
大人保育園「最終話」ホワイト企業、就業規則は15時のおやつ
舞台はあれから10年後。
都内の一等地にあるオフィスビル。
エントランスには「合同会社 光星(こうせい)コンサルティング」のロゴ。
神崎たちの現在の事業(シノギ)は、人材紹介業および企業向けの人材育成コンサルタントだ。
裏社会で「人間の本質」を嫌というほど見てきた彼らの目は、求職者の適性を見抜く能力において右に出る者がいなかった。
共同代表社員は、神崎蓮司と真壁龍二。
かつて東西のトップとして血を流し合った二人が、今は隣同士のデスクで履歴書と企業の求人票を睨み合っている。
角刈りの高杉恒一は、持ち前の威圧感と面倒見の良さを活かし、ブラック企業の体質改善を指導する「法人コンサル部門」のトップ。
イケメンの熊谷剛は、その人当たりの良さと知的さを活かした「求職者面談(キャリアアドバイザー)」のトップとして業務執行社員を務めている。
オフィスの時計が「13時00分」を指した瞬間、執務室のドアがバンッと勢いよく開く。
現れたのは、外部労務監査コンサルタントとして契約している桧山宗だ。
「おい。13時回っとるのに、まだカタカタとキーボード叩いとる命知らずはどこのどいつだて」
桧山がドスを効かせた声でオフィスを見渡す。 真壁が立ち上がり、若手社員たちに声を張り上げた。
「ウチの『就業規則 第十三条』を忘れとらんやろな! 午後十三時より十五分間、完全なる仮眠(お昼寝)を義務とするや。この時間に仕事した奴は、問答無用で賞与から減額(落とし前)じゃけえ! 早う寝んかい! 脳疲労は敵やでえ!」
さらに神崎が静かに付け加える。
「15時の『おやつの時間(第三十五条)』も忘れるな。糖分不足でピリピリした空気を出す奴は、始末書もんだ。ウチは残業も一切禁止なのも忘れるな。ブラックな働き方をする奴は、俺たちが絶対に許さねえ。健康第一!」
かつて法を破りまくっていた男たちが、誰よりも労働基準法と「保育園のルール」を厳守し、社員の健康を守り抜いているシュールな光景。
無駄な争いをしない。
人を揶揄しない。
みんなと仲良くする。
どれも、保育園で一番最初に教わる「当たり前」のことだ。
それさえ守っていれば平和なはずなのに、なぜそれができない大人ばかりなのか。
裏社会の醜悪さと、大人の身勝手さを誰よりも知る彼らだからこそ、その単純な真理を愚直なまでに守り抜き、この真っ当な世界に定着させようとしていた。
場面は変わり、オフィスの応接室。
熊谷が、中途採用の最終面接を行っている。
和やかな雰囲気の中、熊谷は手元の履歴書を見て頷いていた。
「はい、経歴もスキルも申し分ないですね。じゃあ最後に、共同代表の神崎から軽く挨拶させてもらいます」
熊谷が内線を入れると、ドアが開き、神崎が「失礼します」と社長としての落ち着いた顔つきで入室してくる。
「……っ!」
神崎は、立ち上がって一礼したその女性候補者の顔を見た瞬間、雷に打たれたように足を踏み止まった。
年齢は20代後半。 長く透き通るような髪。
その佇まい。
履歴書にある名前は「森下」でも「神崎」でもない別の名前だったが、その顔立ちは、かつての妻・美咲や森下ひよりに瓜二つだった。
神崎は必死に動揺を隠し、向かいの席に座る。
「……ウチの会社は、少し変わったルールが多いです。おやつの時間もあるし、お昼寝もしなければいけません。残業も一切禁止です。やっていけそうですか?」
神崎が静かに、確かめるように尋ねる。
女性はふわりと、あの日の森下ひよりと同じような、優しく包み込むような笑顔を見せた。
「はい。前職は少し厳しい環境だったんですが……この会社なら、皆さんと『なかよく』お仕事ができそうだと感じました」
「なかよく」
その一言に、神崎の目頭が少しだけ熱くなる。
それが彼女の生まれ変わりなのか、ただの他人の空似なのか、それは分からない。
だが、確かに「あの時の想い」は繋がっていると確信した。
神崎は、ふっと憑き物が落ちたような、柔らかい極上の笑顔を浮かべた。
「採用です。明日からでも頼みたいくらいだ」
女性が「ありがとうございます!」と深く頭を下げる。
神崎は立ち上がり、ドアへ向かいながら、背中越しにこう付け加えた。
「ああ、そうだ。実は来月、ウチの会社で初めての『社員旅行』を企画していまして」
女性が不思議そうに神崎を見つめている。
「行き先は、沖縄の海です。……ぜひ、参加してくださいね」
彼女は満面の笑みを浮かべて力強く答えた。
「はい! とても楽しみです。沖縄、大好きなんです!」
神崎の顔には、静かで、確かな光が宿っていた。 もう、後ろを振り返る理由はどこにもない。
愛した女が教えてくれた「なかよく」という言葉。それを忘れず、体現し続けること。
大人たちが忘れてしまったその教えを守り抜くため、元極道たちの「究極のシノギ」はこれからも続いていく。
——大人保育園・完
全十話マガジンに入っています。