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【小説】明け待つ芍薬〜最終話 さざめく色風。そして〜

    こんにちは。
    烏野です。

    本日は、創作大賞2026に投稿する小説の会⑧です。

    ジャンルは恋愛小説。
    「明け待つ芍薬」、今回で最終回となりました。

    加美山の毒牙にかかった千和は、仁に救出されました。
    ボディーガードとしてではなく、自分を見つめて労わってくれた仁に、千和は心が揺れ動きます。
    そして翌朝。
    千和の世界が一変します。

    1話大体1万字前後。
    長いですか?
    でもここまで読めた方は、なんの苦もないでしょう?

    読んでくださってありがとうございます。

    それでは、どうぞ。


    全体のあらすじ

    はじめて人に憧れた。
    胸が焦がれるように熱くなった。

    千和はその感情の名前を知らない。
    その赤い糸をゆっくりと手繰るのは、とある富豪の男だった。
    まるで開花の時を待つかのように。

    ―――――――――

    主人公・染原千和は類まれなる美貌の持ち主だった。そしてそれは双子の弟・和泉も同様に、いやそれ以上に、人々が振り向くような容姿を持っていた。
    相貌の良さがもたらしたのは不運ばかり。
    運命と人生を恨んで、2人は2人きりで生きていくことを決めていた。

    そんな中、千和の癒しは英文学の授業。
    その准教授が目当てである。
    歳の割に爽やかでスタイルもよく、庶民的ながら品の良さが隠せていない。イケメン、というよりハンサムである。

