あの鐘を鳴らすのは僕らだ
あらすじ
栃木県の田舎に暮らす小学五年生の鈴木楽は、毎週日曜日、おじいちゃんと並んでNHKのど自慢を見るのが習慣だった。ある日曜日、楽はふと「出てみたいかも」とつぶやく。おじいちゃんも、実は同じことを思っていた。
「じゃあ一緒に出るか」——こうして、祖父と孫のふたりは、のど自慢出場を目指すことになった。
楽はノートを取り出し、毎週の放送を分析し始める。出場者の傾向、合格する曲の法則、会場が沸く瞬間の共通点。データが積み重なるにつれ、ふたりの作戦は少しずつ形になっていく。
選んだ曲は、家族の記憶とつながる一曲。練習を重ね、予選当日を迎えたふたりを待っていたのは——。
あの鐘を鳴らすために、祖父と孫がともに挑む一年間の物語。
第1話「日曜日のふたり」
鈴木家の日曜日は、においから始まる。
味噌汁と、炊きたてのごはんと、どこかで枯れ葉を焚いている煙が、二階の楽の部屋まで上がってくる。カーテンの隙間から差し込む光が畳の上に細長く伸びていて、それを見るとだいたい九時くらいだとわかる。目覚まし時計はいらない。においと光が、楽を起こす。
階段を下りると、台所からお母さんの声がする。鼻歌まじりだ。何かの曲で、楽は聞いたことがある気がしたけれど、曲名は出てこなかった。そのまま通り過ぎようとすると、声が変わった。
「楽、起きた?」
「うん」
それだけ言って、楽は廊下を曲がり、おじいちゃんの部屋の前で立ち止まる。障子の向こうからテレビの音が聞こえてくる。朝のニュースだ。毎週日曜日、朝ごはんの前にここへ来る。べつに決めたわけじゃないけれど、気がつけばそうなっていた。
引き戸をそっと開けると、八畳の和室にこたつが鎮座していて、その向こうに五十五インチの大型テレビが壁いっぱいに輝いている。去年の誕生日にお父さんとお母さんが買ってあげたやつだ。薄暗い和室の中でそのテレビだけがやたら鮮明で、畳とこたつと床の間の掛け軸と、どうしても釣り合わない。でも、おじいちゃんはこれが気に入っている。北関東の人間はテレビが好きなのだと、お父さんが笑いながら言っていた。
こたつの前に背中を丸めてお茶をすすっているのが、おじいちゃん、鈴木研二だ。
「お、楽。起きたか」
「うん。おはよう」
楽はこたつに足を突っ込んで、おじいちゃんの隣に座った。ふたりでニュースを眺める。キャスターが難しい顔で難しい話をしていて、どちらもあまり興味がないので、すぐにチャンネルが変わった。おじいちゃんのリモコン操作だけはなぜか速い。
***
鈴木家は栃木県のはずれに建つ、築五十年以上の一軒家だ。
玄関を入ると正面に仏壇があって、廊下を進むと右手におじいちゃんの和室、左手に台所、奥にリビング代わりに使っているダイニングがある。二階は楽の部屋と、両親の寝室と、花と蓮が使う子ども部屋だ。廊下は歩くたびにきしむし、冬になると隙間風がどこからともなく入ってくる。でも楽はこの家が好きだ。落ち着くし、どこにいても家の気配がわかるから。
お父さんとお母さんは少し離れた場所で介護施設を経営していて、日曜でも仕事が入ることがある。花と蓮と年が離れているのも、施設の立ち上げで忙しかったからだとお母さんが言っていた。
だから日曜日、花と蓮の面倒は大体楽がみる。でも午前中のうちは二人とも家の庭で遊んでいて、うるさい声が近くから聞こえてくるだけだ。昼になると腹を空かせて家に戻ってくる。それまでは自由だった。
だから日曜の午前中は、いつもここにいる。
おじいちゃんの部屋で、おじいちゃんと並んで、テレビを見る。
それが楽の日曜日だった。
***
鈴木家は、家族全員が音楽好きだ。
お父さんは昔バンドをやっていたらしく、ギターが弾ける。お母さんはピアノを習っていたことがある。施設でも音楽を使うことが多いと聞いていて、お父さんもお母さんも、入居者のみなさんと一緒に歌を歌ったりすることがあるらしい。プロのレベルでは全然なくて、「音楽が好きな普通の人」がそのまま仕事にもそれを持ち込んでいる、という感じだ。
おじいちゃんは演歌が好きで、昔から鼻歌が多い。台所で何かを温めながら、縁側でぼんやりしながら、気がついたら歌っている。五木ひろしとか、細川たかしとか、北島三郎とか、楽にはあまりよくわからない名前の人たちだ。
楽は、とにかく音楽が好きだ。
ジャンルはあまり関係ない。SNSで流れてくる曲も聴くし、お父さんがかけているギターロックも聴くし、お母さんが口ずさんでいる昔のポップスも聴く。耳に入ってくるものはだいたい好きになる。学校の音楽の時間も、合唱コンクールも、嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。クラスでそういう男子は少ないから、あまり大きな声では言わないけれど。
