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「映りたい男」 【創作大賞2026 エンタメ原作部門】

    タイトル:「映りたい男」

    あらすじ

    25年間勤めた会社を辞め、持て余した時間を埋めるためにエキストラを始めた「私」は、ある奇妙なベテラン男性と出会う。彼は執念ともいえるこだわりでテレビ画面の「画角」を読み、数秒でも多く映ろうとする「映りたい男」だった。それほど画面に映ることへ執着しているはずなのに、なぜかセリフや名前の残る「役付き」の仕事はあっさり断ってしまう。ほぼ確実に映るはずなのに、だ。その矛盾した行動の理由を探るうちに、「私」は彼が出演するドラマに、ある奇妙な共通点を見つける。画面の端に映る名もなきエキストラ。その姿を追い続けた先で、「私」がたどり着いた真実とは――。

    プロローグ

    「あの人、また映ってるよ。」
    テレビを見ていた妻が、画面の隅を指差した。

    刑事ドラマの取り調べ室。
    主演俳優のすぐ後ろで、刑事役の男が神妙な顔で立っている。

    セリフはない。
    名前も出ない。
    画面に映ったのは、ほんの3秒ほどだった。

    「よく気づいたね。」

    「あなたがいつも言うから覚えちゃった。」

    私は少し笑った。

    確かにそうだった。
    数か月前までは、私もそんな人がいることに気づきもしなかった。

    だが、一度気づいてしまうと、もう探さずにはいられない。
    病院の待合室。
    会社の会議室。
    商店街を歩く通行人。
    野球場の観客。
    刑事や警察官。
    時代劇では侍。

    画面の端には、いつもあの男がいた。

    主役でも脇役でもない。
    セリフもなければ、エンドロールに名前が載ることもない。
    それでも、なぜか毎回のように画面のどこかに映っている。

    エキストラ仲間の間でも、ちょっとした有名人だった。
    誰よりも画面に映る男として、半ばあきれられ、半ば感心されていた。

    最初は、承認欲求の強い少し変わった人なのだと思っていた。
    少しでも映りたい。
    少しでも長く。

    ただ、それだけなのだと。

    ところが、違った。

    彼には、そこまでして画面に映り続ける理由があった。

    その日から、私はドラマを見るたびに、主演俳優ではなく画面の端を見るようになった。

    「あ、いた!」

    彼が画面に映り続ける理由を知ってからというもの、画面の端に彼を見つけるたびに胸が熱くなる。

    第一章 47歳無職

    会社を辞めて最初に驚いたのは、一日がこんなにも長いのかということだった。

    47歳。

    25年間勤めた広告会社を退職した。
    1年ほど激務が続き、心身ともに限界を感じていた。

    ある日、「もう無理だ」と思った。
    出口を作らなければ、自分が壊れてしまう、という感覚だった。

    仲の良かった従兄弟が50歳で亡くなったことも、退職を決断する大きなきっかけになった。

    白血病だった。

    去年、一緒に温泉旅行へ行った時は元気だったのに、あっという間に亡くなってしまった。

    本当なら、もっと時間をかけて見送りたかった。
    しかし、葬儀の最中も仕事のことが頭から離れず、十分に別れと向き合うことができなかった。

    退職後の生活を何度もシミュレーションしてみると、質素に暮らせば数年は何とかなることも分かった。

    心身の限界。
    身近な人の死。
    そして経済的な見通し。

    いくつもの理由が重なり、私は会社を辞めた。


    退職後は、目覚まし時計を気にしなくていい。
    満員電車にも乗らなくていい。
    仕事で使っていたTeamsやSlackの通知に怯えることもない。
    携帯電話も鳴らない。

    メールも激減し、届くのは登録した覚えもないメールマガジンと迷惑メールばかりになった。

    会社員だった頃には想像もしなかった毎日だった。

    自由な時間が、驚くほど増えた。
    平日の昼間からサウナへ行ってみた。
    会社員時代は憧れていた過ごし方だった。

    ところが、毎日通ってみると三日で飽きた。

    平日の疲れを溜め込み、「やっと来られた」と思うからこそ、サウナは気持ちよかったのだ。

    いつでも行けるようになると、不思議なくらい特別感は薄れてしまった。


    退職直後の開放感も、一か月ほどで落ち着いた。

    その頃から、別の気持ちが顔を出し始める。

    「こんなことをしていていいのだろうか。」

    会社という居場所を失った喪失感だった。
    働いていた頃は、平日はサービスを提供する側で、休日だけ受け取る側だった。
    そのバランスが心地よかったのだと思う。

    しかし今は、毎日が受け取る側だ。

    温泉も、外食も、趣味も、すべて誰かが用意してくれたものを楽しむだけ。

    満たされないのは、「自分が何も生み出していない」という感覚が心の奥にあったからかもしれない。

    スケジュール帳の白い余白を見るのも嫌になった。

    何か新しいことを始めたい。

    そう思っていた時だった。

    Xに、一件のエキストラ募集が流れてきた。

    エキストラは、私にとって懐かしい世界だった。
    学生時代、テレビ業界に憧れ、テレビ局の裏側を見てみたいという軽い気持ちで始めた。
    映画、ドラマ、バラエティ番組、CM。さまざまな現場でエキストラや端役を経験するうち、CM制作の現場に魅了され、広告業界を志すようになった。

