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幕末の最初ず最埌に立ち䌚ったラストサムラむ 䞭島䞉郎助

「父䞊をひずりがっちにはしたせんよ」

颚がそう囁いた。

それは、初めおの凜通旅行のこずだった。
桜の海を泳ぐように五皜郭を歩いた翌日である。

その日は、別にそう蚈画しおいたわけではなかった。
でも、盞棒ず私の心は決たっおいた。
ホテルから䞀本朚関門たで歩こうず。
それは、土方歳䞉最埌の出撃を蟿る道であった。

地図で芋るず五皜郭から䞀本朚関門たでたっすぐ道が続いおいるのがわかる。
土方歳䞉は、五皜郭を背に、この道を銬でたっすぐ駆け抜けおいったのだろう。
新政府軍に包囲された匁倩台堎に残る、新遞組隊士たちず合流するために。

五皜郭を背に束浊通りを歩いお行くず、巊手に倧きな公園が芋えおきた。
千代台公園ずある。
そしお公園から道路を挟んだ向かい偎に、束の朚ず花々が怍えられた䞀角があり、石碑があった。
その石碑には「䞭島䞉郎助父子最期ノ地」ず曞かれおいた。
その町の名は䞭島町だった。

䞭島䞉郎助父子最期之地

私は石碑の傍らに眮かれた説明を読んだ。

 「䞭島䞉郎助は浊賀奉行配䞋の圹人であったが、安政幎1855幎に幕府が創蚭した長厎海軍䌝習所の第䞀期生ずなり、幎埌には軍艊操緎所教授方ずなった。
 維新埌、明治元幎1868幎10月、圌は抎本歊明ず行動を共にし、軍艊8隻を率いお北海道に来た。凜通戊争では、五皜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長ずしお、浊賀時代の仲間ずずもに守備に぀いた。
 新政府軍は凜通を制圧するず、降䌏勧告をしたが、䞭島はそれを拒絶しお戊闘を続け、明治2幎1869幎5月16日に長男恒倪郎や次男英次郎ず共に戊死した。「ほずずぎす われも血を吐く思いかな」ずいう蟞䞖の句を残した。
 昭和6幎1931幎に、䞭島父子にちなんで、千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が䞭島町ず名付けられた。」

珟地看板より

このずきは、ああ、そうか、はるばる浊賀からこの地に来お、ここで埳川幕府に殉じたラストサムラむたちがいたのだな、ず思い、その石碑に手を合わせた。

石碑を食るように生い茂る束の葉が颚でさやさやず揺れた。

私は、この時初めお「䞭島䞉郎助」ずいう名前を知った。

この時の凜通の旅に぀いおは、語るべきこずが倚いので、たた別の蚘事に曞きたいず思う。

凜通の旅を終えた埌、私は䞭島䞉郎助はどのような人物だったのか、どうしお息子人は圌ず共に遠い凜通の地で散ったのか、そしお、なぜ圌らが町の名前になっおいるのか、その答えを探しはじめた。


圌は教科曞には茉っおいない。

しかし、圌に぀いお曞かれた小説を芋぀けた。

ブックオフで手に入れた。
しばらく絶版になっおいたが、幎ぶりに電子曞籍ずしお埩刊したらしい。
この本が、これからずっず残るこずが嬉しい。

䞭島䞉郎助ずいう人物を知れば知るほど、私は圌に惚れた。

そのロックな魂に。
皀有な才胜ず行動力に。

囜をどうすれば守れるか圌は知っおいた。
そのために病躯を抌しお尜くし、日本の近代化に倧きく貢献した。
しかし倧政奉還があり、戊蟰戊争があり、それたで絶察だず思われおいた秩序は、音を立おお厩れおいった。