そんな楽が、NHKのど自慢を好きになったのは自然なことだったのかもしれない。
最初は何となく見ていただけだった。おじいちゃんが見るから、隣で一緒に見ていた。でも気がついたら、画面に釘付けになっていた。
***
楽がのど自慢のどこが好きかというと、うまく言葉にならないけれど、「知らない人が本気で歌っている」ところだと思う。
テレビに出てくる歌手は、上手いのが当たり前だ。プロなんだから、当然だ。でものど自慢に出てくる人たちは、普通の人。そのへんにいる人たちだ。その普通の人が、ステージの真ん中に立って、マイクを握って、本気で歌う。うまい人もいるし、うまくない人もいる。声が震える人もいる。でもみんな、本気だ。それが画面越しにわかる。
それから、知らない歌が出てくるのも面白い。
おじいちゃんが「ああ、これはいい曲だ」と言う歌を、楽はたいてい知らない。でもそう言われると気になって、聴いてみる。そうすると確かにいい曲だったりする。逆に、楽が「この曲知ってる」と言うと、おじいちゃんが「なんだそれは」と言う。それを説明するのも、なんか楽しい。
同い年くらいの子が歌うこともある。そういうときは少し緊張する。応援したくなる。チャイムが鳴るたびに、ちょっとほっとする。
そういうこと全部まとめて、楽はのど自慢が好きだった。
***
正午前になると、おじいちゃんがリモコンを持ち直す。
これがいつもの合図だ。楽は自然と背筋を伸ばした。チャンネルがNHKに切り替わる。オープニングのテーマ曲が鳴り響くと、おじいちゃんは決まって「よし」と小さくつぶやく。楽もなんとなく「よし」と思う。声には出さないけれど。
今日の会場は青森県弘前市だった。遠い。会場のお客さんの中に知り合いがいるわけがない。でもおじいちゃんは毎回「誰か映らんかな」と言う。
司会者が明るい声で出場者を呼び込む。最初の出場者は四十代の女性で、演歌を歌った。きれいな声だったけれど、サビで少し音程が外れた。鐘が二回鳴って、終わった。
「惜しかったなあ」とおじいちゃんが言った。
「うん」と楽は答えた。
次は二十代の男性で、最近よく聴く感じのポップスを歌った。上手いな、と楽は思った。でも鐘は二回だった。
「なんでだろ」と楽はつぶやいた。
「上手いだけじゃいかんのよ、のど自慢は」とおじいちゃんが言った。「なんか……こう、来るものがないとな」
「来るもの?」
「うまく言えんけど」おじいちゃんはお茶をすすった。「テレビで見てるこっちに、なんかが届くかどうかっていうか」
楽はその言葉をしばらく考えた。よくわからなかったけれど、なんとなくわかる気もした。
三人目は高校生の女の子で、有名なバンドの曲を歌った。曲名は楽も知っていた。その子は最初、声が震えていた。でもサビに入ったところで急に声が出て、ホールに響いた。お客さんがどよめくのが画面から伝わってきた。合格だった。
楽はそれを聞いて、なぜかちょっとうれしくなった。テレビの前で見ているだけなのに、何かが届いた気がした。これが、おじいちゃんの言っていた「来るもの」なのかもしれない。
「よかったな」とおじいちゃんが言った。
「うん」
声がちょっとかすれていたのは、たぶん楽だけが知っている。
***
四人目は七十代のおじいさんで、民謡を歌った。ものすごく声が大きかった。会場が笑い声に包まれたけれど、笑われているというよりは、一緒に楽しんでいる感じだった。鐘は二回だったが、拍手はいちばん長かった。
五人目は親子だった。お母さんと、小学生くらいの女の子のペアだ。曲はデュエット曲で、楽は知らない曲だったけれど、おじいちゃんが「ああ、これは」と反応した。ふたりの声が合うところで、会場がふわっと温かくなった。合格したとき、おじいちゃんが「やっぱりなあ」と言った。
「やっぱり、って何が?」と楽が聞くと、おじいちゃんは「ふたりでやると、なんか違うんだよな」と言った。
「そうかな」
「そうだよ。ひとりより、ふたりの方が、なんかこう……広がる感じがする」
楽はもう一度、さっきの親子のことを頭の中で再生してみた。確かに、と思った。ひとりで歌うよりも、声が重なるところで何か生まれる気がした。
でも、そのときはまだそれだけだった。
***
のど自慢が終わると、二人はいつもしばらくそのままテレビを眺めた。
「おじいちゃんは、出てみたいと思ったことある?のど自慢」
聞いたのは楽の方だった。自分でも、なんで急にそんなことを聞いたのかわからなかった。
おじいちゃんは少し間を置いてから、「あるよ」と言った。
「本当に?」
「ずっと前からな。おばあちゃんが生きてた頃は、二人で出ようって話してたこともあった」
楽は少し黙った。おばあちゃんは、楽が三歳のときに死んだ。顔はほとんど覚えていない。写真でしか知らない。でも、おじいちゃんがたまにおばあちゃんの話をするとき、声がいつもと少し違う気がする。怒ってるわけじゃなくて、悲しいわけでもなくて。