    広告会社に入社できた時は、本当にうれしかった。
    しかし、実際の仕事は、クライアントとクリエイターの間に立ち、双方の要望を調整し続ける毎日だった。

    管理職になると、今度は会社の上層部とメンバーの間に立ち、それぞれの不満を聞きながら根回しや調整をする仕事まで加わった。気づけば、あの頃の純粋な気持ちはどこかへ置き忘れていた。


    だからだろうか。
    エキストラ募集の投稿を見た時、広告業界を目指していた頃の自分を思い出した。

    少しだけ胸が高鳴った。
    時間だけは、たくさんある。
    もう一度、あの世界をのぞいてみよう。

    第二章 エキストラデビュー

    会社員時代は、仕事以外に何かをする余裕なんて全くなかったが、今はやろうと思いさえすれば、なんでもできる。時間はあるし、もちろん会社の許可もいらない。

    エキストラ募集の要項を確認してみると、どうやら好きな監督が新作映画を撮影しているらしい。

    ボランティアでの募集なので、謝礼は出ないようだ。

    「一度くらい撮影現場を見てみたい。」

    そして、好きな監督でもあったので、「少しでも作品づくりの力になれたら」という気持ちもあった。

    フォームに必要事項を入力し、写真を添付して応募した。

    当選者のみに連絡ということだったが、撮影の二日前になってもメールは来ない。有名な監督の作品だし、応募が殺到して落選したのだろうと思っていた。

    ところが前日になって、エキストラ事務所の担当者から当選のメールが届いた。思わず小さくガッツポーズをした。

    好きな監督の撮影現場へ行けることもうれしかった。

    それ以上に、「誰かが自分を必要としてくれている」という感覚が久しぶりで、それが何よりうれしかった。

    集合場所は都内の撮影スタジオだった。

    朝八時半。

    スタジオの前には、すでに何十人もの人が集まっていた。

    驚いたのは、平日にもかかわらず、私と同年代か、それ以上の男性が思った以上に多かったことだ。

    「みんな何の仕事をしているんだろう。」
    「それとも無職なのだろうか。」

    そんなことを、自分のことは棚に上げながら考えていた。

    撮影現場には多くのスタッフがいる。

    俳優部、照明部、録音部、美術部、演出部、制作部、衣装部、メイク部――。

    それぞれが自分の持ち場を持ち、役割が分かれている。

    中でも面白いと思ったのが、「俳優部」という呼び方だった。

    メインキャストは別格で、スターとして扱われているものだと思っていた。

    もちろん特別な存在ではある。

    それでも現場では、俳優も作品を支える一つの部署として「俳優部」と呼ばれていた。一人のスターではなく、一つの部署の一員。その考え方が印象に残った。

    そして、我々エキストラもその現場の一員である。

    エキストラへの指示は監督からではなく助監督が出す。助監督にもチーフ、セカンド、サードという役割があり、私たちを担当するのはたいていセカンドかサードだ。

    エキストラの仕事は実にシンプルだった。

    呼ばれるまで静かに待つ。
    また待つ。
    とにかく待つ。

    私の記念すべきエキストラデビューとなった役柄は「野次馬」だった。
    刑事ドラマで、殺人事件の現場に集まった野次馬である。
    私は営業で外回り中の会社員という設定だった。

    助監督がエキストラ全員を見渡しながら配置を決めていく。

    「はい、男性はこちら。」

    「女性はこの辺で。」

    「お二人はご夫婦の設定です。」

    初対面なのに、その瞬間から夫婦になる。

    「こちらは家族連れで。」

    今度は見知らぬ男性が父親になり、隣にいた女性が母親になり、若い女性が娘になる。

    撮影が終われば二度と会わないかもしれない疑似家族だ。

    「あなたとあなたは友達。」

    そう言われれば、疑似友達になる。

    そんな不思議な世界だった。

    続いて動きが決まる。

    「スタートでこちらの柱まで歩いてください。」

    「あなたは立ち止まって、『なんだなんだ?』という感じで見ていてください。」

    「ご夫婦は夕飯どうする、みたいな感じで話しながら歩いてください。」

    ほんの数秒のシーンのために、一人ひとりの動きが細かく決められていく。

    配置と動きが決まると、俳優の代役が入って段取りを確認する。

    CMではスタンドインという専門の代役がいることも多いが、ドラマや映画ではスタッフが代役を務めることが多い。

    段取りが終わると、いよいよ俳優本人が現れた。

    助監督が「○○さん、入りまーす」と声をかける。

    その瞬間、現場の空気が一段引き締まった。

    芸能人には「華」があるというが、その言葉を、この日初めて肌で感じた。五十代後半の渋い俳優だった。テレビで何度も見たことのある人が、目の前にいる。それだけで少し興奮した。