    湧き上がる淡い憧れ。
    しかしそれが一体なんなのか、どんな感情であるのか。
    千和は知る由もない。

    一方、とあるモガリ(権力を思いのままにする国内有数の富豪たち)は染原姉弟を探していた。
    ちょっとした用事があったのである。

    ――――――――――

    憧れた人との秘めたる関係。
    やがて忍び寄る権力の魔の手。

    恋も情熱も、なにも知らない空っぽな千和。
    彼女の憧れは、夢と消えるのか。
    いざ、果たして。



    第8話 さざめく色風。そして


    1-1

     夢か現か、意識もハッキリしないままに薄らと目を開ける。カーテンの隙間からは爽やかな白い光がこぼれていた。
    「千和っ、起きてる?」
     ドンドンドン、とドアが揺れた。騒々しさに千和は起きがけに顔をしかめる。
    「なによ……」
    「ちょっとニュース見てよ! 大変」
     有無を言わさず手を引かれ、リビングに連れ出された。仕方なく乱れた髪をかき上げる。
     既に点いていたテレビはザワザワと何かを伝えていた。千和は久々にテレビを見たな、と頭の片隅でどうでもいいことを考える。テーブルには和泉のカフェオレが置いてあった。
    「ほら、これ」
    「ん……?」
    『――加美山容疑者は、京月組関係者へ暴行を加えたとして身柄を拘束されました。また、他にも余罪があるとして捜査が続いています。加美山コンツェルンの総取締役である加美山容疑者が逮捕されたことにより、経済界が混乱に陥ると思われます――』
     ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げていた。
     京月組関係者――これはまさしく自分のことだ。しかし千和には遠い世界の話に聞こえていた。コメンテーターの学者らも騒がしくしていることから、大事なのだなぁとぼんやり考えることしかできなかった。
    「千和をさらったのは加美山だってことは仁さんから聞いてたけど、ここまで大事になるとは思わなかった。また権力でもみ消されるのかと思ったけど、ここまでスムーズに事が進むなんて……」
    「……いい気味だよ」
     千和はテレビに映される加美山をじっと見つめた。画面越しながら、あの顔をこんなに早く拝めるとは思わなかった。
     事情聴取で連行される際なのだろう。後部座席のカーテンの隙間から、ただ前を強気に見つめていた。焚かれるフラッシュにも一切動じていない。すぐに釈放されることが分かっているのだろうか。その表情が憎たらしかった。
    「でね、もう一つ驚きの事があって……」
    「なに? もう何が来ても驚かないよ」
    「別のニュース見てた時にもこの話が流れたんだけど、そこで言われてたのが、『京月組の関係者』じゃなくて、『京月組専務の婚約者』って……」
    「……は?」
     千和は今度こそ耳を疑って和泉の顔を見つめた。和泉も訳が分からないという顔で千和を見つめ返す。
    「千和のこと……? だよね?」
    「いや……他にさらわれてた人がいたのかな?」
    「いやでもだって、助けが来たのは千和だけなんだよね」
    「うん……確かに私だけだったな……」
    「千和、いつ仁さんと婚約したの?」
    「なっ……、してないよそんなのっ!? どういうこと!?」
     千和にとっては加美山なんかよりも、こちらの方が重大だった。まさしく天変地異の事態。
     思いもよらないことが世間に報道されている。名前は明かされていないが、昨夜の事件とすり合わせれば、つまるところ自分だとしか思えない。しかし混乱が頬を赤くする暇さえ与えない。
    「――あ」
    「ん?」
     するとその時、ピンとくるものがあった。千和はただ頭に思い浮かんだことを口にした。
    「指輪……」
    「指輪? あの、仁さんから着けておけって言われてたやつ?」
    「そうそれ……渡された時は本当に護身用だと思ってたけど、そのあと仁さんが結婚云々って話を勝手にしてて……」
     すると和泉はぽかんと口を開いて目を丸くした。
    「え、それじゃん」
    「いやいやでも、ただの世間話かと思ってたし、私に関係するような話じゃなかったし、大した反応もできなかったし……。そもそもそんな話、脈絡もなかったし!? でも、え……この話が本当だったらどうしよう、どうしたらいいっ!?」
    「――ふふっ」
     慌てふためく千和を見て、和泉が不意に笑った。それを見逃す千和ではない。鋭く和泉を睨めつけた。
    「なに笑ってんのよ」
