
他人との境界が曖昧な女 ーあなたの周りにもいるあの人ー
#創作大賞2026#お仕事小説部門
あらすじ
幼い頃、「特別な何か」を手に入れれば自分は変われると信じ、盗みを犯した成田里恵。その衝動は大人になっても消えず、結婚、マルチ商法、推し活、スピリチュアル――人生の節目ごとに“電気が走る”ような感覚に突き動かされてきた。
五十歳を過ぎ、ようやく社員として認められた会社で、里恵は社長の母の“霊感”に共鳴し、「視える側」の人間になっていく。そんな中、完璧に見える同僚・佐伯が入社する。惹かれながらも苛立ち、理解したいのに近づけない。里恵は「救いたい」という善意の名のもと、佐伯を少しずつ追い詰めていく。
やがて佐伯は休職し、里恵自身もまた、壊れ始める。
喉の奥で 第一部 電気が走る
第一編「電気」
成田和彦と初めて目が合った時、腹の底に何かが落ちた。
走る、ではなく。落ちる、だった。
ストンと。
ああ、この感じを知っている、と思った。
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小学四年の時だった。クラスの女の子が、海外土産だという、甘いバニラの香りがする虹色の消しゴムを持っていた。 それはただの文房具じゃなかった。私には、神様がその子だけにこっそりあげた「合格のご褒美の魔法」みたいに見えた。その子がそれを机に置くだけで、周りの空気がキラキラして、みんなが笑う。その消しゴムを見ていると、喉の奥が熱くなった。
私にはどうしてももらい方がわからない。 それを手に入れれば、私のダメなところも全部消えて、明日からあの子みたいになれるんだと本気で信じた。みんなと仲良くする方法を練習するより、その魔法を奪う方がずっと簡単で、確実な解決策に思えた。お店で買った同じ物じゃダメなのだ。あの子が持っている「魔法の種」をそのまま盗んで、自分の心に植え替えること。それが、私が救われるためのたった一つの、一番近道だと思った。
休み時間、誰もいない教室で、その「魔法の種」が机の上にポツンと残されていた。 視界に入った瞬間、頭の中でパチンと音がして、真っ白な電気が走った。 欲しい、なんて考える暇もなかった。これを今、自分のものにしないと、私は真っ暗な穴の中に落ちたまま、出られない。急に、息ができなくなるほど怖くなった。 手がどう動いたのかは覚えていない。もう気づいた時には、私の汚い鞄の底で、バニラの匂いだけが指先に張り付いていた。 鞄の中にそれがあると思うだけで、お腹の底がじりじりと熱くなった。 悪いことをした怖さよりも、世界で一番まぶしいティアラ手をに入れたような、震えるような感覚。
でも、次の日になっても私はあの子みたいににはなれなかった。
返し方がわからなかった。引き出しの奥に隠したまま、バニラの匂いが消えるまで、私はそれを一度も使えなかった。
あの感覚と、同じだった。
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和彦を一目見た時、私は彼が「私と同じ種類の、欠落した人間」であることをすぐに見抜いた。
そして同時に、和彦を自分のものにすることこそが、今の私にとっての「虹色の消しゴム」なのだと直感した。 彼を手に入れれば、私は「誰かに選ばれた女」という、まっとうな人生のチケットを手に入れられる。理屈を抜きにした確信が、衝動となって腹の底から突き上げてきた。 欲しいと思ったのではない。これを今、自分のものにしなければ、私は完成しない。そんな、命を懸けた予感に、私の全身の回路がパチンと音を立てて繋がった。
和彦は、スーパーに出入りする業者だった。週に一度か二度、午前中に来た。伝票だけ置いて帰った。 他の男の客はレジで話しかけてきた。天気のこと、袋のこと。私はいつも笑顔で返した。それが仕事だったから。 和彦は何も言わなかった。ただ、伝票を置く時、一度だけ目が合った。
その目は、客たちが向けてくる「親切な隣人」としての光を一切宿していなかった。 底が抜けたバケツのように、ただ暗くて、冷たい。 その瞳の奥に、私は自分と同じものを見た。 「正しくありたい」と願いながら、どうしても世界の歯車と噛み合わない、あの苛立ち。 誰にも理解されないまま、体内でショートし続けている「電気」の火花。 彼は、愛想笑いという化粧を塗り固めることさえ諦めた、剥き出しの欠陥品だった。
同僚には、その本質は見えていないようだった。「あの業者さん、無愛想だよね」と、表面の無愛想さだけを笑っていた私には違って見えた。なぜ違って見えたのか。今から思えば、答えは簡単だ。
彼は私に何も求めなかった。話しかけなかった。笑いかけなかった。
名前を調べた。納品書に書いてあった。成田和彦。
「あの業者さん、独身なんですかね」と同僚に何気ない顔で聞いた。「指輪はしてないよ」と返ってきた。その夜、眠れなかった。
次に来た時、言った。
「連絡先、教えてもらえますか」「……なんで」
「話したいなと思って」「まあ、いいけど」
帰りのバスの中で、番号を何度も確認した。連絡したのは、その夜だった。返信は翌々日。「どうも」だけだった。
それでも、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、仕方がなかった。私が誘った。断られなかった。また誘った。また来た。
「好きです」と言ったのも、私からだった。夜の駐車場で、自販機の光だけがあった。
「……まあ、嫌いじゃない」
私はそれを「好き」だと解釈した。
そう解釈することに決めた。
思いつくと待てない。
欲しいと思うと止まらなくなる。 そう、昔から。
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子供の頃から、明るくて活発な子だと言われていた。でも、一度「こう」と思うと、もう自分の衝動を抑えられなかった。
遠足の班決めで、最後まで名前が呼ばれなかった。
友達の秘密は別の友達に喋った。黙っていられなかった。
友達になるといつも、うまくいかなかった。学生時代は明るくて面白い、だけど何かを任せてはいけない人、という扱いを受けた。
関東地方の、どこにでもある商業高校を出て、スーパーで働いた。レジの仕事は向いていた。ひっきりなしに客が来た。
静寂がない。そういう場所の方が、ずっと楽だった