    撮影は、段取り、テスト、本番という流れで進んでいく。

    「本番、よーい。」

    助監督の声が響く。

    さっきまで談笑していた現場が、一瞬で静まり返る。

    カチンコが鳴り、芝居が始まる。

    そして、

    「カット!」

    の声で空気がほどける。

    しかし、それで終わりではない。

    今度は別の角度から。

    次はアップ。

    さらに引きの画。

    主役の目線。

    別のキャストの目線。

    同じ芝居を何度も繰り返す。

    テレビでは数十秒しか流れない場面に、こんなにも時間がかかっていることを私は知らなかった。

    撮影そのものは三十分ほどで終わった。


    第三章 画面の端の世界

    エキストラの仕事のほとんどは待ち時間である。
    撮影時間の九割は待機と言ってもいい。

    最初は退屈だと思っていた。

    ところが、この待ち時間が意外と悪くなかった。

    パイプ椅子の並ぶ控室で、隣に座った人とポツリポツリと話す。

    仕事のこと。
    家族のこと。
    健康のこと。
    過去に出演した作品のこと。

    会社では名刺交換から始まる人間関係も、ここでは違う。

    「今日は何役ですか。」

    「刑事です。」

    「私は会社員です。」

    そんなふうに会話が始まる。

    会社の肩書も年収も関係ない。

    エキストラをする理由も、人それぞれだった。

    俳優を目指している二十代。
    子育てが一段落し、若い頃の夢をもう一度追いかけ始めた五十代。
    お小遣い稼ぎに来ている人。
    推しの俳優を一目見たくて応募する人。
    定年退職後の新しい生きがいを探している人。
    非日常を体験したい人。

    私と同年代の四十代男性は、自営業という人が多かった。

    灯油販売をしていて、冬だけで一年分稼ぐという人。
    農家で、閑散期だけ参加している人。
    弁護士、税理士、司法書士、など士業の人。医師もいた。

    仕事を自分で調整できるから来られるのだという。

    会社員しか知らなかった私には、そんな働き方も新鮮だった。

    すっかりエキストラの魅力に取りつかれた私は、その後も通行人、会社員、酔っ払い、弁護士、刑事、町人、武士など、気が付けば三十本を超える作品に参加していた。

    応募してもなかなか当たらないという人もいたが、平日の昼間に動ける中年男性は重宝されるようで、私は比較的選ばれやすかった。

    さらに、遅刻、早退、ドタキャンをしないという会社員なら当たり前のことだが、その積み重ねが信頼につながっていたようだ。

    会社員役では、これまでの経験も役に立った。

    会議中の動き。
    電話の受け答え。
    資料を見るしぐさ。

    「あのお客さんとの打ち合わせだったら。」

    そんなふうに実体験を思い浮かべながら演じると、自然な動きになるらしい。

    一度、酔っ払った上司を介抱する部下役を演じた時、監督から、

    「君、いい動きだったよ。」

    と褒められた。

    会社員時代には当たり前にやっていたことが活きるとは思わなかった。会社を辞めてから誰かに褒められたのは久しぶりだったのでうれしかった。

    現場で会った人とは、その日のうちに別れる。

    「またどこかで。」

    そう言って別れるが、本当にまた会えることは少ない。

    東京近郊には撮影現場がいくつもあり、登録しているエキストラも何千人といる。

    だから、別の現場で偶然再会すると、それだけで少しうれしい。

    「あ、この前ご一緒しましたよね。」

    そんな一言から始まる顔見知りが、少しずつ増えていった。
    立ち話をする。
    ロケ弁を食べながら世間話をする。

    そんな緩やかなつながりが、私には心地よかった。


    その中に、一人ひときわ印象的な男がいた。

    年の頃は六十代前半。

    名前は知らない。

    おそらく定年後、時間を持て余して始めた趣味のようなものだろう。

    いつも一人で現場に来て、黙々と役をこなし、休憩中もほとんど誰とも話さない。

    撮影が終われば、そのまま静かに帰っていく。

    エキストラ歴が長い人の中には、出演歴を自慢したり、「そこ、敷地内には入らないで」「ここは土足禁止!」「バミり(立ち位置がわかるように貼っておくテープ)踏まないで!」などスタッフよりも指示をしてくる人もいた。

    そのおじさんもベテランらしかったが、先輩風を吹かすことも人に指図することもない。ただ黙々と自分の役割を果たし、静かに帰っていく。

    その姿がどこか職人のような雰囲気があって、私は好感を持っていた。

    エキストラという仕事を、自然体で楽しんでいる人なのだと思っていた。

    私は、この人を完全に見誤っていた。

    第四章 画角の神様

    私は、その人を物静かなベテランエキストラだと思っていた。

    その考えが、音を立てて崩れた。

    ある刑事ドラマの撮影現場でのことだった。

    その日、私は鑑識役だった。
    渡された鑑識の制服を着る。手袋をはめ、靴の上からビニール製の足カバーを装着する。帽子をかぶり、ヘアキャップとマスクをつけると、鏡の中にはもはや誰だかわからない男が立っていた。