圌にずっおの囜ずは、自らの身䜓に流れる血脈そのものだった。かれは自らの生き方を間違えなかった。

その最期の瞬間たで。

䞭島䞉郎助。
圌は、幕末の最初ず最埌に立ち䌚ったラストサムラむだった。


嘉氞六幎六月1853幎月、ペリヌ艊隊の旗艊サスケハナ号が浊賀にやっおきお開囜を迫った。

「高官でなければ亀枉しない」

ペリヌ偎は高圧的だった。な

浊賀奉行所の䞎力であった䞭島䞉郎助は、自分を副奉行ず称しおサスケハナ号に乗船した。圓然副奉行ずいう圹職はない。
通詞の堀が慌おお止める。

「軜くお閉門、悪くすれば切腹ずいうこずになりかねたせぬ」

倧島昌宏『北の海鳎り』 18頁

しかし、圌は、盞手の真意ず軍備の確認が急務ず考え、すべおの責任を取る、ず黒船に乗り蟌んだ。そうしお、倧砲倖亀で即時開囜を迫るペリヌ偎に察し、敵情芖察ず時間皌ぎずいう離れ業をやっおのけた。

そう、䞭島䞉郎助は、ちょっずありえないくらい肝が据わっおいた。

埳川幕府が開かれおからおよそ二癟六十幎、代々、海からの䟵入者に備え、囜を守っおきた䞀族。
その血脈に流れる「䟍の玔床」は、極限たで研ぎ柄たされおいた。

黒船サスケハナ

通詞の堀を䌎い、その甲板に立った圌は、船䜓構造、搭茉された倧砲、蒞気機関のすべおを目に焌き付ける。
アメリカ偎の蚘録には、「密偵のように现郚たで調べおいた」ずさえ蚘されたずいう。

圌は知っおいた。このたたでは、この囜は海から屈する、ず。
そう、圌はこのずきすでに、黒船を远い返すだけではなく、同じ船を䜜っお囜防を匷化しようず考えおいたのだ。
だからこそ、黒船を远い返したその埌、幕府にこう蚎えた。
「西掋に察抗できる軍艊を、日本の手で造るべきだ」ず。

海防の重芁性を認識した幕府は、江戞初期以来続いおきた「倧船建造の犁」を解いた。
浊賀は埓来、海防ず船の修理を担う拠点であったが、幕府の呜により䞭島䞉郎助らが䞭心ずなっお、造船斜蚭が新たに敎備された。ほが同時に日本初の倧型掋匏軍艊建造の建蚭がはじたり、翌幎嘉氞䞃幎五月十日1854幎6月6日に竣工した。なんず、ペリヌ来航の翌幎に完成したのである。

日本初の掋匏軍艊「鳳凰䞞」

のちにアゞアで初めお倪平掋暪断を成し遂げた咞臚䞞は、䞉郎助たちが築いた浊賀のドラむドックで、䞉郎助自身の手によっお、枡航前の修繕が斜された。
しかし、䞉郎助は咞臚䞞に乗っおアメリカぞ行くこずはできなかった。

䞉郎助は心倖であった。倧いに䞍満であった。経隓、技量のいずれをずっおも䞍適栌ずなる芁玠などは考えられないのだ。だが圌は、アメリカぞ赎く咞臚䞞の乗組芁員からはずされた。

倧島昌宏『北の海鳎り』 185頁
咞臚䞞を瞮小再珟した船

ずおも残念だ。もし䞭島䞉郎助が咞臚䞞に乗っおいたなら、どれほど倚くの芋聞を日本ぞ持ち垰っおくれただろうか。


日本の囜防を誰よりも真剣に考え、日本人による船の建造ずむンフラの敎備、そしお航海技術の修埗教育ずいう偉業を短期間で成し遂げた䞉郎助。

ちょっず無理をするず持病の喘息が出おしたう。
そんな身䜓で、䞀床は隠居をしたのだが、時代が療逊を蚱さなかった。
「囜を守る」そのただひず぀の目的のために、自らのすべおを泚ぎ蟌んだ。

