
『月夜の桜』 第9話—蛇は囁いて—
目次
・第一章、図書館の談話室にて
・第二章、柳田小夜のノート
・第三章、戻ってきた日常
• あとがき
第一章、図書館の談話室にて
「やあ、咲夜。きっと来ると思っていたよ」。
右手を俺に振りながら、彼―蛇田志信は言った。
図書館の2階にある談話室。
ガラスでできている扉を軽くノックしてから開ける。
机を挟んで奥にある椅子に、彼は腰かけていた。
親しみやすさを演じているのか、笑みを浮かべている。
だが、目元は笑っていない。
落ち着かないのだろう。
目線が、俺の顔と手元に置いたノートを往復している。
俺の視線に気が付いたのか、軽く咳払いをして体を動かす。
俺の鼻腔に、ある匂いが入り込んできた。
甘い……匂い。
リンゴのような爽やかな匂いじゃない。
脳を軽く揺さぶる香りだ。
頭が……少しぼんやりしてしまう。
「この匂い……なんだっけ?」
俺の呟きを聞いたのか、彼の口元がまた大きく歪んだ。
「これは白檀の香りだよ。ほら、よくあるだろう、お寺とかで。僕の親が信心深くてさ、よくお寺にお参りに行っていたんだよ。」
親に連れられてお寺に行くうちに、この匂いが好きになってさ。
彼がそう続けるが、頭にあまり入ってこない。
俺が頭を振ると、蛇田は声を立てずに笑う。
「少し、匂いがきついみたいだね。ドアは開けっ放しでいいよ。」
どうせ、聞かれて困る話なんてしないからね。
そう、蛇田は囁いた。
談話室の扉を開けて、俺は部屋の外に出る。
そして、深呼吸を何度か繰り返した。
エアコンが聞いているせいか、空気が冷たい。
新鮮な空気が肺に入り込むたびに、頭の中がすっきりしていく。
―俺は彼に乗せられるんじゃない。梓のことが知りたいだけだ。
そう、自分に言い聞かせる。
梓が、俺に話してくれなかった過去。
村の因習。
桜の祭り。
行方不明の柳田小夜さん。
真実を、俺は知りたいんだ。
部屋に戻ると、蛇田は持ってきていたノートを広げていた。
「待っていたよ。じゃあ、早速始めようか。」
戻ってきた俺が向かいの椅子に腰かけるのを待ってから、蛇田は言った。
「蛇田。俺が知りたいのは、二つだけだ。梓の村の話と、柳田さんの話。それ以外の話をして誤魔化すつもりなら、帰るからな。」
蛇田の目を見ながら、俺は言う。
「大丈夫。ちょうどその話をする予定だったから、さ。」
蛇田は真面目な顔をしてから、軽く身じろぎした。
例の、白檀の香りがまた漂ってくる。
何気ない動作だったのかもしれない。
でも俺には、口を開いて待ち構える蛇に見えた。
第二章、柳田小夜のノート
「そのノートは?」
俺は机に広げられていたノートを指さす。
「柳田さんのフィールドワーク用のノートだよ。文献からの引用とか、柳田さんのアイディアとかメモが書かれているんだ。いやあ、なかなか面白い内容だよ。」
「なんで、お前がそんなの持っているんだ。」
「僕はこれでも、柳田さんのフィールドワークのパートナーだからね。彼女から預かっていたんだよ。それはそうと彼女、ずいぶんと天月さんのことが気になっていたんだね、ずいぶんと調べてあるよ。桜の樹に捧げる祝詞とか、それにまつわる柳田さん自身の考察とか。」
俺が言葉に乗せた毒に気が付いていないのか、明るい口調で蛇田は言う。
そして、ノートの左上を指さして言った。
「ほら、ここの文章を読んでみてよ。」
彼の言葉にうなずいて、俺はノートを読んだ。