    顔が隠れてしまう以上、今日は顔は映らないな、と自覚する。

    持ち道具である小道具のカメラと鑑識用機材ケースを受け取り、指示されたエキストラ用の控室へ向かった。

    しばらく待機時間となるようだ。

    その日は30人ほどのエキストラが集まっていた。

    刑事。
    鑑識。
    制服警官。
    野次馬。
    事件の目撃者。
    現場リポーターとカメラクルー。

    助監督が次々と立ち位置を決めていく。

    「鑑識の方はこちら」
    「刑事さん、もう少し前」
    「制服警官は入口側です」

    私は言われた通りの場所へ立った。

    刑事役は目撃者役に事情聴取をしている。

    現場リポーター役は、直前に実況のセリフが変更になったらしく、慌てて台本を確認していた。

    私は鑑識役として、事件現場を歩き回り、写真を撮るよう指示された。

    自分なりに「この辺でこんな感じかな」と動いていると、私の様子を見た監督が、

    「何してるのかわからん。ちゃんと動きをつけろ」

    と助監督へ指示を出したらしい。

    すると助監督から、

    「ここを撮ったら、こちらへ移動して刑事さんへ報告してください」

    と、具体的な動きを細かく説明された。

    その時だった。

    「そこ、映らないよ。」

    後ろから小さな声がした。

    振り返ると、あのおじさんだった。

    「カメラ、あそこ。」

    そう言って、部屋の隅にセッティングされたカメラを指差す。

    「あそこからパンして、こっちに来るよ。」

    さらに指先で、レンズがおおよそ描く軌道を空中になぞってみせた。

    そういえば、これまでカメラの位置なんてほとんど意識したことがなかった。

    指示された場所で、指示された動きをすることで頭がいっぱいだったのだ。

    「こっち、おいで。さりげなくね。」

    おじさんは二、三歩だけ横へ動いた。

    私は半信半疑のまま、その隣へ滑り込むように移動した。

    数分後。

    「本番いきます!」

    助監督の声が響き、カメラが動き始めた。

    レールの上を滑るように進むカメラは、おじさんが指差した通りの軌道を正確にたどり、私たちの目の前で止まった。

    本当に、おじさんの言った通りだった。

    カメラを見てしまうと目線が合ってNGになるので、私は横目でそっとレンズの向きを確認した。

    間違いなくこちらを向いていた。

    撮影が終わると、監督の周りへスタッフが集まり、モニターチェックが始まった。

    監督。
    助監督。
    メインキャスト。

    本来なら、エキストラが近づいていい場所ではない。

    ところが、おじさんは違った。

    ごく自然な足取りで、その輪の中へすうっと入り込む。

    誰かに話しかけるわけでもない。

    モニターを二秒ほど見つめる。

    それだけ確認すると、何事もなかったように戻ってきた。

    あまりにも自然な動きだったので、私は吹き出しそうになった。

    「今、モニターチェックに混ざってましたよね?」

    おじさんは悪びれる様子もなく笑った。

    「映ってなかったら困るから。」

    「確認してるんですか。」

    「うん。」

    「怒られません?」

    「たまにね。」

    後日、そのドラマの放送を見た。

    画面の端に、おじさんがいた。

    そのすぐ横には鑑識姿の私も映っていた。

    「あ、本当に映ってる。」

    それ以来、現場でおじさんを見つけると、自然と近くへ行くようになった。

    おじさんの近くにいると、映る確率が高いからだ。

    私自身、エキストラを続けていた理由は、現場が楽しかったからだ。

    好きな作品の世界に入り、好きな監督の作品づくりに少しだけ関われる。

    それだけでも十分だった。

    でも、せっかくなら映りたいという気持ちも、やはりどこかにあった。

    エキストラ仲間の間でも、おじさんは有名だった。

    「あの人の近くにいると映るよ。」

    誰かが冗談半分に言う。

    すると別の人が笑いながら続けた。

    「画角の神様だからね。」

    言い得て妙だった。

    おじさんは監督でもカメラマンでもない。

    それなのに、誰よりも画角を読んでいた。

    ある日、別の倉庫のシーンで、エキストラ数人でダンボールを運ぶカットがあった。

    見た目は空箱だが、中には重りが入っていて意外と重い。

    軽いものを重そうに持つ演技は難しい。

    だから、リアリティを出すために実際に重くしてあるのだ。

    撮影直前、おじさんが小声で言った。

    「今は持たなくていいよ。」

    「え?」

    「今のカット、俺たち映ってないから。」

    私は半信半疑だったが、おじさんの言う通り持たずにいた。

    「カット!」

    撮影が終わっても、誰からも何も言われなかった。

    本当に画角の外だったのだ。

    しかし、次のカットになると、おじさんの表情が変わった。

    「次は映る。」

    今度はちゃんと持とう。

    その一言で、私たちは本気でダンボールを抱えた。

    腰を落とし、ずっしりとした重みを感じながら運ぶ。

    おじさんの演技は自然だった。

    重い荷物を運ぶ姿は、本当に倉庫で働く人のように見えた。

    隣で演じていると、その空気に引き込まれ、こちらまで自然と役に入り込める。

    そして、そのカットでも、おじさんの読みは当たっていた。

    偶然ではない。

    この人は、本当に画角を読んでいる。


    第五章 執念

    次におじさんと再会したのは、CMの撮影現場だった。

    役柄はスタジアムの観客。広告主がスポンサーをしている某スポーツチームのサポーターという設定である。

    私自身は、会場で生のスポーツ観戦をした経験がほとんどないので、それだけでも新鮮だった。

    チームのユニフォームを着用し、頬にはフェイスペイントも施してもらう。

    十代、二十代の若者が中心だったが、全員が若者では不自然になるため、中年のエキストラも数人配置されていた。私とおじさんを含め五名ほどだった。

    おじさんも同じようにフェイスペイントをしていたが、失礼ながら、あまり似合っていなかった。普段の職人のような雰囲気とのギャップが妙におかしく、思わず吹き出しそうになった。

