
【森田療法一口メモ】(9)〜煩悩即菩提につきまとうモヤモヤ感を振り払う
森田療法を学ぶ中で、なんとなくモヤモヤしてしまうのが、この「煩悩即菩提」である。
◯◯即⚫️⚫️というのは、仏教等東洋哲学界隈でよく使うレトリックである。
一見すると対立軸にある言葉を「即」という言葉で結びつけ、どっちも同じだという奴である。
煩悩即菩提。
実に響きが良い。
なんか分かったようになる。
でも、よく考えると分からなくなってしまう。
あれこれ悩みを抱えている人間を捕まえて、「君、煩悩即菩提だよ。元気出したまえ。」 などと声をかけてやる。
言った本人は素晴らしいサジェスチョンをしたつもりになる。聞いた方も、そんなもんかなと分かったつもりになる。
その実、どちらもよく分かっていない。
森田療法で出てくる用語は比較的分かりやすいが、煩悩即菩提となると、何だか言いくるめられたような気分になる。
実際、この言葉は、同じ仏教でも宗派によって微妙に意味合いが変わるようだ。
森田療法には主唱者の森田正馬先生が仏教に造詣が深いこともあり、仏教の用語から来る用語も多い。
これもその端的な例であるが、どういう考えに基づくものかと時々考えを巡らせたりする。
例えば、
①人は煩悩があるからこそ、菩提心を得ようとする心が生まれる。
②煩悩という概念があるからこそ、菩提という概念が生じうる。
③よく教えを信じれば、煩悩の支配を受けずに、涅槃の境地に至れる。
④煩悩は捨てる必要がない、そのままで涅槃に至れる。
などなど様々である。
しかしである。
あまり、言葉の意味はどうだとかに拘りを持ち過ぎてしまうと本質を見誤ってしまう。
あくもでも、森田療法の世界での煩悩即涅槃である。
仏教アプローチなどしたところで、詮ないこと。
そんなことをやっていたら、却って神経衰弱に陥ってしまう。
まさに本末転倒というものだろう。
では、これまで説明した諸概念を使って、煩悩即菩提を再構築してみよう。
①人間は不安再生マシーンのようなもの、不安と共に生きていくほかない。不安の海にどっぷりと浸って、泳いでいくしかないのだ。
②そう思い定めた上で、迫り来る不安と付き合っていく。気分が乗らなくても、やんなきゃならないことがあるなら、やっていくしかあるまい。
③時には、不安が恐怖となって立ちはだかるかもしれない。そんな時は「ええい」と勇気を出して飛び込んで行こう。「なるようにしかならない」のである。あるがままに任せるほかあるまい。
④いくら心の準備を整えてからやろうとしてもそれは無駄である。準備など整う日は来ない。あくまで行動に目をやるのだ。形を整えれば、心は後から追いついてくるはずだ。
⑤そんなことを繰り返していく中で、ふとした時に自分の澄み渡った心に気がつく時がくるだろう。それが、煩悩即菩提というものである。
少し長くなったけど、森田療法における煩悩即菩提とはこのようなことを言うのかな、と考えている。
要は、自分探しや精神的修行などに逃げ込むのではなく、ほんの少しでもいいから行動を積み重ね、その繰り返しを通じて心の安定に近づいていく。
動中の静。
死中に活を見出す。
これこそが森田療法の極意というべきものだ。
そして、これこそが、「煩悩即菩提」なのだろう。
「煩悩即菩提」は、いくら言葉をいじくっても理解することは出来ない。
日々の生活のダイナミズムの中にしか成立しない言葉だ。
今、急に意味が理解できなくても良い。
辛い時に、「煩悩即菩提」と心の中で唱えてみよう。
イワシの頭もなんとかと言う。
まさにその通り。
これは、信心だ。
この言葉を支えに生きて行こう。
いつか菩提に行き着くものと信じながら。
悪あがきをしていくほかないのだ。
これで、このシリーズは完結だ。
ありがとうございました。