お詰めする袋はございますか?
タイトルのセリフを言われて面食らってしまった話だ。
ある日、俺は普段行かないスーパーを訪れた。
いつもとは違う店だったとしてもやることは変わらない。
そう難しいことじゃない。
買う品物を選んでカゴに入れ、
レジに並び、
店員にカゴを渡し、
会計する。
その時、想定するのは当然、
「袋要りますか?」に類する質問だ。
一昔前なら必要なかった言葉だが、レジ袋有料化が進んだことにより急によく聞くようになった。
俺は袋を買う派の人間だ。
たかだか数円なので気にするだけ時間がもったいない。
簡単に手に持てたり、のちに小分けにしたりゴミ出ししたりするのに活用できることの便利さを考えたら数円なんて安いもんだ。
だから俺が次に言うべき言葉は「はい」である。
俺は丁寧な印象を与えることをモットーとするジェントルマンなので、
「お願いします」を付け加えることも忘れない。
しかし聞かれたのは、予想だにしなかった「お詰めする袋はございますか?」であった。
口が完全に「はい」の準備をしていたため、「はい」と発音した後に、
(いや、問われているのは違うな)
(お詰めする袋だと?鞄に詰めようと思えば詰められるので答えは「はい」で正しいか?)
(「はい」だと袋を用意してくれないよな)
と、困惑が脳内を駆け巡り、結果として、
「はぃ…い、いや、持ってな…。く、下さい!袋下さい。」
と、いつも以上におどおどした態度を取ってしまった。
俺は挙動不審な印象を与えるジェントルマンなので、挙動不審だと思われることに抵抗はない。
苛立ちを覚えたのはその会話の非合理性だ。
全く論理的ではない。
だってそうだろう。
店員が聞きたいのは店員が袋を用意する必要があるかどうかのはずだ。
俺が詰める用の袋を持っているかどうかは関係がない。
買い物を詰める用の袋を持っていても今回の俺のように別途袋を必要な場合もあるし、持っていなくても素手で持てるから袋が要らない場合もある。
だから単純な「はい」「いいえ」ではこの質問は終わらないはずだ。
「はい、持ってます。だから袋要りません。」
「はい、持ってます。でも必要なので袋下さい。」
「いいえ、持っていません。なので袋下さい。」
「いいえ、持っていません。ですが袋要りません。」
といった、初等外国語学習書の翻訳文のような会話が必要になってくる。
ちっともネイティブじゃない。
俺は会計を終えた後、店員の非合理さに対する憤りと、あたふたした態度を取ってしまった悔しさから、悶々と考え込んだ。
会話に効率を求めることが間違っているのだろうか。
最近感心した考えに、「無駄」とは「豊かさ」である、というものがある。
「あれも無駄これも無駄」とむやみに切り捨ててしまっては、同時に豊かさが失われてしまう。
店員はそのように考えて、何事も効率を追い求める現代社会へのアンチテーゼとして為された発言だったのだろうか。
本当に社会が効率主義のようになってきているのだろうか?
根拠として何が考えられるのだろうか?
効率の定義とは?
などと考えが飛躍していったところで、発想の転換が生まれた。
この質問は、客がエコバッグを持参することを前提として設計された文句であるということだ。
もし買い物を詰める用のエコバッグを持っていたとしたら、「はい」と答えるだけで終わるのだ。
加えて、俺のように、詰める袋はあるが別途欲しがっている不届き者には、めんどくさい会話をさせるという罰を与えることができる。
逆に、俺の想定していた「袋要りますか?」の類の質問だと、エコバッグを持参しているしっかりとした人にとっては、丁寧に応対するとなると、
「これがあるので要りません。これに詰めてくれますか?」
と余分な1ラリーが必要になる。
そこに至って、ようやく俺は、わざわざ毎回袋を購入する愚かさに気が付いた。
全く論理的ではない。
だってそうだろう。
まず、袋代が掛かる。たかが数円だが、塵も積もれば山となる。買い物をする頻度を考えれば、1食分ぐらいはすぐに回収できるだろう。
そしてどうやら環境に悪いという噂を耳にする。
なによりも、俺が取り乱してしまった、「お詰めする袋はございますか?」の質問も、エコバッグを突き出しながら、「はい、持ってます」と「はい、どうぞ」を包含した、「はい」の二文字のみを発声するだけで解決することができる。
なんて効率的な会話なんだ。
まさか会話の合理性で環境問題を訴えてくるとは思わなかった。
おもしろい。
皆も持とう、エコバッグ。
ところでレジ袋有料化は環境問題に効果はあったんでしょうか?