    とは言いつつ、私もおじさんと同じように、ちょっと浮いている感じなんだろうなと思った。

    エキストラは五十人ほど集められていた。

    本来なら数百人規模の観客を集めたいのだろうが、予算やスタジオの広さ、平日の昼間に集められる人数など、さまざまな事情があるのだろう。

    そこで、席の位置を何度も入れ替えながら撮影し、あとから映像を合成することで、画面上では数百人の大観衆を作り上げる。

    この手法は、時代劇の合戦シーンや大規模な葬儀のシーンでも経験したことがあった。撮影現場では、ごく当たり前に使われている技術らしい。

    この時の私は、今回もいつものように撮影が終わるものだと思っていた。


    今日も、助監督が一人ひとりの立ち位置を決めていく。

    「あなたは最前列、右から二番目です。」

    「こちらの方は四列目の真ん中。」

    「女性のお二人は隣同士でお願いします。」

    一見すると適当に決めているようにも見える。

    しかし実際には、カメラの画角や主演俳優とのバランスを考えながら配置されている。

    配置が決まると、監督が全体を見渡し、

    「その人、やっぱり二列目の左へ。」

    「そっちは少し詰めて。」

    細かな調整が入る。


    二列目にメインキャストが3名配置された。

    今をときめく若手男性俳優と、アイドルの女の子、そして先日おじさんと一緒に参加した刑事ドラマで主演を演じていた渋めのベテラン俳優だ。

    私は、そのすぐ後ろの三列目に配置された。
    メインキャストの真後ろというのは、かなり映る確率が高い「特等席」だ。

    しかしその反面、画角に常に入り続けるため、気が抜けず、監督からも細かい指示が飛んでくる。

    明らかに画角に入っていない時は、そのエリアにいるエキストラは「お休み」状態となり、緊張を解くことができるのだが、この位置ではそのお休み時間も少ない。

    ラッキーだけど、かなりのプレッシャーだな……と私が考えていた時だった。

    「すみません」

    私の後ろの列から声がした。 おじさんだった。静かに、しかし真っ直ぐに手を挙げている。 現場が一瞬だけ静かになった。

    「私を一つ前の列にしていただけませんか。」

    驚いた。


    撮影現場には、明文化されてはいないもののエキストラが絶対に破ってはいけないルールがいくつかある。

    「エキストラからキャストに話しかけてはならない」

    「個人SNSで撮影現場で知り得たことを発信してはいけない」

    そして、 「エキストラは指示通りに動き、演出に口を出さない」 ということだ。

    立ち位置。
    歩く速度。
    視線。
    動き。

    すべて指示に従う。それが絶対であり、当たり前だった。

    以前、ベテランのエキストラの先輩からこんなことを言われたことがある。

    「エキストラは備品だから。」

    最初は冗談かと思った。

    しかし、ある現場でスタッフ同士が、

    「この辺のエキストラどうする?」

    「あっちに運びます。」

    と話しているのを耳にした。

    「運ぶ」という言葉に少し驚いた。人ではなく、機材や小道具のような扱いにも聞こえた。もちろん悪気はない。
    撮影を効率よく進めるための業界用語なのだろう。

    それでも、「エキストラは備品」という言葉は妙に腑に落ちた。
    そう思っていた方が、余計な感情を持たずに済む。

    なので、おじさんの発言は異例中の異例だった。

    エキストラが自分から立ち位置を希望する。私はそんな場面を見たことがなかった。

    助監督は困ったような苦笑いを浮かべ、

    「すみません、今日はこの配置でお願いします。」

    とだけ答えた。

    もちろん、おじさんの希望は通らなかった。

    おじさんの位置は、後方のままだった。

    私の位置と変わってあげたいとも思ったが、エキストラが演出に口を出すのは御法度なので、黙っていた。

    おじさんの表情を盗み見たが、それほどショックは受けていなさそうだった。

    もし、おじさんがここで食い下がれば、撮影の妨げになると判断され、最悪の場合、その場で退場となる。登録しているエキストラ事務所にも連絡が入り、今後その会社から仕事が来なくなる可能性だってある。

    おじさんは黙って自分の位置へ戻り、何事もなかったように撮影に参加した。私はホッと胸をなで下ろした。

    段取り、テスト、と撮影準備が進んでいく。

    そしていよいよ「本番、よーい、スタート!」の声がかかった。

    その時だった。

    おじさんが、前の列、つまりメインキャストと私がいる列へと、ぐいっと身を屈めるようにして滑り込んできたのである。

    指示されていない勝手な動きをして、NGがかかるのではと私はハラハラしたが、撮影はそのまま続いた。

    「カット!」「チェックしまーす!」の声がかかり、

    その後「OK!」と声が響いた。

    「え、おじさんのあの動き、大丈夫だったの!? 」

    と意外に思っていると、予想に反して、その後助監督がおじさんのところへ歩み寄り、

    「さっきの、いい動きでしたよ」

    と声をかけていた。

    応援に熱が入って、興奮のあまり前のめりになってしまった、という自然な画になっていたようだ。

    撮影後の控え室で、衣装を着替えながらおじさんに小声で声をかけた。

    「すごかったですね、あの動き!」

    おじさんはニヤリと笑って教えてくれた。

    「段取りやテストでは無難に大人しく動いておいて、本番の一発でやるのがコツなんだよ」

    段取りやテストの段階で目立った動きをすると、「それ邪魔だからやめて」と言われる可能性が高い。しかし、本番の場合は、メインキャストのいい表情や最高の芝居が撮れたりすると、エキストラの多少の予定外の動きはどうでも良くなり、全体の勢いでOKとなりやすいそうだ。

