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『夢ならば良かった』

    あらすじ

    100万部を売り上げた作家・佐山修一は、最愛の妻・薫を惨殺した現行犯で逮捕された。

    だが、彼には妻を殺めた記憶が一切ない。

    取調室で突きつけられるのは、関係者によって「氷の女」「聖女」と完全に食い違う証言と、妻の戸籍が存在しないという事実。

    共に笑い合った日常。確かに触れた温もり。
    あの愛しい記憶すらも虚構なのか?

    消えていく証拠、ズレていく現実。

    やがて修一の自著『夢ならば良かった』の文章が世界を侵食し始める。

    妻の存在を証明するため、彼が選んだ狂気の結末とは――。

    読者の足元をも崩壊させるメタフィクション・サイコロジカルホラー。


    第1章「最初の疑い」 

    男は泣いていた。 なぜ泣いているのか、その理由は全く思い出せない。

    ただ、両目から熱い液体がとめどなく溢れ、頬を伝って顎先から落ちていく。視界はひどく滲んでいた。

    六畳の狭く、古いアパートの一室。

    淀んだ空気の中には、埃っぽい畳の匂いに混じって、酷く生臭く、鉄がひどく錆びたような悪臭が充満していた。

    焦点の合わない目で、男は部屋の床を見下ろした。

    そこには、“そうなっているべきではないもの”があった。

    フローリングの床に、女が倒れている。
    不自然な角度で曲がった手足。

    衣服は無残に切り裂かれ、本来なら体内にあるべき鮮やかな濃厚色の液体が、安物の床材の上へ海のように広がっていた。

    それが「愛した妻」であると脳が理解した瞬間、男の胃の奥が激しく反転した。

    強烈な吐き気が喉元までこみ上げるが、吐くことすらできない。

    身体が現実を拒絶して、完全に硬直していた。

    「……あ……」

    喉から漏れたのは、意味を成さない掠れた音だけだった。

    ふと、右手に奇妙な重みと、じっとりとした温かさを感じた。
    視線をゆっくりと手元へ下ろす。 刃渡りの長い、鋭利なナイフ。

    それを、自分の右手が指の関節が白くなるほど力強く握りしめている。

    その事実に気づくまで、数秒の遅れがあった。
    まるで自分の身体が他人のもののように感じられる。

    赤色に染まった刃先から、液体が重力に従って集まり、床に落ちる。

    ポタ、ポタ、ポタ。

    昨日の夜、あいつは何て言っていた?

    「ねえ修一、明日の朝は目玉焼きでいい? ベーコン、少しカリカリにするね」

    向日葵が咲いたような明るい笑顔。

    「ありがとう。絶妙な硬さが最高だよね!」

    そんな、どうでもいい日常のやり取りが、なぜか頭にこびりついている。

    つい数時間前まで、この部屋には確かに温かい時間が流れていたはずなのだ。

    静まり返った部屋の中で、その音だけが鼓膜を直接叩くように、やけに大きく響いた。

    窓の向こうで、遠くを走る電車の通過音が聞こえる。

    ガタン、ゴトンという鈍い振動。

    外の世界の音は、まるで分厚い水槽のガラス越しに聞いているように、どこまでも遠く、非現実的だった。

    「俺は……何をした?」

    男――佐山修一は、自分の右手が握る凶器と、目の前に広がる赤色の海を交互に見つめ、乾いた唇を動かした。

    問いに対する答えは、誰からも返ってこない。

    記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
    自分がナイフを振り下ろした感触も、妻が悲鳴を上げた記憶も何もない。

    だが、目の前には男の妻「だった」物体が横たわり、手には血濡れの凶器がある。

    「俺が、殺した……?」

    止まらない大粒の涙。ぽっかりと空いた記憶の空白。

    目の前の現実を受け入れることも、拒絶することもできないまま、修一はただ立ち尽くしていた。

    その時だった。

    ドンッ!

