
【掌編小説】『声変わり』
部屋の奥、襖の先に段ボールが積まれている。埃の被ったそれは、人目に触れることなく、もう一年は放置されていた。
この家には一人の男が住んでいる。毎朝シワの伸び切らないカッターシャツを身にまとい、夕方には帰宅する。玄関に飾られた写真たてに写る笑顔の男とは別人のようである。そんな男の生活には一年前に大きな変化が起こった。
妻が死んだのである。
よく、笑う人だった。まさに太陽のような笑顔だった。その明るい声に名前を呼ばれるたびに心が軽くなるようだった。
最愛の人の喪失は男に大変なショックを与えた。街中で、ふと妻と同じ癖を見た時などはその場から動けないほどだった。だが、時間が解決したのか、最近になって落ち着きを見せてきていた。
春になった。暖かい南風が吹き始めた頃、段ボールにいつぶりかの太陽光が照らされた。クイックルワイパーで丁寧に拭き取られた埃はその少しを舞いあげて光を反射する。
開けられた段ボールには亡き妻の遺品が丁寧に納められていた。鼻腔から記憶が巡る。
男はその一つ一つを大切に取り出すと下に埋まっていた箱の中からUSBメモリを取り出した。生前、男の妻が趣味にしていたカメラ。そのデータが入った一つのメモリ。デスクトップを立ち上げると男はメモリを挿してデータを開いた。
過去が画面いっぱいに映っている。
幸せを感じていた二人の時間がそこにははっきりとあった。男はそのデータに残されたものを順番に大事に撫でるように目に焼き付けると静かにスクロールしていった。
メモリに残されたデータも残りわずかとなったころ、一つの動画に行き当たった。これまで写真ばかりだったこのメモリにおいて、初めての動画データだった。男はイヤホンを挿し音量を上げると再生ボタンを押した。
男の後ろ姿が映る。窓にカーテンが揺れている。暖かい日差しが差し込み、いつだったかちょうど今と同じような春の日の日常。画面に流れる時間が現実と重なる。ふと、風が吹き込むと同時に妻の声が聞こえた。いつぶりかの妻の声。男の名を呼ぶ妻の声。
その時、重なっていたはずの世界が、耳の中で崩壊した。
頭は不協和音を拒絶している。
男は、忘れていた。最愛の人の声を、忘れるはずはないと頭に刻んでいたはずの声を、男は無意識のうちに忘れてしまっていた。
衝動で外したイヤホンは机の端で大きく揺れている。頭の中にある妻をもう男は信じられない。まだイヤホンからは妻の声が静かに漏れ出ている。