    また一つ、テクニックを教えていただいた。

    しかし、同時に強い疑問が湧いた。

    そこまでして、映りたいものなのだろうか。

    たった数秒。

    名前も出ない。

    セリフもない。

    それでも、おじさんは常に画面に映ることに狂気とも言えるこだわりを見せる。ゴール前で一瞬の隙を狙うストライカーのように。

    その凄まじい執念が、私の心に深く印象に残った。


    第六章 辞退

    おじさんがドラマの役付きのオファーを断ったらしい――。

    そんな噂を耳にした。

    最初は聞き間違いだと思った。

    あんなに映ることにこだわっているおじさんが、そんなチャンスを断るはずがないからだ。

    エキストラをするようになってから、私はこの仕事の幅が想像以上に広いということを知った。

    一般にイメージされるエキストラは、通行人や観客、会社員、野次馬といった背景の人物だ。画面の一部として溶け込むことが役目で、セリフも名前もない。

    しかし、ときにはメインキャストの方々と一言、二言のセリフを交わしたり、書類か何かの受け渡しを直接行ったりなど、ちょっとした演技をすることもある。

    さらに、作品を通して何度も登場する「レギュラーエキストラ」や、オーディション・書類選考を経て選ばれる明確な「端役」もある。

    役がつくと、当然出演料は上がる。 通常の通行人や群衆役の場合、三千円から五千円くらいが相場だが、ちょっとした役がつくと一万円以上もらえることもあるし、エンドロールに自分の名前が載ることもあるのだ。