    「いやだって、久々に千和っぽいなって。最近なんか常に気張ってたし、大学で仁さんの授業受けてた時の元気な千和って感じ」
     依然としてくすくすしている和泉に不満を覚えつつも、確かにここまで気が緩んだのはいつぶりだろうと思う。
    「笑い事じゃないんだから……。とにかく、これはちゃんと確認取らないとダメ。というより私的に放置はツライ! 心臓もたない」
     千和は部屋にとんぼ返りすると、そのままスマートフォンにかじりついた。
     連絡したのは鷲田。仁に会えないかとアポを取るためである。その返答を待つ間は、異常なほど長い時間に感じた。
    「一息ついたところで朝ごはんでもどう?」
     やがて和泉が千和の自室に顔をのぞかせた。ちらりと時計を見れば、十時を回りそうな時刻だった。普段にしては遅起きで、遅めの昼食である。まだ件の返信は来ていないが、何もしていないより気が紛れそうだった。
    「はい、どーぞー」
     テーブルにつけば、和泉シェフによる朝食プレートがサーブされた。ふわふわのフレンチトーストに小さなグリーンサラダ、トマトたっぷりのミネストローネ。
    「あー、なんか久々に落ち着いてご飯食べた気持ち……」
     和泉お手製のミネストローネが身体に染み渡る。疲労が浄化されていくような感覚だった。
     ここ数日間は、怒涛の勢いで毎日何かが起こっていた。こうして自宅でのんびりできていることの、なんと幸せなことか。
    「加美山にさらわれた時、ちゃんとご飯食べてたの?」
    「なんかプレート出されたけど、毒とか入ってたらイヤだし、手はつけなかった」
     あの部屋で不定期に差し入れられた食事を思い出す。見た目は悪くなかったが、食欲をそそられるからこそ警戒心が強まった。監禁が長引いていれば加美山との食事に引っ張り出されることもあったかもしれない。だがもはやそんなことはどうでもよかった。
    「――とか言われてさ、本当にキモくて」
     やがて朝食は愚痴の祭りとなる。加美山の一挙手一投足を思い出す度に、不快感がありありと思い出された。
    「しかも首……普通に最悪。痕消えたかな」
    「今のところそんなにわかんないよ。昨日はちょっと目立ってたけど」
     千和色白だからねと和泉は眉を寄せた。
     昨夜の千和を見て最も驚いたのが首元の赤い痕だった。何があったかは容易に想像できた。そして今しがた彼女の愚痴祭りで、大体何が起こったかを理解できた。
     和泉は柔和な表情で、千和のマシンガントークに相槌を打つ。しかしテーブルの下では、拳を強く握りしめていた。
    「で、溝田さんが助けに来てくれてさ。一瞬絆されそうになった。吊り橋効果ってやつ? けど、あの人は普通に敵! 和泉殴ったから」
    「まぁ千和の敵は、俺の敵でもあるからね。気持ちは分かるよ」
     そんな言葉に千和はついぱちりと目を瞬いた。
    「あら、珍し。もういいよとか言わないんだ」
    「……今までさ、千和がやられるってことなかったじゃん。だから正直ピンと来てなかったんだけど、今回明確に危害を加えられてるのを見て、なんかこう……ハラワタが煮えくり返ってるというか」
     和泉の素直な言葉に、千和はへぇと唇を歪めた。面白いものを見て心が沸き立つような気持ちだった。
    「あんた聖人君子かと思ってたけど、意外とドス黒いもん持ってるじゃん」
    「言い方。主犯の加美山はもちろんだけど、そこに巻き込んだのは他でもない仁さん。俺は、どちらも許せないよ。そしてまた、婚約者疑惑を出して千和を惑わせてるし、さらに許し難いね」
    「父親みたいなこと言うじゃん」
    「俺らは姉弟であり父親であり母親なのー」
     和泉は食べ終わった食器を重ねて立ち上がった。
     これだけ親しいからこそ、離れられないからこそ、やはり自分たちは特殊なのだと和泉は思う。自分も千和も、殻にこもって外の世界を見ようとしなかった。しかしそれをこじ開けるようにして、介入してきた京月仁という男。
     単なる一般人を引き入れ、間髪入れずに、加美山という強大な権力を狩り獲った。
     どこまでが虚構で、どこまでが真実なのか。
    「……あ、返信来た」
    「鷲田さん、なんだって?」
    「最短でも二日後、だって! 長くないっ!?」
     そわそわと落ち着きのない千和を横目に、和泉は食器を洗う。
     なるほど、外の世界は危ないことだらけだ。
     でも、と和泉は一瞬手を止めた。
     千和が楽しそうなのは、悪くない。
     二人分の食器となれば、少ないものだ。これがもし半分になるのなら、きっと嬉しいことなのだろう。だが反対に、それはとても寂しいことでもあるなと和泉は心の隅で考えた。