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「将来どう考えてる?」「さあ」。
「子供とか、欲しい?」「考えたことない」。
何度も何度も言った。「結婚したい」。
ある夜、和彦が言った。「お前、しつこいな」
笑っていなかった。責めてもいなかった。ただ、そう言った。
「しつこくないと、和彦が動かないから」
「それはそうだけど」
和彦はそれきり黙った。否定はしなかった。
三ヶ月後、軽トラックの助手席だった。夜で、エンジンをかけたまま、和彦は前を向いていた。
「……一緒になるか」「なる」
「そうか」また前を向いた。
「お前がいないと、たぶん、つまらん」
腹の底に、ストンと落ちた。
第二編「愛だと思ったもの」
結婚してからも、和彦はほとんど喋らなかった。
機嫌が良い日と悪い日の違いも、最後までよくわからなかった。ただ、怒鳴る時だけは急に空気が変わる。狭い部屋の酸素が、一瞬で全部抜けるみたいに。
私は昔から、その空気に敏感だった。
だから、怒らせない方法を覚えた。靴を揃える。冷蔵庫の配置を変えない。疲れている日は、話しかけない。そういう小さな正解を、毎日集めた。
でも時々、急に全部外れた。
マルチ商法の件がそうだった。
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和彦は私を殴ったあと、しばらく黙って煙草を吸っていた。換気扇の下で、何も言わずに。
私は泣いていた。泣きながら、「ごめん」を繰り返した。
和彦は煙草を灰皿に押しつけてから言った。
「お前は昔から、“欲しい”と“必要”の区別がつかん」
意味が、すぐにはわからなかった。
「みんな持っとるから欲しい。すごそうだから欲しい。そういうのばっかだ」
「そんなことない」
「ある」和彦はそれ以上説明しなかった。私は反論したかった。でも、うまく言葉にならなかった。
たぶん、少しだけ図星だった。
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息子が生後まもない頃、夜中に何時間も泣き続けたことがあった。
抱っこしても駄目だった。電気を消しても、車に乗せても駄目だった。私も泣きそうになりながら、「どうして」「なんで」と繰り返した。
和彦は、しばらく黙ってその声を聞いていた。
それから、「耳塞げ」と言った。「え?」
「お前、その音に引っ張られとる」
そう言って、自分が息子を抱いた。あやすでもなく、優しく声をかけるでもなく、ただ黙って座っていた。
息子は少しずつ静かになった。
私は壁にもたれて、そのまま座り込んだ。
和彦は感情の扱い方がわからない人間だった。
でも時々、私より先に、私の壊れ方に気づいていた。
ある夜、私が台所で過呼吸みたいになった時もそうだった。理由は覚えていない。たぶん些細なことだ。町内会だったか、学校だったか、先生からの電話だったか。息がうまく吸えなくなった。泣いていた。
和彦はしばらく黙って見ていた。
息吐け。
それから冷蔵庫から水を出して、テーブルに置いた。「飲め」
それだけだった。背中をさすることも、
「大丈夫か」と言うこともなかった。
でも、私は少しだけ落ち着いた。
和彦は、壊れた人間の扱いに慣れていた。
たぶん、自分も壊れていたからだ。
だから私は離れなかった。
愛だったのか、依存だったのか、最後までよくわからない。
ただ、和彦といる時だけ、私は「完全にまともな人間のふり」をしなくて済んだ。
私はそれを愛だと思った。
今でも、そう思っている。
そう思わないと、いろんなことが成立しなくなる気がして。
和彦は口が悪く、気も短かった。ただ約束は守った。介護の費用を黙って振り込んでいた。感情のことには手を出さなかった。泣いていても、気づかないふりをした。
姑は「あんたはようやっとる」が口癖だった。
私はその言葉に何度も救われた。
結婚して二年後、マルチ商法に引っかかった。 説明会では、壇上の成功者が語る「家族の幸せ」や「本当の自分」という言葉が、乾ききった心に雨のように染み込んだ。会場を包む大きな拍手と熱気に、気づけば涙が溢れていた。 やっと私も、何者かになれる。誰かに必要とされ、輝く場所へ行ける。 やっと私も、すごい人になれる。 腹の底に何かが落ちた。和彦と目が合ったあの日と、消しゴムを鞄に入れたあの瞬間と、同じ感覚だった。
ローンを組んだ。友達に売ろうとした。誰も買わなかった。最後は親に頭を下げて終わった。
和彦には殴られた。「お前は昔から頭が弱い」
「しつこい」と言った口が、そう言った。
息子が成長してからも、育てにくかった。抱っこをすればのけぞって嫌がり、目が合うこともほとんどなかった。一度泣き出すと火がついたように数時間も泣き続け、あやす術もなかった。病院をいくつも回って、ようやく診断がついた。
診察室で一度だけ思った。
——これ、私じゃないの。
すぐに打ち消した。
息子を叱りながら、自分を叱られているような気がした。だから余計に「普通の母親」を演じた。
長く着た服は、体の形になる。
息子を見ていると、電気は走らなかった。
腹の底に何かが落ちることも、なかった。
愛しいとか、かわいいとか、そういう感情は確かにあった。でもそれは、電気とは違った。もっと重くて、鈍くて、逃げ場のない感情だった。
電気が走る相手は、いつも「手に入れたい何か」だった。
息子は、手に入れるものではなかった。
そのことに気づいた時、何かが喉の奥に詰まった。
愛しているのに、電気が走らない。
その意味を、まだ理解できていなかった。
あれが本当に愛だったのか、今でもわからない。
ただ、電気が走る時、私はいつも何かを壊していた。
喉の奥に、何かが残ったままだった。
第三編「霊道」
五十歳を過ぎ、長年パートを務めた会社で正社員になった。
次々と人が辞めていく中、ただ居座り続けただけの消去法的な抜擢だったが、それが「貢献」と見なされた。
「成田さんがいてくれて助かるよ。」
課長のその言葉に、喉の奥が熱くなった。家庭でも社会でも、透明な存在として生きてきた私にとって、自分が思っていた以上に「誰かに必要とされたい」と、心の奥底にずっと深くたまっていたのだとわかった。
家では誰も、そう言わなかった。
会社は変だった。
社長の母がスピリチュアルに傾倒していた。会議室で突然「このフロア、霊道通ってる」と言い出す。退職者が続くとお祓いを呼んだ。榊。塩。祝詞。