「結局、申し込まないまま終わっちゃったな」とおじいちゃんは笑った。
「そっか」
楽はこたつの天板をぼんやり見ながら、なんとなく言った。
「おれも、出てみたいかも」
おじいちゃんが顔を向けた。
「のど自慢に?」
「うん。なんか……毎週見てたら」
毎週見てたら、なんか出てみたくなってきた。声に届くものがある人たちを見ていたら、自分も届かせてみたいような気がしてきた。うまく言葉にならなかったから、それ以上は言わなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。テレビでは次の番組が始まっていた。
それからおじいちゃんが、ゆっくりと言った。
「じゃあ一緒に出るか」
「え?」
「二人で出りゃいいじゃないか。おれも出たかったんだし」
おじいちゃんは特に大げさでもなく、当たり前のことを言うみたいに言った。それがなんだかおかしくて、楽は少し笑ってしまった。
「どうやって出るの」
「申し込むんだろ、たぶん」
「たぶんって」
「調べりゃわかるだろ」
おじいちゃんはそう言って、お茶を飲んだ。楽もなんとなく笑いながら、うん、と答えた。
外では十一月の風が吹いていた。こたつの中はあたたかかった。外から花と蓮が騒ぐ声が聞こえてきた。
でも楽はもう少しだけここにいようと思った。このあたたかさと、この部屋と、おじいちゃんのそばに。
***
その夜、楽はランドセルの中から一冊のノートを取り出した。
表紙に何も書いていない、ただの大学ノートだ。楽は少し考えてから、表紙に太いマジックで書いた。
『のど自慢ノート 鈴木楽』
一ページ目を開いて、出場者のことを書き始めた。年齢と性別と、歌った曲と、鐘が何回だったか。それから、よかった点と気になった点を、可能な限り思い出しながら書いた。親子のペアのところには「ふたりで歌うと広がる感じがする(おじいちゃん談)」と書き加えた。
全部書き終えて、ノートを閉じた。
来週もここに書こう。そう思いながら、楽は電気を消した。
第2話「出場者には法則がある」
二月になっても、おじいちゃんの部屋のこたつはまだ現役だった。
むしろ十一月より手強くなっていた。足を入れた瞬間に体が溶けるような感覚があって、出られなくなる。楽はそれを「こたつの罠」と呼んでいた。おじいちゃんは一年中こたつを出しているから、罠にかかっているという自覚がない。
学校では、来年から塾に行くという話をしている友達が増えていた。中学受験を考えている子もいるらしい。楽にはあまり関係のない話で、へえ、と思いながら聞いていた。
その代わり、日曜日になるとノートを開いた。
十一月から書き続けて、ノートは一冊になかなかの厚みが出てきた。最初は出場者の年齢と職業、曲名と鐘の数を書くだけだったのが、いつの間にか「気になったこと」「おじいちゃんのコメント」という欄も増えていた。毎週のど自慢を見ながら、おじいちゃんが「あの人はよかった」「惜しかった」と言うたびに、楽がそれを書き留める。
そうやって三ヶ月分のデータが積み重なった。
印象に残っている回はいくつかある。十二月のある日曜、九十代くらいのおじいさんが、古い歌謡曲を歌った。声はかすれていて、音程もあやしかった。鐘は二回だった。でも会場の拍手が、その日いちばん長かった。おじいちゃんは「そういうもんだ」と言っていたけれど、楽にはその「そういうもん」がうまく言葉にならなかった。ノートの備考欄に「うまさじゃない何か?」と書いて、そのままにしてある。
***
気づいたのは、ある日曜日の夜のことだった。
のど自慢が終わって、花と蓮と一緒にお風呂に入り、夕ごはんを食べて、自分の部屋に戻ってから、楽はいつものようにノートを開いた。今日の分を書き足して、ふとページをめくった。先週、先々週、その前。
何かが引っかかった。
もう一度、最初から見た。
出場者の傾向が、毎週なんとなく似ている気がした。
翌朝、学校に行く前におじいちゃんの部屋に寄った。おじいちゃんはもう起きていて、朝のニュースを見ていた。
「おじいちゃん、のど自慢って毎回同じ感じの人が出てると思わない?」
おじいちゃんは少し考えてから、「そうかもな」と言った。
「なんか、法則がある気がする」
「法則か。法則なぁ」おじいちゃんはその言葉を繰り返した。
楽はランドセルを背負った。今日学校から帰ったら、ちゃんと整理してみようと思った。
***
その日の夜も、楽はノートを開いて、机の前に座った。
最初に気づいたのは、市役所や地域の団体の人が、ほぼ毎回出ているということだった。消防団とか、地元の合唱サークルとか、商工会の人とか。特別うまいわけじゃないけれど、必ずいる。楽はその欄を「地域枠?」と名付けた。
