
作品名:「航海はこころのままに」最終章それは若き日の忘れもの
第六章 それは若き日の忘れもの
漁り火の灯りは、海の上に等間隔で揺れていた。
遠く、近く。寄せては離れる波の向こうで、その小さな光だけが夜の輪郭を保っている。波音は一定ではなく、聞こえたり消えたりを繰り返し、足元の感覚だけが現実として残っていた。
冷たい夜気を含んだ潮風が頬をかすめるたび、自分が今どこに立っているのかさえ曖昧になっていく。
前章で見つめていたあの遥かな灯りは、変わらず闇の奥で静かにまたたいていた。
その向こうに、何かがある気配がした。
はっきりした形ではない。ただ、そこに存在しているという感覚だけが、視線の先に静かに残っている。
光と闇の境目に、ひとつの影が浮かんでいた。
それは波間に揺れる古い船のようでもあり、かつて見知った誰かの後ろ姿のようでもあった。あるいは、もう戻らないと思っていた遠い日の記憶、その輪郭そのものなのかもしれない。
漁り火は揺れている。
なのに、その影だけは動かなかった。
まるで海そのものが、その姿を抱えたまま、一瞬だけ呼吸を止めたようだった。
近づこうとするほど遠ざかり、遠ざかるほど、自分の内側へ沈んでいく。
風は弱く、海は穏やかだった。
それなのに、心だけが静かにざわついている。
理由のない違和感と、胸を締め付けるような切なさ。
それは突然現れたものではなく、ずっと以前からそこにあったものが、夜の海に呼ばれて浮かび上がってきただけのようだった。
見つめ続けるうちに、その正体を知りたいという気持ちは少しずつ薄れていった。
代わりに、ひとつの確信が残った。
これは外にある景色ではない。
旅の途中で通り過ぎた異郷の夜でもない。
どこかに置いてきた、自分自身の時間なのだ。
思い出そうとした瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
失われたものではなかった。
最初から、失われてなどいなかった。
振り返らなかった景色。
言葉にできなかった感情。
遠ざけたつもりだった若き日の記憶。
そのどれもが消えたわけではなく、心の片隅で、長い時間だけを静かに積み重ねていた。
海は何も答えない。
ただ圧倒的な暗さを湛えながら、そこに広がり続けている。
やがて、その影はゆっくりと輪郭を失い、最初から存在しなかったかのように濃紺の夜へ溶けていった。
あとに残ったのは、確かに何か大切なものを見つめていたという、手のひらのぬくもりだけだった。
――お前はここで、何を見ているのか。
夜の海が、そう問いかけた気がした。
長く立ち止まっていた時間が、いま、わずかに動き出す。
遠くの灯りは、まだ揺れている。
針路は、まだ決まっていない。
それでも。
ただ前を向いて歩き出すことだけはできる。
航海は、こころのままに。
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