若い社員たちは引いていた。
ある日の昼、給湯室で社長の母がヒソヒソと「昔ね、霊見たことあるの。あんまり言わないようにはしてるんだけどね。」と話していた。私は気づいたらもう口が音を発していた。
「私も昔から、視えるんですよね」
半分は嘘だった。でも半分は、本気だった。
昔から、"嫌な空気"だけは異常にわかった。人が辞める前。揉める前。壊れる前。予感というより、臭いに近かった。
ただ、「勘が鋭い」と言っても誰も褒めない。
「霊感がある」と言うと、社長母がキラキラ目を輝かせた。
社長の母は、怖い人間ではなかった。
たぶん、それが一番怖かった。
「みんなのために波動を上げたい」と本気で言う。
「苦しんでいる人を助けてあげたい」と本気で思っている。
悪意がない。
善意の形をした何かが、じわじわと空気を侵していく。
ある日のミーティングで突然言った。「今日はみんな、笑顔で仕事しましょう。笑うと波動が上がるから」
若い社員が「え」という顔をした。
私は笑った。相手が喜んでいる時は心から一緒に喜ぶこと。できるだけ空っぽで完璧な愛想笑いの仕方で。
若い社員たちが引くのは、知らないからだ。理解できないからだ。
守られ、欠陥を埋めるための嘘がいらない彼らには、この熱気はただお遊びにしか映らない。でも私には視えた。あの人が本気だということが。
本気で信じている人間だけが持つ、あの目の光が。
その日から心の中でだけ、社長の母のことを心の中で「先生」と呼ぶようになった。
そう呼ぶことで、何かが変わった気がした。私はただの社員ではなく、先生の隣にいる人間になれる気がした。
特別になれる、と思った。
第四編「罠」
その頃、韓国のアイドルグループにはまった。
きっかけは息子だった。成人してからも家にいる息子が、ある晩テレビで見ていた。私は横目で流していたが、途中から目が離せなくなった。
整った顔が、十人近く並んでいた。みんな若くて、体が細くて、胸板が厚くて踊りが揃っていた。その中に一人、目が合う気がする子がいた。鼻筋の通った横顔とくっきりとした輪郭。照明に照らされてさらに顔立ちがミステリアスに浮かび上がった。カン・ジヌ、という名前だった。二十三歳。私の息子と同じくらいだ。
そう思ったが、関係なかった。息子はあの子のようには笑わない。あの子のようには踊らない。だから余計に、目が離せなかったのかもしれない。
推し活、という言葉を覚えた。熱くなれる。見返りを求めない。好きだという感情が、純粋に出てくる場所があるというのは、久しぶりだった。
和彦は何も言わなかった。どちらでも同じだった。
詐欺に引っかかったのは、ファンクラブに入って半年後だった。
SNSのダイレクトメッセージ。「カン・ジヌ本人のプライベートアカウントです」。最初は疑った。でも文章が丁寧で、写真がプライベートなものや自宅の中など非公開のものばかりで、「あなただけに教えています」という言葉が添えてあった。
本物かもしれない。
その瞬間、胸の奥で何かが走った。
またあの電気だった。三万円のギフト券を送った。
翌日、アカウントは消えていた。
誰にも言えなかった。和彦に知られれば、今度こそ何を言われるかわからない。息子の将来のために老後の資金を積んでいる最中だった。和彦は通帳の数字に、誰よりも敏感だった。 夜に一人で「韓国アイドル ファン詐欺」と検索した。同じ手口が山ほど出てきた。百万を超えている人もいた。
私は三万円だった。少ない方だ、と思った。 そう思わなければ、立っていられなかった。
二十歳の時のマルチ商法から、私は何も変わっていない。差し出された安っぽい罠に、自分から首を突っ込む。この年齢になってもまだ、自分の衝動一つ制御できない自分に、ほとほと吐き気がした。 布団の中で、スマートフォンの画面を消した。暗くなった画っ面に、自分の顔が微かに映った。
思ったより、老けていた。この老けた顔の奥に、まだ消しゴムを盗んだ時と同じ浅ましさがへばりついていることが、何よりみじめだと思った。
第五編「醜い真実」
社員になって三年ほど経った頃、伊東という社員と同じ部署になった。五十代中頃。愛想が悪く、昼休みは必ず一人でいた。挨拶をしても、薄い返事しか返ってこなかった。そういえば、この間誰かが、伊東はプライベートな話になると話をすり替えたりするような男で、自分の事はあまり話をしないので何か隠しているんじゃないか、と誰かが笑って言っていたような気がする。
ある日、コピー用紙の在庫が減るのが早い事に気がついた。気のせいかもしれなかった。でも、棚の隅に積まれた紙の束が、週ごとに少しずつ少なくなっていく気がしてならなかった。
こっそりカウントし始めた。月曜から毎日に数え、手帳の端に書き留めた。数字は合わなかった。
伊東だ、と思った。推論は、確信にかわり、真実へと導かれていく。根拠? そんなもの、今の私には必要なかった。
ただコピー用紙の在庫を数えているんじゃない。伊東のあの、人を小馬鹿にしたような薄い返事の裏側にへばりついている、歪んだ本性を暴こうとしているんだ。愛想がない人間っていうのは、大抵ろくでもないことを隠している。
だって、私自身がそうだったから。
小額の経費を丸めることに、最初は抵抗があった。
でも和彦は「そんなもん、みんなやっとる」と言った。実際、会社の営業も細かいレシートを混ぜていたし、上司も見て見ぬふりをしていた。
一度やると、境目がわからなくなった。
コンビニのコーヒー。ドラッグストアの日用品。数百円。「会社のためにも動いてるし」と思うと、罪悪感は薄れた。
だから私は、他人も同じだと思っていた。
伊東の無愛想な横顔を見るたび、あの人も何か隠している気がした。
二週間後、先生に話した。「備品の管理が少し気になっていて」と前置きして、数字の記録を見せた。
先生は真剣な顔で聞いた。「伊東さんが?」
「そうとは言ってないんですけど」と私は言った。
でも言っていた。声のトーンで、目の動きで、十分に言っていた。
翌週、先生から呼ばれた。
「成田さん、コピー用紙の件なんだけど」「はい」
「発注ミスだったみたい。私が在庫確認せずに注文止めてたの。
ごめんなさいね」
しばらく、何も言えなかった。
「あと」と先生は小さく続けた。
「伊東さんてね、去年から会社の備品費、自腹で補填してくれてたの。経費精算も出していないようだからお願いしておいたわ。成田さんが入ってから仕事が回るようになったって、喜んでたみたいよ」