     

    1-2

     ようやく二日が経った。千和にとっては無限に感じるほどの時間だった。だがそのお陰か否か、婚約者問題の熱もあらかた冷め、千和は落ち着きを取り戻していた。
     この日も鷲田の車に乗り込むと、無言の移動が始まる。鷲田も例の騒動は知っているだろうに、特段話しかけてくるような様子はない。
     いつもの道を辿って到着した京月邸は、相も変わらず存在感がある。それでもどこか懐かしさすら感じてしまっていた。
     鷲田の先導で仁の部屋へと赴く。静まり返った廊下を進むごとに、千和の緊張は限界を超えそうだった。
    「若、お連れしました」
     ノックの音さえ千和の肩を震わせる。ここまで来たら戻ることはできない。千和は短く深呼吸をして、部屋に足を踏み入れた。
    「失礼します」
     背後でドアが閉まった。鷲田がいなくなった空間で、千和は仁と二人きりになる。
    「……話があると聞いた。ボディーガードの用事がないのに鷲田を使い、わざわざ来るほどの話だと」
     デスクにいる仁は書類から目を上げない。書類に向かって話しかけられた千和は、ゴクリと生唾を飲んだ。
    「それは……すみません」
     いささか圧の強い出だしに千和はしゅんと小さくなる。これまでで自ら声をかけたのは初めてだった。あまりに思い上がった行動だったかもしれないと、冷や汗が止まらなくなる。
    「そんなに小さくなるな。別に、なにも怒ったりはしていない」
     そんな千和を見かね、「少しからかっただけだ」と仁は困ったように笑った。
     一息ついてティーカップから紅茶をすする様子は優雅で、まるで映画のワンシーンのようだった。
     すると、不意にパチリと目が合ってしまった。見ていたのがバレた千和は、バツが悪く慌てて目を逸らした。
    「さて、掛けるといい」
     おもむろに立ち上がった仁は、千和を応接用のソファに促す。それはいつの日か和泉と共に座ったソファで、遥か遠い昔のように思えた。
    「あれ以降、ゆっくり休めたかな?」
    「は、はい……おかげさまで。仁さんのレポートもなんとか出せましたし」
     さらわれたなんだと言っても、課題の締切は待ってはくれない。大学生の辛いところだと身の上を恨みながら、千和は自室にこもってレポートを仕上げたのだった。
    「目を通すのが楽しみだよ。近頃は本業が忙しくて、あまりそちらに手が回っていないのが申し訳ない」
     いえ……、と千和は言葉を濁した。
     本業が忙しいというのは、回り回って千和のせいでもある。そして世間話から足を一歩踏み入れようとしているのを肌で感じて、千和の心臓はうるさくなる。
    「……その様子だと、世間のニュースは目にしているようだね」
    「それは……はい。翌朝から常にその話題で持ちきりですから」
     少し目線を外して話す千和の様子を、仁は興味深く観察した。
     目が合わない時は、彼女が緊張、困惑している時。膝の上で握りしめられている拳は、感情が昂っている印。そしてほんのりと染まる熟れた頬は、気持ちが芽吹いた証。
     そのどれもが手に取るように分かって、仁は無意識に頬を緩める。そして最後の仕上げを施すかのように口を開いた。
    「加美山についてだが、千和にはあくどい事をした。常軌を逸しているとも言える。君の雇用者として、許せる範疇ではない。だから立件にまでこぎつけた」
     淡々と語る仁に、千和はゆっくりと頷いた。
    「だがその代償として、千和を解雇することが決まった」
    「……。え」
     唐突なことに、頷きかけた首が止まった。