    代わりに応えるように、背後から凄まじい轟音が響いた。
    薄い木製の玄関ドアが、外からの乱暴な力によって蹴り破られる音。

    蝶番が悲鳴を上げて吹き飛び、凍りついていた空間に、突如として荒々しい「現実」が侵入してくる。

    「動くな!!」

    怒号と共に、土足のまま数人の男たちが部屋へとなだれ込んできた。
    修一が振り返るよりも早く、強烈な力が彼を床に引き倒した。

    突然現れた警官たち。
    サイレンの音も聞こえなかった。

    誰かが通報したのだろうか。

    顔の右半分が、妻の血が広がる床にべちゃりと押し付けられる。

    鉄の匂いが鼻腔を直接犯す。
    右腕を後ろにねじり上げられ、冷たく重い金属の輪が手首に食い込んだ。

    「ナイフを確保!」

    「被疑者、制圧しました!」

    飛び交う警察官たちの声は、どこか遠い世界のノイズのように聞こえた。
    修一は抵抗しなかった。
    抵抗する理由すら、頭の中に浮かばなかった。

    床に押さえつけられた修一の視界の端に、黒い革靴がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。

    見上げると、そこにはスーツ姿の女が立っていた。

    無表情で見下ろしてくる彼女の瞳には、感情の揺らぎが一切ない。

    まるでただの「物体」を確認するような、ひどく冷たい目だった。

    「2026年、4月8日、午前10時20分。殺人の現行犯で逮捕する」

    女刑事の声は、低く、無慈悲に、地獄の宣告のように部屋に響き渡った。

    「あなたには弁護士を呼ぶ権利がある。また、自分に不利な供述を拒む権利もある……」

    事務的に告げられるミランダ警告を聞きながら、修一の視界は、床に転がる「無残な姿に変わり果てた妻の顔」で固定されていた。

    妻を殺したのは自分だ。
    それは分かっている。
    状況がすべてを物語っている。
    ただ、どうしても思い出せない。

    事件の行方は、
    この冷徹な女性刑事・桧山沙苗と、記憶を失った殺人犯・佐山修一の二人に委ねられることになる。

    そしてこの時、修一はまだ知る由もなかった。

    二人の間には、まだ明かされていないどころか、「書き込まれてすらいない真実」が横たわっていることなど。


    第2章「食い違う証言」

    朝になっても、世界の色は戻らなかった。

    佐山修一は、警視庁の取調室にある硬いパイプ椅子の感触を、一晩中背中に感じていた。

    部屋には窓がなく、不快な唸りを上げる蛍光灯の光だけが、時間の感覚を狂わせる。

    空気は重く淀み、安っぽいコーヒーの匂いと、誰かがこぼした煙草の灰の匂いが染み付いていた。 修一は、自分の指先を見ていた。

    昨日の「赤」は綺麗に洗い流されていたが、爪の間に挟まった鉄の匂いだけは、どうしても消えない気がした。

    「……おはようございます、佐山さん」

    ドアが開き、桧山沙苗が入ってきた。昨日の冷徹な表情のまま、彼女は修一の向かいに座り、手にした厚いファイルを机に置いた。

    刑事というよりは、冷厳な裁判官のように修一には見えた。

    「夕べは、眠れましたか?」

    事務的な問いかけ。修一は答えなかった。眠れるはずがなかった。
    目を閉じれば、あの赤い海と、不自然に曲がった薫の体躯が鮮明に蘇るのだから。

    桧山は修一の沈黙を気にする風もなく、ファイルから数枚の写真を取り出し、机の上に扇状に並べた。 修一は思わず息を呑み、視線を逸らした。

    そこに写っていたのは、薫の遺体だった。

    生々しい傷口。
    虚ろに開かれた瞳。

    愛した女性の無残な姿を、これ以上直視したくない。

    逸らす理由など、それだけで十分だった。
    だが、同時に、見続けることもできなかった。

    逸らした視線の先にあるのは、灰色に汚れた取調室の壁だけだ。どこを見ても、地獄だった。

    「佐山修一さん。あなたの供述通り、凶器からはあなたの指紋だけが検出されました。状況は、あなたが奥さんを殺害したことを示しています」

    桧山は淡々と語り始めた。声に抑揚はない。

    「ですが、動機が不明です。近隣住民の証言では、お二人は仲睦まじい夫婦だったと。
    ……そこで、私たちは奥さんの交友関係を洗いました」

    桧山は、遺体の写真の上に、さらに別の写真を重ねた。

    「あなた以外にも、奥さんと接点を持っていた人物が複数浮かび上がっています」

    修一は答えない。ただ、乾いた喉を鳴らした。自分以外の男の影。それは、彼がこれまで一度も想像したことのないものだった。

    桧山は、一枚の写真を指差した。

    ストーカー

    「まず一人目」

    無精髭を生やし、酷く疲れた顔をした三十代後半の男の写真。

    「この男は、数ヶ月前から奥さんの行動を執拗に追っていました。……いえ、“監視”していたと言った方が正しい」

    桧山は、男の写真の横に、さらに資料を並べた。
    そこには、びっしりと細かい文字が書き込まれていた。

    「奥さんの退勤ルート、立ち寄り先、カフェでの滞在時間、スーパーで買ったものの内訳、その日の服装……。過剰なほど細かい記録です。彼は奥さんに拒絶された後も、このように一方的な執着を続けていました」

    修一の胸に、薰を狙う「悪意」の存在に対する恐怖と、それを知らなかった自分への嫌悪が同時に湧き上がった。

    (俺は……薰のことを、何も守れていなかったのか?)

    「しかし、佐山さん」

    桧山は修一の動揺を見透かすように言った。

    「この男には、事件当日の完全なアリバイがあります。昨日の午前中は、彼は都内の別の場所で、警察官に職務質問を受けていました。記録も残っています」

    (……なら、この男は犯人じゃないのか?)

    修一は一瞬だけ安堵した。
    しかし、すぐにその安堵は消えた。 代わりに、別の違和感が残る。

    桧山の言い方が、引っかかったのだ。

    (“知りすぎている”人間は、逆に何もしていない、ということか?)

    ストーカーは薰のすべてを把握していた。
    なのに、彼女が死ぬ瞬間だけは、完璧にその場にいなかった。

    スーパーの店員

    桧山は次の資料を差し出した。
    若い男の写真。

    コンビニの制服を着て、少し卑屈そうな笑みを浮かべている。

    修一は違和感を覚える。

    スーパーの店員が、なぜコンビニ特有の制服を着ているのか。

    「次の人物です。奥さんがよく利用していたアパート近くのスーパーの店員。……この人物も、奥さんに対してかなり執着していた形跡があります」

    証言記録、レシートのコピー、そして監視カメラのスクリーンショット。

    それらはすべて、男が薰に対して“偶然ではない距離”にいたことを示していた。

    薰が買い物に来るたびに、彼はレジの担当を変わり、彼女の買ったものを執拗に確認していたという。

    スクリーンショットの中の男は、薰の背後で、まるで獲物を狙う肉食獣のような目をして彼女を見つめていた。

    (薰……お前は、こんな男たちに囲まれて……)

    修一の心臓が早鐘を打つ。

    「しかし、この人物も」 桧山は淡々と断言する。

    「奥さんに対する直接的な接触は確認できていません。声をかけることも、手紙を渡すことも、一度も」

    修一はようやく口を開いた。声はひどく掠れていた。

    「ただ……見ていただけ、ということですか」

    桧山は一瞬だけ、間を置いた。その“間”が、ひどく長く、不気味に感じられた。 そして、冷ややかに微笑んだように見えた。

    「記録上は、そうなります」

    その言い方が、また引っかかった。

    記録上は。

    では、記録にない場所では?

    編集長

    桧山は三人目の資料を差し出した。 修一もよく知る、出版社の編集長。

    スーツを完璧に着こなし、表情は読めない。
    その知的な顔立ちが、今は修一を追い詰める凶器のように見えた。

    「三人目の人物。これは奥さんではなく、あなたの方に関係があります」

    桧山は、修一の目を真っ直ぐに見つめた。

    「あなたの小説です」

    修一の胸が、わずかに動いた。
    昨日まで、彼のすべてだったもの。
    彼の人生の証明。

    『夢ならば良かった』

    そのタイトルが口にされた瞬間、修一の全身に悪寒が走った。

    それは、妻の死を前にして修一が抱いた、最初の感情と同じ言葉だった。

    (夢ならば良かった。……もし、これが俺の書いた小説なら、どれだけ良かったか)

    「この人物、編集長は、あなたの作品の初期段階から深く関わっています」

    桧山は続ける。

    「原稿の修正履歴、キャラクターの設定変更。すべてを彼が管理していた可能性があります」

    修一は眉をひそめる。

    「それが……薰の事件と、何の関係があるんですか」

    桧山は答えない。
    代わりに、一枚の紙を差し出した。

    そこには、原稿の修正履歴が、タイムスタンプと共に詳細に記録されていた。

    修正日時:202X年 X月 X日 02:30
    修正箇所:第12章 ヒロインの描写 削除された文章:『彼女は、静かに笑った』 追加された文章:『彼女の笑顔は、どこか嘘っぽかった』

    修一は息を止めた。その修正記録には、彼が記憶していない、ヒロイン――薰をモデルにしたキャラクター――に関する描写の変更が、何度も何度も繰り返されていた。

    ある時は「冷徹な女」に。
    ある時は「よく笑う、明るい人」に。
    ある時は「ほとんど話さない人」に。

    まるで、誰かが彼女の人格を、都合よく書き換えようとしているかのように。

    違和感の開始

    「佐山修一さん。あなたの奥さんについての証言は、これだけではありません」

    桧山が言う。

    「ただし、興味深いことに、周囲の証言は、ある一点において、決定的に一致していません」

    修一は顔を上げる。

    「一致していない……?」

    まるで修一の言葉が不要なノイズとして処理されたかのように、桧山は淡々と説明を続ける。

    ストーカーの男は、警察の取り調べにこう言った。

    「彼女は、氷のように冷たい女だった。俺の視線なんて、最初から存在しないかのように、いつも無表情で……。だからこそ、俺は彼女の感情を暴きたかった」

    スーパーの店員は、こう言った。

    「奥さんは、いつも明るくて、よく笑う人でしたよ。僕がレジを通す時も、必ず『ありがとう』って言ってくれて……。まるで、俺の存在を認めてくれているみたいで」

    編集長は、こう言った。

    「佐山くんの奥さん? ……会ったことはあるが、感情をあまり出さない人間だったな。ほとんど話さないし、何を考えているのか分からない。佐山くんが、どうして彼女をモデルにヒロインを書いたのか、正直理解に苦しむよ」

    同じ、佐山薰という人物。

    だが、人によって、彼女の輪郭が、全く一致しない。

    無表情な氷の女。
    よく笑う、明るい聖女。
    無口で無感情な人形。

    (……俺の知っている薰は、どれだ?)

    編集長の言う「冷たい目」なんかじゃない。

    原稿が書けなくて苛立つ俺に、薫はよくホットココアを淹れてくれた。

    「無理しないでね。修一の読者さんは、温かい人たちばかりだから」

    あの時の、少し心配そうな、でも芯のある声。

    それが俺の知る薫だ。
    人によって見せる顔が違うのも、人間なら当然のことだと思っていた。

    修一の頭の中に、いくつもの薫の顔が浮かぶ。
    ある時は笑い、ある時は泣き、ある時は怒っていた。

    それは、人間として当然のことだと思っていた。人によって見せる顔が違うのも、当然だと。

    だが、ここまで極端に、人格そのものが違うかのように語られるのは、異常だ。

    刑事・桧山

    「そしてもう一つ」

    桧山が立ち上がり、修一の机に一歩近づく。
    取調室の空気が、さらに一段、冷たく薄くなる。

    「佐山修一さん。あなたの奥さんを、私も見ています」

    修一は顔を上げた。桧山が、薰を?