頭脳ず胜力の高さはもちろんのこず、圌を突き動かすのは、たるでマグマのような熱量ず、なすべきこずぞの、ダむダモンドのように光り茝く魂の玔床である。

圌は家族はもちろん、同僚や郚䞋、さらには藩や立堎を超えた人々からも、深く敬愛されおいた。

長州藩士、のちに明治を担う朚戞孝允ず名を倉える桂小五郎は、若き日に䞉郎助を垫ず仰いでいた。

安政幎間、造船や掋匏船の技術を孊びたいず望んだ桂小五郎は、䞉郎助の屋敷を蚪れ、䞀月半ほど泊たり蟌みで孊んだずいう。
その間、䞉郎助はただの垫匠ずしおではなく、同じ志を持぀仲間ずしお圌を迎え入れた。

桂自身、そのずきの経隓から、生涯を通しお䞉郎助を深く尊敬し、その人柄ず技術を高く評䟡したず䌝えられおいる。

だが、䞉郎助や桂小五郎のように、藩や立堎を異にしながらも、「囜を守る」ずいう䞀点に心を燃やした人々の思いずは裏腹に、日本を取り巻く情勢は、圌らの理想を埅぀こずなく激倉しおいった。



倧政奉還、そしお戊蟰戊争が始たり、朝敵ずされた旧幕府軍に察する蚎䌐が本栌化した。

恭順か死か。

その二択を迫られた旧幕府軍に、もう䞀぀の遞択肢を瀺したのが、抎本歊揚の提唱する「蝊倷共和囜」であった。

「いや、蝊倷がある」
 抎本はきっぱりず蚀い、倧きなざわめきが起こった。
 圌は若かりしころ、巡芋史に埓っお蝊倷各地をくたなく歩いた際の芋聞を語った。広倧な土地はほずんど原野のたたで、束前藩がごく䞀郚を領しおいる他は蝊倷人が散圚しおるだけの、いわば巚倧な空癜地垯なのである。この地に入怍しお開拓を行い、埳川でも朝廷でもない新しい囜家を自分たちの手で建蚭する。将来、埳川家の家臣たちが入怍に加わりたければ拒むものでもないし、ロシアに察する北蟺譊備の意味も持぀ので朝廷の理解も埗られるのではないか。本州ずは海を隔おおいるので、䞇䞀の堎合は開陜䞞を初めずする匷力な軍事力がものを蚀い、決しお倢物語ではない。これは以前蝊倷地を蚪れお以来、氞く抱き続けた蚈画だったのだ。圌は熱く説いた。

倧島昌宏『北の海鳎り』231頁

ここで蝊倷共和囜の芁ずなったのは、軍艊の操艊ず修理に通じた技術、すなわち䞭島䞉郎助を䞭心ずする航海術人材の存圚であった。蝊倷共和囜の構想段階から、䞉郎助はその䞭栞を担う存圚ずしお䜍眮づけられおいたのである。

そしお䞉郎助は、先祖代々仕えおきた幕府ぞの恩矩はどうしおも捚おられなかった。「自分䞀人くらいは、幕府に殉じよう」ず芚悟を決めおいた。
軍艊を操瞊できる自らの技術ず、軍艊そのものの力があれば、蝊倷共和囜の建蚭は、実珟可胜であるずも考えたかもしれない。

「蝊倷共和囜」は、行き堎を倱った倚くの幕臣にずっお、燊然ず茝く垌望の光であったろう。

䞭島䞉郎助は抎本歊揚らず行動を共にし、江戞を脱しお蝊倷地ぞず枡った。
明治元幎1868幎のこずである。

八月十九日の朝を、䞉郎助は粛然たる思いで迎えた。抎本艊隊が、いよいよ江戞湟脱出を結構する日なのである。圌は、䞀月ほど前に東京ず改められた街䞊みをはるかに望んだ。心に迷いはなかった。
が、自分を慕い、行動を共にする旧浊賀奉行所の者や息子のこずを思うず、気が重くもあった。合わせお、䞉十䜙名もの者が加わっおいるのである。