     言葉もない。意味が分からない。思わず息が浅くなる。
     望んで就いた仕事ではないとはいえ、彼の役に立てていると思えば悪い気はしていなかった。傍にいられる時間は、密かに胸が踊る時間でもあった。
     それが今、音もなく崩れて途切れてしまった。
    「急なことで申し訳ない。理事会の決定でね。君は目立ちすぎると」
    「そう、ですか……」
     この組の理事会に意義を申し立てるほど、千和だって無謀ではない。仁のボディーガードとはいえ、しょせんその程度である。無力な者は上に従うしかない世界だ。
     不思議な喪失感が胸に広がっていた。まるで割れた花瓶から水がこぼれ出るようであった。
    「それと、お詫びと言ってはなんだが一つ提案がある」
    「……はい」
     千和が上の空で返事をすると、仁は不意に立ち上がった。一度デスクに戻ると何か小さいものを手に戻る。それは以前も見たような薄紫色の箱だった。
     あれ、と千和が考えるよりも早く箱が開けられて、思わず目を見張った。そこには加美山に奪われたあの指輪が入っていた。
    「染原千和、私の妻にならないか」
    「…………は、え?」
     そう告げた様子はまるで日常会話の一部のようで、何の変哲もなかった。
     千和は純粋に戸惑って仁を見返した。
     今、なんて言った?
     彼の言葉が脳内を木霊するが、右から左へ、ただ流れていくだけだった。一体どういうつもりなのか、千和には全く理解できなかった。
    「前にこれを渡した時、時間がかかったと言ったが、それは特別に仕立てたからだ。それと、この指輪にまつわる話は嘘だ」
    「嘘……」
    「京月組の女云々の話だ、あれは虚構、作り話。あんな下世話な話は存在しない。つまり、これを持つ権利があるのは千和だけだ。まったくのオリジナルだからな」
     千和は言葉に詰まってしまって、ただ口をパクパクさせることしかできない。指輪と仁を交互に見やる。
    「ここで即座に返事をしろとは言わない。考えるべきことは少なくないだろう。もし心が決まれば、もう一度俺のところに来て、返事を聞かせてほしい」
    「……えっと……その、わかりました……」
     千和はとりあえず頷いた。頷くしかなかった。
     ここで仁の言葉を振り切れるほど無欲ではなかったし、即決できるほどの度胸も持ち合わせていなかった。
     おずおずと箱を受け取って、そのまま指輪をじっと見つめる。
     以前受け取ったあの時と、輝きは色褪せない。例の狂人に触れられたのは気に食わないが、きっとクリーニングなどしてくれているのだろう。新品のように照明の輝きを乱反射させている。
    「それと、千和からも話があるんじゃなかったか?」
     千和はハッとして肩を揺らした。衝撃の大きさでとっくに忘れていた。
     思わず顔を上げると、仁はいたずらっぽく目を細めていた。
    「そんなに見つめていると、指輪に妬いてしまう」
    「す、すみません……」
     目のやり場も失って、千和はとりあえず俯くしかなかった。そっと指輪の箱をテーブルに置いて、居住まいを正す。
     そこで千和ははたと気がついた。
     プロポーズまでしたということは、少なくとも仁は自分に好意があるということだ、多分。
     これまで彼からそういった慕情の話を聞いたことはなかった。
     考え始めたら止まらない。混乱する頭では、千和は己の湧き出た欲がただ溢れるだけだった。
    「……純粋な疑問なんですけど、仁さん私のこと好き……なんですか?」