次に、おじいちゃん世代——六十代から七十代くらいの人が、一回の放送に必ず一人はいることに気づいた。多いときは二人、三人いる回もある。でも、ゼロの回は一度もなかった。三ヶ月、十二回分のデータで、ゼロが一度もない。
「老人、絶対いる」と楽はノートに書いた。
それから、ゲストの歌手の曲を選んでいる人のことだ。のど自慢には毎回ゲストが来て、最後に歌う。そのゲストが歌う曲と同じ曲、あるいは同じ歌手の別の曲を選んでいる出場者が、ほぼ毎回いた。ゲストに合わせてくるのか、それとも好きで選んだら偶然合ったのか、そこまではわからない。でも、いる。
「ゲスト関連もほぼ毎回」と書いた。
曲選び、特に有名な曲については、少し複雑だった。誰もが知っているような大ヒット曲を選ぶ人は、思ったより少なかった。たまにいるけれど、合格しているかというと、そうでもない。むしろ有名すぎる曲は、ちょっとでも音程が外れると目立つのかもしれない。楽はそこに「有名すぎる曲→採点が厳しい?」と書いた。
そして、親子だ。
親と子で出場している組が、だいたい二、三週に一回くらいはいた。お母さんと娘、お父さんと息子、おばあちゃんと孫。家族で出るのは、のど自慢の定番らしかった。
楽はそこでペンを止めた。
ページをめくった。
もう一度、三ヶ月分を見た。
あった。
十一月の終わりの回。おじいさんと、小学生くらいの男の子のペアが出ていた。ノートにはこう書いてある。「おじいさん(70代くらい)と孫(小5か小6くらい)、演歌、鐘二回、でも会場あたたかかった」
十二月の中頃の回にも一組いた。「おじいちゃんと孫娘、民謡、鐘二回」
頻度は少ない。でも、いる。
楽はしばらく、その二行を眺めた。
これ、おれたちじゃないか。
***
翌日曜日、のど自慢が終わったあと、楽はおじいちゃんにノートを広げて見せた。
「まとめてみた」
おじいちゃんは黙って読んだ。地域枠、おじいちゃん世代枠、ゲスト関連、有名曲の罠、親子出場、祖父と孫出場。楽が三ヶ月かけて書き留めてきたことが、ページいっぱいに並んでいる。
「……よく調べたな」
「おじいちゃんが毎週コメントしてくれたから」
おじいちゃんは少し笑った。それからもう一度、最後のページを見た。祖父と孫の欄だ。
「これが、俺たちってことか」
「うん」
おじいちゃんはしばらく何も言わなかった。テレビでは次の番組が始まっていて、芸人がにぎやかに笑っていた。
「で、申し込めるのか」
「調べてみる」
楽はスマホを取り出した。「NHKのど自慢 出場方法」と打った。
読んでいくうちに、楽は眉をひそめた。
「……予選があるって」
「予選?」
「うん。本番の前に予選があって、そこで選ばれた人だけが本番に出られる」
おじいちゃんが「ほう」と言った。驚いた様子はあまりない。
「知ってた?」
「知らんかった。でもそりゃあるだろ、考えてみれば」
楽はもう少し読んだ。予選は本番収録の前日に行われること、ハガキかネットで事前に申し込みが必要なこと、予選会場で一人ずつ歌って審査されること。
「予選で歌うのも、本番と同じ曲なんだって」
「じゃあ曲を決めないといかんな」
「うん」
ふたりはしばらく黙った。
「おじいちゃんはどんな曲がいいと思う?」
おじいちゃんは少し考えてから、「演歌がいいんじゃないか」と言った。
「でも、ノートのデータだと、有名すぎる曲は採点が厳しいかもしれない。演歌の大ヒット曲ばかり選んでも、難しいんじゃないかな」
「じゃあどうする」
「わかんない。でも……ふたりで歌えて、会場が知ってて、おじいちゃんでも歌えるテンポで、おれも歌えて、栃木っぽくて、っていう曲があったらいちばんいいんだけど」
条件を並べてみると、途方もない気がした。
おじいちゃんはそれを聞いて、少し笑った。
「欲張りだな」
「だって、せっかくなら全部そろえたい」
「そうだな」おじいちゃんはうなずいた。「じゃあ探すか」
楽もうなずいた。
外は白い空で、今日あたり雪が降るかもしれないとニュースが言っていた。こたつの中はあたたかかった。遠くで花が何かを叫んでいて、蓮がそれに応える声がした。
楽はノートの新しいページを開いて、一番上に書いた。
《選曲条件》
それから、さっきおじいちゃんと話した条件を、ひとつずつ書き並べた。
ふたりで歌える。会場のお客さんみんなが知っている。おじいちゃんが歌えるテンポ。おれも歌える。栃木にゆかりがある。
五つの条件。全部そろう曲が、この世にあるかどうか。
あるはずだ、と楽は思った。根拠はなかったけれど、そう思った。
第3話「僕らの一曲」
三月になった。
学校では卒業式の練習が始まっていた。六年生が体育館で歌の練習をしているのが、廊下を歩くたびに聞こえてくる。楽には関係ない話だけれど、あと一年でああなるのかと思うと、少し不思議な気がした。