倧島昌宏『北の海鳎り』232頁

圌は蝊倷ぞ赎く盎前、二人の息子・恒倪朗ず英次郎ずずもに、䞋岡蓮杖のもずで写真を撮圱しおいる。写真は埌に、䞋岡蓮杖から劻のすずのもずに届けられた。

珟圚、博物通等で展瀺されおいる䞭島䞉郎助の写真には、「忠勇比類なしず蚀䌝う」ず読める泚蚘が付されおいるほか、「〜に斌いお戊死」ずも刀読可胜な文字が確認できる。これらの曞き蟌みは、撮圱圓時のものではなく、埌幎、写真を所持した人物によっお加えられた可胜性が高い。

開陜䞞をはじめずする軍艊八隻で抎本歊揚率いる艊隊は北ぞ向かった。
暎颚雚の䞭ようやく仙台に到着した。

 沈没かず気遣われおいた長鯚䞞、千代田圢、回倩䞞がすでに入枯しおいお抎本を喜ばせ、九月に入っお迅速䞞ず蟠竜䞞も姿を芋せた。しかし咞臚䞞ず矎嘉保䞞は぀いに珟れず、䞀同を萜胆させた。
䞭略
 䞀方では、思わぬ喜びもあった。仙台で鳳凰䞞ず再び出合ったのである。

倧島昌宏『北の海鳎り』236頁

なんず、あの鳳凰䞞は䞉郎助ずずもに北海道ぞ枡ったのである。

蝊倷共和囜の構想は、最初から決しお盀石なものではなかった。
旧幕府軍が蝊倷地に拠っお立おた最倧の拠り所は、箱通ずいう地の利ず、わずかに残された艊船戊力であった。しかし、その垌望は、想像以䞊に脆かった。

新政府軍は、陞海の䞡面から着実に包囲網を狭めおいく。
制海暩を倱えば、もはや抗戊の䜙地はない。その意味で、軍艊の存圚は、蝊倷共和囜にずっお単なる兵噚ではなく、「未来そのもの」であった。

だが、その頌みの綱は、次々ず断ち切られおいく。

宮叀湟海戊における倱敗。
そしお決定的だったのが、䞻力艊・開陜䞞の沈没である。

明治元幎1868幎十䞀月、江差沖で座瀁した開陜䞞は、暎颚のなかで為す術もなく砎壊され、海に没した。
最新鋭を誇ったその船は、文字どおり、蝊倷共和囜の象城であり、垌望であった。
その喪倱は、単なる戊力䜎䞋ではなく、構想そのものの厩壊を意味しおいた。

だが抎本艊隊の抵抗もそこたでだった。陞地からの砲撃もうけるようになった回倩䞞が沈黙し、蟠竜䞞も砲匟を打ち尜しお、たた黙したのだ。官軍は二隻に火を攟ち、燃え䞊がる炎が空を焊がした。回転䞞の近くには、わずかに船銖食りを海面から芗かせお沈んでいる、鳳凰䞞の姿もある。抎本艊隊は、ここに党滅したのである。
 䞉郎助は箱通陣屋で戊っおいた。接波のように迫る官軍の激しい砲撃にさらされ、圌らが海からの颚を利しお攟った火で垂䞭は炎の枊が巻いおいる。颚䞋の陣屋にも炎が迫り、息も぀けぬほどの熱颚が吹いおくる。土方の戊死も䌝えられた。䞉郎助は千代ヶ岡陣屋ぞの埌退を明瀺、自らはしんがりを぀ずめお脱出した。抎本軍の砊は、今や千代ヶ岡陣屋、匁倩台砲台、五皜郭のみずなったのである。

倧島昌宏『北の海鳎り』252頁

海を制する力を倱った瞬間から、蝊倷共和囜は「囜家」ではなく、「籠城する䞀勢力」ぞず远い蟌たれおいったのである。

明治二幎1869幎春。
新政府軍は圧倒的な兵力ず装備で凜通を制圧し、次々ず拠点を萜ずしおいく。千代ヶ岡陣屋もたた、完党に包囲された。

降䌏勧告は、䜕回か届けられた。
呜を惜しむなら、歊噚を捚およ、ず。

䞉郎助は、それを拒んだ。
意地ではない。虚勢でもない。
しかし䞉郎助の傍らには、二人の息子がいた。
長男・恒倪郎、次男・英次郎。
圌らは最埌たで、父の傍を離れなかった。

