メインコンテンツへスキップ

春雷(著:御影鼬宇)

     ある黄昏時のことである。鉛を溶かしたような積乱雲の破れ目に、珊瑚いろの柔い光が滲み、白昼にため込んだ熱を持て余した舗道の瀝青を、同じ色に染めている。河川に沿って湾曲した小高い堤防を這う砂利道は、青錆で爛れた竪壁と橋桁がつくる小さな暗がりと垂直に交わっていて、その先も、限りなく遥かに続いているように見える。日暮れ時になれば、正午に横たわる麗らかな風景は、垂直にぶら下がる緋色の天鵞絨のような霞の奥に、悉く隠されてしまう──
     半透明の薄膜を波打たせるような水面が陽だまりを抱え、玉虫色にきらめく、その薄膜が水底まで幾層にも重なって、そのいずれかの流れに身を任せて、魚がその尾で水を打つ、白銀色に輝くその背びれに吸い寄せられ、翼の裏が同じく白銀色に染まった小鷺が数匹、注射針じみた黒鉄の嘴の先端で、河の薄膜をくいっと器用に掬い上げ、鞭打つように痙攣する鮎の青白い腹を、太陽のほうに向けながら、生温かい大気のなかをくゆらせる……日が暮れれば、この生命の躍動もみな消え失せ、かろうじて沈殿した獣のにおいとねばつく熱も、蜘蛛の子を散らすようにくだけてしまう、河川敷で呆けて膝を抱えていた人の群れも、ほとんどが家路につき、舗道に整列した水銀燈のくっきりとした光が、帰り道を忘れた人の頬と丸石の表面を、ひとしく濡らすばかりである。
     目下の堤防のへりから河川敷にかけては、シロツメクサの花のまわりを囲うように雑草が繁茂し、ひんやりした微風にそよぐその瑞々しい先端で、昆虫採集に熱をあげるこどもたちの浅黒い足を撫でつける。断末魔のような赫光が街の輪郭をいっそう厚くしてから、この叢がすっかり闇に浸かるまでの束の間を、ただ一点に圧縮した刹那において、飛蝗や紋白蝶、もしくはそれが落とした鱗粉にみちびかれるように、こどもの形をしたあえかなる魂が、ゴム毬のように飛び跳ねていた。
     そのうちの一つがKの輪郭を取りはじめた時、真午の陽光に干上がった蚯蚓が吹きあがった赤土に覆われ、やり場を失った目線の先に、鼻先が触れるくらいのところにTの白い旋毛があった。そのちょうど真ん中あたりの膿んだ面皰がいやに目立っていた。Tは肉つきのよい頬をほんのり上気させ、Kの足元の陰りに、ぐいと両手を突っ込む。Tの肩に掛けられたプラスチック製の虫かごが、ぎこちなく揺れる。その内で展開する無窮の時間に酔って触覚をだらりと垂らした紋白蝶のつがいと、Kの目がはじめて合う。足をどけろとTが言うので、Kは後ずさりした。鼠あたりのいきものを踏んずけたしたような感触がしたが、足をあげても何もなかった。Tは依然何かを探している。膝と肘を地面にぴたりとつけて、雑草の根元をのぞきこむような姿勢で、その丸い尻だけが、叢を浸した闇の水面からひょこっと顔を出して、もぞもぞ動いていた。おびえた小動物のようなTの影を見るともなく見ていると、スポイトで吸い上げられるように、唐突にTのかたちを取りはじめ、そして空に向かってみるみる伸びてゆく右手の先で、親指が二股に分かれて、その片方が葉脈のような脚を伸ばして、宙をむなしく蹴り上げ、痙攣する。
     汗染みたシャツが張りついたTの腰回りは、すとんと落ちるようなシルエットで、さっきまで肩にかけていた虫かごはどこかにうち捨てられ、Tもそんなことはすっかり忘れているようだった。紋白蝶のつがいがどうなったか、もはや確かめようがなかった。