    「女性として魅力的だと思っているよ」
    「好き、ではなく?」
    「こだわるね、その言葉に」
     困ったように微笑んだ仁に、千和は小さくなりながら微かな声で呟いた。
    「結婚とか恋愛とか……好きなもの同士がすること、じゃないんですか」
     その発言がいかに自分が幼稚で経験がないかを露呈させているのは百も承知だった。その事実を客観的に感じ、羞恥で消え入りそうだった。しかし、ここまで来てしまえば、聞かずにはいられなかった。
    「好意を伝える言葉は幾千とある。もちろん『好き』という言葉も真っ直ぐで嘘偽りない感情だ。しかしながら、そうだな――」
     すると仁はおもむろに立ち上がる。スマートな仕草で千和の傍に寄ると、片膝をついた。千和は思わず背筋を伸ばした。
    「俺の隣で、これからもずっと。咲き誇ってほしい」
     そして指輪を取り出すや、千和の薬指にそっと嵌めた。
     細くしなやかな指は素直にそれを受け入れる。その手つきは感じたことのないほどに優しいものだった。
    「これでもまだ、足りないかな?」
    「足りなく……ない、です……」
     言葉だけではない。触れた手から伝わる慈しみにも似た感情に、千和ははじめて出会った。
     心が震えるって、本当にあったんだ。
     千和は意識の外でそんなことを思った。これまでの人生で、これほどに愛されたことはなかった。親にも、異性にも、真っ直ぐな愛情を向けられたことはなかった。
     ぼんやりと左手の薬指を見つめる。指に馴染んで、二度と外れないのではないかと思うほどだった。
    「指輪、よく似合っている」
    「…………」
    「さて、これからは大手を振って、千和を口説くことができるというわけだ」
    「くどく……口説く!? 私を、ですか?」
    「他に誰がいるんだ?」
    「…………」
     千和の脳内はもうキャパオーバーだった。返す言葉も見つからない。すると仁は自嘲気味に笑った。
    「何度かジャブも打ったのに、君は鈍感というかなんというか……少し自信を無くしたくらいだ。今回は伝わってくれて嬉しいよ」
    「すみません……」
    「はは、そんなところも愛らしい」
    「――っもう、あの、限界です……! とりあえず今日はこの辺りで……っ」
     仁が放つ最後の一言は、やはり余計である。
     おかげで千和は全身汗だくになっていた。感情のキャパシティが許容範囲を超えた。
    「また、日を改めて……」
    「そうか、それは残念だ。あぁ、じゃあ最後にひとつ」
    「はい……」
    「ニュースで『婚約者』と報道させた件だが、あれは俺が指示した」
    「えっ……あれ仁さんなんですか!?」
     千和は真犯人の登場にこれでもかと目を丸くした。この人には終始驚かされてばかりで、もはや呆れそうなほどだった。
     しかし当の本人はまったく悪びれる様子もなく、いつも通りに飄々としている。
     あのニュース一つで自分がどれほど感情をかき乱されたか。目の前の男は知る由もないのだろう。
     もちろん今もそうなのだが、好き勝手に心を弄ばれている気がして千和は口を尖らせた。
    「まぁそう怒るな。加美山の息が強くかかっていたマスコミを掌握することができたからな。そうする方が今後に有利だろうと思って」
    「……そのニュース、今、仁さんから直接聞く前に耳に入ってたんですけど」
    「それはすまなかった。気持ちが先走ったということにしておいてくれ」
     柔らかく微笑まれてしまえば、千和はそれ以上何も言えなかった。
     