帰り道、エレベーターの中で一人になった。
鏡に映った自分の顔を見た。何かを探している顔だった。欠陥。秘密。誰かの「自分より下」を。そういうものを見つけた瞬間だけ、自分が少しだけ安全になれる気がしていた。ずっとそういう顔をしてきたのかもしれない。
先生の声はどこまでも穏やかで、だからこそ私の耳には一言一言が、キレの悪いナイフで奥まで突き刺されるようなグニャっと鈍い音のように聞こえた。悪の伊東はパリンと砕け散り、その破片が全て卑屈な自分へ容赦なく降りかかってくる。 先生の優しさが、今は何よりも毒となって全身に回っていく。
喉の奥が、キリキリ焼けるように熱い。吐きそうなほどの自己嫌悪が、腹の底の底からふつふつとせり上がってくる。それでも、明日もまた「善良な社員」のフリをしてて、この場所で息を吸い続けなければならないのだ。 逃げ場のない暗闇が、静かに私を飲み込んでいった。
翌朝、伊東に挨拶した。「おはようございます」
「ああ」と伊東は言った。いつもと同じ、薄い返事だった。挨拶を返した彼の顔は、昨日までと何も変わらない、乾いた一言だった。
今日はそっと伊東のデスクにコロンと飴を置いた。
彼にとって私の告げ口や冤罪など、雨が降ったのと同じような出来事なのかもしれない。
第六編「聖なる武器」
佐伯が入ってきたのは、その翌月だった。四十代前半。国立大卒。細くて、背はそれほど高くない。上品で、話し方が静かだった。
初対面で、生理的に受け付けなかった。理由なんて後付けだ。
ただ、彼女の空気が、私の肌に、目の細かいやすりをあてるようにびりびりと、これでもかというほど、逆撫でした。
手入れが行き届いているスーツに、ピンと伸びた姿勢。最初こそ硬い表情だったが、急な来客などがあれば、求められている気配りをさりげなく、過不足なく応対していた。そして徐々に、全くノイズのない安心感を抱かせていた。彼女の隙のない格好や振る舞いは、私がずっと憧れていた「普通の幸せな人生」そのもので、その輝きを見るたびに、自分の、ダメなところが浮き彫りになって惨めな気持ちになる。彼女からは、いかにも「しっかり生きている」という雰囲気が漂っていた。
「成田さん、これ私やりますね」 佐伯は実際、仕事ができた。気が利き、責任感が強く、誰かが困っていると残業してでも片付けた。
ただ。よく見ていると。
コーヒーに砂糖を三本とクリームを入れた。
毎日、同じスーパーの惣菜を昼に食べた。
左手の薬指のネイルだけ、いつも少し剥げていた。
ピーピーとコピー機が詰まった音がした時、ちっと小さく舌打ちをした。
右の靴下の親指のところに小さい穴が空いていた。
私しか気づいていなかったと思う。 気づいた時、少しだけ安心した。完璧じゃない。そう思うと、ようやく見ていられた。
夫は大学勤務。子供は進学校。
いや、違う。無理してる。頼れない。
「ちゃんとしてる人」に見られたい人。
彼女の空気が、「理想の自分」のかけらと同じ匂いがしたからだ。自分を正し、隙を見せず、正解だけを選び取ろうとする強がり。自分と同じ欠落を抱えてるくせに、それを隠し通そうとする彼女の存在が、どうしても耐えられなかった。
鏡を直視できない人間が、せめて他人には美しく見えようと必死に塗り固めた化粧のようなものだから私にはわかる。彼女の背負っている、目に見えない重荷が。
鏡は同じように見えて左右を反対に映すのに、映っている中身は反対になってくれない。むしろ隠したい自分をありのままの残酷な現実として、そのまま突きつけてくる。
嘘をつけない鏡だからこそ、まざまざ見せつけて本当に嫌な気持ちになる。
それからなぜだか先生は、佐伯を気にかけていた。
半年ほど経ったある日。先生が皆にお土産のどら焼きを配りながら、私の耳元で囁くように言った。
「佐伯さん、オーラはとっても綺麗なのに、なんだか最近、中心がひどく乱れている感じがするの。 彼女、少し危ういわ。成田さん、あなたならわかるでしょう? さりげなく声をかけてあげてよ」
先生の瞳の奥は、森の中で一匹で彷徨う子羊を見つけた母親のような、若しくは腹を空かせた獣のような、残酷なまでの善意に満ちていた。
「善意」をぶつける対象として最適だったのか、もしくは獲物を見つけた執着だったのかもしれない。一方で佐伯には、「無理しないでね」と声をかけて、お菓子と共に、優しさという名の毒を盛り続けた。
笑顔が少しずつ固くなる。
疲れているのに大丈夫ですという。
本当に必要なや助け方はわからなかった。
佐伯の苦しさを利用したのかもしれない。その事に気づきそうになるたび、里恵の喉の奥をずっとキリキリ焼き続けていた。
佐伯は、そのたびに微笑んだ。柔らかく、穏やかに、口角をあげて、完璧に微笑んだ。
一度だけ、給湯室で二人になった時、佐伯がコーヒーカップを持ったまま少し止まった。先生が「今日も波動上げていきましょう」と言いながら廊下を歩いていく音がした。
佐伯は、持っていたコーヒーカップを、指先が白くなるほどぎゅっと強く握りしめた。それから、逃げるように身体を大きく捻り視線を外して窓の外を見た。その横顔は、ちっとも笑っていなかった。先生の言葉をただのひとつも体に入れないよう、喉の奥で何かを必死に飲み下しているような、拒絶に満ちた横顔だった。
見なかったふりをした。でも、ちゃんと盗み見た。
彼女が今まさに、檻の中で苦しそうに窒息しかけているのが見えた。でも言えないのも、わかった。あの場所で、「スピリチュアルは信じません」と言える人はいない。彼女の沈黙は、ただの悲鳴だった。
先生は悪人ではない。
ただひたすら本気で信じている。
本気で救おうとしている。
そんな先生に頼られたい、役に立ちたい。先生を助けることで、自分も救われるのだと信じたかった。だから、あえて優しくした。
嫌いだからこそ、その正体を暴きたかった。彼女がいつ窒息するかを特等席で眺めたかった。
「佐伯さん頑張りすぎ」
「もっと適当でいいんだよ〜」
お菓子を渡した。廊下で話を聞いた。
彼女のデスクには、いつの間にか他部署から回された「急ぎではないが面倒な雑務」が山積みにされていた。
佐伯さんならやってくれる、佐伯さんなら間違いない。その「信頼」という名の無責任な押し付けが、彼女のキャパシティを静かに、確実に食いつぶしていた。 彼女はもう、反論もしなかった。ただ、死んだ魚のような目で画面を見つめ、最低限の動作だけを繰り返す。