のど自慢の研究は続いていた。でも今は、データを集めることより、曲を決めることの方が大事だった。
ノートの最後のページには、まだ《選曲条件》の五つが書いてある。
ふたりで歌える。会場のお客さんみんなが知っている。おじいちゃんが歌えるテンポ。おれも歌える。栃木にゆかりがある。
この五つを全部満たす曲を、楽はずっと探していた。
***
最初に候補に上がったのは、おじいちゃんが好きな演歌だった。
「北酒場はどうだ」とおじいちゃんが言った。
「細川たかし?」
「知ってるじゃないか」
「のど自慢で何回か聴いたから」楽はノートをめくった。「でも、おれが歌えるかな。演歌って難しくない?こぶしとか」
「練習すればなんとかなる」
「うーん」
楽はスマホで「北酒場」を検索して、歌詞を見た。居酒屋の歌だ。小学生が歌う内容かどうか、少し微妙な気がした。
「栃木ゆかりかどうかも、わかんないし」
「細川たかしは北海道だな」おじいちゃんはあっさり言った。
「じゃあ条件から外れる」
「厳しいな」おじいちゃんは苦笑いした。
次は楽が出した案だった。
「『糸』はどう?中島みゆきの」
「ああ、有名だな」
「結婚式とかでよく使われるし、会場も知ってると思う。デュエットもできるし」
おじいちゃんは少し考えた。「でもお前、これ言ってたじゃないか。有名すぎる曲は採点が厳しいって」
楽は黙った。自分で書いたことだった。
「……そうだった」
「他は?」
楽はスマホとノートを交互に見ながら、いくつか候補を出した。でもどれも、五つの条件のどれかが引っかかった。栃木ゆかりじゃない、おじいちゃんには難しすぎる、有名すぎる、ふたりで歌う形じゃない。
一つ条件を満たすと、別の条件が崩れる。
「難しいな」と楽はつぶやいた。
「難しいな」とおじいちゃんも言った。
こたつの上にノートとスマホが広げてあって、ふたりでそれを眺めていた。テレビは消えていた。珍しいことだった。
***
その日の夕方、楽は台所に麦茶を取りに行った。
お母さんが夕ごはんの準備をしていた。まな板に向かって、何かを刻んでいた。鼻歌を歌いながら。
楽はコップを取り出しながら、その鼻歌を聞いた。
聞いたことがある。
どこで聞いたんだろう。この家で、何度も聞いている気がする。でも曲名が出てこない。
「お母さん、それ何て曲?」
お母さんが手を止めた。
「え?」
「今歌ってた曲」
お母さんは少し考えてから、「ありがとう、かな」と言った。「いきものがかりの」
「いきものがかり」楽は繰り返した。「知ってる。でもその曲は知らないかも」
「そう?有名だけどね」お母さんはまた刻み始めた。「お父さんの好きな曲なのよ」
楽はコップに麦茶を注ぎながら、「へえ」と言った。
その夜、楽はスマホで「ありがとう いきものがかり」を検索した。
再生ボタンを押した。
イントロが流れた。
ゆっくりとしたテンポで、やわらかいメロディーだった。サビに入ると、じわっと広がるような感じがした。楽は途中で止めて、もう一度最初から聴いた。
それから、ノートの《選曲条件》を見た。
ふたりで歌える——歌える気がする。
会場が知っている——有名な曲だけど、そこまで「歌いこなすのが当然」という感じでもない。
おじいちゃんが歌えるテンポ——ゆっくりだから、いけるかもしれない。
おれも歌える——たぶん。
栃木にゆかりがある——これはわからない。
四つはいける気がした。栃木ゆかりだけが引っかかった。でも、何かが違う気がした。この条件の並べ方自体が、少し違う気がした。
楽はそのまま、また「ありがとう」を再生した。
***
週末、珍しくお父さんとお母さんが二人とも家にいた。
昼ごはんを食べ終わったあと、楽はダイニングに残った。花と蓮は昼寝していて、おじいちゃんはいつもの部屋でテレビを見ていた。
「一個聞いていい」
お父さんが顔を上げた。「なに?」
「いきものがかりの『ありがとう』っていう曲、お父さんの好きな曲なんでしょ?」
お父さんがちょっと笑った。「お母さんに聞いたか」
「うん。なんで好きなの?」
お父さんとお母さんが、一瞬顔を見合わせた。
「ゲゲゲの女房、知ってるか?」とお父さんが言った。
「知らない」
「朝ドラだよ、NHKの。その主題歌が『ありがとう』なんだよ」とおじいちゃんが続けた。「お父さんとお母さんが仲良くなった頃にやってたやつで、ふたりとも好きだったんだよね、あのドラマ」
「そうそう、よく話してたよね」とお母さんが言った。「ドラマの話で盛り上がって、なんか仲良くなったんだよ」
楽はそれを聞きながら、なんとなく、ああ、と思った。この曲が台所で何度も鼻歌になっていたのは、そういうことだったのか。
「その曲、のど自慢で歌おうかと思ってる」
ふたりが少し驚いた顔をした。
「おじいちゃんと?」
「うん」