     すっかり日は沈み、河川敷ではTとKの区別すらできなくなった。仕方なく、二人は街灯が照らす舗道──根元から錆に寄生されたポールが凡そ等間隔に植えられ、その先端では水銀燈の冷たい光が首を吊られたように浮かび、微かな点滅を不規則に繰り返している──に歩み出て、街灯直下の丸い光のまんなかで、本日の成果物をまんじりと眺めた。Tが捕まえたのは、どこにでも飛んでいそうな精霊飛蝗のつがいだった――腹のほうがずんぐりした雌の成体、そのうえで一回り小さい雄が堅い後脚を窮屈そうに折り曲げている。雌のほうは、Tの掌の生命線に沿って後脚をぐったり開き、その胴体を流れる黒白の縦帯模様が、ざらついた何かで強く擦られたように、後脚の付け根あたりで途絶えている。黒真珠のようなその瞳の中に、水銀燈を映した青い炎が小さく宿っていて、その光の玉に焦点を合わせようとするが、雄が繊毛の生えそろった前脚でもって雌の背中のうえで足踏みをするたびに、雌の瞳は摺り硝子のように濁り、触覚はつんと上を向いて揺れる。
     飛び方が変だったんだよ、聞かれてもいないのに、Tの湿った唇は開いている。よく見ると、雌の甲殻からはみ出した半透明の翅の一方が、無残に丸みを欠いていて、破れた翅のふちは黄土色に染まって内側に巻き込むようになっている。こいつ、びっこだ。Tは白い歯をのぞかせ、けけけと笑っている。そして、おもむろに雄の個体を雌から引き離し、暗澹たる河川敷にスナップをきかせて放り投げる動きをした。飛蝗の方もしばらくはTの人差指に前脚を引っかけ、無邪気な小宇宙のなかで目を回していたが、いつのまにか水銀燈の丸い光のふちあたりに転がっているのだった。明暗の境界を彷徨ったあげく、音も立てず、暗澹たる河川敷へと姿を消してしまった。雌の個体は相変わらず両眼を上に向けながら、自らが居ついている温床のその裏で展開した始終について何も知らないまま、自ら触れようがない翅の傷をいたわるように、しきりに前脚を擦り合わせていた。それは、翅が欠けていようとも、両脚で踏めば間違いなく遥かに飛んでいけるような雨上りの地面を、考えもなしに踏みつけてきたことへの今際の懺悔のようにさえ見えた。後ろ脚は依然ぴくりとも動いていない。Tの白い掌はあまりに柔らかく、居心地がよさそうであった。だから、Tがその首っ玉を引っこ抜いたときも、その眼は恍惚に満ちていたが、海葡萄のような黒々とした中身をぶら下げた胴体は、水銀燈にひとしく照らされたTの顔と同じように、金属めいた光を放っていた……Kの目に映った飛蝗の臓物は、これまで見てきた何よりも黒かった。街全体を浸す夜よりも、河川敷を這う黄昏時の影よりも、寝室で想像した宇宙の果ての果てよりも、そして、それを映すKの黒瞳よりも、黒かった。興が覚めたTは立ち上がり、犬の乾いた遠吠えの出どころを探しながら右往左往し、ふと思い出したかのように、左手でつまんでいた胴体部分を振り払うように舗道に投げ捨てた。その際、タールを固めたような塊は、空中で胴体からちぎれ、にぶく半回転したところで、Tの靴下とスニーカーの隙間にするりと入り込んだ。壊れた木管楽器を打ち鳴らしたような短いTの叫び声が、犬の引き絞る遠吠えのあいだに挟まって、ずいぶんと居心地悪そうに宙に溶けていった。あわてて靴下を脱ぎ捨てたものの、黒い塊の柔らかさが刻み込まれた右足を、不自由そうにちょいと浮かせながら、Tは少し前傾になって歩いてゆく。Tの背中は、ゆっくり明滅を繰り返しながら、みるみる小さくなっていく。その背中の輪郭も思い出せなくなったころに、Kの後頭部を見下ろすようなTの視線を感じて振り返ってみるが、誰もいない。生温いあめ東風に晒された飛蝗の小さな頭だけが、砕いた白亜をまぶしたような瀝青のうえで、からからと、転がっている。
     落雷でまっしろになった道の先に、碧い目をした半透明な獣が、Kの喉元を狙って息をひそめている。

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

    あなたへのおすすめ