
ヨハネス・フェルメール(伝)《オランダパンクの夜明け》|Le Cabinet de Chineur名画の裏道を歩く、物好きの蒐集室。|荒川騷香
収蔵品002|オランダパンクの夜明け

作品詳細
ヨハネス・フェルメール(伝)
《オランダパンクの夜明け》
制作年不詳
油彩・カンヴァス
44.5 × 39 cm
Le Cabinet de Chineur 蔵
来歴
本作は1970年代後半、ロンドンの小さなLIVEハウスのバーカウンター脇に飾られていた一枚として知られている。
当時、店の常連たちはこの絵を、作者名ではなく《鼻ピーギャル》と呼んでいたという。作者や来歴を気にする者はほとんどなく、むしろグラスを置く位置の目印、あるいは待ち合わせの目印として扱われていたらしい。
長年にわたり、作品は煙草のヤニ、酒の飛沫、照明の熱、そして連夜の演奏による低音の振動にさらされ続けた。さらに一時期、何者かのいたずらによって画面の一部に鋲が打ち込まれていた形跡も確認されている。
そのため画面全体は黒くくすみ、少女の表情もほとんど判別できない状態にまで劣化していた。
その後、店の閉店に伴い本作は市場に流出。修復作業によって青いターバン、耳元の真珠、そして鼻先の金色の輪が鮮明に姿を現した。
一時はフェルメール周辺作、あるいは《真珠の耳飾りの少女》に関係する失われた習作ではないかと注目されたが、顔料、筆致、来歴、そして鼻先の態度をめぐって現在も議論は続いており、フェルメール本人の作であるかどうか、いまだ真贋を問われている。
ただし、誰が、いつ、何のためにこの静かな少女へ鼻飾りを与えたのか。
そして、なぜ彼女はそれをこれほど自然に受け入れているのか。
その謎は、今も明らかになっていない。
作品解説
暗い背景の中から、少女が静かにこちらを振り返る。
青と黄の布を組み合わせた頭部の装い、肩越しに向けられた視線、柔らかく開かれた唇、そして耳元に光る真珠。いずれも、オランダ黄金時代の肖像画に見られる静謐な光の扱いを思わせる。
本作で特に注目されるのは、光が少女の顔だけでなく、二つの装飾品へと慎重に配されている点である。耳飾りの真珠は、頬の陰影と呼応しながら、画面右側に小さな輝きを生み出している。一方、鼻先の金色の輪と真珠は、顔の中心近くに置かれ、鑑賞者の視線をいったん唇の周辺へ留める役割を果たしている。
この配置によって、少女の表情は単なる清楚さや神秘性にとどまらず、わずかな異質さを帯びる。
しかし、その異質さは画面全体の調和を乱してはいない。むしろ、抑制された色彩、暗い背景、滑らかな肌の描写の中に自然に溶け込み、人物の個性として静かに受け入れられている。
本作は、古典的な肖像画の形式を保ちながら、装飾の一点によって人物像の印象を変化させている。少女は挑発的に振る舞うことなく、ただ穏やかにこちらを見返す。その沈黙の中にこそ、本作の不思議な強度がある。
館長メモ
耳で名画になり、鼻で伝説になった。