    「あなたが逮捕された、あの朝。あの部屋で、私は彼女を見ました」

    桧山は修一の目を、逃がさないように見つめる。

    「ですが、佐山さん。私の見た彼女は、あなたの記憶とは、決定的に違うかもしれません」

    その瞬間。修一の心臓が、ドクンと大きく脈打った。

    (何が違う? 薰は薰だろ。俺が殺した、俺の妻だろ)

    修一は、自分の記憶の中の薰の顔を確認しようとした。

    ベーコンエッグを焼く横顔。 『おかえり』と言う笑顔。

    家事、そして仕事をしながら、自力でつかみ取った社会保険労務士試験。

    あの時の薫の笑顔、そして一緒にガッツポーズした瞬間。

    「これで、いつか社労士さんになるんだ!」

    あの屈託のない、可愛さと美しさ、両方を兼ね備えた自分の妻。

    結婚式は、小さなチャペル。
    友人と親族だけ。
    彼女は誰からも好かれていた。

    ……だが、その顔が、なぜか少しずつ、滲んでいく。

    修一は初めて気づく。

    この部屋の中で一番異常なのは、ストーカーでも店員でも、編集長でもない。

    “誰も、同じ妻を見ていない”ということだった。

    そして、もう一つ。

    修一は、自分の記憶の中の薫の顔を追い求める中で、ふと、別の決定的な違和感に捉われた。

    (俺は……100万部売れた、大ヒット作家のはずだろ)

    (なのになぜ俺は……)

    彼の心の中に、古い、隙間風の吹く、あの六畳のアパートの畳の匂いが蘇る。

    (……なぜ俺は、あのアパートに住み続けているんだ?)

    ミリオンセラーの印税。

    当然、もっと良いタワーマンションに引っ越しているべきだ。
    なのに、彼の記憶にある「家」は、紛れもなく、あのボロアパートだ。

    (……なぜ俺の記憶は、アパートに留まっている?)