    俳優を目指す人にとっては、それは喉から手が出るほど欲しい大きな一歩だ。

    もちろん、おじさんのように「画面に映ること」を誰よりも大切にしている人にとっても、願ってもない最高のチャンスのはずだった。

    だから、その噂を耳にした時、にわかには信じられなかった。

    その話を教えてくれたのは、顔なじみのエキストラ仲間だった。

    昼休みに控室でロケ弁を食べていた時のことだった。

    「あのおじさん、この前レギュラーの話が来たんだって。」

    「すごいじゃないですか。」

    「でも断ったらしいよ。」

    私は箸を止めた。

    「……あの人が?」

    「そう。」

    「なんでですか。」

    「さあ。理由は知らない。」

    その男性も首をかしげていた。


    あれほど画面に映ることへ執着している人が、自分から映るチャンスを手放す。

    どう考えても辻褄が合わない。

    「おじさん、今日も来ているみたいだから、直接聞いてみたら?」


    撮影の合間に、私は思い切って本人に聞いてみた。

    「この前、役付きのお話を断ったって聞きました。」

    おじさんは驚いた様子もなく、前を見つめたまま

    「ああ。」

    とだけ答えた。

    「もったいなくないですか。」

    おじさんは少しだけ、寂しそうに笑った。

    「まあ、そうだよね。」

    「だったら、どうして断ったんですか。」


    私は、現実的な問題だと思っていた。

    拘束日数が長すぎる。
    他の仕事とスケジュールが被ってしまった。
    体力がきつい。
    ギャラが条件が合わなかった。

    そのあたりの理由だろうと想像していた。

    ところが、おじさんは少し考えてから、

    「その作品とは、縁がなかったんだよ。」

    と言った。

    「縁……ですか。」

    「うん。」

    それだけだった。

    それ以上は話さない。

    私は何となく腑に落ちないまま話を終えた。

    撮影が再開すると、おじさんは何事もなかったように持ち場へ向かった。

    そして、気づけば今日も一番映りそうな位置に立っていた。

    帰りの電車でも、その言葉が頭から離れなかった。

    「その作品とは、縁がなかった。」

    おじさんは画面に映ることができるのなら、どんな作品でも構わない人なのだと思っていた。

    しかし、どうやら違う。おじさんには、おじさんなりの基準があるらしい。

    その時の私は、まだその言葉の本当の意味を理解できていなかった。


    第七章 選択

    数日後、別の撮影現場で、またおじさんと会った。

    刑事ドラマだった。

    「……あれ?」

    ふと、私はスマートフォンを取り出し、これまでおじさんと一緒になった現場の記録を指でなぞっていく。

    刑事ドラマ。
    刑事ドラマ。
    CM撮影。
    刑事ドラマ。
    刑事ドラマ。

    これまでは気にも留めていなかったが、刑事ドラマが多い。

    CMもあるが、あのCMは確か刑事ドラマで主演を務める俳優が出演していた作品だ。つまり、おじさんと会った現場は、すべて刑事ドラマとの接点があった。

    そういえば、恋愛ドラマの現場でおじさんに会ったことは一度もない。
    学園ドラマでもない。
    医療ドラマでもない。

    画面に映ることへ異常なまでに執着する男。
    役付きのオファーさえ断った男。
    そして、刑事ドラマの現場ばかりを選ぶ男。

    いったい、この人は何を基準に作品を選んでいるのだろう。

    翌週、恋愛ドラマの撮影に参加した。
    店内の客役や路上の通行人役など、大勢のエキストラが集まる現場であったが、そこにおじさんの姿はなかった。

    さらに、その翌週。
    今度は刑事ドラマだった。集合場所へ着くと、おじさんがいた。

    やっぱりそうだ。刑事ドラマを選んで出演している――そんな私の仮説は、ますます確信へと変わっていった。

    「あ、おはようございます。」

    と声をかける。

    「おはよう。」

    おじさんは挨拶を返してくれる。

    いつもの穏やかな笑顔だった。

    私は思い切って聞いてみた。

    「おじさん、刑事ドラマがお好きなんですか。」

    「どうして?」

    「いや、よくお会いするので。」

    おじさんは少し目を細め、

    「そうかもしれないね。」

    と笑った。

    肯定とも否定とも取れない返事だった。


    その時、助監督の声が響いた。

    「警察官役の皆さん、お願いします!」

    撮影が始まる。

    主演俳優が廊下を歩く。

    制服警官がすれ違う。

    刑事が書類を抱えて走る。

    廊下には制服警官や刑事が慌ただしく行き交う。

    おじさんはいつものようにモニターを、さりげなくのぞき込み、何事もなかったように戻ってきた。

    「映ってました?」

    私が聞くと、

    「たぶん。」

    と笑った。


    おじさんは、作品を選んでいる。

    そして、その基準は「出演料」でも「役の大きさ」でもない。

    刑事ドラマを選ぶ理由。

    その理由がわかれば、おじさんがあれほど画面に映ることへ執着する理由も、わかるのではないか。

    答えは、もうすぐ手の届くところまで来ている気がした。


    第八章 画面の向こう側

    撮影が終わると、外はすっかり夕暮れになっていた。

    機材を積み込むスタッフさんたちに挨拶をしつつ、私とおじさんは最寄り駅へ向かって歩き始めた。

    撮影が終わったあとの帰り道には、独特の空気が流れている。
    さっきまで同じ「作品の世界」で何時間も緊迫感を共有していたのに、衣装を脱いで私服に戻った瞬間、それぞれの日常へと引き戻されていく。

    心地よい疲労感のなかに、少しだけ寂しさが混ざるあの感覚。私は、この撮影終わりの切なくも開放的な時間が好きだった。

    これも、エキストラを続けている理由の一つになっていると思う。

    駅までの道中、住宅街の細い路地を吹き抜ける夕方の風は、火照った肌に少しだけ涼しかった。

    「今日の撮影、早く終わりましたね」

    「そうだね、押さなくてよかった」

    歩調を合わせながら、おじさんが穏やかに笑う。


    初めて会った頃は、少し近寄りがたい人だと思っていた。

    画角ばかりを気にしている、一風変わったおじさん。
    そして画面に映ることに対して、異常なまでの執着を見せる謎の男。

    それが最初の印象だった。

    何度も同じ現場で顔を合わせるうちに、その印象は少しずつ、しかし確実に変わっていった。

    正式な役付きのオファーさえあっさりと断ってしまうのに、ただ刑事ドラマに映ることには、執拗なまでにこだわる。

    その矛盾が、ずっと引っかかっていた。

    歩くうちに、駅が前方に見えてきた。
    ここで別れてしまえば、また次にいつ会えるかわからない。

    今しかない、と思った。

    「おじさん」

    「ん、どうしたの?」

    おじさんが歩くスピードを少しゆるめて、こちらを見た。

    「一つだけ、聞いてもいいですか」

    「いいよ、何でも聞いて」

    私は足元に落ちる自分の影を見つめ、小さく息を吸い込んだ。

    「どうして……刑事ドラマばかりに出演するんですか」


    おじさんは、少しだけ顎を上げ、視線を空へと向けた。

    ビルの合間から覗く夕焼けが、おじさんの横顔を赤く染めていく。


    通り過ぎる車の音が、妙に遠くで聞こえた。 やがて、おじさんは前を向いたまま、静かに口を開いた。

    「……見てほしい人が、いるんだ」


    予想もしなかった言葉に、私は一瞬、言葉を失った。

    「見てほしい人?」

    「うん」

    「それって……ご家族、ですか」

    少しだけ、長い間が空いた。 電車の踏切の音が、どこか遠くでカンカンと鳴り響いている。


    「……そんなところだよ」

    それだけ言うと、おじさんは小さく笑った。


    大切な誰かを思い浮かべるような、やわらかな笑顔だった。

    その瞬間、これまで抱いていた「映りたいだけの人」という印象が、音もなく崩れていった。


    この人が泥臭く追いかけていたのは、画面の向こう側にいる、たった一人なのかもしれない。


    第九章 映りたい男

    「おじさん」

    「うん?」

    「その人って……もしかして、奥様ですか」

    しばらく返事はなかった。 ちょうど信号が赤になり、二人で足を止める。

    横断歩道の向こうでは、小さな子どもが母親と嬉しそうに手をつないで歩いていた。おじさんはその微笑ましい姿を、ただぼんやりと、遠くを見るような目で眺めていた。


    やがて、信号が青に変わる。 ゆっくりと歩き出してしばらくしてから、おじさんは静かに口を開いた。

    「もう、会えない人なんだ」

    もしかして亡くなっていて、天国で見ていて欲しいということなのか、と思った。聞いてはいけない質問をしてしまったのかと少し後悔したが、そうではなかった。

    おじさんは言葉を続ける。

    「正確には……会っちゃいけない人、かな」

    その静かなトーンだけで、ただ事ではない重みが伝わってきた。


    「離婚したんだ」

    おじさんは前を向いたまま、ぽつり、ぽつりと話を続ける。


    「定年退職した、そのすぐ後だったよ」

    「長年、不器用な自分を支えてくれたからね。これからは夫婦で、旅行にでも行こうかって話を振ろうとしたんだ。そうしたら、突然、離婚届を出された。本当に、寝耳に水だったよ」