「桜の樹に捧げる『盟約の唄』と呼ばれる祝詞がある。以下の祝詞を唱えながら、巫女は生贄の血を桜の樹の根元にそそぐ。『盟約の桜は与える。 人の世の栄華を。 盟約の桜は欲する。 生者の血肉を。 盟約の桜は飲み干す。 贄の生き血を。 盟約の桜よ咲き誇れ。 贄の血で花を染めよ。 巫女よ舞い踊れ。 盟約の桜を言祝げ 巫女よ舞い踊れ。 想いを桜への供物に。 巫女よ舞い踊れ。 贄を喰らい桜は咲く』。このことから、生贄は稲や動物ではなく、人間だった可能性がある。」
蛇田は満足げな溜息を洩らした。
「その通りだよ、咲夜。天月さんの親が村長だと前に話したね。天月さんの家は代々、その巫女の役割を担ってきたんだ。そして巫女はこの儀式を執り行う前に、必ず唱える言葉があるんだ。」
そう言うと、蛇田はノートを何ページかめくって読み上げる。
「かこめ、かこめ。
きょうの にえ を。
とりかこんで うたえ。
かみ への ささげうた。
かごめ、かごめ。
きょうの にえ は とり。
かごの なか の とり は、
ひざ を かかえて ないている。
いつ、いつ、でやる。
ことり は うたう。
さくら の かみがみ。
よあけ の うたを。
つきよ の ばんに。
つる は とんで、
かめ は こうら に。
さくら は よる に。
きょう の にえ よ、
うしろ を ごらん。
あなた の しょうめん。
いる のは だあれ。」
談話室の温度が、急に下がったように感じた。
俺の背中を、冷たい汗が流れていく。
無意識のうちに額に触れていた。
指先が、いつの間にか冷えている。
でも、その冷えが今の俺には心地いい。
「何だ……これは。」
「これが必ず言わないといけない言葉、さ。この言葉の下に、柳田さんの考察が付け加えられている。『かごめかごめの歌は子供の遊び歌として有名だが、何か意味があるのではないだろうか。ある子供を座らせてから、その子の周りを他の子供達が手をつないで円を作る。そして、かごめかごめと歌いながら回っていく。夜明けと晩、鶴と亀。いずれも互いに対になる言葉だ。』」
胸の鼓動が、うるさい。
ただでさえ彼の声は聞こえにくいのに。
彼の口元に、俺は耳を近づけてしまう。
「『さらには、こう続く。後ろの正面だあれ、と。後ろの正面、つまり真後ろなんて人間には見えやしない。この言葉は、その子供に降りた何かへの呼びかけなのではないか。そして、その何かが応えた時から、真の儀式が始まるのだ。』」
口を大きく広げて、蛇田は囁いた。
「君は、どう思う?」
第三章、戻ってきた日常
「ただいま。梓。」
アパートの扉を開けて俺が言うと、梓の声の代わりにテレビの音が流れてきた。
「今歌ったこの歌は、不安で眠れない人に『あなたは一人じゃないよ』と伝えるために作ったんです。」
男性のその言葉に、相槌を打つアナウンサーの声。
何か、変だ。
鼓動を鳴らし始める胸を押さえながら、俺は居間に入る。
ソファーの上で、梓が目を閉じて横たわっていた。
「梓!」
「お帰り、咲夜。」
瞼を擦りながら、梓は言った。
よかった。寝ていただけか。
胸をなでおろした俺に、彼女は囁く。
「昨日はごめんね。あなたを追い詰めるつもりなんてなかったの。」
声が、震えている。
その瞬間、俺の胸を鋭い刃が切り裂いたように感じた。
ソファーまで歩いて、梓をそっと抱きしめる。
「俺の方こそ、ごめんね。」
君を拒絶しないって誓ったのに。君に、また怖い思いをさせてしまった。
そう囁いた俺に、彼女は安心したように笑った。
あとがき
日常は、本当に戻ってきたのでしょうか?