さんにお話しいただきます」
拍手が起こる。
恒一はマイクの前に立った。
会場を見渡す。様々な顔がある。
最前列に、美智子がいた。
目が合うと、妻は小さく頷いた。
それだけで十分だった。
恒一は話し始める。
「私は六十二歳の時に騙されました」
会場が、水を打ったように静まり返る。
「退職金を失いました。借金も作りました」
誰も笑わない。誰も驚かない。
皆、続きを待っている。
恒一は続けた。
「最初は、自分を許せませんでした」
あの日々を思い出す。
眠れない夜。激しい後悔。絶望。妻への罪悪感。消えてしまいたかった朝。
すべてを思い出す。
「でも、今は少し違います」
恒一は窓の外を見た。桜の花びらが風に舞っている。
「私は騙されました。しかし――」
一度、言葉を切る。
「人生まで失ったわけではありませんでした」
会場が再び静まり返る。
その沈黙の中で、恒一は初めて、心からそう思えた。
失った金は戻らない。退職金も戻らない。借金も残っている。
だが、今こうして生きている。
妻がいる。仲間がいる。助けられた人がいる。
それは、決してゼロではない。
講演が終わる。
拍手が響く。長い、長い拍手だった。
恒一は深く頭を下げた。目頭が熱くなる。
講演後、一人の女性が近づいてきた。七十代くらいだろうか。その目には涙が浮かんでいた。
「主人も、騙されたんです」
女性は言った。
「ずっと、自分を責めていました」
声が震えている。
「今日のお話を聞かせたかった……」
恒一は何も言えなかった。ただ、もう一度深く頭を下げた。
帰り道、夕暮れの川沿いを歩く。
美智子が隣にいた。
風はまだ少し冷たい。桜の花びらが足元に落ちる。
二人はしばらく黙って歩いた。
やがて、美智子が口を開く。
「あなた」
「うん」
「少し若返ったわね」
恒一は苦笑した。
「借金持ちなのにか」
美智子も笑う。久しぶりに聞く、明るい笑い声だった。
「前は、未来のことばかり心配してた」
そう言われて、恒一は考える。
確かにそうだった。老後、年金、貯金、退職金……。失うことばかりを恐れていた。そして、その恐怖につけ込まれたのだ。
「そうかもしれないな」
空を見上げる。夕焼けが広がっていた。
美しいと思った。ただ、美しいと思った。
数字ではない。利益でもない。ただ今日という日がある、それだけで十分だと思えた。
橋の上で足を止める。川面に夕陽が映っている。
その光を見つめながら、恒一は静かに言った。
「退職金が消えた日にな」
美智子が振り向く。
「あの日、人生が終わったと思った。でも、違ったんだ」
恒一は微笑んだ。
「本当は、人生が始まった日だったのかもしれない」
美智子は何も言わなかった。
ただ、そっと恒一の手を握った。
三十五年前、結婚式の日と同じように。
二人は並んで歩き出す。
夕陽に向かって、ゆっくりと、ゆっくりと。
エピローグ
人は騙される。
賢い人も、真面目な人も、経験豊富な人も、誰もが騙される。
だから、騙された人を笑ってはいけない。明日、その席に座るのは自分かもしれないからだ。
田辺恒一は退職金を失った。借金も背負った。二度と戻らないものもある。
だが、人生は数字だけではない。
失ったものを数える人生より、残ったものを大切にする人生の方が、ずっと豊かだ。
桜は今年も咲く。そして、来年も咲く。
人も同じだ。
傷つき、倒れ、それでも立ち上がる。何度でも。
花が春に咲くように。
人もまた、希望の中へ帰っていく。
【完】