時折、キーボードを叩く音が止まり、彼女は自分の喉をかきむしるように押さえた。言葉にならない悲鳴をあげているようだった。
ある日、佐伯が残業していた。フロアの照明が半分落とされた薄暗がりの中で、彼女のデスクだけが白く浮き上がっていた。
佐伯は一瞬こちらを見たような気がした。私は慌てて目を逸らした。
パソコンの画面を見つめる彼女の肩は丸まり、時折、浅い呼吸を繰り返すたびに小さく震えていた。いつも完璧に整えられていたはずの髪は、こめかみのあたりで一筋、力なくひらひらと垂れ下がっている。パチパチ彼女がキーボードを叩く指先は、どこか迷うように何度も止まった。そのたびに、彼女は自分のこめかみを親指で指でギュッと強く押し、何かを追い払うように目を閉じる。その瞼の裏にある疲労が、遠目からでも私にははっきりと「視えた」。
私は通りがけに声をかけた。
「大丈夫? 無理しないでね。私、昔つぶれたことあるから」
佐伯は弾かれたように顔を上げ、一瞬だけ、ひどく怯えたような目をした。ほんの一瞬だけ、「成田さんに何がわかるんですか」と聞こえた気がした。
だがすぐにいつもの穏やかな微笑を貼り付け、目も合わせないまま「ありがとうございます」と言った。その声は、薄い氷を踏み抜く直前のような危うさで微かにかすれていた。
その頃から、佐伯はミスを繰り返すようになった。営業資料の添付漏れ。会議室予約の時間違い。発注の単位、納期間違い。
以前なら絶対にしなかったミスだった。
ある日、経費一覧の数字が合わなかった。
「佐伯さん、この交通費二重になってます」田中が困ったように言った。
佐伯は何も言わずに、深く息を吸い込んで、そのまま大きなため息をゆっくり、とてもゆっくりついて目を閉じた。しばらく閉じたまま動かなかった。表情も崩さなかった。顔を背ける事も隠す事もなかった。
でも、そのあと、マウスを持ったまま画面を見ていた。というよりぼんやりと、ここではないどこか遠くの一点を見ていたようにも見えた。
何をしているのかわからなくなる瞬間が、増えていた。 かつては淀みなく動いていた彼女の指先が、今は一音づつの鈍さで止まる。セル一つを移動させるのに、まるで重い石を運ぶようだった。自分が今、何を計算しようとしていたのか。この数字はどこから来たのか。思考の糸がプツリと切れては、何をしていたか思い出そうとする度に暗い淵に吸い込まれていく。 昼休み、佐伯は自席でスマートフォンを見つめたまま固まっていることがあった。誰かからのLINEなのか、学校からの連絡なのか、夫なのか、私にはわからなかった。ただ、微かにピロンと通知が鳴るたび、彼女の肩が小さく揺れた。その震えは、もはや期待ではなく、力ずくの侵入を拒むような拒絶の反応に見えた。
周囲は言った。
「最近忙しいですもんね」
「佐伯さん真面目だから」
みんな、疲れているだけだと思っていた。
そういうことにした。
私はその夜、帰り道で田中に言った。
「佐伯さん、最近しんどそうだよね。大丈夫かな」
彼女の崩れかけた横顔を思い出しながら、私の胸の奥には、甘い充足感が広がっていた。
でも裏では言った。
「プライド高いよね」
「学歴ある人って怖い」
「私たちみたいな苦労、知らないし」
本当は逆だった。
感情からを目を逸らすためだ。
ある昼休み、給湯室に佐伯がいた。
無言で里恵が近づくと佐伯は微妙に身体を引いた。「旦那さん、大学で何を教えてるんですか」と聞いた。
佐伯は少し間を置いた。「経済、らしいです」
らしいです。その一言が、ずっと頭の端に残った。
私はその言葉を、三週間かけて育てあげた。
佐伯が残業中に見せた疲れた横顔。
誰かと電話している時の声のわずかな硬さ。化粧のノリの良し悪し。乾いた毛先。よくみると似たようなコーディネート。踵の減ったパンプス。
それらを集めて、一つの像を作った。
佐伯は家庭が壊れかけている。
だからあんなに仕事にしがみついている。
その像が完成した頃、それをほんとうのことのように感じていた。
あんなに無理をして、誰にも言えないまま抱えている。誰かが気づいてあげなければ、と思った。 かつて私がマルチ商法の会場で、あるいは和彦の助手席で、必死に「これが正解だ」と思い込もうとしていた時の、あの自分。
私が動かなければ、と思った。
ある夕方、給湯室で先生と二人になるチャンスを狙った。
「佐伯さん、最近顔色悪くないですか」
「そうですね」と私は言い、少し間を置いた。
間を置いたのは、迷っていたからではない。タイミングを計っていた。
「なんか、家のこととかも大変みたいで」
声のトーンは、心配しているように意識して選んだ。
「あら、そうなの」と先生は言った。
「詳しいの?」
先生の目は、獲物を慈しむような光を湛えていた。
「詳しくは聞いてないんですけど。ほら、私、そういうのわかるじゃないですか」
「ああ」と先生は深々と頷いた。
「霊感ある人って、そういうのわかるよね。佐伯さん、もしかして何か憑いてるのかも。そういえば昔ね、この会社に同じ様な社員さんがいてね。その時は私もだいぶまだ若かったのだけど、なにか不安な事があると一緒に視てもらって助けられてたことがあるのよ。私、助けてあげたいな。私は敵じゃないから。」
私は曖昧に微笑んだ。
佐伯から直接聞いたことは、何もなかった。
不自然な空気感や距離感としてそれを受け取り、「らしいです」という一言と、三週間かけて私が育てた像だけがあった。
先生なら何かできるかもしれない、と思った。会社の中で一番影響力がある人に知っておいてもらうことが、孤立している佐伯を救う唯一の手段だと、自分に言い聞かせた。
「先生、実は佐伯さんのことで、少し気になることがあって……。彼女の周りの空気が、なんだか重いんです。家庭のことで、何か悪いものを引き寄せているような気がして」
先生はそれを、佐伯の支配欲を満たすために受け取った。
振りかざすための「聖なる武器」になっていた。
翌週のミーティングで先生が言った。
「佐伯さん、オーラが乱れてる気がする。みんな、フォローしてあげて」
若い社員たちが、ちらちらと佐伯を見た。
昼休み、若い社員たちは休憩室で小さく笑っていた。
「また波動の話してたね」
「最近毎週じゃない?」
「佐伯さんかわいそう」
でも、誰も真正面から否定はしなかった。
「まあでも、社長のお母さんだし」
「逆らうの面倒じゃん」
そんな空気だった。
田中だけが少し黙っていた。「でもさ」と、眉をひそめて小さい声で言った。
