
ほつれた糸を引く─ほころぶ17の風景
はじめに
「ほころぶ」という言葉は、面白い言葉だと思います。
壊れかけている状態を指すこともある。
何かをほぐしていく糸口でもある。
ほつれた糸を一本、引いてみる。
すると、隠れていた構造が、ふっと現れる。
私は長く、CX(顧客体験)の仕事をしてきました。
その中で感じていることがあります。
体験は、完璧な瞬間に立ち上がるのではない。
むしろ、小さなほころびの中に、その本質がある。
電車に乗り遅れた瞬間。
自分のクルマを間違えた瞬間。
焼き鳥屋で隣のカップルにイライラした瞬間。
そんな、ささやかなほころびを観察してきました。
ここに並んだ17のエッセイは、その記録です。
どこから読んでいただいても構いません。
ほつれた糸の、気になった一本から、引いてみてください。
目次
私だけだった
期待は、満足を追い越す
12:33は、60秒ある
エンドロールで、追い出された夜
クリックは、敵か味方か?
大福餅はデジタルにはならない
私は「ぢ」が入力できない
馬と組織
なぜ、すべてが同じに見えるのか?
テプラは、テプラである
手軽は、丁寧が引き取る
分かっている店は、分かっている
ラグジュアリーはどこにある?
無関心、という自由
わかっているのに、見てしまう
顧客は、満足していない
待っている間に、何かで満ちている
私だけだった
焼き鳥屋に入りました。
スタッフは全員外国人でしたが、
日本語がとても流暢です。
「お待たせしました」
そう言いながら笑顔で串を置いていく。
店には活気があり、
みんなテキパキ働いている。
どこかゆったりしている。
いい店だな、と思いました。
隣に目をやると、
カウンターのカップルが話しています。
追加注文する気配は、ありません。
30分。
まだ話している。
40分。
まだ話している。
注文しないことに、
イライラしてきました。
たまりかねて、店内を見回しました。
(え?)
イライラしているのは、
私だけでした。
スタッフは、
誰一人として
そのカップルを気にしていません。
急かす様子もない。
困った顔もない。
ただ、楽しそうに
テキパキ働いている。
お会計のとき、
聞いてみました。
「みなさん、どこの国の方ですか?」
笑顔で答えてくれました。
「ベトナムです」
期待は、満足を追い越す
機内の案内シートには、こう書かれています。
「Wi-Fiは離陸から5分後〜着陸5分前まで利用可能」
ところが、ある日。
まだ離陸していないのに、Wi-Fiがつながりました。
それ以来、JALに乗ると、
飛ぶ前からWi-Fiをつなごうとする自分がいます。
何度も何度もつなごうとします。
結局つながらず、負けた気分になります。
あとから知ったのですが、 機材によっては、
離陸前や着陸後にも使えることがあるそうです。
すべてを同じ仕様に揃えるのは、簡単ではないと思います。
でも、問題はそこではありません。
体験によって、私の「期待」が書き換わってしまった。
搭乗前に、使える機材かどうかわかるようにしてくれたら。
それだけで私は、使えないときにWi-Fiをつなごうとしなくなります。
書き換えられる「期待」が、 次の体験の前提になる。
改善された体験ほど、 次の期待を押し上げてしまう。
ノートPCを閉じながら、思いました。
期待は、満足を追い越す。
12:33は、60秒ある
電車に乗り遅れました。
12:33発の電車。
ドアが閉まった瞬間、
スマートフォンの表示が、
12:33に変わりました。
(えー?)
次の電車は、20分後。
同じ12:33でも、12:33:00から12:33:59まで、1分の幅があります。
けれど、「12:33」という表記は、その幅を持っていません。
時間が、点で扱われています。
ホームに立ち尽くしながら、
印刷物の「塗り足し」を思い出しました。
断裁で白い部分が出ないように、
仕上がりの外側まで、背景を少しだけ広げておく技法です。
時間にも、塗り足しが要るのではないか。
いっそ、12:33発と書かずに、12:32発と書く。
12:33着と書かずに、12:34着と書く。
実際の運行を変える必要はない。
ただ、時間の幅を外側まで広げておく。
それだけで、私は乗り遅れずに済んだかもしれない。
時刻表は、時間を点として理解させようとします。
点は目標になり、行動は窮屈になります。
自由がなくなるからです。
だから、時間にも幅が必要です。
ほんの少しの余裕、ほんの少しの猶予。
そこには、
街の景色を楽しみながら、
駅に向かう私がいる。
エンドロールで、追い出された夜
あなたは映画館で映画を観たあと、
エンドロールまで観ますか?