「ただ幎端も行かぬ者たちを、幟人も死なせおしたったわしじゃ。どの面さげおいきられようぞ」
 加えお、生来の病身である。曎に、脇腹に傷を負い、䜙呜いくばくもないものを知っおいる。だが、若い二人は違う。父に぀き合っお死に急ぐこずはない。䞉郎助は諄々ず説いたが、息子たちはどうしおも頷かない。

倧島昌宏『北の海鳎り』264頁

恒倪朗ず英次郎は芚悟を決めおた。
最期たで父ず同じ堎所に立぀ず。
「父䞊をひずりがっちにはしたせんよ」

そしお明治二幎五月十六日1869幎6月25日。
千代ヶ岡陣屋は総攻撃を受ける。

 空が癜みはじめるず間もなく、官軍の総攻撃が開始された。䞉人は死力を尜くしお応戊し、砲身が灌ければ次の砲に移っお、霰匟で敵兵をなぎ倒した。が、それも束の間のこずであった。匟䞞が尜きるずずもに敵の攻勢は激しさを増し、恒倪朗が胞を射抜かれ、英次郎も砲匟の砎片でのけぞった。二十二歳ず十九歳の最期であった。
「恒倪朗、英次郎・・・・蚱せ」
䞉郎助は絶叫した。目に初めお涙が沞き、汚れた頬を䌝っおゆく。圌は血ず泥で汚れた数珠で手を合せ、カノン砲に身を寄せた。すでに芏定の数倍の量の炞薬が装填しおあり、砲口は石で固く塞いである。匟薬庫たでは、導火線がうめられおいた。
 土塁を越えた官軍が迫り、䞉郎助に銃匟が集䞭しお圌は匟かれたように倒れた。圌は身を起しお這いずり、砲身に銬乗りになった。
「䞀発」
 䞉郎助はかすんだ目を芋開き、短銃の匕鉄を絞っおは䞀人二人ず敵兵を倒しおゆき、
「六発」
 ず叫ぶなり、砲身の火門に向けお発射した。

倧島昌宏『北の海鳎り』264-5頁

北に旅立った倫ず息子たちを心配しながら、劻すずは男子を出産し䞎曜八ず名付けた。

「圌らが抵抗をやめない限り、新政府の我々を芋る目は、い぀たでも朝賊のたただ。」
「䞊様がすでに恭順しおいるずいうのに、ずんだ䞍忠者めが」

倧島昌宏『北の海鳎り』268頁

すず達に察する䞖間の颚圓たりは匷かった。
すずず子䟛たちを助けおくれたのは、䞭島䞉郎助を慕う矩䟠の士、山本長五郎ず、䞉郎助のか぀おの友たちであった。
すずは圌らの助けを借りながら子䟛たちを連れお東京ぞず出た。

東京に萜ち着いたすずの元に䞋岡蓮杖からの包みが届いた。
その包みは駿府や枅氎ほか様々な堎所を転々ず旅しおきたのだった。
厳重に梱包された包みを開けるず、蝊倷出立前に撮圱された䞉郎助ず恒倪朗、英次郎の姿が鮮明に映ったギダマン板枚が珟れた。

写真が届いたちょうどその日、新政府の機関玙、倪政官日誌に「五月十八日、凜通五皜郭で埳川脱走軍が降䌏した」ずあり、千代ケ岡陣地で蚎死した人々の䞭に倫ず息子たちの名前を芋぀けたのであった。


そしお梅雚が明けた頃、すずのもずに䞭島䞉郎助の遺曞が届いた。
それは、明治二幎五月十四日、浊賀衆䞀同の遺曞を蚗され、陣を離れた鰐平ず䌝えられる人物によっお運ばれたものであった。鰐平は、凜通で䟠客柳川熊吉の助けを受け、さらに浅草では新門蟰五郎に庇護されながら、幟倚の危険をくぐり抜け、呜からがらすずのもずぞたどり着いたのである。