    その疑問は、今の混乱の中に、さらに深い、生理的な悪寒を付け足した。

    それは、妻を殺した記憶がないことよりも、根本的にこの世界の理屈が崩れているような恐怖だった。

    そして、自分自身の記憶すらも、その“ズレ”の中に巻き込まれようとしていることに。

    桧山がファイルを閉じ、立ち上がる。
    その動作は、あくまで事務的で、感情がない。

    「……おかしい」

    修一は、桧山が差し出した複数の調書を凝視した。

    「何がですか」

    「名前だ。このストーカーの供述書では『薫』になっているが、店員の調書では『薰』になっている。漢字が……微妙に違う。なぜ誰も気づかない?」

    桧山は瞬き一つせず、事務的に答えた。

    「今日の取り調べは、ここまでにします」

    「……まだ終わっていない」

    修一は、掠れた声で呟いた。

    薰のことが、何も分からない。
    俺は彼女を殺したのに、彼女のことが、何も分からない。

    桧山は扉に手をかけ、一度だけ振り返った。

    「佐山さん。まだ終わっていません。むしろ、ここからです」

    扉が閉まる音。ガチャンという重い金属音が、取調室に響き渡る。

    残された修一の前の机には、再び、薫の遺体の写真が並べられていた。

    だが今度は、修一には、その写真の中の薰の顔が、さっき逸らした時とは、少しだけ違って見えた。

    角度のせいか、蛍光灯の光のせいか。

    それとも、薰という存在そのものが、この現実の中で、少しずつ書き換わっているせいなのか。

    修一は、自分の指先を噛んだ。
    鉄の匂いが、口いっぱいに広がった。


    第3章「ズレ始める現実」

    取調室の空気は、昨日と同じ温度、同じ匂いを保っているはずだった。

    それなのに、修一の肌を撫でる空気の質感が、決定的に違っていた。

    湿度がない。埃の舞う気配もない。

    まるで真空パックの中に閉じ込められたような、あるいは“まだ背景が描き込まれていない空間”に放り出されたような、ひどく人工的な息苦しさがあった。

    机を挟んで座る刑事・桧山沙苗は、昨日と全く同じシワ一つないスーツを着ていた。
    髪の乱れすら、昨日と寸分違わない。

    「昨日の続きを始めます」

    桧山が机の上に、一枚の写真を滑らせた。

    昨日も見せられた、妻・薫の遺体写真。
    凄惨な現場を切り取った四角い印画紙。

    それを見た瞬間、修一は呼吸を忘れた。

    顔が、違う。

    目の位置がおかしいわけではない。
    鼻の形が変わっているわけでもない。
    パーツは間違いなく薫のそれだ。

    だというのに、全体を構成する“バランス”が、昨日見た写真からコンマ数ミリ単位でズレている。

    まるで、精巧に作られた蝋人形の顔を、熱でわずかに溶かして固め直したような、説明のつかない不気味な違和感(アンキャニー・バレー)があった。

    「どうか、しましたか」

    桧山は、修一の強張った顔を見つめたまま、瞬き一つせずに聞いた。

    修一は答えられない。震える指で写真を持ち上げ、蛍光灯の光に透かすように角度を変える。

    だが、違和感は消えない。
    見れば見るほど、この女が誰なのか分からなくなっていく。

    「これは……昨日と、同じ写真ですか?」

    修一が絞り出すように尋ねた。
    その瞬間。 桧山は、すぐには答えなかった。

    一秒、二秒、三秒。

    まるで、頭の中で膨大なデータを検索し、回答を出力するための「処理」を行っているかのような、不自然で機械的な“間”があった。

    「……はい」

    ようやく発されたその肯定は、どこか合成音声のように平坦だった。

    証言の矛盾

    桧山は、写真から視線を外さず硬直する修一の前に、無造作に調書を広げた。

    「ストーカーの供述です。『彼女はいつも無表情だった。血の通っていない人形のようだった』」 次のページがめくられる。

    乾いた紙の音がやけに響く。

    「スーパーの店員の供述。『よく笑う人でしたよ。声のトーンが高くて、ひまわりのような人でした』」 さらに次のページ。

    「編集長の供述。『感情をあまり出さない人間でした。他人に全く興味がないような、冷たい目をしていた』」

    修一は乱暴に資料を閉じた。紙の束がバサリと崩れる。

    「だから、昨日も言ったじゃないですか! 薫は……薫は、ただの普通の女だ。笑う時もあれば、怒る時もある。あいつらが勝手な妄想を押し付けてるだけだろ!」

    怒鳴り声は、防音の壁に吸い込まれて虚しく消えた。
    桧山は微動だにしない。

    「それが問題なのです、佐山さん」

    「何が問題なんだ!」

    「奥さんは、“ひとり”ですか?」

    唐突な問い。 修一は反射的に「当たり前だ」と怒鳴り返そうとし――喉の奥で、言葉が不自然に引っかかった。

    ひとり。当然そうだ。一人の人間に決まっている。
    そうであるはずなのに。

    その前提を言葉にしようとした瞬間、脳の奥で「警告音」のようなものが鳴った。酷く確信が持てない。足元の床が液状化していくような感覚。

    「どういう……意味ですか」

    「証言が、ひとつの人格を形成していません」

    桧山は、感情の抜け落ちた目で修一を見た。

    「まるで、それぞれが『別の設定を与えられたキャラクター』を観察していたかのようです」

    映像のズレ

    桧山は薄型のタブレット端末を取り出し、画面を修一に向けた。
    再生されたのは、駅前の通りを映した防犯カメラの映像だった。

    画面の隅には、事件の三日前の日付が表示されている。
    雑踏の中を、薫が歩いている。

    見慣れたベージュのスプリングコート。
    肩で切り揃えられた髪。
    何の変哲もない日常の風景。

    だが。

    修一は、数秒でその映像から目を背けたくなった。

    歩き方が、違う。

    修一の知る薫は、少しだけ内股気味に、ヒールを軽く鳴らすようなリズミカルな歩き方をする。

    しかし、画面の中の薫は違った。

    背筋が異常なほど真っ直ぐに伸び、両腕の振りの角度が左右で完全に一致している。歩幅は寸分の狂いもない。

    まるで、プログラミングされたロボットが「人間の歩行モーション」を再生しているような、滑らかすぎて気味の悪い動きだった。

    一緒に駅前を歩いた時のことを思い出す。

    「修一、歩くの早いよ。もう少しゆっくり」

    そう言って、少し内股気味に小走りで追いかけてきた、あの不器用な足音。

    画面の中の「これ」には、あの時の温度も、息遣いも全くない。

    「これ……誰だ。薫じゃない……服は同じだけど、中身が違う!」

    「映像は改ざんされていません」

    桧山は、タブレットを片付けながら言った。

    「少なくとも、“こちら側”では」

    その『こちら側』という言葉のニュアンスが、修一の背筋に冷たいものを這わせた。

    小説との一致

    息を荒げる修一の前に、桧山は最後の一手のように、一冊の本を置いた。
    見慣れた装丁。

    『夢ならば良かった』。

    修一が書き上げ、100万部を売り上げたヒット作。

    修一の人生を劇的に変えた、栄光の象徴。
    桧山は、あるページを開いた。
    そこに付箋が貼られている。

    「読んでください」

    促されるまま、修一は活字に目を落とす。

    『――彼女は、日によって全く違う人間のように見えた。ある男には冷酷に、ある男には従順に。誰もが彼女を見ていたが、誰も“同じ彼女”を見てはいなかった。』

    修一の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく打った。
    喉が干からびたように張り付き、言葉が出ない。

    これは、今、この取調室で起きていること、そのものだ。

    「これは……」

    「あなたが書いた文章です、佐山さん」

    修一は激しく首を振った。

    「違う! 俺はこんな文章、書いてない! この小説は、もっとありふれた……ただの悲恋の物語だったはずだ。こんな、訳の分からないサイコパスみたいな描写は……」

    「では、誰が書いたんですか?」

    「俺が知るか! 編集長が勝手に直したのか!? それともあんたたちが……!」

    沈黙。 修一の叫び声だけが反響し、そして消えた。
    桧山は、ただじっと修一を見つめている。いや、「観察」している。

    崩れ始める現実

    その瞬間だった。 修一の視界が、ほんの一瞬だけ、ノイズが走ったように

    「ブレた」。

    目の前に座る桧山の顔が、物理的に歪んだ。 顔の右半分と左半分が、水面に石を投げ込んだようにグニャリと波打ち、一瞬だけ、「全く別の女の顔」がそこに重なった。

    瞬きをした次の瞬間には、元の冷徹な桧山の顔に戻っている。

    「……っ!?」

    修一は椅子ごと後ろに下がり、背中を壁に打ち付けた。

    今のズレはなんだ。

    幻覚か。
    それとも、疲労のせいか。

    だが、あの時、桧山の顔の奥底から透けて見えたのは、紛れもなく「バグ」だった。

    桧山は、壁に張り付いて震える修一を残し、ゆっくりと立ち上がった。
    その動作もまた、どこかコマ落ちした映像のように不自然だった。

    「まだ証言は増えます」

    桧山は、部屋の出口へ向かいながら言った。

    「奥さんは、一人ではない可能性があります」

    「一人ではない?何を言っているんだ。 薫は、世界で俺のたった一人の妻だ! 俺が殺したんだ!!」

    すがりつくような修一の絶叫に、桧山は扉のノブに手をかけたまま、一度だけ振り返った。

    その目は、もはや人間のそれではなく、レンズのようだった。

    「佐山さん。あなたの記憶が、一番信用できません」

    重い扉が閉まる。 修一は、荒い息を吐きながら、ふらつく足で机に手をついた。
    机の上に残された、薫の遺体写真。

    修一は、それを見た瞬間、とうとう声にならない悲鳴を上げた。

    さっきまで見ていた写真とも、昨日見た写真とも違う。

    写真の中で血の海に倒れている女は、 修一が“全く見たこともない、見知らぬ女”の顔にすり替わっていた。


    第4章「小説と現実の侵食」

    取調室の空気は、もう“現実の温度”を保っていなかった。

    暑くも、寒くもない。皮膚を撫でる空気の気配すら完全に消失していた。

    まるで、電源の切られた巨大なモニターの中に閉じ込められているかのような、圧倒的な「無」の感覚。

    佐山修一は、自分の吐く息の音だけが、耳鳴りのように頭蓋骨の中で反響しているのを聞いていた。

    机の上には、一冊の本が置かれている。

    『夢ならば良かった』

    自分が書き上げたはずの小説。装丁の質感、帯のキャッチコピー、すべてが見慣れたはずのものだ。

    だが今の修一には、それが爆発を待つ時限爆弾か、あるいは自分を喰い破ろうとする未知の生物のように見えた。

    改稿履歴

    「これを見てください」

    いつの間にか席に戻っていた桧山が、ノートパソコンのモニターを修一の方へと向けた。

    画面には、テキストエディタの真っ白な背景と、無機質なフォルダ階層が表示されている。

    【ドキュメント > 夢ならば良かった > バックアップ】

    そこに並んでいたのは、異常な記録だった。

    • 第1稿.txt(ファイルサイズ:120KB)

    • 第2稿.txt(ファイルサイズ:135KB)

    • 第7稿.txt(ファイルサイズ:210KB)

    • 第12稿.txt(※削除済み・復元不可)

    修一は眉をひそめ、モニターと桧山の顔を交互に見た。

    「なんだこれは……。俺は、こんなに細かくナンバリングして保存なんてしていない。完成稿の前に、2回か3回推敲しただけだ」

    「あなたがしていなくても、記録は残っています」 桧山はマウスを操作し、ファイルを開いていく。

    削除された“妻”

    画面に、文章の変遷が並べられた。 ハイライトされた箇所は、すべて「妻(ヒロイン)」に関する描写だった。

    【第1稿】 『彼女は、ひまわりのように笑う女だった。その笑顔に、僕は何度も救われた。』

    【第7稿】 『彼女は、底冷えするような静けさを持っていた。僕が何を言っても、その瞳の奥には感情の色が浮かばない。』

    【第12稿】(削除済みデータの断片) 『彼女は、         。だから、消さなければならない。』

    修一の喉の奥で、ヒュッと情けない音が鳴った。

    妻の性格が、改稿を重ねるごとに全く別の生き物のように書き換えられている。

    そして最後には、存在そのものを否定するような文言。

    「……これは、誰が直したんだ。俺じゃない。絶対に俺じゃない!」

    「あなたの環境です」

    桧山は、瞬きもせずに言い放った。

    「かんきょう、だと……?」

    「100万部の物語を成立させるために、この世界が勝手に『辻褄合わせ』をしているんです」

    編集長の役割

    桧山は画面を切り替え、新しい人物資料を表示させた。

    出版社の編集長の写真。
    その顔の横に、赤い文字で奇妙な注釈が添えられている。

    「つまり、どういうことだ?」

    修一の動揺を見ても、桧山の無表情は変わらない。

    「100万部のベストセラーという強大な『物語の意志』が、辻褄を合わせるために現実を書き換えた結果です」

    そして続ける。

    「この人物は、単なる出版社の人間ではありません。原稿の“整合性”を管理していました」

    「整合性……? 小説の辻褄合わせの話か?」

    「いいえ」

    桧山は、ぞっとするほど冷たい声で言った。

    桧山が表示した編集長の写真の横には、おぞましい赤字が添えられていた。

    【原稿監視者】

    「この人物は、あなたの原稿に合わせて、この現実世界の『行間』を埋めるための調整作業を行っていたのです」

    その瞬間、修一の背中を、氷の刃で撫で上げられたような悪寒が走った。

    編集長は、修一の原稿を読んでいたのではない。

    修一の原稿に合わせて、この「現実世界」の辻褄を合わせるための調整作業を行っていた……?