    1-3

    「結論から言うと……仁さんにプロポーズされました……」
    「…………」
     家に帰るなり、千和は和泉を座らせて自分も座った。神妙な面持ちで、仁との会話を伝えた。指輪の真意も伝えた。
     和泉は茶化すことなく、ふざけることなく、黙って聞いていた。照れくさそうに言葉に詰まった時も変な茶々は入れなかった。
    「――と、言うことです」
    「うん……。うん、そうだよね。仁さんは、最初からそれが目的だったんだ」
    「それ、と言いますと」
    「千和を自分の奥さんにすること。それにしても、回りくどいことをするもんだね」
    「回りくどい、と言いますと」
    「もう。きっと仁さんは分かってたんだよ。千和が普通じゃないって」
     何度も言葉尻を言い返され和泉はちょっと頬を膨らませた。しかし答えはちゃんと伝える。
    「普通じゃないってどういう意味よ」
    「前に言ってたんでしょ。良くも悪くも目立つ存在って」
    「あぁ……まぁ、言ってたかも」
    「一目見た時は他の人と同じように外見に惹かれたのかもしれない。けど、きっと色々調べた上で興味を持って、それが慕う心になったんじゃない? 仁さんレベルの人間がただの一般人を気に入るわけないよ」
     わかんないけど、と和泉は肩をすくめた。
    「なんにしても、いい機会だと思うよ。俺にとっても、千和にとっても」
     その言葉だけで、千和は和泉の言い分を理解した。だからこそ口をギュッと結んでまたもや己を飲み込んだ。
    「……でもそれは、ダメ。母さんが死んだ時に決めたでしょ。誰にも縛られず、二人だけで生きていくって」
    「……でも、一番母さんに縛られてるのは千和だよ」
    「……っ」
    「俺を護るのは母さんの言いつけ。母さんが死んだからって、俺を護らなきゃって縛られてるのも千和」
     和泉の言葉は起爆剤だった。
     思い返せば、物心ついた時から意思の強い母親の言いなりだった。幼少から体術を習わされて、和泉のためだと転校もさせられた。何事も和泉の二の次で、千和の意思が尊重された試しなどなかった。
     それが不意に止んだのは、母親が死んだからだった。そんな元凶はタクシーの事故で呆気なくこの世から去っていった。見事なまでに空っぽに育った千和を遺して。
    「千和はどうしたいの?」
    「…………」
     和泉に問いかけられて、千和は言葉につまる。
     答えは、気持ちは、喉元まで出てきている。だがそれを明らかにするのは恐怖だった。
     黙りこくる千和に、和泉は哀れみを禁じ得ない。
     少なくとも自分は、姉よりはマシな環境で生きてきた。偏っているとはいえ母親の愛情も知っている。姉のことを横で客観的に見てきたからこそ、分かることがあった。
     あと一歩かもしれない。
    「千和はね、もう空っぽじゃないよ」
    「…………」
    「密かに気にしてたでしょ、そんなこと言われて」
    「まぁ……いい気はしなかったから」
     仁にも加美山にも言われた言葉を気にするなと言うほうが難しかった。本人には自覚もなかった。
     しかし、最も近しい人間にそれを真っ向から否定される。物分りが悪い千和ではないが、和泉の真意を汲み取れないでいた。
    「千和はね、俺といると空っぽになっちゃうんだ。母さんの呪いで。でも仁さんといる時は、ちゃんと満ち足りてる。俺の姉ちゃんじゃなくて、染原千和として生きられてる」
    「…………」
     これでもほどけなければ、ちょっとキツイなと和泉は内心思っていた。千和が背負うものが考えていた以上に強固ならば、さらに言葉を尽くさなければならない。
     凝り固まった概念と意識に、和泉の気持ちがどこまで届いているか。
    「だから、言ってごらんよ。どうしたいか」
     和泉の言葉に、千和は拳を握りしめた。
     こういう時、唇と舌と喉と声と、それぞれどうやって動かしていたっけか。
     これまで自分を見失っていたツケが回ってきていた。好きでそう生きてきたわけじゃない。でも見て見ぬふり、気付かぬふりをしてきたのは事実だ。
     千和はぎこちなく声を絞り出した。
    「私は……和泉と離れたいわけじゃない」
    「……うん」
    「でも……仁さんと、一緒にいてみたい……かも……」
    「……うん。それなら、そうしよう」
    「でもっ、早速一緒に住むとかそうしたいってわけではなくて、その、ちょっとしたお出かけとかおしゃべりとか……軽いことで……」
     ははっ、と和泉はようやく声に出して笑った。姉がそこまで自我と欲を持っていたとは思ってもみなかった。それだけ聞ければ十分だった。
    「分かってるよ。というかそれは俺じゃなくて仁さんに言わないと」
     ざっくりとした報告くらいは欲しいけどね、と一応釘を打ってみる。
     千和の気持ちを聞いたとはいえ、好き勝手にさせるのは少し怖い。世間知らずだからこそ、相手が京月仁だからこそ、第三者である自分が目を光らせなければと和泉は密かに思っていた。
    「そして結婚の話だけど、それはちょっと待ってもらおう」
    「うん……気が早いよね?」
    「そう。だって君たち知り合ってどのくらい? スピード婚とかゼロ日婚ってものはよく聞くけど、オススメはしないよ」
    「だって私も仁さんのプライベートとか全然知らないし。好きなのは好きだけど、もっと中身を知って好きになりたいし」
     そう言う千和は、なんでもない風を装っている。しかし和泉には、慣れない会話で内心のたうち回りたいだろう彼女の気持ちが手に取るように分かっていた。
    「いやぁ千和と恋愛の話をするなんて思ってもみなかったや」
    「急にそんなこと言わないでくれる? 気恥かしい」
     思わず口をついた本心に千和は口を尖らせた。
    「仁さんほどの人間と恋愛するなんて、僕らの常識が通じるのかは分からないけど……見守らせてほしい」
    「……見守っててよね。私が私であれるように」
     そう言って千和は少し微笑んだ。弟を安心させるように。


