日本妖怪むかしばなし第71回長壁――姫路城、天守の主
兵庫県姫路市。
白く美しい姿から、白鷺城とも呼ばれる姫路城。
その天守の最上階には、人間の城主よりもずっと昔から、この地を治めてきた「ほんまの主」が棲んでいるという。

その名を――
長壁(おさかべ)
⸻
むかし、姫路城に森田図書という若い小姓がおった。
ある秋の夜。
図書は仲間の小姓たちと、城の夜番をしていた。
外では冷たい風が吹き、暗い天守からは、時折ぎしり、ぎしりと木の軋む音が聞こえてくる。

「なあ、知っとるか」
一人の小姓が、声をひそめて言うた。
「この城の天守には、長壁いう主が棲んどるらしいぞ」
「知っとる。殿様でさえ、年に一度、一人で会うことしか許されへんそうや」
「白髪の老婆の姿をしとるとも聞いたぞ」
「いやいや。十二単をまとった、美しい姫やいう話や」
小姓たちは、暗い天守を見上げながら、好き勝手なことを言い始めた。
けれども、長壁の姿を実際に見た者はおらん。
そこで、まだ十七、八ほどの血気盛んな図書が立ち上がった。
「ほんなら、わしが確かめてきたる」
「やめとけ。殿様でも年に一度しか会われへん御方やぞ」
「怖うなったんなら、そう言えばええ」
そう笑うと、図書は提灯を手に取り、たった一人で天守へ向かった。
⸻
夜の天守には、人の気配がなかった。
急な階段を一つ上がるたび、図書の足音が暗闇の中に響く。
ぎしり。
ぎしり。
風もないのに、どこかで戸の揺れる音がする。
一階。
また一階。

図書が上へ進むほど、城下の物音は遠ざかっていった。
やがて聞こえるのは、自分の息づかいと、早鐘を打つ胸の音だけになった。
――長壁は、ほんまに老婆なんやろか。
――それとも、人を化かす狐なんやろか。
――もし、城へ入ったことを怒らせてしもうたら……。
図書の足が止まりかける。
せやけど、仲間の前であれだけ大きなことを言うた手前、今さら引き返すわけにもいかん。
図書は提灯を握り直し、さらに上へと登っていった。
⸻
ようやく最上階へたどり着いた、その時やった。
誰もおらんはずの部屋から、ぼんやりと明かりが漏れていた。
図書は息をのみ、そっと戸に手をかけた。
きい……。

「誰じゃ」
鋭い声が、天守いっぱいに響いた。
図書はその場にひれ伏した。
「は、はいっ!」
衣の擦れる音がする。
何者かが、ゆっくりとこちらを振り返ったらしい。
「そこにおるのは、何者じゃ」
今度は、先ほどよりも穏やかな声やった。
図書がおそるおそる顔を上げると、部屋の奥に一人の女が座っていた。
年のころは三十半ばほど。
白い肌に、高く整った鼻。
幾重にも重なる十二単をまとった、美しい女やった。
城主が会うという白髪の老婆とは、まるで違う。
「森田図書と申します。城の夜番を務めております」
図書は正直に、仲間たちと長壁のうわさをしていたこと、そして自分がその姿を確かめるため、ここまで登ってきたことを話した。
女はしばらく黙って図書を見つめていた。
やがて、その口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「なるほど。若い身で、ようここまで登ってきた」
女は傍らに置かれていた物を手に取ると、図書の前へ差し出した。
それは、兜の首まわりを守る錣やった。

「ここへ来た証として、これを持ってゆくがよい」
図書は深々と頭を下げ、錣を受け取った。
再び顔を上げた時には、女の姿も、部屋を照らしていた明かりも消えていた。
そこにはただ、月明かりの差し込む暗い天守があるだけやった。
⸻
翌朝。
図書が昨夜の出来事を話すと、すぐに殿様の耳にも入った。
「長壁に会うたというのか」
殿様は半信半疑のまま、図書の持ち帰った錣を確かめた。
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「蔵から、家宝の兜を持ってまいれ」
家臣たちが急いで兜を運んできた。
見ると、その兜からは錣が一つ、何者かによって引きちぎられていた。

図書の持ち帰った錣を合わせると――
それは、ぴたりとはまった。
殿様は、しばらく言葉を失っていた。
殿様が年に一度会う長壁は、いつも白髪の老婆の姿をしていたという。
せやのに、図書が出会ったのは、十二単をまとった美しい女やった。
長壁がなぜ違う姿で現れたのか、それは誰にも分からんかった。
ただ、図書がほんまに天守の主と対面したことだけは、誰も疑わんようになったという。
⸻
長壁は、姫路城に現れる妖怪として知られとる。
けれども、その始まりは、姫路城が建つより前から姫山に祀られていた「刑部神」という土地の神やったとも考えられとるんよ。
城を築くために刑部神を別の場所へ移したところ、城主の池田輝政が病に倒れた。
そこで人々は、
「姫山の神を移した祟りや」
とうわさしたという。
その後、刑部神は再び姫山へ祀られた。
こうした出来事が語り継がれるうちに、土地の神は、天守に棲む長壁という不思議な存在へ姿を変えていったのかもしれへんね。
長壁は老婆とも、美しい姫とも、恐ろしい鬼神ともいわれとる。
後の物語では、狐の妖怪として描かれることもあった。
んよ。
せやけど、ほんまの姿を知る者はおらん。
ひょっとすると、老婆も姫も鬼神も、長壁が人間に見せた仮の姿にすぎへんのかもしれんな。

城主が代わり、時代が移り、城を守る人々がいなくなっても、姫山そのものがなくなるわけやない。
姫路城の大天守、その最上階には、現在も長壁神社が祀られとる。
長壁は今もそこで、人間たちが自分の山に築いた白い城を、静かに見守り続けているのかもしれへんね。