    侵食の開始

    桧山が、机の上の『夢ならば良かった』を手に取り、無造作にページを開いた。

    「確認してください」

    修一は恐る恐る活字に目を落とす。
    そこには、修一の記憶にはない、見知らぬ一文が黒々と印刷されていた。

    『――妻は常に同じ存在ではなかった。観測者が変われば、彼女の輪郭もまた作り変えられる。』

    「っ……!!」

    修一は弾かれたように立ち上がった。パイプ椅子が派手な音を立てて後ろに倒れる。

    「違う! これは俺の文章じゃない! 昨日まで、こんな文章は印刷されていなかった!」

    「では、誰が活字を直したんですか?」

    「印刷済みの本だぞ!? 後から文字が変わるわけがないだろうが!!」

    修一の怒鳴り声に対し、桧山は一切の反応を示さない。沈黙だけが、重く部屋に居座る。

    スーパーの店員の役割

    「次の資料です」

    桧山は再びパソコンを操作した。
    表示されたのは、スーパーの防犯カメラの映像。

    あの、薫に執着していたという若い店員の映像だ。
    彼はレジ打ちをしながら、じっと遠くを見つめている。

    ただ、見ている。
    ただ、それだけ。

    だが、映像が「午後3時14分」から「午後3時15分」に切り替わる、コンマ数秒のノイズが走った瞬間。

    画面の中の店員が、ギョロリと首を回した。

    彼は、防犯カメラのレンズを通り越し、明らかに「画面の外側にいる修一」と目を合わせた。

    ヒィッ、と修一の口から短い悲鳴が漏れる。
    映像の中の店員の口が、音もなく動いた。

    『ミ、テ、イ、ル、ヨ』

    修一は後ずさり、壁に背中を激突させた。

    「これ……今の映像、なんだ!? こいつ、今、俺を……!」

    「何か問題が?」

    桧山は画面を見ようともせず、ただ修一を見据えて答えた。

    「問題だらけだろうが!! こいつは人間じゃない!」

    「彼は、観測(リード)する役割です。見つめることで、彼女の存在を固定しようとしていた。それだけのことです」

    桧山の『はい』でも『いいえ』でもない曖昧な肯定が、修一の精神をゴリゴリと削っていく。

    妻の消失点

    さらに画面が切り替わり、一枚の公的書類の画像が表示された。

    【住民票】 名前:佐山薫

    だが、その下の欄を見て、修一は自分の正気がついに限界を迎えたことを悟った。

    本来なら印字されているはずの個人情報が、すべて「あり得ない文字列」になっていたのだ。

    生年月日:未設定(空白)
    居住履歴:矛盾あり(墨塗り)
    写真:【該当の挿絵はありません】

    「ふざけてるのか……」 修一は、両手で頭を抱え込んだ。
    髪を強く掻き毟る。

    「市役所の書類だぞ。公的記録が、こんなバグった画面みたいになるわけがない!」

    「あなたの認識が、揺れているからです」 桧山は容赦なく事実を突きつける。 「奥さんという『設定』が、世界から剥がれ落ちようとしている。
    だから、システムが情報を読み込めなくなっているのです」

    小説の侵食

    再び、机の上の本がバサリと音を立てて開いた。
    風もないのに、ページが勝手にめくれていく。

    ピタリと止まったページ。
    そこに書かれた一文が、修一の目に飛び込んでくる。

    『――彼女は読者によって違う存在になる。ならば、本当の彼女はどこにもいないのだ。』

    「やめろ……もう見せないでくれ……!」 修一は本を乱暴に閉じた。

    しかし。 閉じたはずの分厚い表紙の表面に、黒いインクが内側から滲み出し、先ほどの文章が“表紙の上に”浮かび上がってきた。

    網膜に焼き付いた文字が、目を閉じても頭の中でチカチカと明滅する。

    現実の崩壊

    「佐山さん」

    桧山の声がした。
    修一が恐る恐る目を開けると、そこには、昨日とは全く違う女が座っていた。

    いや、服装も、髪型も同じだ。

    だが、顔の造作が全く違う。

    輪郭、鼻筋、目の色。

    昨日まで「桧山沙苗」だったはずのパーツが、全く別のデータベースから引っ張ってきたかのようにすり替わっている。

    話し方のピッチも、半音ほど低くなっていた。

    「あなたは……誰だ。桧山じゃない……!」

    修一が震える指を突きつける。
    女は答えない。
    ただ、無機質な動作で一枚の書類を修一の前に滑らせた。

    そこには、こう印字されていた。

    【取調記録:現在、パッチ修正中】

    別の顔になった桧山が、ゆっくりと立ち上がる。

    「今日の取り調べは、ここまでです」

    「待て……! 俺をどうする気だ! 薫は、薫はどこにいるんだ!!」

    「まだ終わっていません。むしろ、ここからが本番です」

    修一は初めて気づいた。 この世界には、確固たる「現実」など最初から存在しない。

    すべてが、誰かの手によって現在進行形でタイピングされ、上書きされ、更新され続けている仮のデータなのだ。

    重い鉄の扉が閉まる。 一人残された修一は、机の上から目を離すことができなかった。

    『夢ならば良かった』

    そのタイトルロゴの黒いインクが、まるで生きた虫の群れのようにモゾモゾと動き出していた。

    文字の形が崩れ、再構築されていく。
    数秒後、修一の目の前で、背表紙のタイトルは全く別の文字列へと書き換わった。

    『未確定データ・削除待機中』

    修一の口から、もはや意味を成さない乾いた笑い声だけが漏れ続けた。


    第5章「妻の戸籍が消える日」

    修一が自ら取調室の扉を開け、フリーズした警官たちの間をすり抜けて警察署を出た。

    「……そんなはずはない」

    佐山修一は、市役所の冷たいカウンターの前で、手のひらに握りしめた身分証が歪むほど力を込めた。

    警察署からの「一時帰宅」を許された修一は、そのまま市役所へと直行した。

    いや、「許された」という表現すら正しいか分からない。
    今日の昼過ぎ、取調室のドアが突然開き、見知らぬ制服警官が「帰っていいぞ」とだけ告げたのだ。

    殺人の現行犯に対する扱いとして、絶対にあり得ない。

    だが、修一が理由を問いただそうとしても、警官たちは皆、壁のシミでも見つめるように虚空を睨んだままフリーズし、一切の言葉を発さなくなった。

    まるで「警察署というステージでのイベントが終了した」かのように、彼らの機能は停止していた。

    遺体が消え、被害者の身元が揺らいだことで、この世界のシステム自体がエラーを起こし、修一を無理やり次の舞台へ放り出したとしか思えなかった。

    修一は今、自分の“現実”を必死に繋ぎ止めようとしていた。

    住民票、戸籍情報、医療保険の記録。

    公的な書類さえ手に入れれば、妻・佐山薫がこの世界に確かに存在していたという「証明」になる。
    そうでなければ、自分の頭が完全に狂ってしまったことになってしまう。