途中で席を立ちますか?
私は必ず最後まで観ます。
だからAmazon Prime Videoに不満があります。
エンドロールの途中で次の作品に切り替わってしまう仕様になっています。
観続けたい人は「クレジットを観る」ボタンを押さなければならない。
逆だと思います。
映画館では、エンドロールを「観たくない人」が席を立ちます。
同じように、 エンドロールを「観たくない人」がボタンを押すべきでは。
作り手は、クレジットの余韻も含めて制作しています。
私は、その余韻を味わっています。
それを「スキップ前提」にするのは、便利さの話ではありません。
何を尊重しているか、という話です。
そして、今夜も私は、エンドロールで身構える。
クリックは、敵か味方か?
休日、パソコンで音楽を作っていました。
保存する前にMacがフリーズし、データを失いました。
(あー、またか!)
でも今回、私は考えました。
これは私の不注意ではない。
音楽を作っているとき、私の頭と手は一体になっています。
同じクリックでも、2種類のクリックがあることに気付きました。
音楽制作のクリックは、
私が自分の意志で押すクリックです。
「保存」「同意」「再ログイン」は、
通行料のように、システムが私に求めてくるクリックです。
私は、クリックに没入していました。
そこに、通行料の請求が割り込む。
私の指が、それを拒んだのかもしれません。
保存を忘れるのは、怠慢ではない。
私が没入していたことの証です。
通行料に没入を奪われたくない。
だから、明日も私は、保存を忘れる。
大福餅はデジタルにはならない
大福餅を食べながらWebサイトを見ていました。
粉がキーボードに落ちないように気をつけながら、
視線はモニターに集中し、大福餅の甘さを味わう。
これはデジタル体験なのか。リアルな体験なのか。
何年か前に、似たようなことがありました。
インド・ムンバイでのフィールドワークです。
蒸し暑さ。
逃げ場のない騒音。
混ざり合う強烈な匂い。
それらを、抜け漏れなく記録して帰りました。
持ち帰った映像は、
身体で感じていたものが、すべて抜け落ちていました。
私たちは、デジタル体験とリアルな体験を分けて考えようとします。
でも、画面の前にいるユーザーは、
大福餅で手が塞がっているかもしれない。
蒸し暑さに耐えているかもしれない。
クリックしても、
大福餅の粉はなくならない。
私は「ぢ」が入力できない
「ぼてぢゅう」が入力できず、初めて気づきました。
鼻血、身近、目力。
私は「じ」と入力していました。
パソコンは何も言わず、正しく変換してくれていました。
「ぢ」の打ち方が分からなくても、
困らないから問題ない。
私は、この作戦を昔からやってきました。
子供の頃、なぜテレビが映るのか不思議に感じていました。
すき間から中を覗いたり、スイッチを切ったり入れたりしました。
結局、分かりませんでした。
困らないから問題ない。
それ以来、私は、
飛行機が飛ぶことも、
レコードの音が鳴ることも、
電子レンジでチンできることも、
インターネットが繋がることも、
なぜそうなるのか、 深く考えなくなりました。
それでいいのか?
技術によって、 私の分かっていないことは、
どこまで増えていくのか。
馬と組織
生成AIに、繰り返し指示していました。
機械なら、同じ入力には同じ出力が返ってくるはずです。
AIは、こちらの言い方が少し変わると返答が少し変わる。
馬のようだ、と思いました。
こちらの呼吸が、向こうに伝わる。
同じ馬でも、今日はよく走り、明日はぐずる。
クルマを運転するのとはまったく違います。
馬を操る組織もまったく違っていました。
戦場では、本部から細かい指示は届きません。
各騎手が、その場の状況を見て、自分の判断で動く。
組織の力は、命令系統の精度ではなく、
個々の騎手の練度と、お互いを信じる関係性で決まっていました。
機械の再現性を基盤にした組織のしくみとは、
まったく違います。
蒸気エンジンで車を動かせるようになったとき、
その形は、馬車のままだったそうです。
最適な形にたどり着くまで、 数十年かかりました。
さて、私たちはいま、 馬車に蒸気エンジンを載せるように、
生成AIを導入しているのかもしれません。
生成AIをうまく操る組織のかたちを、
私たちは、まだわかっていません。
なぜ、すべてが同じに見えるのか?