「なんか最近、佐伯さん見るのしんどいんだよね」
誰も返事をしなかった。電子レンジの回る音だけがしていた。
結局もみんな、ミーティングになると口角を上げ笑顔を作った。
「今日も波動上げていきましょう」
先生がそう言うと、若い社員たちは小さく笑った。
誰も信じてはいなかった。
空気は、そうやって完成していった。
佐伯は気づいていたはずだ。
何かが変わったことに。視線の質が変わったことに。
若い社員たちが、チラチラと、慎重に、視線を佐伯へと投げた。佐伯は、正面を向いたまま全く動かなかった。 だが、彼女の肩が、強張っているのが見えた。
「何か不吉なものを抱えた不安定な女」というレッテルが、ねっとり絡まるように肌に張り付いていく。仕事ができて正解な人生送っている人への敬意は、好奇の混じった憐れみへと変わっていった。
その日私は自分のデスクで、冷めかけたコーヒーをゆっくりと混ぜながら、ゆっくりと時間をかけて外を眺めていた。スプーンがカップの底に当たるカチンとという固い小さな金属音だけが、私の耳に心地よく響いた。
何も言わなかった。言う必要がなかった。
室内には、コピー用紙をめくる乾いた音と、誰かのカタカタというキーボードを打つ音が残っていた。やり切ったと思った。そう思えば思うほど、自分のした事は、正しい行動に変わっていく気がした。
でも同時に胸の奥では別の何か、がぬるく粘りついていた。ミーティングで向けられた視線。強張った横顔震えていた肩。
考えようとすると見えそうで見えない何かの輪郭がが頭の中でぼやけて、濁る。
やり切ったという甘い充足感と、自分でも名前をつけたくない恥じる気持ち。その両方が、私の胸の中でどろりと混ざり合っていた。
佐伯を見ていると落ち着かなかった。疲れた横顔を見るたび、何を言えばいいのかわからない。佐伯のデスクにそっと飴をひとつ置いた。
近づきたかった、たぶん。同じものを見ようとした。近づこうとするほど、どこまでが彼女でどこからが自分なのか、わからなくなった。
矛盾する二つが、自分の中でどうつながっているのか、考えなかった。考えたくもなかった。
ある夜、給湯室で佐伯が流しの前に立っていた。蛇口から細く流れる水の音だけが響く中で、彼女の肩が小さく、激しく震えていた。声は出ていなかった。泣き声なのか怒りなのかさえも、漏らすことを自分に許さないような、一切を拒絶する背中がそこにあった。
その日の夜、家に帰ってからカン・ジヌの公式動画を見た。画面の中で、彼は笑っていた。画面の中で、彼は汚れ一つない世界で、完璧な偶像として笑っていた。
佐伯のデスクに置いた飴は無造作に、コロンと私のデスクに戻されていた。
少しだけ、泣いた。 頬を伝う涙は驚くほど冷たかった。
何に対して泣いているのか、わからなかった。
わかりたくなかった。
理由を名付けてしまったら、もう二度と立ち上がれなくなる気がした。 喉の奥が、ずっとひりひり乾いていた。 虚無感だけが、喉の奥に張り付いて離れなかった。
喉の奥が、ずっと乾いていた。
喉の奥で 第二部 青い鳥の行方
第七編「正しい方法」
その半年後、佐伯は休職した。
ミーティングで先生が言った。
「やっぱりこのフロア、良くない気がする。何かいるんじゃないかな。佐伯さんのこと、私ずっと心配してたの。助けてあげたかったのに」
「いますよね、たぶん」
私がそう言うと、周囲がしんと静まった。自分が視える側にいる感じがした。その静けさが気持ちよかった。
数日後、若い社員の田中が聞いた。
「佐伯さん、大丈夫ですかね」
私はカン、とスプーンの音をたてながらコーヒーを混ぜ微笑んだ。
「真面目すぎたんだよねぇ。もっと適当にやればよかったのに」
田中は少し困った顔をして、
「そうですかね。でも部長には色々相談があったみたいですね」
とだけ言った。否定するほどの勇気もなかった。でも、私の口調の奥に、何か湿ったものが混ざっていることには、薄々気づいているようだった。
佐伯が抜けた穴は、思ったより大きかった。
仕事がどっと溢れた。私はそれを、引き受けた。
引き受けながら、思っていた。
ここで頑張れば、認められる。
伊東の件で、私は少し怖くなっていた。思い込みで人を疑い、先生に吹き込み、結果は何もなかった。あの日エレベーターで見た自分の顔を、まだ覚えていた。
今度こそ。次は私が認められる。
正しい方法で。
先生にも近づいた。ミーティング前、誰もいない会議室に先回りして、先生の机に紙コップのコーヒーを置いた。
「成田さんは、わかってくれるから安心するわ」
先生はそう言って、嬉しそうに笑った。
榊を替える日には、古い水を流し、新しい枝を整えるのを手伝った。先生は葉の向きにまでこだわった。
「こういうの、波動に出るのよ」
私は頷いた。本当はよくわからなかった。でも、否定しないでいると、先生はどんどん柔らかい顔になった。
ある日の夕方、二人きりになった時、先生は私の手を優しく包み込んで言った。
「成田さん、あなたは他の人とは違う『強い光』を持っているのよ。一度決めたら止まらないそのエネルギー、普通の人には真似できないわ。世間ではそれを欠点だと言う人もいるかもしれないけれど、私にはわかる。それは神様がくれた、誰かを救うためのエンジンなのよ」
その言葉は、私の喉の奥にこびりついていた劣等感を、一瞬で溶かしていった。
「やっぱり成田さんがいると場が明るくなるわね」ある日のミーティングで先生が話し始めると、若い社員たちは少し視線を逸らした。その空気の中で、先生の隣に立っている自分だけが、「視える側」に入れた気がした。
忘れ物が多いことも、話が飛ぶことも、一度集中すると周りが見えなくなることも。それを「特別な力」だと肯定してくれたのは、人生で先生だけだった。
でも、気づくと私は、また同じことをしていた。一度「ちゃんとやろう」と思うと、頭の中がそのことで埋まってしまう。
朝早く出勤して、誰も頼んでいないファイル整理を始めた。営業ごとに色分けし、古いデータまで遡って修正した。顧客管理のフォーマットも、見づらい気がして全部作り直した。小さなミスを見つけるたび、「今直しておいた方がいい」と思った。思うと、どうしても止まれなかった。
家に帰っても気になった。布団に入ってから、「やっぱりあの表、並び順変えた方がいいかも」と思いつくと、夜中でもスマートフォンにメモした。
先生に褒められるたび、胸の奥が熱くなった。