    おじさんは自嘲気味に、小さく苦笑した。 その笑顔の奥に、当時の動転した記憶が滲む。

    「俺にとっては突然だったけど、妻はずっと、何年も前から考えていたことだったらしい。俺は……全く気づかなかった。仕事ばかりで、家のこと、家事も、子育てのことも、全部あいつに任せっきりだったからね」


    少しだけ、歩調が緩む。

    「子どもたちもとっくに独立していて、広い家に一人きりになった。情けない話だけど、自炊なんて一度もやったことがなかったから、調味料がどこにあるのかさえ分からなくてさ。……いなくなってみて、初めて身に染みたんだ。妻と過ごした何気ない日々が、どれほど大切で、どれほどありがたいものだったかって。もう、未練たらたらだよ」


    「働きすぎたんだろうね」

    おじさんは、自分の不甲斐なさを笑い飛ばすように、寂しく笑う。


    「最初はね、まだ普通に連絡も取れてたんだ。」

    「でも、時間が経つにつれて、だんだん返事が来なくなった」

    「電話も出てもらえない。メールも返ってこない」

    「それでも……諦めきれなかったんだよね」

    おじさんは照れ隠しのように、少し笑った。


    「今思えば、相当しつこくて嫌だったんだろうね。何度も電話したし、手紙も書いた。だけど、一度も返事はなかった」


    「……家の近くまで、行ってしまったこともあるんだ。少しだけ話したかった。顔を見るだけでもいい、そう思った。でも、向こうからしたら、ただ怖いだけだよね」


    自分に言い聞かせるように、寂しく笑う。

    「警察を、呼ばれたよ」

    私は、かけるべき言葉を失って立ち尽くしそうになった。


    「それ以来、一度も会ってない」

    夕方の冷たい風が、二人の間をすり抜けていく。

    「家に帰ってから、毎日毎日考えたよ。もう会えない。電話もできない。手紙を送ることもできない。じゃあ、俺はどうしたらいいんだろうって」


    おじさんは、ふっと視線を落とした。

    「そんなある日、家でテレビを見ていたんだ。刑事ドラマだった。妻が、好きだったんだよ。昔から」

    私はただ、黙って聞いていた。


    「あの俳優さんが出ると、必ずテレビの前に座って観ていた。『ああ、この人がまた出てる』なんて、嬉しそうに言いながらね」

    その瞬間、私の中ですべての点と線がつながった。

    刑事ドラマばかりを選ぶ理由。

    同じベテラン俳優が出演する作品。

    顔がはっきり映る位置への執着。

    すべて、たった一つの願いのためだった。


    「だから……」

    私がつぶやくと、おじさんは小さくうなずいた。


    「テレビに出たら、妻が俺のことを見つけてくれるかもしれない、と思ったんだ。そして、もしかしたら、よりを戻そうと考えてくれるかもしれないって」

    少し照れたように、子どもっぽく笑う。

    「もちろん、そんな都合のいいことあるわけないって、自分でも分かってるよ。奇跡みたいな話だ」


    「でもね」

    おじさんは空を見上げた。

    「人って、どうしても期待しちゃうんだよ。もしかしたら、って」

    「気づいたとしても、結局、何も起きないかもしれない」

    「それでもね」

    おじさんは、いつもの穏やかな笑顔に戻って私を見た。

    「何もしないよりは、ずっといいから」


    私は何も言えなかった。 その可能性が限りなく小さいこと、おじさん自身が一番よく分かっている。それでも、その小さな蜘蛛の糸のような可能性を、おじさんは手放せないのだ。いや、手放したくないのだ。


    それが、今のあの人の生きるよすがだから。


    改札を通って、プラットフォームに向かう。

    私とおじさんは方向が違うので、別のプラットフォームになる。


    「じゃあね」 おじさんはいつものように、軽やかに手を振った。

    「また現場で」

    「はい。お疲れさまでした」

    私は深く頭を下げた。


    顔を上げると、おじさんの背中はすでに、家路を急ぐ人の波の中へと消えていた。

    この日以来、私はドラマを見るたびに、画面の端を見るようになった。

    画面の端の、ぼやけた背景を注視する。

    病院の待合室ですれ違う人。

    夕方の商店街を歩く買い物客。

    会社の会議室の奥に座る社員。

    警察署の廊下を通り過ぎる制服警官。

    ほんの数秒しか映らない、ピントすら合っていない人たち。

    名前もない。セリフもない。

    でも、その一人ひとりに人生がある。

    誰にも言えない事情がある。

    譲れない願いがある。


    エキストラは背景だと思っていた。

    でも違った。

    画面の端には、誰も知らない物語がある。


    今でも刑事ドラマを見ると、私は無意識に画面の端を探してしまう。

    そして、おじさんを見つけるたびに、

    今度こそ気づいてもらえることを願う。


    あの人は、映りたい男じゃなかった。

    たった一人に、見つけてほしかった男だった。


     
     
    浮雲(うきぐも)と申します。 40代で早期退職してしばらく無職生活を送った後、最強開運日(2026年3月5日)に開業しました。 事業の柱は、芸能、執筆、コンサルです。 前職は外資系マーケティング会社の執行役員でした。 高校生と大学生の子供がいて、家のローンはあと30年あります。

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