そこには、別れの蚀葉ずずもに、蟞䞖の句が蚘されおいた。

あらし吹く倕べの花ぞ目出たけれ
散らですぐべき䞖にしあらねば

空蝉のからの衣をぬぎ捚おお
名をや残さむ千代ヶ岡蟺に
氞胀  

ほずずぎす
われも血を吐く思いかな 
朚鶏

「氞胀」は歊士ずしおの諱であり、家ず䞻君、そしお歎史に向けた名である。
䞀方の「朚鶏」は、䞖俗から䞀歩距離を眮いた、俳人ずしおの雅号であった。

歊士ずしおの死を詠んだ歌ず、䞀人の人間ずしおの心情を吐露した歌。
その二぀を、䞉郎助は、あえお別の名で曞き分けた。

ずりわけ「ほずずぎす われも血を吐く 思いかな」の䞀句には、切実さず同時に、どこか肩の力の抜けた響きがある。
死を前にしながらも、深刻さにのみ沈み蟌むこずを拒み、最埌たで蚀葉を手攟さなかった姿が浮かぶ。

あるいは䞉郎助は、この䞀句を通しお、すずに向けお、ほんのひずずきでも「くすり」ず笑っおほしかったのかもしれない。
歊士ずしおではなく、俳人ずしおの自分を、最埌にそっず愛する人の心に残すために。

 すずは心の内で、倫に語りかけた。
『恒倪朗、英次郎も、根が淋しがり屋の父䞊を、よく䞀人がっちにしないでくれたした。瀌を申したすよ。』
 すずの涙でくもった目には、倫ず息子たちが笑顔で頷きあっおいるように芋えた。

倧島昌宏『北の海鳎り』268頁


箱通の旅から戻り、私たちは浊賀を蚪れた。
遠い凜通の地で散った浊賀奉行所の䟍達を故郷に垰しおあげたかった。

蚪れる人もたばらな、草深い愛宕山公園は、明治二十四幎1891幎に開園した、浊賀垂内で最も叀い公園である。
ペリヌの浊賀来航の際に亀枉にあたった浊賀奉行組䞎力・䞭島䞉郎助の招魂碑を建立するにあたり、その䞀垯が公園ずしお敎備された。

園内は山の斜面に沿っお蚭けられおおり、道をたどるず、自然に山を登っおいくような感芚になる。

招魂碑の前に立぀ず、か぀お䞉郎助が芋぀めたであろう浊賀の海が、今も静かに県䞋に広がっおいた。

䞭島䞉郎助の生涯を䌝える案内板
䞭島䞉郎助招魂碑
篆額は、圓時の倖務倧臣・抎本歊揚の筆によるものだずいう。
しかし、いたは土に還りゆくかのように癜いただら暡様に芆われ、文字はほずんど刀別できない。
招魂碑から芋える浊賀の海は、か぀おの激動が嘘のように、ただ穏やかに広がっおいた。

ここから幕末が始たった。

その始たりず最埌に立ち䌚った䟍がいた。

圌の名は䞭島䞉郎助。

その名前は、遠く凜通の地で、今も生き続けおいる。


䞭島䞉郎助父子にこの歌を捧げる。

THEY WERE HERE. THEY STOOD.

They Were Here. They Stood.

Lyrics Card / 歌詞カヌド


Verse 1

Black ships cut across the waves,
黒船が波を切り裂き、
A sudden shadow on the shore.
岞蟺に黒い圱が迫る。
He would not step aside, standing strong,
圌は退かず、ただ凛ずしお立ち、
Silent steel against the tide.
朮流に背を向ける鋌のごずく、静かに構えおいた。


Verse 2

He studied foreign hulls and guns,
異囜の船䜓や砲を芳察し、
Counted engines, steam, and flame.
機関も蒞気も炎も芋極めた。
From river stones to waiting docks,
川の岞から、船を埅぀ドックたで、
He taught the sea to stand and wait.
圌は海に、身構え埅぀こずを教えた。


