
『あなたに届くまで』 40
数日後。19階の会議室。蒼策会の定例ミーティングにて、議題が一段落したところで、 井伊が椅子にもたれながら言った。
「でさ、次の事業会社側の説明、誰が行く? ……紗月、行ける?」
あまりにも自然に、あまりにも当たり前のように、呼び捨てされた。
「え、あ、はい。行けます」
返事をしながら、紗月は内心で苦笑した。だが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、心地よかった。同じ側に立っているという感覚が、名前の響きに乗って伝わってくる。
その日の夜。自席で一日のメールを整理しながら、紗月はふと手を止めた。頭の中で、ここ最近の呼び方をなぞる。
──紗月君、紗月さん、紗月ちゃん、紗月。
最初は戸惑いだった。次第に、それが構造の変化だと分かってきた。
私は今、外部の若手じゃなくて、蒼策会の一員として見られているんだ。そう思った瞬間、 胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。
翌日。
19階の会議室。蒼井との打ち合わせ。構造改革プロジェクトの次フェーズについての確認だ。資料を一通り確認し終えると、蒼井が静かに言った。
「霧島」
蒼井の呼び方は、以前とまったく同じだった。だが、紗月には分かる。そこに、微かな変化があることを。
声のトーン。間合い。視線の柔らかさ。
「はい、蒼井さん」
「構造改革は、ここからが本番だ。霧島──お前が結節点だ」
「……はい」
霧島という呼び方は、距離を保つためのものではなくなっていた。それはむしろ、「構造を見る者」としての名前として、そこに置かれているように感じられた。
蒼嶺ホールディングスは、まだ完全には変わっていない。
だが、確かに動き始めていた。責任の線が引かれ、権限が整い、情報が流れ、恐れが薄れ、人が動き始める。そして、その中心には、蒼策会の結節点──霧島紗月がいた。
構造を見る者。構造を言語化する者。構造で人を救う者。
かつて「霧島さん」と呼ばれていた彼女は、今では「紗月」と呼ばれることが増えた。それは、彼女が構造の外側から、構造の内側へと移った証でもあった。
ただひとり、蒼井だけは、変わらず「霧島」と呼ぶ。だが、その呼び方の中に紗月は確かに感じていた──認められている。
だから彼女は、 少しだけ嬉しそうに、こう返事をするのだった。
「はい、蒼井さん」
春の終わりの風が、19階の窓を揺らしていた。蒼嶺ホールディングスの本社ビルは、いつもと同じように白く光っている。だが、その内部は、確かに変わっていた。
構造が動いたあとの世界は、派手な音を立てるわけではない。
むしろ、静かに、淡々と、日常の形が変わっていく。物語はここで一度幕を閉じる。だが、構造改革は続いていく。
霧島紗月の物語は、ここからが本当の始まりだった。
Fin