薄暗い地下駐車場。買い物袋を片手に、自分のクルマへと急ぐ。
リモコンキーを押す。反応がない。
ドアノブに手をかける。それでも反応しない。
車内を覗き込み、背筋が凍る。
御守り。芳香剤。後部座席には誰かの荷物。
「……これ、自分のクルマじゃない。というか、メーカーすら違う」
しばらく、駐車場に立ち尽くしていました。
とうとう焼きがまわってしまったのか。
でも、それだけだろうか。
周りに並んだ車を、見回しました。
どれも、似ている。
同じようなヘッドライト、同じようなフォルム、同じような色。
まるで共通テストの答え合わせのように。
その結果、私たちは、ロゴを見るまで、どこの製品か分からなくなる。
自分のクルマすら、分からなくなる。
私は、焼きがまわっていても、
遠くから歩いてくる友人の笑顔は、はっきり分かる。
テプラは、テプラである
ホテルのデスク下の奥の方に、コンセントがありました。
床に埋め込まれた銀色のプレートにテプラが貼られていました。
「2口コンセント」とあります。
しばらく、眺めてしまいました。
「2口コンセント」という文字は、
目の前の事実を一字も超えていません。
おかしみは、たぶんここから来ています。
けれど、それは何のおかしみなのか。
考えているうちに、
テプラというものの性質に思い当たりました。
テプラは、欠落を埋めるために後から貼られます。
何かが足りない。わからない。間違えられる。
テプラは常に、テプラの外側にある不足を指さしている。
指さすために生まれた道具だと言ってもいい。
ところが、「2口コンセント」は、
わざわざ説明されなくても、見ればわかります。
すると、テプラそのものの存在が浮き彫りになります。
目の前の事実を一字も超えずに、
生真面目な佇まいで反復している。
その無意味さを見ていると、
私は時々、テプラに人格のようなものを感じてしまいます。
手軽は、丁寧が引き取る
土井勝先生の『きょうの料理』再放送(1985年収録)を観ました。
テーマは「手軽にできる卵のおかず」。
空気が入らないように卵を溶き、
表面の泡を丁寧に除き、
布巾をかぶせた蒸し器で20分。
今の感覚からすると、これは全く「手軽」ではありません。
しばらく、画面を見つめていました。
当時の「手軽」は、
特別な食材や技術がなくても、家にあるもので作れる、
という意味だったのかもしれません。
今の「手軽」は、
調理の手間も、洗い物も、考える時間も少ない、
という意味です。
同じ言葉が、40年でまったく別のことを指すようになった。
そして、1985年の「手軽」を見つめていると、
奥に、別のものが見えてきました。
それは、丁寧でした。
私たちが手軽の名のもとに手放してきた何かが、
当時の手軽の奥に、残っていた。
手軽は、丁寧が引き取る。
分かっている店は、分かっている
昭和の時代から続いている寿司屋やバー。
歴史を感じさせる内装。
磨き込まれたカウンター。
BGMはAMラジオのNHK。
音は擦れ、遠い時代の音が聞こえてくるようです。
あるお寿司屋さんで、NHKニュースが流れていました。
やはりあの音です。
(どこから鳴ってるんだろう?)
天井や棚を見回しても、
それらしきものは見当たりません。
気になって、大将に聞いてみました。
「どこで鳴っているんですか?」
大将は、少し笑って教えてくれました。
「これです。」
指さした先は、私の目の前のネタケースの上。
極小のポータブルラジオでした。
「イトーヨーカドーで買いました。安かったですよ。」
もし高音質のスピーカーが置かれ、
音が豊かに響いていたら。
きっと、何かが壊れてしまいます。
分かっている大将は、分かっている。
ラグジュアリーはどこにある?