お父さんがまた笑った。今度は最初と違う笑い方だった。「それはいいな」
「栃木ゆかりじゃないから、条件の一つは外れるんだけど」
「ゆかりって何がゆかりなの」とお母さんが言った。
「出場する地域の歌手の曲とか、地元の歌とか。そういうのを選ぶと会場受けがいいっていうデータがあって」
「でも、お父さんとお母さんの思い出の曲、ってのもゆかりじゃない?」
楽はその言葉を聞いて、少し考えた。
ゆかりの意味が、ちょっと広がった気がした。
「……それは、ゆかりかもしれない」
「おじいちゃんには話したの?」とお父さんが言った。
「まだ」
「聴かせてあげなよ」
***
その日の夕方、楽はおじいちゃんの部屋に行った。
「一個、聴いてほしい曲がある」
おじいちゃんが「なんだ」と言った。
楽はスマホを取り出して、「ありがとう」を再生した。おじいちゃんの部屋に、ゆっくりとしたイントロが流れた。
おじいちゃんは黙って聴いた。
サビまで流れた。楽はおじいちゃんの顔を横から見ていた。何を考えているのか、よくわからなかった。
曲が終わった。
「いきものがかりか」とおじいちゃんが言った。
「知ってた?」
「名前は知ってる。曲は……聴いたことある気もするな」おじいちゃんはしばらく考えた。「演歌じゃないな」
「うん」
「俺が歌えるかな」
「テンポはゆっくりだから、たぶん」
おじいちゃんはもう一度「ありがとう」と口の中で言った。メロディーを確かめるみたいに。
「ふたりの思い出の曲なんだって」と楽は言った。「付き合い始めた頃の、朝ドラの主題歌で」
おじいちゃんは少し目を細めた。「そうか」
「おれ、この曲がいいと思う」
おじいちゃんはしばらく何も言わなかった。また「ありがとう」と口の中で繰り返していた。音程を探っているようだった。
「難しいな」とおじいちゃんは言った。
楽は黙っていた。
「でも」とおじいちゃんは続けた。「やってみるか」
楽はうなずいた。
おじいちゃんがスマホを指さした。「もう一回、流してくれ」
楽は再生ボタンを押した。夕暮れの和室に、もう一度「ありがとう」が流れた。おじいちゃんは目を閉じて、じっと聴いていた。楽も隣で、一緒に聴いた。
こたつの外は寒かったけれど、部屋の中はあたたかかった。
第4話「おじいちゃんの特訓」
四月になると、桜が散って、田んぼに水が入り始めた。
栃木の春は、においがある。土と草と、どこかから漂ってくる肥料のにおい。東京から来た人はびっくりするらしいけれど、楽には普通だ。毎年この季節になるとこのにおいがして、その次に田植えがあって、その次に夏が来る。
***
栃木でのど自慢が開催されると知ったのは、三月の終わりのことだった。
その日も二人でいつもの部屋でのど自慢を見ていた。エンディングのあと、次回の予告が流れた。司会者が「来週は栃木県宇都宮市からお送りします」と言った。
楽とおじいちゃんが、同時に顔を見合わせた。
「宇都宮だ」と楽が言った。
「宇都宮だな」とおじいちゃんが言った。
来週の放送を、ふたりはいつもより少し前のめりになって見た。会場は宇都宮市文化会館で、出場者は十二人。知っている場所の名前が出るたびに、おじいちゃんが「ああ、あそこか」と言った。餃子の話が出るたびに笑った。
それを見ながら、楽は思った。ここに出たい。この会場に、おじいちゃんと一緒に立ちたい。
放送が終わったあと、楽はすぐにスマホで調べた。地方でのど自慢が開催されるのは、だいたい年に一回。次の栃木開催がいつかはわからないけれど、申し込みだけは早めにしておいた方がいい。
「申し込もう」と楽はおじいちゃんに言った。
「そうだな」とおじいちゃんは言った。「でも曲は決まったのか」
「決まった。『ありがとう』」
「そうか」おじいちゃんは少し間を置いた。「じゃあ申し込め」
楽はその夜、NHKののど自慢の応募ページを開いて、必要事項を入力した。名前、住所、年齢、出場人数、歌う曲名。おじいちゃんを呼んで、一緒に確認した。送信ボタンを押すとき、少し手が震えた。
「送った」
「そうか」おじいちゃんはそれだけ言って、お茶をすすった。
***
五月の連休が終わった頃、封筒が届いた。
お母さんが「楽、なんか来てるよ」と言って、テーブルの上に置いた。NHKからだった。
楽は封筒を持ったまま、おじいちゃんの部屋に走った。
「おじいちゃん、来た」
おじいちゃんが振り返った。「開けてみろ」
楽は封筒を開けた。折り畳まれた紙が入っていた。広げた。
収録日と予選の日程が書いてあった。栃木県宇都宮市、八月。
「予選、出られる」
おじいちゃんは黙って紙を受け取り、眼鏡をかけて読んだ。しばらく何も言わなかった。
「おじいちゃん、当たったよ」
「見えてる」おじいちゃんはそう言ってから、ゆっくり顔を上げた。「当たったな」
楽はうなずいた。おじいちゃんも、小さくうなずいた。
