
エッグスタンドと象印。9歳の韓国と、67歳の現場。(不条理な旅#1)
お坊ちゃま学校に通っていた。
テカテカにくたびれた制服を着て、毎日女子の同級生を迎えに行く。
彼女の家のダイニングには、エッグスタンドに立ったゆで卵があった。
僕の家の食卓には、キムチしかなかった。タクアンを見たことはなく、キムチはKIRIN BEERのグラスで水洗いして食べていた。焼き魚は太刀魚オンリー。てっちゃん鍋みたいなものが並ぶと、3日間は続く。今となっては笑える食卓だが、同級生のダイニングは眩しかった。
土曜日に学校からお昼に帰ってTVをつける。自分で醤油だけの卵かけご飯を作って、吉本新喜劇を観る。韓国料理から解放される最高のランチだった。今は韓国料理がないと生きていけない体に成長している。
1967年、春休み。9歳の僕は初めて韓国へ向かった。
金浦空港には戦闘機らしきものがあった。朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権の時代だ。
初めての長旅が故郷の韓国。ソウル駅前は着古した服に泥のついた顔の子どもたちが、ロッテガムを売るために走り去る車の窓を叩く。朝鮮戦争の爪痕だと思う。
「火垂るの墓」のような風景のあと、父親に日本で聞かされていた同郷のチャグナブジ(小さな叔父さん)は現れた。ソウルで建築系の仕事をやってるという。焼肉店でごちそうになる。その頃日本の焼肉店では、薄っぺらい肉を甘いタレで網焼きしていた。しかし目の前には、サイコロステーキがてんこ盛り、そして丸ごとニンニクが丁寧にゴロゴロ焼かれている。窓の外には薄暗いソウルの街。
まずは麗水(ヨス)を目指す。母親の故郷だ。今思い出せるのは、寝台列車での移動、そして飲食店に入って食べられるメニューがビビンパ一択だったことぐらい。今思うと、少年には父親の故郷が強烈すぎた。麗水は記憶の海に溺れたんだろう。
朝鮮半島西南端の港町・木浦(モッポ)へ移動してフェリーに乗る。もちろん蒸気船。広いオンドル部屋が客室だった。酔った大人たちは花札で遊び嬌声をあげる。
多島海(タドンヘ)の島々を間を縫うように、4時間近くかかってたどり着いた父親の故郷。そこには港らしい港もなく、船はそのまま島に乗り上げ、揺れる板の上を車が降りていく。
父親の実家では誰が誰か分からないが歓迎された。料理も出てきたが、どれも食べられなかった。僕だけ日本から持参した袋麺をつくってもらうことに。その出来上がりに衝撃を受ける。スープがないのだ。ペヤング状態。水がとんでもない貴重品だった。
薄暗い部屋。灯油ランプと思しきものが部屋に灯っていた。電気がないことに、不思議と驚きはなかった。しかし、水がない厳しさは想像以上。顔を洗うこともままならない。
寝るときは別棟に案内された。四畳半はなかったと思う。壁を隔てた隣は鶏小屋。朝は鳥の鳴き声で目覚めたはずだ。
旅の終わりに、潮風が吹く荒涼とした海岸でフェリーを待っていた。目の前で鶏の首ははねれれた。飛び散る血にはびっくりしたが、平然とそれをこなす島のおじさんの手つき……。
それはソウル駅前の子どもたちと高級焼肉の対比を変質させた出来事だったのかもしれない。父親の故郷は水を尊び、命をいただく野生の不条理そのものだった。人生初の故郷への長旅は、僕の胸のうちで延々と生き続けている。
あれから60年ほど経つ。あのサバイバルな島から「潜水艦」で日本にやってきた父親は過去も政治も語らなかった人だった。でもボソッと吐いたひと言は覚えている。「生きているうちに南北統一はあるのかな」。歴史は残酷だ。
僕は今、大阪の建設現場で誘導棒も安全ベストも装備しない不良警備員をやっている。常駐警備員になってあの島の水のことを思い出す。秘蔵していた楽天ポイントを出動させて、象印の現場仕様1L魔法瓶を購入した。広い口にウォータークーラーの水を注ぎ込む快適さ。数時間は同じ冷たさが続く。
エッグスタンドは別格だが、これ以上の幸福はあるのだろうか。
