認められる喜び『ひとはなぜ「認められたい」のか』 -233
弟子
『ひとはなぜ「認められたい」のか』を読みました。
その本の中で、「存在の承認」と「行為の承認」という言葉が出てきたんです。
「存在の承認」は、『あなたはここにいてよい』という承認です。
一方、“行為の承認”は、『あなたのやっていることは意味がある』『役に立っている』という承認です。
それで、最近考えるんです。
人は、「行為の承認」がないと、活力が落ちるんじゃないかって。
仕事で、「給料を払っているんだから、認められなくていいだろう」ではなくて、自分が何か役に立っている、意味があると思えないと、しんどくなる気がするんです。
師匠
その感覚は、大事じゃ。
弟子
でも、もう一つ思ったんです。
「行為の承認」って、自分が何かをやらないと、そもそも得られないですよね。
だから、承認だけを求めてもだめなんじゃないか、と。「行為の承認」はされないし、気を使ってしてくれてもうれしくないと思うんです。
何もしていないのに、『認めてくれ』は、難しい。
やろうとしても、その“やる場”が与えられていないことですよね。
師匠
……そこなんじゃよ。
「行為の承認」という言葉を聞くと、多くの人は『褒めること』だと思う。
しかし、本質はそこだけではない。
まず、「行為」が存在しなければ、「行為の承認」も存在しない。
つまり、人が活力を持つためには、『認める』以前に、行為ができる場、すなわち『その人が動ける場』が必要なんじゃ。
それに対してできることは、
仕事を与える。
役割を与える。
挑戦できる場を与える。
相談できる場を与える。
失敗しても終わらない空気を与える。
人は、「何かをしている」からこそ、『自分はここにいる意味がある』と感じられる。
だから、「行為の承認」とは、単に評価することではなく、「行為できる状態」をつくることも含んでいるんじゃよ。
弟子
それは、マネジメントにも関係ありますね。
つまり、上司は「認める」だけでなく、「仕事を与える」必要がある、と。
行為ができる「場を与える」必要がある、と。
与えることで『あなたに期待している』を伝える。
でも、それって難しいですね……。
与えすぎても負担になるし、与えなさすぎると、『自分は必要とされていない』になる。
師匠
じゃから、「見ている」ことが大切なんじゃ。
人はな、単に仕事量で疲弊するわけではない。
『何をしているか誰も見ていない』
『意味が分からない』
『どうせやっても同じ』
これが続くと、心が削られていく。
逆に、大変でも、
『見てくれている』
『役に立っている』
『意味がある』
と思えると、人は踏ん張れることがある。
弟子
それも「行為の承認」なんですね。
師匠
そうじゃ。
そして、その土台には「存在の承認」がある。
『あなたはここにいてよい』という承認じゃ。
存在を否定される場では、人は行為へ向かえん。
失敗を恐れ、萎縮し、空気ばかり読むようになる。
じゃから、本当に大切なのは、
『存在を認める』ことと、
『行為できる場を与える』ことの両方なんじゃ。
存在の延長に行為があるとか、そういう話しじゃない。「存在の承認」と「行為の承認」、両方必要なんじゃ。
人は、「認められたい」存在じゃ。
しかしそれは、単に褒められたいのではない。
『自分の存在や行為には意味がある』と感じたいんじゃよ。
じゃから、人を活かすとは、
ただ優しくすることでも、
ただ評価することでもない。
「あなたが動ける場」をつくり、
「その行為には意味がある」と伝え、
「失敗しても存在までは否定しない」こと。
それが、人が活力を持つ土台、そういうことじゃな。