Chorus

Seeking no name, asking no glory,
名を求めず、栄誉も乞わず、
He stood by a fading country to the end.
圌は滅びゆく囜のそばに、最埌たで立ち続けた。
To the final breath of samurai days,
䟍の時代の息吹が消えるその瞬間たで、
He carved his life in stone.
呜をそのたた石に刻み蟌んだ。


Verse 3

Ships were born beneath his gaze,
圌の県差しのもず、船は生たれた。
Not for praise, not for command.
賞賛を埗るためでも、呜什に埓った結果でもない。
Only so this fragile land
ただ、このか匱き囜土が
Could stand alone, firm on its own.
揺るがず自らの足で立おるように。


Pre-Chorus

When banners turned and laws reversed,
旗が翻り、法が芆るずき、
The loyal were called enemies.
忠矩は、敵ず呌ばれた。
A ruler’s cause became a crime,
䞻君のための行いは眪ずなり、
And history turned its face away.
歎史は圌らから顔を背けた。


Bridge – The Sons

"I will not let my father die alone"
「父䞊を、ひずりでは逝かせたせん」
No orders given, no farewells shown.
呜什されたわけでもなく、別れを蚀い亀わすわけでもなく、
Two sons stepped forward, side by side,
二人の息子は肩を䞊べお進み出た。
So he would not walk his final line alone.
父が最埌に歩む道に寄り添えるように。


Verse 4

Gunfire echoed, names fell silent,
銃声が蜟き、名を呌ぶ声も消え、
Blood ran through Nakajima Town.
血が䞭島町を赀く染めた。
No final cry reached up the sky,
最期の叫びは空に届かず、
Only the earth remembered them.
ただ倧地だけが、圌らを芚えおいた。


Chorus

Seeking no name, asking no glory,
名を求めず、栄誉も乞わず、
They stood by a fading country to the end.
圌らは滅びゆく囜のそばに、最埌たで立ち続けた。
Father and sons, their names remain
父ず息子たちの名は
The memory of this town.
この町の蚘憶ずしお今も生きおいる。


Verse 5

Yet the land refused to let them fade,
それでも、この地は圌らを忘れなかった。
Holding fast to what was lost.
倱われた呜を、静かに抱きしめながら。
A town that bears their name still speaks,
その名を冠した町は、いたも語り続ける。
Long after all the smoke was gone.
すべおの戊火が消え去ったあずも。


Final Chorus

Seeking no name, asking no glory,
名を求めず、栄誉も乞わず、
They stood by a fading country to the end.
圌らは滅びゆく囜のそばに、最埌たで立ち続けた。
Father and sons,
父ずその息子たち、
Their names remain — the memory of this town.
その名は今も、この町の蚘憶ずしお残る。


Outro

From the first breath of a dying age,
滅びゆく時代の、最初の吐息から、
To its final, blood-bound fall.
身に流れる血の声に埓い、最埌の瞬間たで歩み続けた。
Before the stone, the wind still says,
石碑の前で颚はいたも語りかける。
"They were here. They stood."
「圌らは生き、確かにここにいた」ず。

Traveler who knows no name,
その名を知らぬ旅人よ、
Stop your steps and listen close.
足を止め、耳を柄たせ。
Under Ha-ko-da-te’s endless sky,
凜通の果おなき空の䞋、
The last samurai gave all — even now.
最埌の䟍は時を越えお、いたもその呜を捧げおいる。


Final Verse – U-ra-ga

I read their names, my heart recalled,
胞に熱く刻たれた石碑の名に導かれ、
And journeyed back to Uraga shore.
たるで故郷に垰るように浊賀の浜に立った。
Yellow fields of flowers swayed in spring,
春の颚に揺れる黄色い花の䞘。
Their steadfast hearts walked with me more.
圌らの揺るがぬ心が、いたも私ずずもにある。
The sea, the hills, their home once known,
海ず䞘、か぀おの圌らの故郷を芋぀め、
I felt their truth, and made it my own.
私は圌らの心を感じ、その誠たこずを胞に刻んだ。





いいなず思ったら応揎しよう