ラグジュアリーなビーチカフェがオープンしたというので行ってみました。
MOËTのシャンパン。
フォトジェニックな空間。
海外のビーチクラブのような音楽。
確かに、ラグジュアリーかもしれない。
少し残念な気分で店を出て、
浜辺を歩きます。
そのとき、
風に乗って不思議な音が聞こえてきました。
音のする方へ歩いて行くと、
一人の女性が演奏していました。
スチールタングドラムという楽器でした。
音が、空気に溶け込んでいる。
帰り際、自然と「ありがとうございました」と言っていました。
ラグジュアリーは、空気でした。
無関心、という自由
よく行くスーパー銭湯があります。
受付の人の顔は、覚えています。
向こうも、たぶん私の顔を見たことがあるはずです。
特に会話はありません。
「いらっしゃいませ」と言われて、ロッカーキーを受け取る。
それだけです。
それが心地いい。
名前も知られない。
好みも知られない。
何も期待されない。
スーパー銭湯、近所のコンビニ、カフェチェーン、大きな書店。
こうした場所で、私は、誰にもわかられないことを、
ささやかに楽しんでいる。
無関心の心地よさには、
パーソナライゼーションとは真逆の、
顧客を知ろうとしない設計があります。
ふと思いました。
よく訪れるレストランでは、
シェフが私の名前を呼んで声をかけてくれます。
私は、それに何の違和感も感じない。
むしろ、嬉しい。
同じ私が、矛盾している。
わかってもらいたい自分と、わかられたくない自分。
私は、それを無意識に使い分けていました。
スーパー銭湯の受付の人も、レストランのシェフも、
私が求めている距離を感じとりながら、仕事をしている。
そして、両者のやり取りから、間合いが生まれている。
わかっているのに、見てしまう
私は、パンが焼けていくのを眺めるのが楽しい。
だんだん色が変わり、美味しそうな焼け具合になっていく。
では、コンビニ弁当の温めはどうでしょう。
温まっているはずですが、見た目は変わらない。
だから私は、弁当を見ません。
残り時間の数字を、見ています。
人は、「変わっていく途中」を見るのが好きなのだと思います。
夕日が沈んでいく。
餅が膨らんでいく。
どうなるか分かっているのに、つい見入ってしまう。
なぜでしょう。
夕日を見るとき、
目で光の変化を追いながら、
空気の温度や風を感じる。
餅が焼けるとき、
膨らむ様子を見つめながら、
トースターの熱を感じる。
時間が、身体の中を通っていく。
コンビニ弁当は、
香りも、音も変化しない。
だから数字の変化を見る。
数字は身体の中を通らない。
私の時間と身体は、つながっている。
顧客は、満足していない
顧客満足度ランキングを見ていて、
いつも引っかかることがあります。
1位の企業は、79.4点。
2位の企業は、78.9点。
この0.5点の差に、何の意味があるのか。
そう考えているうちに、
私は「満足」という言葉そのものに、
疑いを持つようになりました。
私たちは、日常で「満足」という言葉を、
ほとんど使いません。
レストランを出たとき、
「満足した」と言うでしょうか。
多くの場合は、
「おいしかった」
「いい店だった」
「また来たい」
そんな言葉です。
体験のあとに残るのは、
感情や記憶です。
そして体験は、
その後も続きます。
しかし企業は、
何かを提供した後にこう聞きます。
「ご満足いただけましたか」
顧客は強制的に満足したかどうか考えます。
その答えは数値になり、
グラフになり、ランキングになります。
顧客にとって続いている体験を、
ひとつの評価として、終わったことにする。
企業の目的は、
顧客との関係を続けることだったはずです。
なのに、測る側が、
いつも、終わったことにしてしまう。
そこから、
小さなほころびが始まります。
待っている間に、何かで満ちている
2025年の秋、自分の本が書店に並ぶ日を待っていました。
ドキドキしました。
この感覚。
遠足の日を待つ、小学生の自分を思い出しました。
リュックにお菓子を入れながら、
まだ来ない明日のことを想像する。
待つことは、ドキドキすることでした。
子どもの頃を思い出してみてください。
「もういくつ寝るとお正月」
この歌は、史上最も優れた「待つ体験ソング」です。
凧あげ、こま回し。
まだ来ていない正月の中で、未来の自分が遊んでいる。
「一年生になったら」も素晴らしい。
友だち100人。
富士山の上で、おにぎり。
まだ存在しない一年生の自分が、
歌の中で、現実になっていく。
待つ時間は、価値の不在ではなく、
価値が生まれていくプロセスです。
それなのに、私たちは大人になるにつれて、
待つことを、無駄な時間と思うようになりました。
本が書店に並ぶ前夜、
私は、子どもの頃のドキドキの中にいました。
待っている間に、何かで満ちている。
おわりに
私は長く、戦略や方法論としての人間中心に携わってきました。
でも、もうひとつの人間中心がある。
価値観やマインドセットとしての人間中心。
世の中が正しい方向に向かうのは大事です。
でも、毎日が面白いことも、同じくらい大事です。