やっと、ちゃんと役に立てている気がした。加減がわからなくなった。
帰宅時間を削り、課長への提案も、一つ思いつくともう止まらない。挨拶状の文面、発注書の管理システム、備品の配置換え。寝食を忘れて没頭し、頭の中はそのことで一杯になった。
周囲の社員が、私の過剰な熱量に引き始めていることには気づかなかった。いや、気づいていても止まれなかった。これが私の「電気」の別の形だった。小さな提案のいくつかが採用され、課長は「成田さん、よく気がつくね」と言った。その言葉を、布団の中でこっそり三回、思い出した。
まるでお守りのように、その言葉を頭の中で反芻し、自分の正しさを確認せずにはいられなかった。
必要とされていた。ただそれだけで、十分だった。
第八編「午前三時」
家に帰ると重かった。
息子のシーツを替え、体位を直し、水を替える。五十半ば過ぎた体で、毎晩同じことを繰り返す。腰の奥に鈍い痛みが居座り、膝が笑う。もう限界だった。指先一つ動かすのさえ、鉛を動かすような重さがある。いつかこのまま、二人で動かなくなってしまうのではないか。そんな予感が、暗い部屋の隅でじっとこちらを窺っている。
和彦は、呑気にビールを片手に野球中継を見ている。応援の大音量とアナウンサーの声が響いていた。同じ部屋で息子にシチューを食べさせながら、会社での話をした。
「最近、仕事がうまくいってる気がして」
息子は黙って食べていた。しばらくして、言った。
「お母さんさあ、人のわるくち好きだよねえ」
箸が止まった。「え?」
「なんか、いつもだれかの話してる。会社のだれかが、って」
「悪口じゃないよ。ただ話してるだけ」
「そお」と息子は言って、また黙って食べた。
その夜、布団の中で目が覚めた。午前三時だった。息子の言葉が、暗闇の中でそのままの形で浮かんでいた。
ーー お母さんさあ、人のわるくち好きだよねえ。
打ち消そうとした。できなかった。
伊東のことを、思い出した。疑って、吹き込んで、間違いだった。
佐伯のことを、思い出した。育てて、流して、扉を押した。
カン・ジヌの詐欺のことを、思い出した。電気が走って、止まれなかった。
消しゴムのことを、思い出した。返し方がわからなかった。
全部が、つながっていた。
つながっているのに、どこにも終わりがなかった。
第九編「何者でもない自分」
翌朝、出勤した。いつも通り挨拶した。
先生にいつも通りコーヒーを淹れた。いい香りが社内に広がる。満たされた香り。
「やっぱ成田さんがいると違うわ」
久々に“電気”を感じる。
佐伯の残した荷物を片付けるためファイルを手に取った。パラパラと何枚かめくる。一枚だけ小さいメモ書きがついている。
そこには「領収書確認済?」と丸で囲まれたメモ書きがあった。
ーー 名義をすり替えた、私の提出したレシートがそこにはあった。
私だけじゃない、みんなもやってる事なのに。
鼓動が、耳のすぐ横で暴力的な音を立て始めた。
ドクン、ドクンと、肋骨を内側から叩き割るような衝撃。私の体内に長年沈殿していた「怒り」が、体中に一気に噴き上がってくる。
「助かるよ」と言いながら、人が壊れる量の仕事を渡してくる会社に。
「救いたい」と言いながら、人を弱った誰かとして扱う先生に。
真面目に働けば報われると信じていたのに、結局は空気を読める人間だけが残っていく場所に。
そして何より、その全部に必死にしがみつてきた自分に。
「お前は昔から欲しいと必要の区別がつかん」と言われた夜。
震える肩を見ながら、胸の奥で少しだけ安心してしまった瞬間。
「お母さん、人のわるくち好きだよねえ」と言われた声。
全部、消えなかった。
怒りの矛先は、もう外には向かなかった。
次に気がついた時、私は冷たい床に座り込んでいた。頬を伝う汗が、氷のように冷たい。遠くの方で、田中が「成田さん? 成田さん!」と、壊れたおもちゃのような声を上げていた。立ち上がれなかった。
「大丈夫? 無理しすぎよ。成田さん、頑張りすぎだもの」
先生のその声が、サイレンの遠くで揺れながら聞こえた気がした。
医師から告げられた言葉は、一過性の虚血によるものだという。幸い、すぐに意識は戻った。数日の入院を経て退院した帰り道、私は薬局に寄った。処方された大量の薬を受け取り、その重みを感じながら、しばらく店の前に立っていた。佐伯さんも、こういう袋を持って帰ったのかな。思った。
帰宅すると、息子が介護ベッドで寝ていた。部屋に入る前から、においでわかる。石鹸と体温の混ざった、あの匂い。
和彦がシーツを確認し、体位を直し、水を替えてくれていた。それだけやって、何も責めずに台所に立った。私は動かなかった。
窓ガラスに、台所の蛍光灯が白く映っていた。遠くに微かに冷蔵庫の音がした。その中に、私の顔が映っていた。思ったより、老けていた。静かな部屋で、ふと思った。
昔の私なら、そんな自分を許さなかったと思う。
不思議と、怒りだけが少し遠くなっていた。
電気は走らなかった。
連絡を受けた和彦が、会社から無言で持ち帰った荷物を片付けている時、鞄の中に自分のものと一緒に、佐伯のマグカップが入っているのを見つけた。片付けていた荷物の中に、混ざっていたものだ。気づかなかった。いや、気づいていたかもしれない。
白地に、小さな青い鳥。カップを手に取った。
私のカップの持ち手に当たってカンと鳴った。軽かった。思ったより、ずっと軽かった。
少しだけ迷い、そのままゴミ袋に入れた。袋を縛った。
喉の奥で、何かがぎゅっと締まった。
締まったまま、ほどけなかった。
あんたはようやっとる。姑の声が、どこからか聞こえた気がした。
でも今夜だけは、その言葉が怖かった。
翌朝、ゴミ収集車が来た。
青い鳥は、他の全てと一緒に、持っていかれた。
第十編「身勝手な善意」
それから数ヶ月が経った。
昼下がり、息子が起きていた。
珍しかった。いつもこの時間は眠っている。
介護ベッドの角度を上げて、息子はぼんやりとリモコンを片手に持ったままテレビを見ていた。私は横に座って、特に何もしなかった。
しばらくして、息子が言った。
「お母さん、しごとは」
「休んでる」
「そお」また黙った。テレビのCMの音だけがあった。
「たいへんだったのお」
「まあ、ちょっとね」息子はそれ以上聞かなかった。私も話さなかった。ただそこに、二人でいた。それだけだったが、去り際に息子が言った。
「ゆっくりしたら」
それだけだった。喉の奥が、じんわり少し緩んだ気がした。
腹の底に何かが落ちることも、なかった。ただ、緩んだ。