大騒ぎにはならなかった。ふたりともそういうタイプじゃなかった。でも、部屋の空気が少し変わった気がした。
***
問題はここからだった。
「ありがとう」を、おじいちゃんが歌えるようにならないといけない。
最初の練習は、五月の中頃だった。楽がスマホで曲を流して、おじいちゃんが一緒に歌う。それだけのことだったけれど、最初の一回目が終わったあと、ふたりともしばらく黙っていた。
「難しいな」とおじいちゃんが言った。
「うん」と楽は正直に答えた。
メロディーはゆっくりだから、テンポは問題ない。でもおじいちゃんが長年歌ってきた演歌とは、呼吸の仕方が違う。演歌は語尾を伸ばしてこぶしを回す。「ありがとう」はそういう曲じゃない。おじいちゃんが「ありがとう」を歌うと、どうしても演歌っぽくなった。
「こぶし、入れなくていいんだよ」と楽が言った。
「わかってる。でも入っちゃうんだよなぁ」
「もう一回やってみよう」
毎週日曜日、のど自慢が終わったあとに練習するようになった。三十分くらい。楽が歌詞を印刷して、おじいちゃんに渡した。おじいちゃんはそれを持って、真剣な顔で歌った。
少しずつ、変わってきた。
六月になると、おじいちゃんのこぶしが減ってきた。「ありがとう」らしい歌い方になってきた。完璧ではないけれど、悪くない。
ある日曜日の練習のあと、楽は言った。「なんか、いい感じになってきた」
おじいちゃんは「そうか」と言って、でも少し嬉しそうだった。
「どこで覚えてるの?日曜以外も練習してる?」
おじいちゃんは少し間を置いた。「風呂の中で」
楽は笑いをこらえた。「毎日?」
「毎日」
「何回くらい」
「十回くらい」
楽はこらえきれなくて笑った。おじいちゃんは「笑うな」と言ったけれど、口元が緩んでいた。
***
七月になると、お母さんとお父さんも練習に加わるようになった。
最初は「聴かせて」と言って部屋に入ってきて、そのまま居座るようになった。お母さんは時々一緒に歌った。お父さんは「おじいちゃん、そこの音が低い」とか「楽、もう少し声出して」とか言うようになった。
「なんか、審査員みたいになってる」と楽が言うと、「だって心配じゃないか」とお父さんが言った。
おじいちゃんは「うるさい」と言ったけれど、お父さんのコメントをちゃんと聞いていた。
花は練習のたびに踊った。蓮は途中で寝た。
鈴木家の日曜日が、少し賑やかになった。
***
八月に入ると、空気が変わった。
暑さのせいだけじゃない。予選まであと二週間、という現実が、じわじわと迫ってきた。
楽はノートを開いた。予選と本番のことを調べてまとめたページだ。予選は本番前日の午前中。会場に行って、一組ずつ歌う。審査員が聴いて、本番に出る十数組を選ぶ。
「緊張する?」とおじいちゃんに聞いた。
おじいちゃんはしばらく考えた。「する」
「おれも」
「まあ、やるしかないだろ」
「うん」
それだけの会話だった。でも楽は少し楽になった。おじいちゃんも緊張するんだ、と思ったら。
その夜、楽はノートに書いた。今日の練習のこと、おじいちゃんが風呂で毎日十回歌っていること、お父さんが審査員みたいになっていること、花が踊っていること、蓮が寝ていること。
データじゃなくて、日記みたいになっていた。
でも、書いておきたかった。このことを、どこかに残しておきたかった。
ノートを閉じると、部屋の外からお父さんとお母さんの話し声が聞こえた。花が笑う声もした。蓮が何かを叫んでいた。いつもの夜だった。
でも予選は、もう来週だった。
第5話「あの鐘を鳴らすのは僕らだ」
予選の朝は、蝉の声で始まった。
八月の宇都宮は暑かった。家を出たのは朝の七時で、その時点でもう空気が重かった。お父さんが運転する車の中で、楽はずっと窓の外を見ていた。田んぼが続いて、信号が続いて、やがて街が近くなった。
おじいちゃんは助手席で黙っていた。
「緊張してる?」と楽は後ろから聞いた。
「してる」とおじいちゃんは前を向いたまま言った。
少しだけ、お父さんがニヤニヤしていた。緊張してる僕らの様子がおもしろいらしい。
会場は宇都宮市文化会館だった。駐車場に車を停めて、建物に入ると、すでに何組かが受付を済ませていた。楽はその人たちをざっと見渡した。
年配のおじさん一人。若い女性が二人組。家族連れ。制服を着た高校生。
楽はそれぞれの顔を見ながら、頭の中でノートをめくった。ひとり、ふたり以上、おじいちゃん世代、親子。三ヶ月分のデータが、走馬灯みたいに浮かんだ。
でも今は、データじゃなかった。
みんな、本番に出たい人たちだった。それだけだった。
***
待合室は脇にある部屋で、パイプ椅子が並んでいた。楽とおじいちゃんは隅の方に座った。
出場者は全部で二百組くらいいた。一組ずつ呼ばれて、会場に入って、歌って、戻ってくる。本番と同じ曲を、本番より短く歌うらしかった。