    だが。 窓口の向こう側には、修一の期待するものは何一つなかった。

    「……該当なし、です」

    ガラス越しに座る市役所の女性職員は、キーボードの上で手を止めたまま、無機質な声で繰り返した。

    「佐山薫という人物は、当市の記録上、存在していません」

    「ふざけるな……! 俺は三年前にここで婚姻届を出したんだぞ! よく探せ!」

    修一の怒鳴り声が、静まり返ったフロアに響き渡る。

    だが、奇妙なことが起きた。

    大声を上げている修一に対して、周囲の来庁者も、他の職員も、誰一人として「振り返らない」のだ。

    まるで修一の声が、特定の周波数帯域から完全にカットされているかのように。

    目の前の女性職員も、一切表情を変えない。
    瞬きすらしていない。

    まるで最初から、そこに“誰もいなかった”かのように、ただ虚空を見つめている。

    「佐山修一様の戸籍には、配偶者の登録はございません。以上です」

    修一は背筋に冷たい汗をかきながら、逃げるように市役所を飛び出した。

    次に向かったのは銀行だった。

    生活費を引き落としている共有口座。
    給与の振込先。
    すべてがデジタルで記録されているはずだ。

    しかし、結果は同じだった。

    「佐山様。当行のデータには、ご結婚歴の登録はございません」

    「……あるだろ。通帳にも、薫の印鑑が……!」

    「申し訳ありませんが、そのような記録は確認できません」

    銀行員の男は、口角だけをきれいに持ち上げた「営業スマイル」を顔に貼り付けたまま、首を振った。

    その笑顔の奥には、人間らしい感情の揺らぎが一切ない。

    公的記録から、妻が一枚ずつ剥がされていく。

    修一は路上に立ち尽くし、震える手でスマートフォンを取り出した。
    写真フォルダを開く。

    データならある。毎日のように撮っていたのだ。

    画面をスクロールし、見慣れた「朝の食卓」のサムネイルをタップする。

    ベーコンエッグを焼く、薫の横顔。 そこにいる。確かに写っている。

    だが、修一がその写真を拡大しようと画面をピンチアウトした瞬間だった。

    写真の中の薫の顔に、突如としてブロックノイズが走った。

    「なっ……!?」

    色とりどりのピクセルが崩れ、顔のパーツがぐちゃぐちゃに混ざり合う。

    そして数秒後、薫の顔があった部分は「灰色のシルエット」に置き換わってしまった。

    写真の詳細情報ボタンを押す。
    画面の下に、冷酷なシステムフォントでこう表示されていた。

    【人物名タグなし(Error:対象は存在しません)】

    SNSのアプリも同じだった。

    薫のアカウントのURLを叩くと、

    「このページは削除されたか、存在しません」

    という無機質な白い画面が返ってくるだけだった。

    昨日まで確かに存在した「薫を知っているという事実」すらも、たった一日でこの世界から削除されてしまったのだ。

    世界が、修一を丸ごと孤立させようとしている。

    その夜。 修一は、鉛のように重い体を引きずって、自分のアパートに戻ってきた。

    錆びたドアノブに鍵を差し込み、回す。
    ガチャリという音とともに、扉が開く。

    暗い玄関。 だが、そこで修一の足がピタリと止まった。

    たたきには、靴が「二足」並んでいた。
    修一の革靴と、薫のパンプス。
    彼女の靴がある。

    だが、その“配置”が、異様だった。 二つの靴は、つま先の向きから踵の隙間まで、ミリ単位の狂いもなく「完璧な左右対称」で並べられていた。

    そこで修一は思い出した。

    一緒に手作りカレーを作ったとき。

    「子供はどうしようか」

    「授かりものだもんね」

    できれば欲しかったが、佐山夫婦には子供がいなかった。

    だが、二人だけで幸せだった。

    それは、まぎれもない真実で、決して虚構ではない。

    そして現実に引き戻される。
    人間が脱ぎ捨てた生活感が一切ない。

    まるで、3Dソフトの空間に配置された展示品のようだった。

    部屋の奥へ進む。 台所から、音がした。
    ジュウウウ、と油が弾ける音。 そして、鼻をくすぐるベーコンエッグの匂い。

    「おかえり」

    声がした。 修一の心臓が、ドクンと跳ねた。
    そこに薫がいた。見慣れたエプロン姿で、フライパンを握っている。

    昨日、自分がナイフで刺し殺したはずの女。
    いや、最初から存在しなかったはずの女。

    「……薫……?」

    絞り出すような声で呼ぶ。 薫がゆっくりと振り向く。

    「どうしたの? 突っ立って」

    いつもの笑顔が、そこにあった。
    愛した「妻」の存在が。

    修一は思い出す。

    「薫、なんとか原稿、上がったよ。納期に間に合ったよ。」

    「お疲れ様! じゃあ奮発してこの前買ったワイン、開けよっか」

    と笑ってくれるはずだった。

    だが修一は即座に「決定的な異常」に気づいてしまった。

    キッチンの蛍光灯の光を浴びているはずなのに、彼女の足元に、影が落ちていない。

    「ワイン開けよっか」

    という温かい声すらも、ノイズが混ざったように不自然に頭の中で反響している。

    光が彼女の身体を通り抜けているのか、あるいは光を遮るだけの「質量」が存在しないのか。

    薫は、背景に合成された薄っぺらな画像のように、そこに立っていた。

    「……お前、本当にそこにいるのか?本当に薫なのか?」

    修一の乾いた声が、部屋に落ちた。 その言葉を口にした瞬間。
    ジュウウウ、と鳴っていた油の音が、ブツンと不自然に途切れた。

    薫の動きが、一時停止ボタンを押されたように完全に止まった。

    部屋の空気が一段、薄くなる。
    酸素が抜かれたように息苦しい。

    カチッ。

    誰も触れていないのに、テレビが勝手に点いた。 音声はない。無音のまま、ニュースの速報画面のような青い背景だけが映し出される。

    そして、画面の中央に白いテロップが浮かび上がった。

    『登場人物:佐山薫は不採用になりました』

    次の瞬間、画面が激しい砂嵐に変わり、ザァァァという不快な音が部屋を埋め尽くす。

    画面の内側からは、ドロドロとした黒いインクのようなものが滲み出してきた。

    静止していた薫が、首だけをギギギと不自然な角度に曲げて、修一を見た。

    「ねぇ、修一」

    声が、少しだけ歪んでいる。スピーカーの接触不良のような、ノイズ混じりの声。

    「私がいないと……あなた、物語(おはなし)が進まなくて、困るでしょ?」

    修一は答えられなかった。

    困る? 何を言っている。
    彼女がいない世界など、想像もしたくなかった。

    だが同時に、彼女がここにいるという物理的な証拠も、もうどこにも残っていない。

    修一はふと、食卓のテーブルに視線を落とした。

    二人分の食器が並べられている。

    しかし、薫の側の皿だけが、水滴一つなく微妙に乾いていた。
    使われた形跡がない。

    ただ「配置」されているだけのオブジェクト。

    薫が一歩、修一に近づく。 その足音がしない。
    彼女が近づくたびに、部屋の輪郭が少しずつ薄くなっていく。
    壁のクロスから色が抜け落ち、真っ白なキャンバスに戻っていく。