     
    1-4
     

     鷲田に連絡をしたのは久しぶりのことだった。
     プロポーズから一週間。心を決めたとはいえ、いざ答えを伝えようとするとどうしても緊張が勝った。
     うだうだと過ごしているうちに、気づけば仁に長いお預けを食らわせてしまっていた。
     家を出る時も、着る服に少し迷った。自分はもうボディーガードではない。少しでもよく見られたいと思ってしまうのは、気持ちが熱っぽくなっているせいだろうか。
    「お話があって、来ました」
     千和の姿を見て、仁はゆったりと立ち上がる。首元を緩めてネクタイを外したシャツ姿。今まで見た中で最も気を許しているような姿だった。
    「アポイントを取ってくれた時は嬉しかった。しばらく音沙汰がなかったから」
    「それは、ごめんなさい」
     ソファに座って、仁は少し傷ついたように大袈裟に眉を寄せた。
     きっとこれが、彼のパーソナリティなのだろう。そんなお茶目な仕草を可愛らしいと思ってしまう。
     これまでと異なる気持ちが千和の頬を熟れさせる。まだなにも言えていないのに、心臓はひどくうるさかった。聞こえてしまうんじゃないかと怖かった。
     千和はもじもじと感情を留めて、中々本題へと踏み出せないでいた。
     仁とて鬼ではない。重責を背負わせてしまった責任もある。覚悟を決めて足を運んでくれた誠実な彼女に、助け舟はいくらでも用意していた。
    「さて、心は決まったかな」
    「……はい。お返事を伝えに来ました」
    「聞かせてくれるかな」
     千和は深呼吸をした。後戻りする気はない。何度目かの覚悟を決めた。
    「単刀直入に……結婚の話は、お受けできません。……今は」
    「……今は?」
     仁の眉がぴくりと動いた。予想にない返事だったのだろうか。彼は続きを待っている。千和は再び口を開いた。
    「はい。私は仁さんのことも、好きな食べ物のことも知りません。そのまま一生を誓うのは寂しいというか……だから、結婚は前提でも構いません。でもまずは、私に、仁さんを知る時間をください」
     言ってる最中、仁の顔は見られなかった。あまりに気恥ずかしいことだった。
     すると仁はふっと笑いをこぼした。ちらりと盗み見ると、目尻に優しくシワが刻まれていた。
    「可愛らしいことを言う。そうだな、俺の気が急いていたのは確かだ。君の繊細な心に気付けなかったことは詫びよう」
    「いえ……すみません、わがままを言って」
    「俺も若い頃は青春を楽しんだものだと、今さら思い出した。そうするには老いたと思っていたけれど……千和がそう望むなら、俺も心を尽くそう」
     そんな言葉に、千和の顔にようやく安心の色が見えた。抱えていた不安の重みが解消されて、緊張の糸がほぐれたようだ。
    「……あの、私、デートとかしたことなくて……というか、和泉以外と出かけたこともなくて」
    「はじめは色々不安だろう。行きたい場所があれば気軽に伝えてほしい。俺も千和を連れていきたいところは山ほどある」
    「や、山ほど……!?」
    「じゃあそうだな……この後、今日の夜は空いているか?」
    「だ、大丈夫です」
    「交際記念というやつだ。親睦を深めにディナーでもいかがだろう」
    「……! はい、お願いします」
     降って湧いた初デートに、千和は暴れ出すところだった。しかも交際記念という言葉はまるで現実には思えないほどで、都合のいい夢かのようだった。
     そんな様子を、仁は満ち足りた表情で眺めていた。
    「……美しく咲いてくれたものだ」
    「え?」
    「いや、なんでもない。……千和」
    「はい?」
     少し首を傾げ、澄んだ大きな黒目がなんだろうと仁の目を見つめてくる。仁はそれを真っ直ぐ見つめて口を開いた。
    「好きだ」
    「……っ」
     呼吸を一瞬忘れて、どうにかなってしまいそうだった。
     唇が微かに震える。
    「わた……私も、好き……です」
     小さな声ながら、千和は気持ちの最上級をようやく伝えられた。
    「へへ……」
     そして千和は思わずはにかんだ。
     その頬は芍薬が咲きこぼれたように、美しく染まっていた。


     
    【最終話 さざめく色風。そして】


    あとがき

    調子こいてあとがきの欄を設けました。

    まずは、お読みいただいた方。
    ありがとうございます。
    8万字ですので、文庫本弱の長さとなります。
    読んでくださったあなた、ブラボー。
    書いた私、ブラボー。

    そしてお読みいただいていない方。
    このあとがきに辿り着いている経路は不明ですが、読むと結構な時間がかかりますので、お好みでどうぞ。
    移動時間や休憩時間にサクッと、とはいきませんが……。


    さて、この話はベースを高校生の時に作り出しました。
    そこから数年間隔を空け、練り直し、執筆し、改稿しを繰り返して現在に至ります。

    今回手直しを入れたのは、やはりこの物語が好きだからです。
    今の私が持てる力を使って、世に出そうと思ったからです。

    実際、手直し前とは結末が大きく変わっています。
    書いた時から気に入っておらず、今回8話部分を丸ごと改築工事をしました。

    ただ、きっと数年後にはまた書き直したくなるでしょう。

    そう考えると、書籍を売り出している人はすごいなと思います。
    その物語を未来永劫、確定版として世に出しているのですから。
    あ、あそこ変えたい……となっても遅いわけです。

    私にはまだそこまでの胆力はありません。


    少しばかり、取り留めのないことを話しました。
    私のnoteは雑記noteですので、こいついきなり小説上げ始めた。と思った方もいらっしゃるでしょう。
    ご安心を、私がここに小説を掲載するのはごく稀なことです。
    基本は趣味のことや気になったことを書き留めるnoteですので、気になれば覗いてみてください。

    小説は小説で、別のところに載せております。
    今回は創作大賞向けに、出張版のような形です。

    次のnoteはなんでしょう。
    和泉式部日記の解説を進めてもいいですね。
    スンスンについて語るのもいいですね。
    はたまた、ファントムシータについて語るのも。

    それでは、この辺で失礼いたします。



     
     

    烏野

     
     
    なんということもありませんよ、私のnoteは。 お茶類、動物、平安文学、小説(書く方)など。

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