待っている間、楽はおじいちゃんのとなりで、ノートを膝の上に置いた。開かなかった。ただ置いておいた。
おじいちゃんは目を閉じていた。口が少し動いていた。歌詞を確認しているのかもしれない。風呂で毎日十回歌っていた曲を、今日も頭の中で歌っているのかもしれない。
楽は「ありがとう」のメロディーを頭の中でなぞった。出だしのサビ、Aメロ、サビ。ふたりの声が重なるところ。ずっと練習してきたから、目を閉じると勝手に流れてきた。
「鈴木さん」
係の人に呼ばれた。
おじいちゃんが目を開けた。楽も立ち上がった。ノートを椅子の上に置いて、そのまま残した。
***
舞台の袖から客席を見ると、審査員が五人、机の前に座っていた。客席は空っぽで、照明だけが明るかった。
楽とおじいちゃんが並んだ。
伴奏が始まった。
いつもよりゆっくり聞こえた。
楽は息を吸った。おじいちゃんも息を吸った。
歌い始めた。
出だしは、二人ともかすれた。でも続けた。Aメロに入ると、声が出てきた。おじいちゃんの声が、楽の声の横に並んだ。練習のときと同じだった。でも、緊張からか、違う気もした。何が違うのか、歌いながらではわからなかった。
サビに入った。
楽は、客席を見た。審査員の一人が、ペンを持ったまま止まっていた。何かを書こうとして、止まっていた。
それだけのことだったけれど、楽は少し、何かを感じた。
曲が終わった。
審査員が「ありがとうございました」と言った。楽とおじいちゃんが頭を下げた。袖に戻った。
「よく歌えた?」とおじいちゃんが小声で聞いた。
「たぶん」と楽は答えた。
「そうか」
それだけだった。
***
結果は、一時間後に出た。
係の人が紙を持ってきて、本番に出場する組の番号を読み上げた。楽は自分たちの番号を頭の中で繰り返しながら、聞いた。
呼ばれなかった。
おじいちゃんと顔を見合わせた。おじいちゃんは一回、小さくうなずいた。
帰りの車の中は、行きより静かだった。お父さんが何か言おうとして、やめた。楽は窓の外を見ていた。来るときと同じ道で、田んぼが続いて、信号が続いた。
「また来年、出よう」とおじいちゃんが言った。
楽は「うん」と言った。
それだけだった。でもそれで十分だった。
***
翌日、日曜日。
正午前になると、おじいちゃんがリモコンを持ち直した。
楽は自然と背筋を伸ばした。チャンネルがNHKに切り替わる。オープニングのテーマ曲が鳴り響くと、おじいちゃんが「よし」と小さくつぶやいた。楽もなんとなく「よし」と思った。
今日の会場は、宇都宮市文化会館だった。
昨日、自分たちが立った場所だ。
司会者の声が聞こえた。客席が映った。昨日あそこに座っていた審査員がいた席は、今日はお客さんがぎっしり入っていた。
最初の出場者は五十代の女性で、演歌を歌った。声はきれいで、音程も安定していた。でも鐘は二回だった。
楽はそれを見ながら、以前とは少し違うことを思った。
この人も、昨日あの待合室にいたんだろう。パイプ椅子に座って、順番を待って、あのステージに立った。それでも二回で、舞台を降りる。そういうことなんだ。
次の出場者は七十代の男性で、民謡を歌った。チャイムは二回だったけれど、会場の拍手が長かった。
楽は「あの人、来年も出るかな」と思った。
おじいちゃんが「いい声だったな」と言った。
「うん」と楽は答えた。
三人目は親子だった。お父さんと、小学生くらいの男の子。男の子は緊張しているのか、最初は声が小さかった。でもお父さんの声に引っ張られるように、だんだん声が出てきた。サビで合わさったとき、会場がわっとなった。合格だった。
楽はそれを見て、なぜかちょっとうれしくなった。あのステージで、鐘が鳴り響いた。
***
のど自慢が終わると、楽はおじいちゃんの部屋を出て、自分の部屋に戻った。
机の上にノートがあった。予選の日に待合室の椅子の上に置いてきたやつじゃない。家に帰ってから、また書き始めた別のノートだ。
楽はそれを開いた。
最後のページに、予選の日のことが書いてある。会場の様子、待合室の人たち、舞台の照明の明るさ、おじいちゃんの声が隣に並んだこと、審査員のペンが止まったこと、呼ばれなかったこと。
データじゃなかった。でも、書いておきたかった。
新しいページを開いた。
一番上に、今日の日付を書いた。その下に、今日の出場者のことを書き始めた。栃木県宇都宮市。演歌の女性、民謡のおじいさん、合格した親子。
書きながら、楽は思った。
来年は、ここに出る。予選を通って、本番のステージに立つ。おじいちゃんと一緒に、あの鐘を鳴らす。
ペンが進んだ。ノートのページが、また少しずつ埋まっていった。
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