    机の影が消え、空間の立体感が失われていく。
    世界が、修一の目の前で静かに“編集”されている。

    そして薫は、影のない顔で修一を見つめ、最後にこう言った。

    「ねぇ修一」

    「私を、まだ“書き続ける”?」

    その瞬間。 修一の中で、バラバラだったすべてのパズルが、最悪の形で組み合わさった。

    妻は、死んでいなかった。
    誰かに殺されたわけでも、自分が狂ったわけでもない。

    彼女は最初から、この世界において“確定していないデータ”に過ぎなかったのだ。


    第6章「編集長の沈黙」

    翌朝、佐山修一は出版社に呼び出された。

    指定されたのは、いつもの会議室。
    いつもの黒い革張りのソファ。
    机の上に置かれた、いつものホットコーヒー。

    昨日と変わらないはずの空気。

    だが、何かが決定的に違っていた。
    向かいに座る編集長が、やけに静かだったのだ。

    いつもなら、修一が席に着くや否や分厚いゲラ刷りを開き、赤字の入ったページを叩きながら声を張り上げる男だ。

    しかし今日の彼は、手元に一枚の書類すら置いていない。

    修一と視線を合わせることもなく、ただ窓の外の風景を、瞬き一つせずにじっと見つめている。

    「……編集長」

    修一が声をかけても、男は動かない。

    まるで、修一が特定の「キーワード」を発するまで、次の動作を停止するようにプログラミングされているかのようだった。

    「……薫のことなんですが。妻の記録が、どこにもないんです。あんたも知ってるでしょう、俺の妻を!」

    修一が『薫』という言葉を口にした瞬間。
    編集長は、カクンと機械的な動作で首を回し、修一を見た。

    そして、ひどく無機質なため息を一つ吐いた。

    「佐山くん。……その未確定な名称を、まだ使用されているのかね。」

    「……は?」

    修一の声が一段低くなる。編集長の言葉遣いは丁寧だった。

    しかし、その目には狂人を哀れむような同情も、困惑の色もない。

    そこにあったのは、ただ冷徹な“確認”の色。
    エラーを起こした不良品を検品するような目だった。

    「先生、我々は100万部という偉業を成し遂げたあなたの才能に、深く感服しております。あなたはこの世界の至宝です」

    編集長は、急に「先生」と呼び、抑揚のない声で語り始めた。

    机の上に置かれたコーヒーからは、白い湯気が立ち上っている。

    編集長は、ゆっくりと机の引き出しを開けた。

    そこから取り出されたのは、見慣れた黒い装丁。

    『夢ならば良かった』。

    「この本の中に、“薫”という人物は出てこない。先生はずっと独身です。我々のデータベースにも、先生の戸籍にも、最初からそのような女は存在しません」

    その言葉は、昨日よりもさらに重く、絶対的な「事実」として修一の脳を殴りつけた。 「……ふざけるなッ!!」

    修一は激昂して立ち上がった。ガァン! と背後のパイプ椅子が倒れる。
    同時に、修一の手が机の上のコーヒーカップを激しく弾き飛ばした。

    熱い液体が、空中にぶちまけられる。 だが――修一は、自分の目を疑った。

    空中に飛び散ったはずのコーヒーが、床に落ちない。

    褐色の液体は、空中で「無数の黒い活字」の群れへと変貌し、意味不明な文字列となって宙を這い回っていた。

    「な……」

    「ああ……」 編集長は、空中で静止した液体のバグを冷たい目で見つめ、静かに言った。

    「ああ……先生の頭の中の『ボツ原稿』が、溢れ出してしまいましたね」

    部屋の空気が、急激に薄くなる。

    「フォロワーの数が多すぎる。これほど多くの視線に晒されて、もう、この物語の器が保たない。……ここは間もなく、跡形もなく消える」

    窓の外に広がっていた高層ビル群の景色から、一瞬にして色が抜け落ち、「灰色のブロック」へと変貌した。

    「先生。もう一度、ご自宅へ帰ってみるといい。……世界があなたを支えきれなくなる前に」

    その声には、一切の感情が含まれていなかった。

    アパートに戻る道は、妙に長かった。
    いや、距離が伸びたのではない。
    修一の歩く「世界」そのものが、露骨に崩壊し始めていたのだ。

    同じはずの街並みが、少しずつズレている。
    駅前の巨大な電子看板。そこに映し出されている広告の文字が、読めない。意味を成さない

    「文字化け」の塊になって点滅している。

    交差点の信号機。赤のランプが点滅する間隔が、あきらかに遅い。

    カチッ……カチッ……と、1秒ではなく、3秒に1回しか切り替わらない。

    すれ違う人々。

    修一は、通り過ぎるサラリーマンの顔を見て、背筋を凍らせた。
    のっぺらぼうではない。

    だが、顔のパーツが「解像度の低い画像」のようにぼやけているのだ。

    目を凝らしても、誰一人としてピントが合わない。

    さらに恐ろしいことに、彼らは皆、修一という障害物を避けることなく、真っ直ぐに歩いてくる。

    修一が肩をぶつけても、彼らは痛がることも文句を言うこともなく、同じ歩幅、同じリズムで歩き去っていく。

     彼らはただ、街という背景を埋めるために配置されただけの、処理の軽いオブジェクトだった。

    まるでRPGゲームのモブのようだ。

    (狂ってる……俺が狂ったのか……?)

    逃げるようにアパートの階段を駆け上がり、自分の部屋の前に立つ。

    震える手で玄関の鍵を開ける。
    ガチャリ、という音がしなかった。
    無音のまま、ドアが開く。

    部屋の中には、誰もいない。
    昨日まで確かにあったはずの気配が、完全に消去されていた。

    それだけではない。
    玄関にあったはずの二足の靴がない。

    壁にかかっていたカレンダーがない。

    テーブルの上の食器も、棚に飾ってあった写真立ても、生活の痕跡と呼べるものが、何一つない。

    そこにあるのは、無地のフローリングと、真っ白な壁紙だけ。

    ホコリ一つ落ちていない、空気の匂いすらしない、「最初から誰も住んでいなかった」デフォルトの空間。

    修一は立ち尽くしたまま、ゆっくりと息を吸った。肺に入る空気が、ひどく人工的で冷たい。

    「……いないんだな薫」

    返事はない。当然のように、ない。 そのとき。

    「やっと、気づき始めましたね」

    背後から、声がした。
    直ぐに振り返る。

    そこにいたのは、刑事の桧山沙苗だった。
    いや、彼女の「姿をした何か」だった。

    彼女は、昨日までのシャープなスーツ姿ではなかった。

    警察官の制服でもない。

    桧山の姿は異様だった。

    その皮膚は薄汚れた「原稿用紙」で出来ており、皮膚の下を無数の黒い文字がミミズのように蠢いている。

    現在進行形で書き直されているような、極めて異常な姿。

    「あなたの世界は、少しずつ修正されています」

    桧山は、抑揚のない声で淡々と言った。

    「“存在しない人物”を、あなたが無自覚に生成してしまったせいで、世界の容量(メモリ)が圧迫されているのです」

    修一の喉が詰まる。

    「生成……? 俺が……薫を作ったって言うのか……?」

    桧山は、音もなく一歩近づく。

    「あなたの小説は、現実に影響を与える。それがこの世界の仕様です」

    彼女は、無機質な目で修一を観察しながら続ける。

    「あなたがあの作品の中で、何度も何度もヒロインの描写を書き直した。その結果、設定に矛盾が生じた。今、最も問題なのは――」

    心臓が張り裂けそうなほど、激しく高鳴る。

    「“薫という人物の確定データが、どのレイヤーにも存在していない”ことです」

    修一の視界が大きく揺れた。 世界が薄くなる感覚。足元のフローリングが、半透明のグリッド線に変わりかけている。

    「じゃあ……あの朝はなんだ!? 俺が薫を殺したあの朝は! 昨日、台所でベーコンエッグを焼いていたあいつは、何だったんだ!」

    桧山は、少しだけ間を置いた。

    「あなたの記憶にこびりついた、ただの『プロット』です」

    「プロット……?」

    「ベーコンエッグの匂いも、彼女の笑顔も。あなたが頭の中でこね回した、採用されなかった『書きかけの原稿』が、一時的にインクの染みとして浮かび上がっただけです」」

    その言葉で、修一はすべてを理解してしまった。

    レンダリング、つまり、データとして「書き起こされた」存在。

    妻は、薫は、消えたのではない。
    最初から、“確定していないデータ”だったのだ。

    だから、人によって性格が違った。

    だから、公的な記録が存在しなかった。

    だから、死体すらも姿形を変えた。

    彼女は、修一の頭の中で迷走する「設定」に振り回され、世界に定着することすら許されなかった不完全な文字列だったのだ。

    桧山は、灰色の服をノイズのように揺らめかせながら、最後に告げた。

    「これより、最終的な修正作業に入ります」

    「あなたが、“彼女の存在を終わらせるかどうか”を選んでください」

    その瞬間。 何もない真っ白な部屋の壁に、ドス黒いインクが滲み出し、巨大な文字が浮かび上がった。

    【ボツ原稿:佐山薫 黒塗り対象】

    修一は、その冷酷な文字を見つめた。
    そして初めて気づく。
    自分の物語は、まだ終わっていなかったのではない。

    そもそも、“書き終わっていない状態”のまま、この世界というキャンバスに無理やり出力され、異変を起こして崩壊しようとしているのだと。


    最終章「夢ならば良かった」

    桧山沙苗は、何もない空中に向かってスッと右手を伸ばした。

    すると、空間が紙のように裂け、そこから巨大な「白紙の原稿」が浮かび上がった。

    【対象:佐山修一(小説から生み出された主人公の影法師)】

    「エラーの増殖は許されません。100万人の読者が待っているのです。悲劇の結末を」

    修一は、その文字列を見て息を呑んだ。
    テキスト生成体。

    それはつまり、どういうことだ? 薫だけではない。
    自分も、この世界そのものも――。

    桧山は一瞬だけ、レンズの奥で機械的な光を点滅させ、修一を見下ろした。

    そして、淡々と入力の最終プロセスを口にする。

    「読者が待っているんですよ、佐山さん。100万人の目玉が、あなたが妻を惨殺する悲劇を舐め回すように待っている。……ボツ原稿の余白に逃げた女は、黒く塗りつぶさなければなりません」