会社から、たまに電話がきた。「体調どうですか」という声は、田中だった。
先生からは来なかった。
いつも助けてあげたい、と言っていた人からは、連絡は来なかった。
ある日の昼、ぼんやりとスマートフォンを開いた。カン・ジヌの新しい動画が上がっていた。再生した。画面の中で、彼は笑っていた。
電気は走らなかった。ただ、そう思った。
里恵はもう電気を探すのをやめた。
また若い子が辞めた、という連絡を、田中からのLINEで知った。先生がまた何か言っているらしい、とも書いてあった。
里恵はその文字を、少し長く見た。それから、スマートフォンを置いた。
返信は、しなかった。
窓の外で、何羽か集まって小鳥が鳴いていた。
何の鳥かは、わからなかった。
喉の奥で、何かがほんの少しだけ、動いた。
溶けた、ではない。消えた、でもない。
ただ、動いた。
それだけだった。
第十一編「青い鳥」
佐伯が会社を辞めた後、1か月ほどは何も出来なかった。記憶はあまりない。
ただただどこにもぶつけられない、怒り、やるせなさ、申し訳なさ、そして情けなさで満ちていた。毎日何もする事が出来ず、目が覚めては真っ黒な感情の波が押し寄せ、呼吸ができないほどの感情に飲み込まれもがきながら耐えた。それ以外はただひたすら眠っていた。眠っている時にもぐるぐる同じ事を考えていたと思う。時には自分の大声で目が覚める事もあった。まだ薄暗い夜更けに、怒りと共に目覚めてそのまま朝を迎えるような事もあった。これが自分なのかと思う。頭がおかしくなってしまった。心底そう思った。
何かをしようと思っても起き上がる事も出来ず目をつむるともう夕方になっていた。やっと買い物に出かけても、何するのかわからない。何もせずに帰ってまたひたすら眠りについた。
そんな日々を続け、自分自身の感覚を取り戻した、と思えるようになったのは2か月を迎えた頃だった。
ーー会社を辞めてから、半年が過ぎていた。
春だった。
新しい職場は、駅前の大通りの3階にある小さなスタートアップ企業だった。社員は七人しかいない。来客用のスリッパが少し擦り切れていて、歩くとパタパタ音がする。給湯室のポットは錆びて古かった。
その代わり、誰も「波動」の話をしなかった。それだけで十分だった。
昼休み、佐伯は一人で弁当を食べていた。
窓際の席で、小さな保温バッグからおにぎりを出す。誰も話しかけてこない。以前なら、その痛いほどの静けさを「孤立」だと感じたかもしれない。今は違った。誰にも踏み込まれないことが、ありがたかった。
新しい職場の人たちは親切だった。
ただ、互いに深入りしない。
「佐伯さんって前どこだったんですか」
最初の頃、一度だけ聞かれた。
「製造関係です」そう答えると、
「ああ、大変そうですね」
とだけ返ってきた。それ以上、誰も聞かなかった。それが救いだった。
以前の会社のことは、夫にもあまり話していない。「大変だったね」とは言われた。でも、何がどう大変だったのか、説明できなかった。説明しようとすると、全部が急に安っぽくなる気がした。
霊道。波動。オーラ。ミーティング。
口に出した瞬間、急に現実から離れてコントみたいになる。でも、あの場所にいた時の息苦しさは本物だった。少しずつ、自分の感覚を疑うようになっていった。
「気にしすぎかな」
「私がおかしいのかな」
「みんな善意なのに」
そうやって、自分の輪郭が少しずつ薄く、それはそれは薄く、しかし日毎に削れていった。あれが一番苦しかった。誰かに怒鳴られる方が、ずっとわかりやすい。
帰宅途中、駅ビルの雑貨屋の前で足が止まった。
棚に、白いマグカップが並んでいた。
小さな青い鳥が描かれている。佐伯はしばらく見ていた。
以前の会社で使っていたものと、少し似ていた。
あのマグは、最後どうなったのだろう。
たぶん、捨てられたのだと思う。そう考えて、不思議と怒りは湧かなかった。ただ、少しだけ喉が詰まった。
店内ではピアノの静かな音楽が流れていた。
若い店員が、奥で値札を貼り替えている。
平日の夕方だった。世界は普通に動いていた。
遠くで電車の走る音がした。商店街の呼び込みの声。惣菜屋だ。高校生の自転車とすれ違う風。高速道路のエンジン音。ふとどこかの家庭の夕ご飯の匂いがした。今日は唐揚げだろうか。
自分が壊れかけたことなど、関係ないという顔で。
そのことに、少し安心した。誰も覚えていない。それでいい気がした。
スマートフォンが震えた。田中からだった。
「成田さん、まだ休んでるみたいです」
そのあと、少し間を空けて、「最近また人辞めました」と送られてきた。
佐伯は画面を見たまま動かなかった。
成田里恵。頭の中に、コピー機の前で笑っていた顔が浮かぶ。
「もっと適当でいいんだよ〜」
甘い声だった。やさしい声だった。だから、余計に苦しかった。
佐伯は、里恵のことを完全には嫌いになれなかった。
あの人もたぶん、壊れていて苦しかったのだと思う。ずっと。
だからといって、許せるわけではなかった。
人は、苦しいと誰かを壊していいわけじゃない。
でも、壊した側も、壊れながらやっていることがある。
それを知ってしまった。
知ってしまうと、単純に憎めなくなる。それが一番厄介だった。
田中に返信を書きかけて、消した。「そうなんだ」だけ打って、また消した。結局、何も送らなかった。
スマートフォンをバッグに戻し、もう一度マグカップを見た。
青い鳥は、こちらを向いていた。昔
の自分なら、買っていたかもしれない。「ここからやり直せる気がする」と思って。
でも今は、そういうものを少し疑っている。
物に意味を預けると、あとで回収できなくなる。
佐伯は棚から手を離した。買わなかった。
もうこれからも、買うことは無い。
外に出ると、風が少し冷たかった。
駅前の木に、小さな茶色い鳥が一羽止まっていた。
名前はわからない。すぐ飛んでいった。
冷たい風が吹く方に向かって。
飛び立つ羽音は風とともに消えていった。
佐伯はしばらく、その空を見ていた。
喉の奥に、何かが残っていた。
まだ、完全には取れていない。
でも、前みたいに、息ができないほどではなかった。
ただ、そこにある。傷というほど大きくなく、
違和感というには深すぎる、小さな硬い塊。
佐伯はゆっくり長く息を吐いた。それを、無理になくそうとは思わなかった。
そのまま、駅へ向かった。人の流れの中に混ざる。誰も佐伯を見ていない。
それが今は、少しだけ心地よかった。
了