    桧山が冷酷に告げた瞬間、修一の足元がドロドロの黒いインクの海に沈み始めた。
    部屋の“輪郭”が、ぐにゃりと歪む。

    「あっ……!」

    修一はバランスを崩し、床に手をついた。 だが、フローリングの硬い感触はない。

    床が、水を吸った粗悪なインクのようにドロドロに滲み出し、黒い染みとなって広がっていく。

    見上げると、壁紙が薄っぺらい原稿用紙の束のようにパラパラと剥がれ落ち、その下から「無数の文字の羅列」がびっしりと現れた。

    空気が、文章の行間のように不自然に押しつぶされ、呼吸ができなくなる。

    修一は気づいてしまった。
    刑事も、編集長も、街の人間たちも。

    もう誰も、「自分を人間として扱っていない」ことに。

    「やめろ……俺は人間だ! ここで生きて、息をして、小説を書いてきたんだ!!」

    「いいえ」

    桧山が冷酷に言い放つ。 世界が文字の海へと溶けていく中、彼女の声だけがシステムアナウンスのように響く。

    「あなたは人間ではありません。最初から、“作品”です」

    「……え?」

    「100万部売れたあの小説、『夢ならば良かった』。あの作品に込められた異常なまでの熱量と、読者からの膨大な観測データが、あなたという主人公をこの現実に押し出した。あなたは、自分の書いた小説の主人公の『コピー』に過ぎない」

    修一の視界に、これまでの人生の断片が激流のように流れ込んでくる。

    ベーコンエッグを焼く匂いのした朝。

    満面の笑みを浮かべる薫。
    古びたアパートの埃っぽい匂い。
    彼女を刺した時の、あの狂気に満ちた感情。
    逮捕された瞬間の絶望。

    それらがすべて、一つ残らず、

    『――彼はその朝、ベーコンエッグの匂いで目を覚ました。』

    『――逮捕の瞬間、男は絶望に包まれた。』 といった、「第三者視点で書かれた一行ずつのテキスト」として、網膜の裏側に焼き付けられていく。

    自分の感情も、記憶も、すべては“誰か”がキーボードで打ち込んだ「設定」でしかなかったのだ。

    「じゃあ……薫は?」

    修一の声は、すでに人間の声帯から発せられたものではなかった。
    ざらついたノイズ音のような、データの欠落した声。

    「薫は、俺の妻は、何だったんだ!」

    桧山は、少しだけ沈黙した。 そして、最も残酷な事実を口にした。

    「ただの登場人物です」

    その瞬間。 修一の頭の中で、張り詰めていた最後の糸がプツリと切れた。

    薫を消すことも、残すことも、もう自分には選択できない。

    彼女は、生きた人間ではなく、“結末によって定義されるためだけに存在するデータの集合体”だったのだ。 だから、人によって姿が違った。

    だから、修正されるたびに性格が変わった。

    世界が、完全に白く飛んだ。
    いや、白ではない。
    まだ何も書かれていない、真新しい「白紙のページ」の色だ。

    その無限の余白の中心に、修一は一人で立っていた。

    ふと、自分の右手を見る。

    あの朝、妻を殺したはずの凶器。

    指の関節が白くなるほど強く握りしめていた鋭利なナイフ。

    それは今、彼の右手中指にタコを作るほど使い込まれた、 一本の「万年筆」に変わっていた。

    ペン先から、濃厚な赤黒いインクが、ポタ、ポタと落ちる。

    それは血ではなく、文字を書くためのインクだった。

    桧山が、どこからともなく告げる。

    「結末を入力してください」

    「あなたが最後の文字を書き込んだ瞬間、それがこの世界の『確定条件』となります」

    修一は、ゆっくりと目を閉じた。 遠くから、薫の声が聞こえる。

    ──おかえり。

    薫が居たから、作品が書けた。

    彼女が居たから、ヒット作が生まれた。

    もし、薫と出会っていなければ、作家にはなっていなかった。

    だから、修一は心に決めた。
    その感情は人間にしか持てない本当の愛情だ。

    それが未採用のプロットだろうが、バグだろうが、関係ない。

    俺は、あいつが生きている世界を書きたい。

    修一は、右手にある一本の「万年筆」を握りしめた。
    だが、インクが出ない。物語はすでに、悲劇へ向けて固まっていた。

    「俺の妻だ……読者のことなど知ったことか!愛した人を信じるだけだ!」

    決意は固い。

    あの日一緒に見た、川沿いの桜。
    ポップコーンをこぼして笑い合った、レイトショーの映画館。
    浴衣姿で、前を走り、後ろを振り向き見せた笑顔。

    「修一!早く!金魚すくいしようよ!」

    すべてが本当の記憶であり、自分が何者かなど、どうでもよい。

    修一は躊躇なく、万年筆の鋭いペン先を自分の腕に深々と突き立てた。

    激痛と共に赤い血が溢れ出す。彼は自らの血をインク代わりに、白紙の空間へ狂ったように結末を書き殴った。

    『男はナイフを捨てた。』

    『床に倒れていた女は、ゆっくりと目を開け、男を見て微笑んだ。』


    「やめろ!! それはプロットにない! 活字が腐るぞ!!」

    絶叫する桧山の顔面から文字がゲロのように溢れ出し、原稿用紙の皮膚がベリベリと剥がれて崩壊していく。

    修一は血まみれの手で、最後の一文を書き切った。

    『二人は、誰の目も届かない物語の余白(そと)へと歩き出した。』

    その瞬間。世界が轟音と共に砕け散り、桧山も真っ白な光に飲まれて消滅した。

    背後から、フワリとあたたかい匂いがした。
    焦げた油と、ベーコンの匂い。


    「……修一」


    振り返ると、薫が立っていた。

    修一は、自らの血で書き直した世界の中心で薫を抱きしめた。

    その肌は温かく、鼓動があり、微かに香るシャンプーの匂いも、彼の記憶にある「薫」そのものだった。

    「やっと……本当に、やっと取り戻せた」

    涙を流す修一の背中を、薫の柔らかい手が優しく撫でる。

    「明日の朝は目玉焼きでいい? ベーコン、少しカリカリにするね」

    「ああ、頼むよ、カリカリにしてくれよ」

    修一はこれ以上の幸福はないと確信し、目を閉じた。


    誰もいない部屋の隅。
    稼働し続けている黒いモニターに、著者不明のテキストが静かに浮かび上がる。

    [警告] あなたの隣に居るのは、本当に愛した人ですか?

    修一はモニターに背を向けているため、それに気づかない。
    彼は腕の中の愛する妻を見つめ、微笑みかけた。

    薫もまた、寸分違わぬ完璧な笑顔を作り、彼を見つめ返して囁いた。





    「愛シテルヨ、シュウイチ」



     
     
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